外れスキル【栞】の令嬢、女王になる――スキルは使いません。使うのは、部屋から出されなかった十年のほうです
「四万二千八百ルドです」
財務長官のゼーバッハ伯爵が、十二項目を読み上げ終えて合計を言った。私は手元に何も書いていないし、綴りにも触っていない。それでも答えは出ていた。
「四万一千九百ルドです」
伯爵の口が止まった。九百の差は、馬が三頭買える額になる。心臓が少し速くなったのが、自分でも分かった。十年ぶりに人と向かい合って話しているのだから当然だろう。
十五の儀で、私が引いたスキルは【栞】だった。
読みかけの場所を覚えていられる、それだけのものだ。戦えないし、治せないし、金も生まない。私の前に引いた侯爵家の子息は【剣技】を当てて、広間が揺れるほどの拍手を浴びていた。その直後にこれだ。神官は私の名を呼んでから【栞】と二度読み上げた。二度読んでも同じだと、確かめたかったのだと思う。
名を呼ばれたのは、それが最後だった。
ベルリア王国では引いたものを一生使い、引き直しはない。その晩、私は父の屋敷の東の端にある藤の間へ移された。外れを引いた者を表に出さない決まりがある。どこかにそう書かれているわけではない。誰もそうしないというだけの話だ。窓は開くし庭も見えるのに、下りることだけはできない。私はそこで十年を過ごした。
十年というのは長い。何もしないでいるには、長すぎる。
父は書類を溜める人で、溜まると藤の間へ運ばせた。娘に読ませるためではなく、置き場所が要っただけだ。領地の帳簿、王宮からの通達、規程集、請求書の綴り。頁が尽きると次の綴りが来た。私はそれを隅まで読み、読むだけでは足りなくなって書簡を写した。人の字は写しているうちに分かってくる。この人は線を閉じ切る前に次へ行く。この人は署名の最後だけ丁寧になる。五年目には、宛名の一行を見ただけで誰の手かが言えるようになっていた。
刺繍もしたが、そのうち布のほうが面白くなった。織り目の数は産地で違い、同じ紋章でも織った土地が違えば目数が変わる。楽器は音が漏れるので弦を押さえたまま弾いていたら、耳のほうが残った。人の声は嘘をつくとき少し高くなる。薬草は屋敷に届く薬包をほどいて覚え、語学は通達に対訳が付いていた。
つまり私は、屋内でできることをひととおり覚えてしまった。ほかにすることがなかったからだ。
覚えなかったのは外のことだけだ。馬に乗れないし、土がどのくらい硬いのかも知らない。雨が降ったあとの地面がどうなるのかを、私は書物でしか知らなかった。侍女のハンナだけが外の話をしてくれた。
「今日は風が強いです」
「どのくらい」
「門のところの木が、こう」
こう、では分からない。分からないまま頭の中に地面を作るしかなかった。合っているかを確かめようはない。十年かけて確かめないまま増えていった地面だけが、私の持っている外の世界だった。
父は先代の弟にあたるので、血だけは王宮に届いている。順でいえば私は従弟のユリウスのすぐ後ろだが、誰もそこを数えていなかった。外れを引いた者は数に入らない。これも書かれてはいない。
ところが、書かれていないことは効力を持たない。
先代が倒れたのは冬で、春までもたなかった。ユリウスが失踪したのはそのひと月あとだ。十七歳。上には三人いたが、すでに抜けていた。長兄は落馬で歩けない。規程に、王は年に一度騎行すると書いてある。次兄は司祭に入り、三人目は生まれてひと月で亡くなっている。だからユリウスが一番上にいて、そのユリウスが消えて、順番は私で止まった。
迎えの馬車には幌があり、窓に布がかかっていた。外れを引いた者を人目に触れさせない配慮だと御者は言った。十年ぶりに屋敷の外へ出て、私が見たのは布だった。
「ハンナだけは連れていきます」
そう言ったら、通った。十年で、私の言ったことが通ったのは初めてだった。
土の道は柔らかい音がするとハンナが言っていた。そういう音が四回あって、四回とも体が上下に揺れた。柔らかい音がするのだから柔らかいのだろうと思った。王宮に着いて、馬車から降ろされたのは敷石の上だった。そこから政務室までのあいだ、私の足は一度も土を踏まなかった。即位の式は三日後に延ばされた。支度が整わないという理由だった。整わないまま、私は政務室に座らされた。
そうして最初の七日で、三人が辞めた。
初日がゼーバッハ伯爵だった。先代の治世から二十年、数字を扱ってきた人だ。分厚い綴りを抱えてきて、これはご覧になっても分かりませんので、と言った。だから読み上げてもらった。橋の修繕費、井戸の浚渫、冬の薪。差が出た場所は分かっていて、七番目の堤の石材だけ、読む速さが前後より半拍速かった。
「七番目を、もう一度」
伯爵は同じ数を、同じ速さで読んだ。綴りを見て読む人なら、目が行を探すぶん二度目は遅くなる。同じ速さで読めたのは、覚えている数だからだ。そして覚えている数が、書いてある数とは限らない。
「では、綴りを拝見します」
伯爵は渡さなかった。渡さないという選択のほうが、どんな言い訳より雄弁だった。三日後に辞任の願いが出て、理由は健康上のものと書かれていた。
四日目がガルト侯爵、宰相だ。式は前の日に済んでいて、参列は十一人だった。
侯爵は一通の書状を持ってきた。王位を辞するという内容で、末尾にユリウスの署名がある。
「殿下はご自分の意思でお退きになりました。これがある以上、探索は不要です。書状は代筆でも通りますが、署名だけは殿下の手です。僭越ながら、陛下は殿下の字をご存じでしょうか」
知っている。藤の間には月に一度、ユリウスから手紙が来ていた。私に手紙をよこす人間は、十年でその一人だけだった。最初の一年は字になっていなかった。七つの子が書くものだったからだ。私はそれを全部写していた。写すことしかできなかったからで、おかげで一画ずつ覚えてしまった。
「字そのものは変わりました。七つの子の字と、十七の殿下の字は別のものです」
「では」
「変わらなかったものが、ひとつあります。殿下は線を閉じ切る前に次の線へ行かれます。字になる前から、そこだけは同じでした。十年、一度も直っておりません」
私は署名を指した。一画ずつ止めて、丁寧に書かれていた。丁寧すぎる、というのが答えだ。
「どなたが書いたかは申しません。いま申せば、侯爵は書いた者を庇うために、もう一度嘘をつかれます」
侯爵は反論しようとして、口を開いて、閉じた。誰が書いたかを言わずに済ませたのだと、この人には分かったらしい。
「探索を止める規程はございません。書かれていないことは、効力を持ちません」
その日のうちに探索の再開が決まり、侯爵が自分で命じた。そして二日後、職を辞した。
六日目が女官長のクレーヴェ夫人だった。記録を読んでいて、献上の布が二巻足りないと気づいた。夫人はそれを誤記だと言った。私は残っている布を触らせてもらった。
「これは西の織りです。献上の記録には南と書いてあります」
「布の産地など、見ただけでは分かりますまい」
「見ておりません。数えました。西は指一本の幅に二十四、南は二十一です」
布を卓に戻した。六人の女官が、その手元を見ていた。
「南の二巻は、西の布で埋められています。巻数は合います。織り目が合いません」
女官たちが布から目を上げ、そろって夫人を見た。夫人は動かなかった。
「お数えになりますか」
夫人は手を出さなかった。出せば数えることになる。数えれば分かってしまう。誰も何も言わないまま、女官のひとりが目を伏せ、そのあと全員が伏せた。伏せる音は布のこすれる音で、六回した。夫人が最後に見たのは自分の手だった。数えれば分かることを数えないのは、数えたくないからだ。辞表はその日の夕方に出され、誤記の訂正より早かった。
三人とも、反論して負けたのではない。反論できる場所がなかった。帳簿から逃げた者は耳に捕まり、耳から逃げた者は字に、字から逃げた者は布に捕まった。十年ぶんの時間を全部屋内で使った人間を相手にするというのは、そういうことになる。
七日目の朝、ハンナが小さな包みを持ってきた。ユリウスからの最後の手紙だった。失踪の前日に出されたまま、藤の間へ届く途中で止められていたらしい。侯爵が職を辞したあと、私室の抽斗から出てきたのだという。
姉上へ。
私はこの役をやれません。物心ついてから、この役しかやっていません。向いていないと分かるのに十七年かかりました。
ただ、逃げるのが申し訳なくて、ひとつだけ考えました。私がいなくなれば、順番は姉上のところで止まります。数に入らないと皆が言いますが、そう書いた規程を、私は見つけられませんでした。
止まれば、姉上は外に出されます。
姉上が藤の間で何をしていたか、私は知っています。三年前、使いに紛れて屋敷へ行き、扉の外で聞きました。帳簿を読みながら、声に出して数えておられました。二刻のあいだ、一度も止まりませんでした。
この国できちんと何かをしている人を、私はあれ以外に見たことがありません。
逃げる者の言うことですから、聞き流してくださってかまいません。
幼い頃そう呼んだので、姉上のままにします。
手紙を二度読み、それから三度目を読んだ。喉の奥が詰まって、しばらく動けなかった。十年で驚いたことは一度もない。驚き方を、私は知らなかったのだと思う。
ユリウスの行方はまだ分からない。見つかったら、辞退は受理済みだと伝えるつもりだ。それから、扉の外にいたのなら声をかけてくれればよかったと言う。
評議で、ユリウスを反逆として扱うかが議題に上がった。規程上、王族が所在を絶つことは反逆に当たると書いてある。書いてあるものは効力を持つ。私は手紙を卓に置いた。
「書面はあります。ただし宛名は私で、王位という語が一度も出てきません。辞退の書面としては整っておりません」
それから、二百年使われていない条文を読み上げた。規程集の下巻は十年前に一度読んで途中で閉じていたが、開きたい頁はすぐに出た。【栞】が役に立ったのは、これが最初で最後だ。条文を覚えていたのは私で、栞がしたのは頁を探す手間を省いたことだけだった。
「王位の継承について、その順位にある者は辞退を願い出ることができる。願い出は書面によるが、書面が整わない場合は、行為をもってこれに代えることができる。——殿下は所在を絶つという行為をなさいました。私はこれを、辞退の願い出として受理します」
誰も反論しなかった。反論できる条文がなかったからだ。条文というのは読んだ者の味方をする。十年かけて読んだのは、私だった。
評議のあとで父が来た。十年、一度も藤の間の扉を開けなかった人だ。
「おめでとうございます、陛下」
陛下、と父は言った。娘の名は呼ばなかったが、十年使わなかった言葉は口が形を忘れる。父は領地の件で願いがあると言った。聞き終えてから、私は尋ねた。
「規程の何条に基づく願いでしょうか」
父は答えられなかった。そんな条文はない。答えられるはずがない。
「書かれていないことは効力を持ちません。父上が私を部屋へ入れたときと、同じ理屈です」
父は何か言いかけて、やめた。私は父を罰さなかった。罰する条文がないからだ。書かれていないことは、こちらからも使えない。それきり、父は願い出なかった。
その日の午後、私は庭に出た。外れを引いた者は人目に触れさせないという決まりは、どこにも書かれていない。書かれていないことは効力を持たないと、私は七日のあいだに三度言った。三度目は、自分に言った。
だから出た。
敷石が終わって、その先が土だった。踏んだ。
思っていたより硬かった。書物には土は柔らかいと書いてある。柔らかいのは掘り返したあとの土で、踏み固められた土は板に近い。書いていないことのほうが多いのだ。前の日の雨で表面だけが沈み、靴の裏に少しついた。ついたものを見るために足を上げ、上げてから、これでは歩けないと気づいて下ろした。
私は二十五で、帳簿と筆跡と織りと薬草と三か国語を知っていて、土の踏み方だけを知らない。おかしくて、少し笑った。声に出して笑ったのは十年ぶりだと、笑ってから気づいた。
ハンナが後ろで何か言った。声が高かったが、泣くときも声は高くなる。
名前だった。十年、誰にも呼ばれていなかった。
十年ぶんの知識と、十年ぶんの経験のなさ。どちらも同じ十年から出てきたものだ。片方だけを持って生きていくのだろうと、私はずっと思っていた。思っていただけだった。
薬草も三か国語も、まだ一度も使っていない。十年ぶんというのは、そういうものだ。【栞】もあの一度きりで、また何もしなくなった。
十年前のあの日、私の続きの行に栞が挟まって、そのままになっていた。
今日、ようやく開いた。




