013
平和という名のもとに世界が一つになることはない。
なぜなら我々は究極的に他者の幸福より不幸を欲しているからだ。
ルオニト・マギ「アレク・デルタ・アシュビー国王への返信」鳳凰暦七一五年
シルビア中央図書館。
アラバスタ共和国の首都シルビアに存在する国内最大の図書館だ。本館と新館で構成されていて、それぞれ三階と五階まで存在している。蔵書数約七百万冊、魔導端末完備、大抵の情報はここで入手することが可能だ。この後「そう思っていた時期が俺にもありました」と過去形になるのだが、それはまあ、今の時点では判明していない秘密ということにしておこう。
「随分とご機嫌だね」
シャルルは魔導端末を操作する俺の隣席に抱えていた大量の魔導書を下ろした。それから椅子に腰を落ち着けてこちらを見やる。にゃあにゃあ言わない所為かもしれないが、銀髪から覗かせた猫耳さえ凛々しく見えてしまう。
「大切な人たちに誕生日を祝ってもらえたからですよ」
「なるほどね」
銀髪青年の視線が師匠から贈られた新しい愛銃「地獄の業火」へ向けられる。ちなみに強襲用狙撃魔弾銃は孤児院に寄贈している。穏やかな笑みを浮かべてからシャルルは長机の上で忙しく顔を洗っている使い魔へ目線を移した。
「片恋相手が魔王なんて大変じゃないかい?」
「ん、でもまあ、それは魔王じゃなくても変わらないですからね」
俺の曖昧な返答に銀髪の猫耳青年は苦笑する。男さえ魅了しそうな美貌は、どんな表情を象っても崩れない。うーん、ずっと一緒に旅をしているザルイークはおかしな気持ちになったりしないのだろうか? いや、そもそもこういう発想がおかしいのだろう。
俺は咳払いをして思考を切り替える。ともあれ名前が出たので聞いておこう。
「ところでザルイークさんは?」
「どうも図書館は肌に合わないらしくてね。次の依頼で必要になりそうな魔導具の調達に行ってるよ」
美貌の青年は積んだ本の山から一冊を抜き出して開いた。かなり古い世界地図である。読書に集中される前に疑問符を投げかけておく。
「古代文明の探索ですか?」
真剣な表情の俺を一瞥して、シャルルは盛大に吹き出した。しばらく身悶えたあとに目尻の涙を手で拭う。なにが面白かったのか意味不明だが、楽しんで頂けたのならそれでよしとしよう。笑いの解説をさせるほど俺は野暮な性格をしていない。
「これは僕の趣味みたいなものだよ。世界は果てしなく広い。まだ誰も足を踏み入れたことのない未開の地へいつかは訪れてみたいんだよ。今はまだ地図を眺めて想いを馳せることくらいしかできないけどね」
飛空艇や魔導船は安全優先のため、地図に書かれていない場所へ踏み入ることが出来ない。そういう事情もあって、世界の解明は随分と遅れている。確か正確な地図が存在するのはクオン大陸と周辺諸島だけである。もっと的確に地理の実情を語るなら、この世界は全体の七割程度しか把握されていない。残り三割の未開拓地は魔物が棲んでいるか以前に陸か海かさえ不明なのだ。
「どうして運び屋になったんですか?」
俺は当然の疑問を投げかける。もし未開の地を訪れたいなら財宝探検屋のほうが理に適っているからだ。銀髪の青年は笑顔を崩さないまま反論してくる。
「そんなことを言い出したらロンの行動もおかしくなるよ。あれだけ世界を旅すると豪語していたのに、いきなり常闇の魔女に魂を託すなんて馬鹿げてるよね?」
ぐうの音も出ない。魂を託すという行為は自由の放棄と同義だからだ。
つまり普通に考えれば不条理な行動だろう。
しかしまあ、俺の場合、その理由は明白だった。
「俺の場合、それが世界を旅して回りたい理由でしたからね。アーシェスに会えたことで意欲を削がれてしまったのかもしれません」
「常闇の魔女に仕えるために世界を駆け巡るつもりだったのかい?」
シャルルは大きな瞳を丸くする。驚いた顔さえ整っているのは少し腹立たしい。なにかしら突っ込むべきか考えようとして早々に諦める。
「その表現は正確じゃないですけど、まあ、なんとなくそんな感じだったりはします」
「ロンらしいよ」
穏やかに銀髪の青年は瞳を細める。それから本の頁を捲り読書を始めた。それを機に俺も魔導端末の操作に戻る。八英傑の集結する祭典や酒屋での会話に含まれていた単語を検索してみるものの、結果は噂の域を出ない曖昧なものばかりで、常闇の魔女や真紅竜王が秘密裏に動いている目的は見当も付かなかった。
「まさかとは思うんだけど……魔導端末で情報収集してないよね?」
「え、駄目なんですか?」
問い返すとシャルルに憐憫な眼差しを向けられる。図書館で情報収集すること自体を禁止する制度はなかったはずなので、おそらく個人的あるいは専門的な感覚として哀れまれているのだろう。驚きを隠せない俺に美貌の青年は律儀にも回答を用意してくれた。
「収穫があれば問題ないんじゃないかな」
「うーん、まあ、ミシェル・デルタ・アシュビーが過去の王族ということはわかりましたけどね」
「ミシェル・デルタ・アシュビー?」
俺の紡いだ人名が美声で繰り返される。
「正確に聞き取れたわけじゃないので同一人物とは限らないんですけど、昨日、アーシェスとティアさんが話している最中に出てきた名前なんです」
シャルルは「ふむ」と呟いて腕を組む。やがて懐から一枚の羊皮紙を取り出して長机の上に置いた。一見するとなにも書かれていない未使用状態だが、なんらかの魔術組成式が施されていると考えるべきだろう。
「これは?」
「魔導都市にあるイリヤ商会の紹介状だよ」
「えーっと?」
意図がわからず間抜けな反応を返してしまう。
イリヤ商会は運び屋の仲介を生業にしている大規模な組合で、大抵の運び屋はここから仕事を斡旋されて請け負っている。手数料を差っ引かれる損よりも、安定した仕事の確保が優先なのだろう。もちろん依頼者側にも利点があって、個人契約に比べて圧倒的に安心が保障されている。その期待を裏切らないためにも入会にはそれ相応の試験が用意されていて、つまり運び屋を目指すならイリヤ商会への登録が最初の難関となるわけだ。
しかし紹介状を持参すれば、その試験を免除してもらえる。それだけに本来なら簡単に入手できる代物ではないし、逆説的に考えれば試験以上に吟味されるべきなのだ。
「少なくとも魔導端末の二歩先の情報を得られるよ」
「でもこれ……いいんですか?」
「紹介状の配布権限は発行者――つまりこの場合は僕に委ねられているからね」
しばしの逡巡。しかし考えるまでもないことだろう。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
俺は素直に紹介状を受け取ることにした。一年という限られた時間の中で情報収集をして、その結果に基づいて行動しなければならないのだから、最初の段階で時間を浪費する事態はできるだけ避けたい。そのためにも苦労しなくて済む制度があるのなら遠慮なく利用すべきだ。わざわざ茨の道を歩く必要はないからな。
「あ」
銀髪の青年は失敗を戒めるように猫耳の生えた頭を小突く。その様子を偶然見たらしい人族の司書が抱えていた大量の魔導書を床に落とした。注目を浴びて我に返ったのか慌しく本を拾い集める。これで何度目だろう? 周辺の女性が惚けて棚にぶつかったり本を手放したりしたのは。
「念のためザルイークにも許可を取ってもらえるかな? 僕の一存で紹介状を渡したと根に持たれたくないからね」
「わかりました。それで今、どの店に?」
目的に応じて立ち寄るべき店は限られている。魔導具の調達と一口で言っても内容は千差万別なのだ。たっぷりと時間をかけてシャルルは残念そうな表情を作る。
「おそらくグリッドさんの店じゃないかな?」
美姫の唇から聞きたくない名前が零れ落ちた。
俺は暗転しそうな意識をなんとか踏み止まらせる。




