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序幕

 鼻先を刺すような冷たさが室内にあった。

 通気坑から差し込む僅かばかりの夜光を除けば、湿った石の床に置いた蝋燭の光だけが他に光源のない地下室を照らしている。

 「寒いね、ヴィルマ」

 傍らの少女にとも自分自身にともつかない口ぶりで、少年は白い息を吐いた。外と通じるのが凍てつく空気だけの、狭く閉じた空間へ。

 「やっぱり出ていくの、兄様」

 たとえ少女が反対したところで、この少年の翼に鎖をかけ直す(・・・・)ことなどできないと彼女は知っている。

 「こんなところにいられない。こんな牢獄に」

 少年の幼さを多分に残した顔つきの中で、銀糸を溶かして染め上げたような髪と紅玉石(ルビー)を埋め込んだような真紅の瞳が、その年に不釣り合いなほどに強く、焼くような光を放っている。その光に抗って、彼をこの小さな手の中に留めておきたいと願うことさえ、少女には身勝手な傲慢に思えるほどに。

 「僕はあの空の向こうに行きたい。行かなきゃいけないんだ」

 少年はその細くしなやかな腕を伸ばし、格子窓の向こう側を指した。

 「母様が言っていたあの雲の向こう、蒼い空のそのまた向こうの世界に」

 十歳の子供の言葉とはとても思えない。荒唐無稽だと他人が鼻で笑うほどに遠大な願いをその胸に、少年は人間がその五体では決して辿りつけない地平に向かって歩み出そうとしている。

 「でも私は一緒には行けない。この家を出られない」

 少女の指が、少年の袖に触れた。

 「おまえを守る——救うためにはこうするしかないんだ」

 少年は袖に触れていたやわらかい小さな手を握った。

 「絶対あいつなんかの道具にはさせない。今度こそ絶対に……」

 その頬を涙が伝った。

 「おまえだけは絶対に失わない。絶対に救う。約束だ」

 袖に染みを滲ませ、格子の外に目を向ける。

 蒼い空のその向こうに広がる悠久の世界。人類が漕ぎ出して数世紀が経ち、今や生活の一部となったその場所は、しかし人間の身体一つで決して手の届く場所ではない。

 その世界を征かんとするならば、人間が持つ道具を用いなければならなかった。その道具と自由とを手に入れたくて、少年は未知の世界に自ら一歩を踏み出そうとしている。


 統一銀河暦五〇〇年、秋。

 温室のガラスの天井の遥か上で、星が瞬いている。

 「ねぇ、シャルロッテ」

 東屋の下で空を見上げていた少女が口を開いた。

 「殿下」

 「叔父様は本当に皇帝になりたいってお考えなのかなぁ」

 純白の制服に着られて(・・・・)いる女士官は、慎重さを己に課すように首を傾げた。

 「確かに、時にそう仰っておられます」

 「もしいつか私が女帝になったら、叔父様は嫌がるんでしょ」

 女士官は即答できず、肩にかかった黒い髪を弄った。

 「私、それなら爺様やお父様の地位はほしくない」

 ヴァイオレットの瞳が見開かれた。

 「殿下! そのようなことを仰っては——」

 「わかってるって」

 けらけらと皇女は笑う。

 「シャルロッテだけ。私とあなただけの秘密ね」

 「殿下……」

 「あなたにだけは私の思いを知っててほしいの。やっぱり怖いよ、この世界って」

 小さな燭台の上の光が、皇女の透き通った青い瞳に反射して、星の光のように煌めいた。

 「皇女らしくしなさい、いずれ皇帝になるのだからってみんな言う。でもシャルロッテの前だけは私は自由でいられるもの」

 困惑と喜色に等分された表情で、若い中尉は石の床に膝をついた。

 「誰が殿下に何を強いようと、私の前では何とでも仰ってください。私は必ず殿下のお味方です」

 「シャルロッテはいい人!」

 つぼみが花開くような表情で立ち上がり、皇女は四歳年上の女の手を握る。

 「あなたは大事な人。信じてる」

 その言葉に急いで応答を探しながら、侍従武官は皇女の顔を見上げた。

 「非力ながら、お支えいたします」

 「シャルロッテが来てくれてよかった!」

 ぱっと手を放し、少女は星の光が散りばめられた人工の草原へ駆け出した。その背を追うように二一歳になったばかりの侍従武官も立ち上がり、東屋から踏み出す。

 「私のお話だけは聞いてくれると、御進講の役まで仰せつかってしまいました」

 「シャルロッテは教え上手だもの。皆堅苦しくてやってらんないわ」

 否定も肯定もできず、若い侍従武官ははにかむ他なかった。

 皇女は顔を上げた。

 「宇宙って広いのに。私の生きてる場所ってほんと狭い世界」

 「いつか参りましょう、あの場所にも」

 「こんな広い世界なんだから、私も好きにできたらいいのにね」

 二人が見上げる狭いガラス窓の先で、無限の世界はその光を湛えている。


 統一銀河暦五〇四年四月十一日、標準時〇六四五。

 人間が自らの都合で引いた暦法が記す時間の流れなど砂粒一つに及ばない無限をその手に抱え、宇宙は終わりなき領域を横たえている。

 漆黒のキャンバスに宝石箱を引っくり返した世界の中で瞬く無数の光の数を数え上げるのに“天文学的”という言葉を用いるように、一人の人間にとってこの宇宙という空間はあまりに広大だった。

 惑星アルミターゲⅥ。水素とヘリウムとを主成分とし、十七万キロの直径を持つガス惑星という、天文学の教科書に並ぶ諸元の上ではなんの変哲もない惑星である。

 遠目には縞模様に見えるその惑星の半分は恒星の光を受けず、まるで半球であるかのように見える。人智など到底及ばぬその偉容を誇る惑星の影に、人工物の群れが佇立していた。

 巨大な塔を横倒しにしたような格好の宇宙船が並び、その数は優に百を超えている。その隊列のほぼ中心で、戦列艦ケーニヒがその身を中空に浮かべていた。

 一人の青年が、ケーニヒの艦体から突き出た艦橋の窓越しに、半球状のガス惑星を眺めている。まるで紅玉石を嵌めこんだかのような瞳は恒星の光を反射して煌めいていた。

 「旅団長」

 後ろからの声に青年は視覚的な耽溺を打ち切った。

 「第一四五防護艦連隊が合流しました」

 踵を返し、自分より年長の参謀に向き直る。

 「どれくらいだ」

 「はぁ……」

 青年は白銀色の髪をかき上げた。

 「何隻だ、と聞いている」

 参謀は怒気を隠して急いでデータパッドを操作し、顔を再び上げた。

 「軽戦列艦一、防護艦十八であります」

 「分かった」

 平然として青年は会話を打ち切った。その御令嬢じみた顔に宿る真紅の瞳の深奥で一体何の感情が蠢いているのか、参謀には全く判別がつかない。

 参謀は次の指示を待っていた。報告が足りなかったのか、それとも退いてよいのか。問い返そうと口を開いたところで、水兵の声が空気を裂いた。

 「第三七防護艦連隊長ケッペル大佐、入られます!」

 腕の金線の数が大佐であることを示す連隊長が、軍靴の音を威圧的に響かせながら艦橋に入ってきた。

 「旅団長にお目通り願いたい!」

 青年は首だけで振り返った。参謀はこれ幸いと身を翻して引き下がる。

 「待機を命じていたはずだ」

 上官と比べて二十歳年長の大佐は形式上の敬礼を施し、青年が頷くより早く身を起こした。

 「第三七連隊は第九戦列竜騎兵師団第五四戦列槍騎兵旅団の隷下部隊であります! 第十七戦列竜騎兵旅団の指揮下にはない点、ご留意いただきたい!」

 「それで」

 青年の一言は宇宙の真空よりもなお酷薄だった。言い淀んだ大佐だが、次には一歩を踏み出して食い下がる。

 「我が隊の艦艇は小官の指揮にて動かさせていただきたい!」

 「指揮権の統一をせずに戦えると思っているのか。御託を並べる前に兵学校からやり直してこい」

 「なればこの星系より後退し、ゾンネフェルス中将の指揮にて行動するが最善かと!」

 「この星系を敵に譲れば南方艦隊は後背を敵に襲われる。星図を見て考えろ」

 唾を飛ばしながらぺらぺらと喋る大佐を相手に、青年はどこまでも不愛想だった。

 「アルミターゲ星系の帝国軍は全て私が指揮する。苦情があれば後で統帥本部にでも泣きつけばいい」

 憤然とした大佐を問答無用で追い返し、青年は作戦参謀を呼んだ。

 「防護艦を三個連隊分、あの惑星の中に隠せ」

 青年が指した先には縞模様がくっきりとしたガス惑星があった。

 「ですが閣下、あのアルミターゲⅥの大気中は乱流が吹き荒れております」

 「だったら何だ」

 口答えしかしない部下に苛立って、声の棘が一層増えた。

 「艦が失われる可能性も」

 「そうならないようにしろ。敵が斟酌してくれると思うな」

 「通報艦B267より入電!」

 会話が終わらないうちに吹き抜けの上下階を備えた二重構造の艦橋の内部に通信士の報告の声が響き渡り、艦橋のざわめきが瞬時に凍り付いた。その静寂を続く報告が突き破る。

 「セクターH25に熱源多数探知! 敵艦隊、規模三百隻以上と推定!」

 銀河帝国海軍第十七戦列竜騎兵旅団長エルヴィン・フォン・クロネッカー少将は、作戦参謀の視界の中で何の感情の揺らぎも見せなかった。

 解けば豪奢に広がる長い赤毛を後ろで束ねた副官が歩み寄ってきたのを、彼女が纏う月下香の香水の空気で知る。

 「敵襲だよ、旅団長閣下」

 「分かっている」

 艦橋の中央に鎮座する戦術テーブルが音を立て、立体映像(ホログラム)上に三百隻以上の敵艦隊の存在を主張する光点を現出させた。

 振り向いたときにやや長い髪が自然になびく。エルヴィンは艦橋内の人間全員に聞こえるようにトーンを上げて命令を押し出した。

 「全艦対艦戦闘部署!」

 赤毛の女が敬礼するために持ち上げた腕を覆う、黒い開襟のジャケットの袖を囲う金線の太さと数が帝国海軍の大尉の階級にあることを示している。二五歳で大尉というのは早いが、戦時中と思えば不思議なことではない。だが彼女の同期生が少将という事実は尋常ではなかった。

 赤毛の大尉は後ろに居並ぶ参謀たちに声をかける。

 「事前の計画に従い艦隊を展開。混成部隊のため、指示は明瞭かつ具体的にお願いします」

 大尉が命令を補足して伝達すると、艦橋は即時に喧騒に包まれた。不平不満も不信感も、命令の前に抗命は許されない。三名の旅団参謀将校が、通信士が、艦長ミュラー中佐ら旗艦の指揮官たちが、それぞれの職責に従って有機的に動き出す。

 艦橋内に警報音が響き渡った。騒々しい空間の中で、エルヴィンは参謀たちに背を向け、窓の外から目を離そうとしなかった。

 微かな振動と共に艦橋が装甲隔壁の内部に収容されるべく下降を始める。無数の星が散りばめられた悠久の空も、帯状のガス惑星も、恒星の光も全てが肉眼で直視し得る世界から消え去っていく。刹那の沈黙の後で艦橋の前面を覆う天球状のスクリーンが灯り、光点の一粒としてすら認識できない遠く彼方の敵艦の情報を伝えてきた。

 「対艦戦闘部署発令!」

 「両舷増速、針路二五七」

 「十七戦列竜騎兵旅団は連隊単位で単縦陣に移行」

 「三七防護艦連隊は前衛に展開」

 「混成部隊のため連携が難しい。旗艦からの発光信号に留意せよ」

 事前に策定した作戦計画に従って、各部隊が動き出す。大小一四九隻に及ぶ宇宙艦隊と、それに乗り込む十万人を超す将兵の命運は、ひとえに二五歳の薄い銀の髪の青年の号令に賭けられていた。


 薙ぐような閃光がスクリーンの中で煌めいた。

 「”ヴュルテンベルク”轟沈!」

 「ユンゲ中佐の艦が……」

 数にして四倍以上の敵艦隊の砲火を受け、次々と帝国軍艦隊は被弾し、脱落していく。反転して敗走する帝国軍を連邦軍艦隊は遮二無二追撃した。

 「敵艦隊、Bポイント突破」

 レーザー光線の殴打を受けながら帝国軍艦隊は撃ち返す。だが後方への火力が不足した帝国軍艦では到底数に勝る連邦軍艦隊の追撃には太刀打ちできない。

 「襲撃部隊との通信は」

 圧倒的に不利な中にあって少しとして動じることのない旅団長は通信参謀に尋ねた。

 「敵の妨害電波により通信不能。光学通信も使えません」

 「そうだろうな」

 エルヴィンは先任副官に目を向けた。アウグスタが見返す。その群青の瞳には確かに懸念の色があった。

 「敵艦隊、間もなくAポイントに到達」

 戦術テーブルを凝視していた作戦参謀が顔を上げ、エルヴィンの判断を仰いだ。その顔を見返すこともなく、旅団長は戦術テーブルを叩いた。

 「全艦右八点一斉回頭! 右砲戦用意!」

 その声に士官たちが応じた。

 「面舵一杯!」

 「右砲戦用意! 主砲開け!」

 圧倒的に不利な帝国軍が面舵を取って突如反撃に転じたその時、連邦軍の後背から六八隻の軽艦艇部隊が襲い掛かった。ガス惑星アルミターゲⅥの不安定な大気の中に身を潜め、六隻の艦を自然環境によって失いながら彼らは雌伏し、今敵艦隊の後方を襲ったのである。

 「全艦突撃! 敵の尻に食らいつけ!」

 軽艦艇部隊を率いた一人、後に“鋼鉄帝の三提督”として知られることとなる第一四五防護艦連隊長フォン・ヒューナースドルフ大佐は檄を飛ばし、この時の帝国軍の突撃を先導した。

 そのタイミングが絶妙だった。連邦軍は後方からの急襲を予期しておらず、後方への備えをしないまま惑星に近づきすぎていた。誘導弾や電磁投射砲(レールガン)の有効射程内で次々と被弾し、轟沈する艦が続出する。

 「撃ち方始め!」

 この時までに回頭を終えていた帝国軍は猛然と主砲の火蓋を切った。緑色の光の矢が連邦軍の乱れた隊列に襲い掛かり、次々と命中させていく。

 「敵艦隊回頭! 撤退軌道に遷移」

 「敵軽艦艇、退避していきます」

 「追撃なさいますか」

 参謀たちの声は期待に上ずっている。

 エルヴィンは戦術テーブルから手を離した。

 「後退する」

 「しかし閣下、ここで——」

 「我々がここで踏みとどまった間に南方艦隊は逃げおおせる。孤軍になる前に我々も退くぞ」

 艦橋の空気が弛緩する前に、彼は背を向けていた。

 赤毛の副官は復唱する参謀たちを見渡し、それから司令官の横顔に目を戻した。

 「二八隻損失、三五隻損傷。結構やられたね」

 「嫌味のつもりか」

 彼は振り向かなかった。

 「そんなのじゃないけど」

 崩した物言いは他人が聞こえない程度の声量でやっている。

 「まぁ目的は果たしたんだし、上出来か」

 「これ以外にやりようがあるなら、そいつが倍以上の敵を相手にしてみればいい」

 スクリーンの向こう側で星辰が瞬いている。

 紅い双眸が望んでいるのは、たぶんあっちだ。私たちにとっての重大事は、彼にとっては些事ですらなかったんだ。


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