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部長との出会い

「泉田も一緒にどうだ」

その言葉が落ちた瞬間、僕は笑えなかった。喉の奥が乾いて、返事の形だけが口の中で空回りする。

――部長には、借りがある。


熱浜で暮らすのが、僕は下手だった。

湯けむりを失ってからのこの街は、誰もが「当たり前」を飲み込むのが上手い。温泉が禁じられているのに、平然と瓶を差し出して生活を回す。誰もが温泉を愛していたはずなのに、既にないことが当たり前と振舞っている。怒りも疑問も、見えない場所に押し込んで、笑い方だけは忘れない。

僕だけがうまくできなかった。


温貨法の掲示を見るたび、胸がざわついた。

「温泉っぽさ」を作る行為が罪だなんて。湯に浸かりたいと思うだけで危ういなんて。そんな在り方を受け入れられない自分が、熱浜市民として失格みたいに思えて、教室でも家でも、どこか浮いていた。


そんな時に部長ー佐伯先輩に出会った。

出会いは温貨法の講習だった。風邪により、全校生徒全員参加の温貨法講習を休んでしまい、出席できなかった生徒を集めた講習で席が隣同士だったのだ。

講習が進むにつれ、少しずつ苛立ちが溜まっていく私に声がかけられた。

「擬態しろよ。敵に見つかるな」


初めて聞いたとき、冗談かと思った。

佐伯先輩は私の目を見て言葉を追加する。

「納得しなくていい。ただ、納得してるふりはしろ」

そう言って視線を前に戻した。

講師の声は、温貨法の条文を滑らかに読み上げる。違反の罰則。市外搬出の厳禁。代替湯の禁止。あらゆる“温泉っぽさ”は経済を壊す、という理屈。


僕は拳を握っていた。自分でも気づかないうちに。

その動きを佐伯先輩だけが見て、机の下で僕の手首を軽く押さえた。熱浜で初めて「止められた」のに、責められている気がしなかった。


講習が終わると、先輩は何事もなかったみたいに立ち上がり、出口の前で振り返った。

「聞き流すことを覚えろ。一番危ないのは怒ってる顔だ」

「……怒ってるつもりは」

「ある。分かるやつには分かる。……次からは、せめて口角だけは上げろ」

それは慰めでも助言でもなく、訓練みたいな口調だった。

僕は反射的に口角を上げてみる。ぎこちない。

先輩が小さく息を吐く。


「そう。それでいい。今はそれだけできれば良い」

それから、僕らは何度か言葉を交わすようになった。

と言っても、昼休みに大声で笑うような仲じゃない。廊下ですれ違ったときに、天気の話みたいに安全な話題を挟み、最後に一つだけ“擬態のコツ”が増える。


「泉関の前では視線を下げろ」

「瓶の話題が出たら、肯定も否定もしないで『へえ』で流せ」

「温泉って単語は口にしない。喉が勝手に言いそうになったら、咳でごまかせ」


そんな細かい技術を、佐伯先輩は淡々と渡してくれた。

僕はそれにすがった。やっと、熱浜の中で息ができるようになった気がした。

そして、息ができるようになると――今度は、溜め込んでいたものが漏れ始めた。


放課後の廊下。人の少ない昇降口で、僕は先輩を前に言ってしまった。

「……おかしいでしょ」

先輩が聞き返す。

「何が」

「温泉が禁じられてるのが。温泉の街だったのに、温泉に浸かりたいって思うだけで罪みたいなのが。みんな平気な顔してるのが……」

言葉は止まらなかった。

止めたくても、止められなかった。自分でも知らなかったくらい、胸の中に溜まっていた。

先輩は驚かなかった。

ただ、僕の口が動き続ける間、視線を逸らさずに聞いてくれた。

「……泉田、ここで言うのは危ない」

「分かってます。でも、分かってるはずなのに――」

「分かってるなら、吐く場所を選べ」


佐伯はそう言って、理科棟の裏へ僕を連れていった。

人気のない場所。何故か部屋は懐かしいような匂いがする。

「ここなら、まだマシだ」


僕はそこで、初めて「温泉に浸かりたい」と声に出した。

言った途端、罪を吐いたみたいに体が震えた。

佐伯は小さく笑った。

「言えたじゃん」

笑いは軽いのに、目は真面目だった。

「……泉田、お前は擬態が下手だ。でも、下手なやつの方が長持ちする」

「どういう意味」

「納得できないまま飲み込むと、いつか割れる。割れる前に、吐き出せるなら吐き出した方がいい」


その言葉で、僕の中の何かがほどけた。

居場所というのは、部屋や席じゃなくて――吐き出しても問題ない相手がいることなんだ、と初めて思った。



数日後、佐伯先輩は僕に言った。

「理科準備室、放課後空いてるか」


呼ばれた場所は、あの鍵のかかった奥だった。

化学部の札。古い薬品棚。乾いた石鹸の匂い。


机の上に、透明な瓶が三本置かれていた。刻印なし、封緘なし。

それでも、僕は一目で分かった。普通の水の置き方じゃない。

「これ……」

佐伯は周囲を見てから、声を落とした。

「俺、温泉水を作ってる」


鼓動が、一拍遅れて跳ねた。

熱浜で一番危ない告白を、佐伯は僕に渡した。僕の反応を試すみたいに。


僕は喉を鳴らして、やっと言った。

「……なんで、僕に」


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