プロローグ
本作はフィクションであり、実在の市・団体・制度とは一切関係ありません。
熱浜市から、湯けむりが消えた。
冬の海はまだ青く、坂道は相変わらず急で、駅前のネオンは雨に滲む。この10年で熱浜駅前に大きな変化はない。けれど、あのけむりだけがない。旅館の軒先や道端から立ちのぼっていた白い息は、いまや見る影もない
代わりに街を満たしたのは、透明な瓶だった。
「温貨」――温泉水を封緘した小瓶が、熱浜の法定通貨になった。紙幣も硬貨も、電子決済もない。パン一個、タクシー一回、薬一包。支払いのたびに、人は小瓶を差し出す。店員は瓶を受け取り、台に置き、鑑泉端末に通す。端末が鈍く光り、刻印の番号と泉源の履歴が表示され、はじめて取引が成立する。大きな買い物をした後は、目に見えて瓶の中の液体が減っている。
温泉水が通貨であることは、ただの奇抜な思いつきじゃない、と市は言った。熱浜には、それ以外に潤沢なものがなかったからだ――と。
問題は、温貨が「未使用」であるほど価値を持つことだった。
温泉水は、人が入るほど価値が落ちる。皮脂、繊維、香料、わずかな不純物。混ざるだけで、端末は首を振る。通貨として“死ぬ”。だから温泉水は浴槽に張られなくなった。かつて繁盛していた大浴場は封鎖され、露天風呂は乾いた石を晒し、桶も椅子も撤去された。湯けむりのない温泉街――その矛盾が、熱浜の新しい日常になった。
入浴そのものが禁じられたわけではない。水道水で湯を沸かす家庭は残った。だが、温貨導入後、「温泉っぽさ」を作る行為も罪になった。市外から別の温泉水を持ち込むのは禁止。薬湯も、入浴剤も、人工炭酸泉も、ミネラルや匂いをつけることさえ禁じられた。代替品があるほど、温貨の価値が揺らぐからだ――と、温貨法は淡々と告げる。
温泉通貨保全法(通称:温貨法)
温貨の浴用転用・代替湯の製造流通を禁ず
市外搬出・市外泉の持ち込み厳禁
温貨はこの街で取れる産出される温泉水しか認められない。中央泉庁が開発した、決済用端末「鑑泉端末」では、それ以外成分が検出される液体は通貨として認識されない。さらに、温貨は街の外に出てはいけない。市外へ持ち出しは重い罰が下る。市外で成分を分析し、偽造温貨の製造を防止するためだ。熱浜の価値は温貨の成分によって支えられている。そのため、街の境界には関所が立った。
泉関。
熱浜駅の改札、国道の分岐、港の桟橋、山へ抜ける旧道の入口。許可がなければ市外へ出られない。透明なゲートが設置され、通る者は出境許可証を求められる。荷物は検査され、温貨は全て泉関に預けなければならない。
それでも人は適応する。商店街の八百屋は、温貨の決済に必要な鑑泉端末を用い、野菜と温泉水を交換する。サラリーマンは毎月の給料を温貨で支払われ、決まった日に透明な瓶を液体で満たす。
それでも熱浜市民の多くが同じことを思うようになった。
――温泉に浸かりたい。
言葉にするだけで危うい欲望。温貨には直接触れてはならない。温貨の入った瓶を胸ポケットに入れて温めるのも嫌われる。体温で「変質」するという噂が、まことしやかに広がった。熱浜は、温泉を最も愛してきた街なのに、温泉を最も恐れる街になった。
そんな街で、最も危険なのは火でも刃物でもない。
「温泉に似すぎた水」だ。
それは通貨にならないはずなのに、通貨を壊す。




