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秘密の計画

部長には借りがある。この人がいなかったら、僕はすでに温貨法に耐えられず、つぶれてしまっていただろう。ただ、それでも先輩の計画は危険すぎる。


学校や化学物質を扱う企業の出入り口には、簡易泉関かんいせんかんがある。

見た目は透明なゲートと金属の台だけだ。通過する者は一人ずつ立ち止まり、荷物を台に置き、ゲートをくぐる。すると台の内部のセンサーが、ペットボトルや試薬瓶、弁当の汁まで「液体」を拾い上げ、含まれる成分を粗くスキャンする。


温貨に通じる泉成分――つまり温泉水に似た組成が検出されると、ゲートの縁が赤く点滅し、警報が鳴る。扉はロックされ、担当教員か警備員が来るまで通過できない。逆に言えば、水やお茶のような日常的な飲料は素通りできる。狙いは、温貨の偽造や“代替湯”の持ち出しを入口で潰すことだった。

過去に、熱浜の大学生が温貨を偽造した事例があり、それ以来、化学物質を扱う施設には設置が義務づけられた。正式な泉関ほど精密ではない。だから「簡易」だ。それでも、熱浜で液体を外に運ぶという行為を、十分に怖いものに変える。


さらに、浴槽にも「湯船の水」を検知する機械が組み込まれている。温貨法導入後に新設・更新された浴槽や風呂桶にはすべて搭載され、成分を感知すると警報音が鳴る。化学部が古い金タライを使っているのも、この検知をすり抜けるためだ。

この二つを突破しない限り、先輩の計画は成立しない。


「部長は、どうやって簡易泉関を突破するんですか?」

「今日は点検の日で、一時的に機能がオフになってる。今日以外に持ち出せる日はない」

「温泉はどこに張るんですか」

「……うちの風呂だ」

「浴槽検知機が――」

「うちは“導入前の湯船”が残ってる。後付けしてない。通知は来たけど、親が放置した」

「そんなの、まだあるんですか」


市からは、「設置すれば入浴に関するガス代や電気代に対して補助金が出る」と案内があり、いまではほとんどの家庭が浴槽検知機を取り付けている。しかも僕が中学に入る前には全世帯義務化されており、検知機のない風呂は、熱浜市にはほとんどない。


「うちはもともと二世帯で、風呂が二つある」

部長は、言いにくそうに視線を外した。

「祖父母が亡くなってから、片方――親世帯の風呂だけが温貨法対応になった。検知ユニットも付いた」

「もう片方は?」

「祖父母側の風呂は、どうせ使わないって放置された。通知は来たけど、未使用設備は申告すれば猶予が出る。ただ、猶予期間は今年度末までだ」

部長は短く息を吐く。

「だから、今日しかない」


僕が黙ったまま足湯の中で指先を動かしていると、部長は低い声で言った。

「どうする」

部長の熱に当てられて、胸の奥がきしんだ。僕は否定できなかった。

部長に会う前の自分なら詳細を聞かなくても賛成していたかもしれない。ただ、今このぬるま湯につかったような生活も悪くないと思っている自分がいる。

部長は足をつけたまま、湯の表面を見つめて続ける。

「計画は完璧だ。簡易泉関は点検でオフ。張る場所もある。」

「……それでも」

声にした瞬間、自分が情けなくなった。理由なら言える。危険だから。見つかったら終わりだから。正しさの言葉はいくらでも並べられるのに、どれも薄い。

部長は僕を見た。

「泉田。お前が嫌なら、聞かなかったことにしてくれ。……でも、俺はやる。一人でも」


部長は湯面から視線を上げなかった。

言い訳みたいに弱くもないし、開き直りみたいに荒くもない。ただ、決まっている声だった。


その“一人でも”が、僕の胸の奥をきしませた。

止めるべきだと分かっているのに、止める言葉が出てこない。部長が一人で一線を越える光景が、はっきりと浮かんでしまったからだ。


部長は、足湯の水面を見つめたまま、淡々と続けた。

「この足湯が冷めるまでに決めてくれ」


冷めていく湯が、時計代わりになる。秒針はない。音もない。

ただ、ぬるさだけが確実に近づいてくる。


一人だった僕に居場所をくれた人を、大事な時に一人にしていいのか。

嫌だ。――だめだ。


頭では危険だと分かっている。理屈ならいくらでも並べられる。違法。家族。未来。

でも、「一人にするな」という声が、胸の底からせり上がってくる。

部長がいなかったら、僕はもう壊れていた。

擬態の仕方を教えてくれて、吐き出す場所を作ってくれて、僕の“納得できない”を否定しなかった。

それなのに、いま一番危ない場所へ、部長を一人で行かせる?

それは、僕が一番嫌ってきた「当たり前」に似ている。

みんなが温泉がなくなったことを納得したように、みんなが見ないふりをするように、僕も見送ってしまうのか。


湯の温度がぬるい。

ぬるさが足首にまとわりつくたび、猶予が削れていく。


僕は息を吸って、吐いた。

口にする前に、擬態の癖が働く。言い方を整えようとする。言い訳を挟もうとする。

それでも、言った。

「……一人にしない」

部長の指が、湯の中で止まった。


「泉田」

呼ばれて、僕は首を振る。

怖い。今も怖い。だけど、怖さより先に、決めた。

「やるのは……今日だけ。持ち出しは三本。今日中に使い切る。時間は短く。――絶対に」


口が勝手に動く。危険を減らす条件を並べれば並べるほど、自分がもう片足を踏み出しているのが分かる。

部長は何も言わない。

ただ、湯面を見つめたまま、ほんの少しだけ息を吐いた。

「...助かる」

その言葉が、胸の奥のどこかに刺さって、抜けない。

実行する意思がありありと見えた部長にも、もしかしたら躊躇いがあったのかもしれない。


「助かる」か。僕は、助けられてきた側だったのに。

助ける側になるのが、こんなに怖いなんて。

怖いのはもちろん怖い。

その怖さに加えて、今回は部長の選択に、自分が重さを足してしまった。引き返せたかもしれない人に最後の一線を越えさせてしまったこと。もし失敗したら、その責任の一部が僕にも残る。

――部長は、あのときも。


温貨法の講習で、苛立ちを抑えられなかった僕に「擬態しろ」と言ったとき。

理科準備室の奥で「温泉を作ってる」と打ち明けたとき。

僕に居場所を渡すたび、部長は同じ怖さを飲み込んでいたのかもしれない。


助けるって、きっと綺麗な行為じゃない。

相手の人生に手を入れることだ。都合よく“救う”だけで済むはずがない。

それでも部長は、僕を放っておかなかった。


その事実が、いまになって胸にくる。

借りだと思っていたものの正体が、少し違って見えた。


足湯は、もう冷めかけている。

僕は足を引き上げた。肌にまとわりついたぬるさが、空気に奪われて一気に冷える。

その冷えが、最後のためらいを剥がした。

「行きましょう」


言った瞬間、部長が初めて僕を見た。

その目が、少しだけ柔らかい。

「……決めたな」

「はい。……でも、約束してください。終わったら、二度とやらない」


部長は一拍だけ黙って、それから頷いた。

「約束する」


約束が守られるかどうかは分からない。

でも今、この一瞬だけは、部長の声が嘘に聞こえなかった。


僕は自分の鞄を見た。

透明な瓶。今日しか通れない簡易泉関。猶予が切れるまでの風呂。

全部が揃っていて、全部が間違っている。


それでも、僕は部長を一人にしない。

それが僕の、擬態じゃない選択だった。

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