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命はなによりも尊いと処刑制度に反対する団体が、隣国の飢餓に無関心でいられる理由を私は知りたいのだ。
ルオニト・マギ「悪魔の正体」鳳凰暦七二一年
天竺山の麓には荒れ果てた街並みが広がっていた。以前はどこかの国の領土として扱われていたのだろうが、様々な条件と天秤にかけられて切り捨てられたのだろう。全体の半数以上の建物が倒壊し、街路に硝子の破片を撒き散らしていた。
「山の中で野宿することに比べれば、幾分か安全と言えるかもしれぬな」
「確実じゃないが緩衝区の役割を果たしているからな。魔物は森のほうが快適だろうし、人はこんな朽ち果てた場所に留まらない。両者に好まれない土地が存在することで最前線が比較的平和に維持されているんだろうさ」
廃墟と化した建物の中で俺とサクヤは暖を取っていた。俺は割れた窓から外の光景を眺める。魔導都市フォルガントを出発して、すでに十二時間が経過していた。空に浮かんだ月は廃棄された辺境の地を哀しげに照らしている。
静寂の中、枯れ木の弾ける音が響いた。
どうやら白銀髪の少女が焚き火に新しい薪を焼べたらしい。朽ちた天井には頼んでもいないのに大きな穴が穿たれているし、窓硝子もすべて粉砕されているので換気の心配はないだろう。
「ところで常闇の魔女とはどこまで進んでいるのだ?」
「一体どこからその話に繋がるんだよ。もう少し他愛もない会話から上手く誘導するとか努力の片鱗を見せてくれないか?」
「では言い直そう。とりあえず明日の予定を聞きたいのだが、常闇の魔女との肉体関係はどうなっているのだ?」
「稀に聞く支離滅裂な会話だな」
「私は誘導尋問が苦手なのだ。それに旅の同行者について詳しく知りたいと思うのは不思議なことではないだろう?」
「そういうものか?」
「そういうものなのだ。魔銃士で常闇の魔女の眷属、ロンについて私が知っている情報はこの二つくらいだからな」
「常闇の魔女についてねえ」
俺は抜けた天井から月を見上げた。それから焚き火を挟んだ先のサクヤへ視線を向ける。
「実は俺もよく知らない」
「むむ?」
白銀髪の少女は眉間に可愛らしい皺を寄せる。俺は焚き火に新しい薪を放り込みながら語をを引き継いだ。
「何度か話をしただけだからな」
「わけがわからぬ」
「まあ、話せば長くなる事情があるんだよ」
俺の口から溜め息が零れ落ちる。エルフ族の少女は碧色の瞳をこちらへ向けていた。
「聞かせてくれぬのか?」
「どうせ信じないさ」
「そんなことは話してみないとわからないであろう?」
「あとで適当に話をはぐらかされたとか言うなよ」
「承知した」
どこまで真実を話すか考えながら俺は言葉を取捨選択していく。
「こことは違う平和な世界があって、俺はそこで彩奈と一緒に暮らしていたんだ」
「人名の発音がわからぬ」
「えーっと、アヤナだな。まあ、そこは常闇の魔女に置き換えてくれればいいさ」
「ふむ」
「ともかく俺はその世界で彩奈に救われたんだよ」
◇◇◇
退屈な日々に押し潰されそうになっていた俺は、あの日、たまたま立ち寄った家電量販店で桐原彩奈と出会った。パソコンソフトを購入しようと棚に近付いたとき、店員を捉まえて話し込む制服姿の少女を見かけたのである。
「えーっと……VRMMOのソフトですか?」
女店員は小首を傾げながら言葉を繰り返していた。桐原は面倒臭そうに説明を付け加える。
「一度ログインしたらログアウトできなくなってゲームの世界に閉じ込められてしまうやつなのだけど、どこへ行っても『当店ではそのようなソフトは販売しておりません』と言われてしまうのよ」
「お客様、当店でもそのようなソフトは販売しておりません」
「あれはインターネット上でダウンロードするゲームなのかしら? 私の知っている限り店に並んで購入していたのにおかしいわね」
盗み聞きするつもりはなかったのだが、自然と不条理な会話が耳に届いてしまった。技術的に存在していないVRMMORPGソフトを買いに来ようとするのもどうかしてるが、それ以前に「一度ログインしたらログアウトできなくなってゲームの世界に閉じ込められてしまうやつ」と認識した上で購入を希望するところが意味不明だ。
「桐原、ちょっといいか?」
涙目の女店員を助けるべく俺は同級生の少女に声をかけた。これが桐原彩奈と俺のファーストコンタクトである。それから口を開く度に暴言を発する女を説得して帰路に着かせるのに二時間もかかった。
その間に俺の「寡黙な美少女」という桐原の印象は完全に崩壊した。それどころか可愛い女子と知り合いになっておこうと打算的に動いてしまった二時間前の俺を殺したい気持ちに追いやられたほどである。それにも関わらず翌日の放課後、誰もいなくなった教室で桐原に声をかけられたとき俺は無視することができなかった。いや、正確には望んでいた出来事なのだろう。そうでもなければ帰宅部の俺が最後まで教室に残る理由が世界中を探しても見つからない。
それから放課後に話すことが日課になった。
この日はどういう流れだったか友人や恋人の話題に移る。広く異常に浅い人付き合いしかして来なかった俺には怖ろしく難問だった。
「というか桐原ならモテるだろ?」
「ラブレターという代物なら今日も下駄箱に三通入っていたわ」
「ふーん、やっぱモテるんだな」
俺は平静を装いながら答える。しかし内心はリア充を前に動揺していた。
「その態度は私の言葉を信用していないわね?」
「いや、別にそういうわけじゃないけどさ」
「わかりました。嘘か本当か中身を読み上げます」
「待て待て待て! それは絶対に犯してはならない鉄の掟だろーが!」
俺は鞄から手紙を取り出そうとする桐原を全力で制した。他人事とはいえラブレターを朗読されたときの苦悶は想像に難くない。制服姿の少女はにやにやと悪戯な笑みを浮かべる。
「まさか神崎くんが出したんじゃないでしょうね?」
「違う! 常識的な見解を述べただけだ!」
「嘘臭いわね。三通のラブレターを読んで確認しましょう」
「わかったわかった! 出したの俺だから勘弁してあげて!」
こんな性格破綻者にラブレターなんぞを出した三人は直ちに俺の勇気ある決断に感謝してもらいたい。してやったりの表情を浮かべて桐原は言った。
「あらそう。とても嬉しいわ。返事は『YES』よ」
「は?」
「あら、ラブレターに犯行予告を書いたわけじゃないでしょう?」
「え、あ、まあ、そうだけどさ」
おそらく「好きです」とか「付き合ってください」とか書いてあるのだろう。そこでふと桐原に上手く誘導されたことを理解した。なにを考えているのか知らないが、俺から告白したように仕向けられたわけである。
「蓮」
「うお!」
「どうしたのいきなり変な声を出して?」
「いや、いきなり名前で呼ばれたら驚くだろ」
「恋人なのだから当然でしょう。蓮も私のことを彩奈と呼んで頂戴」
ああ、ここは普通なんだな。まあ、突っ込まなくていいから楽だけどさ。
「しかし唐突だな」
俺なにかしらの伏線見逃したっけ? うーん。世間話に組み込まれた精巧な伏線なんてあるわけないよなあ。
「ラブレターを寄越す連中は私の見た目しか知らない。直接話したことなんてないんだもの」
「それは確かに頂けないな」
「これまでにも私の奇行を目撃した男子は複数いたけれど蓮のようにきちんと受け止めてくれる人はいなかったわ」
受け止めたわけじゃないんだけどな。ただこの世界に退屈している仲間を放っておけなかったのだろう。誰かを助けることで俺自身を肯定したかったのかもしれない。
「会話は成立していても、どこか空々しくて嘘っぽい。とても同じ言葉で話しているようには思えなかった。個人個人が別の世界に存在していて、そこには共通ではなく似て否なる言語しかない。だから本当は意思の疎通なんて不可能なのに、なんとなくわかったような演技をして日々を過ごしている」
彩奈は言葉を区切って俺を見やる。
「それがとても嫌だったの。でも神崎くんの声は私に届いた」
「買い被り過ぎじゃないか?」
「私は私の心を信じるわ」
ふむ。ならば俺が問うべきことは一つだけだろう。
「俺でよかったのか?」
「わからない。でも今は神崎くんが最初の理解者で本当によかったと思っているわ」
そう言って微笑む彩奈を見たとき、俺はこの儚げな少女の傍にいてやりたいと思った。
これが後々語られることになる神崎蓮の「メンヘラ上等」宣言である。




