温泉(おんいずみ)高校 化学部
温泉高校は、海から吹き上げる風がそのまま校舎を撫でる場所に建っている。
坂の途中、市民の視線からも泉関の監視カメラからも、ほんの少しだけ外れた高さ。
――温泉通貨保全法(通称:温貨法)導入により、熱浜が湯けむりを失ってから、僕らはこの高さに救われてきた。
理科準備室の奥に、化学部の部室がある。表札は「化学部」だけ。
部室は夏だから熱いのは当然だが、暑さの原因はそれだけでは無かった。
部室から少しでも匂いが漏れないように、窓を閉め切っている。
「今日、端末の校内点検あるそうだ」
3年生で部長の佐伯が、白衣の袖で黒板を拭きながら言った。
黒板にはイオンの式がぎっしり書かれている。
Na⁺、Cl⁻、Ca²⁺等のイオン式。その隣には重量。
「点検って、校内にある鑑泉端末の?」
「うん。中央泉庁が来るって。と言っても、普通に点検業務のみなんだけど。昨日、職員室がピリついてた」
中央泉庁。温貨法。泉関。
この三つの単語だけで、教室の空気は乾く。熱浜で暮らすというのは、いつだって透明な瓶と一緒に息をしていることだった。
机の上には、ガラス瓶が2本。中身は透明だ。刻印はない。封緘もない。
それでも、見れば分かる。僕らはこれを「合成泉」と呼んでいた。
「……今日のは、昨日より手触りいい」
部長が言うと、僕は小さく笑った。
「手触りって言わないでください。水ですよ」
「水だけど、俺たち熱浜市民にとっては特別な水だ」
液体の主成分は水で、理科室の棚に並ぶ“合法”の粉末を混ぜ込んでいる。
僕らは棚にある粉末を秤で量る。ミリグラム単位。
水道水を蒸留して、余計なミネラルを飛ばして、そこへ足していく。pHを合わせる。導電率を測る。沈殿が出ないようにゆっくりと時間をかけて作業を行う。
そうして、水以外での入浴が禁止されている熱浜では触れることが出来ない特別な水が完成する。
部長が、いつもの言葉を口にする。
「うん。鑑泉端末には通らない。通貨じゃない。」
「でも、法には触れていますよ。」
「身内だけで楽しむ分には問題ないさ。偽造通貨を作りたいわけじゃない。」
この言葉のやり取りを何度も繰り返した。
温貨は熱浜で取れる温泉を高濃度に濃縮し、瓶に入れることで初めて通貨と認められる。
ただし、温貨は“未使用”でなければ価値がない。
人が湯に入った瞬間、通貨として死ぬ。
そんな世界で、浴槽に張るための水を作ることが、罪だなんて――理屈としては理解できても、熱浜市民の心が納得しなかった。
部長がさらに追加で4つの瓶を用意し、メスフラスコで測った水を加える。
合法の粉末を入れ、ガラス棒でかき混ぜる。透明な渦が、少しだけ重く見えた。
匂いはない。けれど、指先につけて舐めれば、塩気が舌の端に残る。
今まで何十、何百と繰り返した工程だ。
いつもは2つの瓶しか作らないのに、今日は数が多いな。
疑問に思いながら調合を進めていく。
調合終了後の楽しみで僕らはそれを、確かめるように使う。
使う、といっても浴槽なんてない。
あるのは、化学室の大きなビーカーとタライだけだ。
2つの合成泉の瓶の中身と温めたお湯をタライに入れる。そして、足を入れる。
「部長。今日はまだ使っていない瓶が3つあるのですが、これはどうするんですか?」
部の決まりとして合成泉は必ず作った日に使い切るという決まりがあった。
そのため、この余った3瓶をどうするか部長に尋ねた。
「今日、俺は壮大な計画を立てている」
「計画?」
「今日親が2人とも用事で帰ってくるのが遅いんだ。その間に合成泉を使用して風呂に入る」
僕は反射的に、窓の外を見た。海は遠い。泉関のゲートは見えない。
でも、見えないだけで、誰かが見ているかもしれない。
「やめた方が……」
言いかけて、僕は黙った。やめた方がいい、は、正しい。
「1回だけ」
部長は、言い訳みたいに続けた。
「通貨としては使わない。ただ3年間の集大成をこの身で感じたいんだ。それにもう俺たちは、超えてはいけない一線を越えている」
そう言われた瞬間、僕は気づいた。
温貨法が禁じるのは温貨の浴用転用だけじゃない。
“代替品”だ。温泉っぽさを作る行為そのものだ。
つまり、温泉を入浴の文化として知らない世代が、温泉を知ってしまうことが罪になる。
そして、僕たちはもう「温泉」を知ってしまっている。
続けて部長から思いもかけない一言が発せられる。
「泉田も一緒にどうだ」




