005
私が最も怖れるのは汚れなき善意である。
善意によって引き起こされた不幸な結末ほど手に負えないものはない。
ルオニト・マギ「ある晴れた日のこと」鳳凰暦七○二年
かくして新たな生命を授かった俺は、母親から一方的な別れを宣告されて橋の下に捨てられた。本来なら覚えているはずのない出来事だが、どうやら俺は『人生』の記憶を引き継いだまま『グランシエル』に転生したらしい。あの適当そうな神なら記憶消去を忘れるとか普通にありそうだから気にもしなかった。
アラバスタ共和国の孤児院に拾われた俺は、成長の過程で言語と国独特の習慣などを覚えていく。このとき『人生』の記憶が役立つこともあれば、また逆に『人生』の記憶が邪魔になることもあった。もっと端的に表現すれば『人生』の経験則を払拭できなかったのである。
例えば思考の過程だ。
おそらく俺は『グランシエル脳』ではなく『人生脳』で物事を考えている。だからと言って特段困ることはないのだが、やはり本能的な反応に違いが生じている可能性は高い。左利きの人が右手を使えるように矯正しても、咄嗟の判断を求められたとき左手が出るような感覚に近いだろう。
孤児院には人族と猫耳と尻尾を生やした獣人族の保育士が数名いて、人族と猫系獣人族の孤児が分け隔てなく育てられていた。魔術の才能を有していなかった俺は、持ち前の知能を最大限に活かして、かなり早い段階から魔導工学の勉強を始める。そもそもアラバスタ共和国は工業の盛んな国で、魔導工学の研究でも人族を中心に他国を圧倒し、天駆ける魔導船「飛空艇」の開発にも成功していた。
中等科を無難に卒業した頃には、アラバスタ共和国の基本的な仕組みを理解していた。人生の記憶がなければ新鮮だったかもしれないが、選んだ種族が人ということもあって、年を重ねることに大きな興味は感じられなかった。違いにしても科学が魔術あるいは魔導力に置き換えられていることくらいだろう。しかしそれも驚愕するような衝撃は受けなかった。飛行機が科学で空を飛ぶのに対して飛空艇は魔導力で空を飛ぶというだけのことである。
そして魔王アーシェスと契約を結んだ俺は、十七の誕生日を迎えるまでの半年間、ハシュシュを伴い賞金を稼ぐ旅に出ることになった。この理由については後述するとして、今現在、俺は孤児院の広間で師匠待ちをしている。部屋の隅に簡素な長椅子が二つ設置されているだけで、だだっ広い空間では保育士が孤児たちと戯れていた。
「うーん、最初は情報収集を行ったほうがいいんじゃないかにゃ?」
幼馴染みである猫系獣人族の少女――ミーシャは尻尾を器用に使って林檎を頬張る。襟首辺りで切り揃えられた髪が焦げ茶色のため、帽子や衣服で猫耳と尻尾を隠せば人族に見えなくもない。手癖が悪く幼少期は俺もよく食べ物を盗まれたものだ。しかし犯行の証拠を突きつけると「にゃうにゃう」と口籠もり、すぐに「ごめんなさいにゃー」と謝る可愛らしさも持ち合わせている。この愚直さが人族と共存できている理由かもしれなかった。それにしても大事な部分だけ隠しているという格好なので、ついつい発育のいい胸元に視線が向かったしまうのは男の性だろう。
「にゃにゃ、なにか間違ったこと言ったかにゃ?」
ぴくぴくと可愛らしい耳を揺らしながら、ミーシャは無言の俺に困惑している様子だった。人族に比べて頭が弱い自覚があるらしく、こちらが怪訝そうな表情を浮かべると過剰な反応が返ってくる。ちなみに十七の誕生日を迎えて旅立つとき、まずはなにをすべきかという話題だったので、猫耳少女の発言は最も理に適った行動と言えるだろう。
「いや、そんなことはないよ。俺もそうするつもりだったからさ」
「だったらにゃんで黙るんにゃ?」
ミーシャは不機嫌そうに頬を膨らませる。いや、頬が膨らんでいるのは林檎を頬張っているからだった。とりあえず軽口でも返しておこう。
「ミーシャの胸の膨らみが素敵だから見とれてただけだよ」
「にゃっはっは、ロンは褒め上手だにゃ!」
けらけらと笑い始める猫耳少女。こういう単純な思考は心を和ませられる。アーシェスに似た台詞を言えば路傍に捨てられた塵を見るような蔑みの視線が返ってきたことだろう。
「そういやハシュシュさんはまだ来ないのかにゃ?」
「旅の準備と魔弾の調達中。俺より各店に顔が利くからね」
「待たせたにゃん」
声に釣られて孤児院の入り口へ視線を移すと、黒と紫を基調としたアラバスタ共和国制式礼服を身に纏った師匠の姿があった。政府に所属する魔銃士として必然の格好なのだろう。しかし正装の礼服は上だけで、下は膝上まで伸びた戦闘用長靴を履いているだけだった。つまり横に編み上げの入った戦闘用長靴に覆われていない太股は完全に露出されている。これはもう普段の全裸に近い格好より逆に艶かしい。
「こっちがロンの魔弾にゃ」
そう言ってハシュシュは革袋から取り出した木箱を放り投げてくる。魅惑の絶対領域に意識を奪われていた俺は慌しく投擲物を受け取り中を確認した。魔導力によって質量を圧縮された第三式以下の魔弾倉が理路整然と詰められている。各属性ごとに百四十四発×三あるので偏った使い方をしない限り半年は充分に持つだろう。
「さすがに第四式以上の魔弾は確保できなかったにゃ」
「半年分の大口径魔弾を用意できるなんて各国の軍隊くらいですよ」
「まあ、そうなんだけどにゃ」
鼻先を掻きながら師匠は申し訳なさそうな表情を浮かべる。正式な格好をしていると猫耳が生えていても知的に見えるから不思議だ。ちなみに俺は魔導工学技師が使う帯革に大量の物が収納できる作業着を戦闘用に改良したものを着用している。具体的には防弾防爆仕様で、闇属性の黒に統一した一張羅だ。
「準備完了なら出発するにゃ」
そう促す師匠の視線が俺の右手の甲に向けられた。そこにはアーシェスとの契約によって生み出された闇の紋様が刻み込まれている。魔銃士を引退したハシュシュが急遽半年間の武者修行を提案してくれたのは、微塵の疑いようもなくこれに起因していて、潜在能力を到達者級まで引き出せるようになった俺を心配してくれているのだ。
曰く「無自覚に実力以上の性能を発揮していたら身体も精神も崩壊するにゃ」である。つまり今回の旅で習得すべきは魔銃士としての立ち回り方と潜在能力の制御だ。
「いってらっしゃいにゃん」
歩き出した俺をミーシャは手を振りながら送り出してくれる。俺と師匠は右手を軽く掲げて旅立ちの挨拶に代えた。この国では「行ってくる」が「もう戻らない」と同義になるため、故郷を捨てる状況にでも陥らない限り見送られる側は言葉を発しない。
孤児院を出て二人きりになるとハシュシュは深い溜め息を吐いた。
「常闇の魔女との因果は知らにゃいけど、あんな口車に乗るにゃんてロンは馬鹿にゃ」
「俺は力がほしかったわけじゃないですよ」
「じゃあ、なにが目的にゃ?」
白に近い黄色の前髪の下から鋭い眼光が返ってくる。本当に魔銃士としての師匠は凛々しい。だからこそ俺も本音を吐露してしまう。
「大人しく俺に守られるような奴じゃないですけど、あいつの背中をほかの誰かに守られるのは嫌なんですよ。いや、違いますね。艶やかな黒髪も形のいい大きな胸も柔らかそうな太股も俺以外の誰かに舐めさせたくないんです!」
「ただの変態にゃ!」
「師匠、それは誤解です! 誰彼構わず舐め回したいという奴は変態ですが、たった一人の異性を追い求める行為は純粋な愛です」
「……とりあえずロンは人前で愛を語らにゃいほうがいいにゃ」
空気が深い哀しみに包まれた五分後。
「本当に命を賭ける価値があるにょか?」
「ええ、もちろん」
こうして半年間に渡る武者修行の旅が幕を開けた。その後に繰り広げられる苛烈な冒険に比べれば、おそらく安全の保障された前哨戦に過ぎないのだろうが、それでも俺にとって今後を担う重要な期間になったことは言うまでもない。




