闇の王
漆黒の衣に包まれた、長身。長髪の下、白い顔が浮かび上がる。品が良さそうで、そしてまったく生命っ気を感じさせない男の顔。
「くくく……闇を求める貴様の声に応じて、我輩はここに現れた」
黒いマントをまとう男は、唇をつり上げて笑った。かすかに犬歯がきらめいた。それは牙のように長くて鋭く、そして血にまみれるのに慣れきった冷酷な色をしていた。
「我輩は吸血鬼だ」
「吸血……鬼」
闇の怪物。
人間の血を吸い、数々の闇の眷属を操る、恐ろしく強力な化け物。
その人類の宿敵とでも言うべき、吸血鬼が私のベランダに立っている。実在したのだ。
まあ、これほど小説から映画、ありとあらゆるメディアに登場しているのだ。実在していない方がおかしい。私は痺れた頭で考えた。
「招かれなければ、貴様が家に入ることが出来ぬ。さあ、我輩を招くがよい。狭すぎる人間の殻を捨て、闇を満喫する、誇り高き種へと昇華するのだ」
吸血鬼は、にたりと笑って言った。私は命じられるまでもなく窓を全開にする。
そして、次の瞬間には吸血鬼の腕の中にいた。吸血鬼の牙が、ぬっとその姿を露わにし、冷たい吐息が私の頚に掛かった。
私はうっとりと、その闇の気配を味わう。
「そんなに気軽に、私を同類にしてくれていいの?」
「我輩は貴様の強き孤独の念に惹かれるのだ。我々は闇の中に住まう。そこには、偽りの影を生む光など、初めからない。我々はあるがままに生き、望むがままを為すのだ」
「いいわね……最高よ、そういうの」
金色の瞳のみが見守る薄闇の中で、私は体温のない逞しい体に回した腕の力を強める。
「貴様には覚悟がある。よいドラキュリーナになるだろう」
「じゃ、私を吸血鬼にしてちょうだいな」
「くく……よかろう」
冷たい牙が私の頚に触れた。さようなら、私の周りのつまらない日常。陶然とした意識の中、私は思った。
でも、どうも、こうやって話がとんとん拍子に進むと、私は逆に用心深くなってしまう性質なのだ。私は念のため、ちょっと相手を確かめてみることにする。
私は吸血鬼の耳に囁きかけた。
「ところで私、AIDSなのよ」
吸血鬼は身を離した。
「我輩、突然急ぎの用事を思い出した。さらばである」
「ちょっと待った!」
歩み去ろうとする吸血鬼のマントを思いっきり引っ張った。マントに首を絞められた吸血鬼が、ぐへっとうめき声を上げる。
「嘘よ。……なにその変わり身の早さ」
「ええい、離さぬか! 貴様はAIDSで……あの忌むべき病で我が種族がどれほど死に絶えたのか知らぬのか!」
「知らないわよ! そんなのあんた達が、のべつ幕なく人の血を吸ったからでしょ!」
吸血鬼はマントを振りほどこうともがくが、私はがっちりと握って離さない。
「で、なに? 病気が感染するのが怖いから、私を吸血鬼にするのはなし?」
私の問いに、吸血鬼は少し考え、
「同族にしてやることはかまわん。……が、その前にHIVと肝炎ウイルスの検査を受けてもらおう。いや、それでも心配だ。他の病も検査せよ。梅毒、結核、淋病、日本脳炎、塹壕熱――」
吸血鬼が既知の感染症、全てを列挙しようとするのを、私は不機嫌な呻きで遮った。
「さあ、我輩とともに夜間病院へ行こうぞ」
「もういいわよ!」
私は叫んだ。
「幻滅だわ。吸血鬼ってすごいモンスターだと思ってたのに。病気に怯えてなにが不死人よ、闇の怪物よ、夜の王よ」
「我々はすごいモンスターである! 我らは犬に、コウモリに、霧に、自在に姿を変え、夜の世界を支配――」
「変身が何よ。人間だって、酔えばトラになるし、他にも負け犬になり、鳥目になり、兎唇になるわ」
「吸血鬼は人間をぼろ雑巾のように引き裂く怪力を持っておるのだ!」
「私だってぼろ雑巾ぐらい裂けるわよ。全然たいしたことないじゃない」
「ぬうう、素直に感心して、畏怖する場面だというのに、この小娘は――!」
吸血鬼がわめく。彼の爪がにゅっと伸びて、髪が逆立つ。そして、体毛が濃くなり、目が真っ赤に染まった。
闇の怪物がいきり立っているのだ。身長すら伸びて、その頭は天井をこすらんばかりだ。邪悪な気迫が脈打ち、私を打ち据えた。
あいにく、ちっとも怖くない。ちっこい犬が、強がって吠えているようなものだ。もうこいつの底にある弱々しい部分を垣間見てしまった以上、恐怖の感じようがなかった。
「あら、どうするの? 私の血を吸う度胸もないんでしょ? 暴力でもふるう?」
私は挑発的に言ってみた。
吸血鬼は口をかっと開き、目から炎を吹いていたが、やがて、私の見ている前でしおしおと小さくなっていく。元の大きさに戻って、しわがれた声を発した。
「いや、それは出来ぬ。人間相手に問題を起こすと、聖別された刃物を持って、ラテン語を口ずさむ陰気なお兄さん方に我輩は追いかけ回されるのだ。我輩、戦いは苦手でだな」
「はあ……」
溜息がでた。
「見下げ果てるわ。ブラム・ストーカーが嘆くわよ」
「誰なのだ、それは?」
「出て行って!」
私は全開になっている窓を指して、吸血鬼を睨み付ける。彼はあたふたし始めた。
「いや、そんな殺生な。貴様の望みに応じてはるばる来てやったのに、帰れなどとは……! せめてトマトジュースの一杯ぐらいは出てもおかしくあるまいか?」
「うちにはかつおぶししか常備してないのよ」
私は猫を抱き上げて撫でながら言い放った。
「その猫だって、我輩の眷属なのだ! だから我輩にももっと敬意と畏怖を――」
「あら、上の無能を下が補うスタイルね。猫ちゃんの方が百倍、好感持てるわ」
「そんな……」
闇の怪物はがっくりとうなだれ、力なくベランダへ出て行った。その姿は日光に曝された後のように弱々しかった。




