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菊の暗号

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/11/30

第一部:迷宮

第一章:ガラスの塔の残響


夜明け前の丸の内は、静寂に支配された異質な空間だった。普段はエリートビジネスマンたちの足音と活気で満ち溢れるこの街も、休日の早朝には息を潜め、まるで巨大なガラスと鋼鉄の墓標のように立ち尽くす 。その非現実的な静けさの中、けたたましく鳴り響くサイレンの音が、無機質なビル群に反響していた。

警視庁捜査一課の刑事、如月綾音きさらぎあやね、29歳は、現場に到着すると、まずその空気を吸い込んだ。冷たく、張り詰めた、死の匂いが混じる空気。彼女の鋭い眼差しが、そびえ立つタワーマンションを見上げる。その一つの窓が、この静寂を破った震源地だった。

「如月です」

規制線の前で身分証を提示すると、若い制服警官が緊張した面持ちで敬礼する。綾音は軽く頷き、中へ足を踏み入れた。警視庁の警察官約4万人のうち、女性が占める割合はわずか10.2%。管理職である警視に至っては3.0%に過ぎない 。この男社会の組織で、彼女は常に冷静さと、男性の同僚たちが見過ごしがちな細部への着眼点を武器にしてきた 。

現場は25階の一室。リビングはモデルルームのように整然としており、乱れた様子は一切ない。被害者は、リビングの中央に仰向けに倒れていた。斎藤達也さいとうたつや、35歳。大手製薬会社のエリート社員。死因は胸部への単一の刺創。争った形跡も、無理に侵入された痕跡もない 。まるで、被害者が自ら死を受け入れたかのような、不気味なほど静かな現場だった。

「まるで舞台装置だな」

年配の先輩刑事、田所が吐き捨てるように言った。綾音は黙って部屋の隅々まで視線を走らせる。テーブルの上に置かれた一冊の古典小説。きれいに整頓された書斎。壁にかけられた抽象画。すべてが完璧に配置されすぎていて、逆に違和感を覚える。この完璧さこそが、犯人が残したメッセージなのかもしれない。

鑑識課員たちが黙々と指紋や微物採取を進める中、綾音は被害者の顔を見つめた。苦悶の表情はない。むしろ、どこか安堵しているようにさえ見える。一体、彼は何から解放されたかったのか。

所轄署に設置された捜査本部で、第一回の捜査会議が開かれた 。ホワイトボードに書き出された被害者情報は、非の打ちどころのないエリートの人生そのものだった。借金なし、女性関係のトラブルなし、職場での評判も上々。動機に繋がる糸口が何一つ見つからない。捜査は初動から暗礁に乗り上げていた 。

この丸の内という街は、日本の企業社会の秩序と成功の象徴だ 。その心臓部で起きたこの完璧な殺人は、単なる一個人の死ではない。この街が象徴する秩序そのものへの挑戦であり、その完璧な外面の内側で腐敗しつつあった何かを暴き出す、最初の亀裂なのかもしれない。綾音は、まだ誰も気づいていないその深淵を、一人見つめていた。


第二章:存在しなかった男


捜査は斎藤達也という人間の輪郭をなぞることから始まった。だが、なぞればなぞるほど、その輪郭は曖昧になっていく。彼はまるで、そこに存在しない男のようだった。

被害者調書によれば、斎藤は国内トップクラスの製薬会社「帝都ファーマ」のマーケティング部課長。35歳にしてその年収は、同年代の東京における平均を大きく上回っていた 。有名大学を卒業後、帝都ファーマに入社。以来、一度の挫折も経験することなくエリート街道を突き進んできた、絵に描いたような成功者だ 。

綾音と田所は、斎藤の同僚や友人たちへの聞き込みを続けた 。誰もが口を揃えて彼を「真面目で、有能で、物静かな男」と評した。敵を作るようなタイプではなく、むしろ周囲との調和を重んじる、完璧な組織人。しかし、その完璧さには人間的な体温が感じられなかった。

「斎藤は、自分の殻に閉じこもっているような男だった」

斎藤の大学時代からの唯一の親友だという男は、そう語った。「あいつの周りには、いつも見えない壁があった。誰も、本当の意味であいつの心に触れることはできなかったんじゃないかな」

綾音はその言葉に引っかかった。斎藤の完璧な人生は、鎧だったのではないか。何かを守るための、あるいは何かから身を隠すための、 meticulously(細心の注意を払って)に構築された要塞。その内側には、誰も知らない彼の本当の姿が隠されているはずだ。

ある日、綾音は帝都ファーマの元役員で、斎藤が新人時代に世話になったという初老の男性を訪ねた。引退し、都心の喧騒から離れた静かな邸宅で暮らす彼は、斎藤の死を悼みながらも、どこか遠い目をして昔を語った。

「斎藤くんは、私が今まで見てきた中で最も優秀な男の一人だった。ただ一つ、彼が担当した新薬プロジェクトで、大きな失敗があった。あれが、彼にとって唯一の挫折だったかもしれん」

男性がそう言った瞬間、彼の目に一瞬、ためらいの色が浮かんだのを綾音は見逃さなかった。その些細な揺らぎ。そこに、この事件の核心に触れる何かがある。綾音は直感した。彼女の、被害者の感情に寄り添い、言葉の裏にある真実を読み解こうとする捜査スタイルは、時に古い体質の捜査一課では軽んじられることもあったが、彼女にとっては最大の武器だった 。

斎藤達也は、完璧な被害者だった。それは、彼が完璧な人間だったからではない。彼が、その完璧な仮面の下に、殺されるに足るだけの危険な秘密を隠し持っていたからだ。彼の完璧な人生そのものが、最大の遺留品だった。


第三章:鉄壁のアリバイ


地道な捜査の末、容疑者として三人の人物が捜査線上に浮かび上がった 。だが、彼らの前には「アリバイ」という名の鉄壁がそびえ立っていた。

一人目は、武田製薬のCEO、武田健次郎。業界のカリスマとして知られる辣腕経営者だ。最近、帝都ファーマの斎藤が主導したプロジェクトに大型契約を奪われ、動機は十分考えられた。しかし、犯行推定時刻、彼は数百人が視聴するオンライン経営セミナーでライブ講演を行っていた。その映像記録は完璧だった。

二人目は、斎藤の元同僚、村上亮。斎藤がリーダーを務めたプロジェクトの失敗の責任を負わされる形で解雇され、斎藤に恨みを抱いている可能性があった。だが、彼は犯行当日、福岡への出張中で、航空券の記録から空港の監視カメラ映像まで、その足取りは寸分の隙もなく証明されていた。

三人目は、身元不明の女性。事件の一週間前、斎藤とカフェで激しく口論している姿が目撃されていた。捜査の結果、彼女はフリージャーナリストの長谷川美咲と判明。しかし、彼女もまた、犯行時刻には都心で開かれていた大規模なシンポジウムに参加しており、多くの目撃者がいた。

捜査本部の会議室は、重苦しい沈黙に包まれていた 。ホワイトボードに並んだ三人の顔写真と、その横に記された「アリバイ完遂」の文字が、捜査員たちの無力さを嘲笑っているかのようだった。

容疑者プロファイル・マトリクス

氏名

被害者との関係

推定動機

アリバイ

綾音の初期評価

武田 健次郎

競合他社CEO

ビジネス上の怨恨

ライブ配信中の講演

デジタル上の存在のみ。物理的な目撃者は?

村上 亮

元同僚

解雇による逆恨み

福岡出張(航空記録、防犯カメラ)

完璧すぎる。移動経路に不自然な点はないか?

長谷川 美咲

フリージャーナリスト

不明(口論の目撃情報)

シンポジウム参加(多数の目撃者)

なぜ斎藤と口論を?取材対象だったのか?


綾音は自身の端末に表示したこの表を見つめながら、焦りを募らせていた。上層部は、捜査の行き詰まりから「通りとおりま」による犯行の可能性を口にし始めていた 。世論の圧力を前に、早期解決という名の「幕引き」を図ろうとしているのだ。

「如月、お前のその考えすぎは悪い癖だ。これ以上、この三人に固執するのは時間の無駄だ」

捜査会議の後、上司の係長にそう釘を刺された。しかし、綾音の刑事としての勘は、犯人はこの三人の中にいると強く告げていた。彼らのアリバイはあまりにも完璧すぎる。まるで、誰かに見せるために用意された舞台装置のように。

「通り魔なんかじゃない。これは、知能犯による計算され尽くした殺人です」

綾音は静かだが、強い意志を込めて反論した。彼女の孤独な戦いが始まろうとしていた。


第二部:デジタル・ゴースト

第四章:ノイズの中のパターン


事件発生から数週間が経過し、捜査本部は事実上の解散状態となった。公式には「継続捜査」とされているが、新たな手がかりはなく、捜査員たちの関心はすでに別の事件へと移っていた。斎藤達也殺害事件は、解決の糸口が見えないまま、ゆっくりと「未解決」という名の暗い棚にしまわれようとしていた。

しかし、綾音は諦めていなかった。あの完璧すぎる現場と、完璧すぎるアリバイ。その裏に隠された真実を暴くまで、この事件を終わらせるわけにはいかない。彼女は一人、残業を続ける日々を送っていた。

ある夜、綾音は証拠品保管室へ向かい、斎藤のノートパソコンとスマートフォンを借り出した。すでに鑑識とサイバー犯罪対策課による一次調査は終わっている。だが、何か見落としがあるはずだ。彼女はそう信じていた。

捜査一課の自席に戻り、パソコンの電源を入れる。綾音はサイバー犯罪対策課の若手分析官、高橋に協力を要請した。高橋は、年功序列を重んじる警察組織の中では異端児扱いされがちだったが、そのデジタル・フォレンジックの腕は警視庁でもトップクラスだった 。

「先輩、もう一度ですか?上は通り魔で片付けたがってるって聞きましたよ」 「だからこそ、やるのよ。犯人は、私たちが諦めるのを待っている」

二人は深夜のオフィスで、モニターの光だけを頼りに、膨大なデジタルデータの海に再び漕ぎ出した。彼らは単に削除されたファイルを探すのではない。ハードディスクのセクタ単位でのデータ復元、レジストリの解析、インターネットの閲覧履歴やソフトウェアの実行ログの徹底的な洗い出し。それは、死者が残したデジタルの痕跡、ゴーストを追いかける作業だった 。

数時間が経過した頃、高橋が小さな声を上げた。 「…先輩、これ」

彼が指し示したのは、暗号化された通信ログだった。特定の相手と、毎月15日の23時ちょうどに、短いデータのやり取りが繰り返されている。そのあまりにも正確な規則性が、綾音の注意を引いた。これは日常的なコミュニケーションではない。定時報告か、あるいは何かの取引だ。

メッセージは、一見すると意味をなさない文字列の羅列。しかし、このノイズの中にこそ、斎藤達也の完璧な仮面を剥がす鍵が隠されている。斎藤という男の几帳面で計画的な性格が、死してなお、彼自身の秘密を暴く手がかりとなっていた。犯人は彼という人間を消すことはできたが、彼の「習慣」という名のデジタル・ゴーストまでは消しきれなかったのだ。


第五章:死者の鍵を開ける


発見された暗号は、捜査を新たな局面へと導いた。しかし、それは同時に、より複雑で難解な謎の始まりでもあった。高橋率いるサイバー犯罪対策課のチームが、その解読に全力を挙げた。

「これは標準的な暗号化アルゴリズムじゃないですね。AESやRSAの類ではない。完全にオーダーメイドの暗号です」と高橋は報告した 。

チームはまず、古典的な暗号解読法から試みた。斎藤の部屋にあった古典小説。これがブック・サイファーの鍵となる本ではないか 。文字列を数字に変換し、本のページ、行、単語の位置と照合する。しかし、出てくる言葉は意味をなさなかった。

次に試みたのは、換字式暗号の解読だった。文字列の文字出現頻度を分析すると、特定の文字に偏りが見られた。これは単純な換字式暗号ではないことを示唆していた。おそらく、複数の換字表を使い、一つの文字が異なる文字に変換される多表式の暗号、ヴィジャネル暗号のようなものだろう 。だが、それを解くには「キーワード」が必要だった。

解読作業が壁にぶつかった時、綾音の脳裏に、あの引退した元役員の言葉が蘇った。「彼にとって唯一の挫折だったかもしれん」。斎藤が失敗したという、新薬プロジェクト。

「高橋くん、試してほしいキーワードがある」

綾音は、プロジェクトの名前を告げた。それは、斎藤の輝かしい経歴の中で唯一の汚点とされた、製品名だった。高橋がそのキーワードを打ち込むと、モニター上の文字列が、堰を切ったように意味のある情報へと変換され始めた。しかし、それは文章ではなかった。数字の羅列だった。

「やった…!でも、これは何だ?」高橋が困惑する。

綾音は息を飲んだ。そして、確信を持って言った。 「もう一度、あの本を試して」

数字の羅列を、再びブック・サイファーの手法で、斎藤の部屋にあった古典小説に当てはめる。一つ目の数字がページを、二つ目がそのページの行を、三つ目がその行の単語を示す。

モニターに、最初の単語が浮かび上がった。

「DI-818」

それは、二重三重にロックされた、死者からのメッセージだった。斎藤は、自らの人生の最も深い傷跡を、その秘密を守るための鍵としていたのだ。その複雑な暗号は、彼がどれほど知的で、そして孤独な戦いを強いられていたかを物語っていた。


第六章:真実の値段


解読されたメッセージは断片的だったが、その一つ一つが捜査員たちを震撼させるには十分だった。

「DI-818…データ改竄…心血管イベント…抑制…」

浮かび上がる単語をつなぎ合わせ、チームは戦慄の事実にたどり着いた。DI-818とは、帝都ファーマが数年前に発売し、記録的な売り上げを誇る心疾患治療薬の社内コードだった。斎藤は、この薬の臨床試験データが不正に操作され、危険な副作用、特に心臓発作のリスクが意図的に隠蔽されていた事実を突き止めたのだ 。

「内部告発か…?いや、違う」

さらに解読を進めるうちに、メッセージの全貌が明らかになった。これは告発ではなかった。脅迫だ。斎藤は会社を脅迫していたのだ。

だが、その要求は奇妙なものだった。彼は金銭を自分の懐に入れようとしていたわけではない。メッセージの中で彼が要求していたのは、不正によって得られた利益の一部を、薬害被害者のための基金に「寄付」することだった。彼は、腐敗したシステムそのものを内部から変革することは不可能だと悟り、せめてもの贖罪として、システムに金銭的な罰を与えようとしていたのだ 。彼は、貪欲さからではなく、歪んだ正義感から脅迫者となった悲劇の人物だった。

やり取りは、金額の交渉だった。斎藤が提示する額と、相手が提示する額。その数字は、国家予算にも匹敵する天文学的なものだった。

そして、彼が殺された夜に送信された、最後のメッセージ。それは斎藤からのものだった。

「500億」

それが彼の最終的な要求額だった。このメッセージに対する返信は、なかった。その代わりに斎藤のもとを訪れたのは、沈黙を強いるための刃だった。

これで、事件の構図がはっきりと見えた。これは通り魔殺人などではない。斎藤達也は、あまりにも巨大な真実の値段を提示したがために、口を封じられたのだ。彼の死は、一人の人間の命が、企業の利益の前にはあまりにも軽く扱われるという、この社会の冷酷な現実を突きつけていた。


第三部:悪魔の貌

第七章:アンタッチャブル


暗号が解かれたことで、パズルのピースは一気に埋まった。DI-818のデータ改竄を指示し、その後の隠蔽工作を指揮できる立場にある人物。そして、斎藤の脅迫に直接対応し、殺害を命じる動機と権力を持つ人物。それは、帝都ファーマの代表取締役社長、武田健次郎しかいなかった。

武田は、最初の容疑者リストに載っていた、あの鉄壁のアリバイを持つ男だ。

武田健次郎。一代で帝都ファーマを世界的な企業に押し上げた、経済界のカリスマ。その経営手腕は「ワンマン」と評されながらも、強力なリーダーシップとして称賛されてきた 。慈善活動にも熱心で、そのパブリックイメージはクリーンそのもの。彼は、社会にとって「アンタッチャブル(不可触)」な存在だった。

だが、その仮面の下に隠された素顔は、自己の信念のためなら法さえも捻じ曲げることを厭わない、危険な独裁者のそれだった 。彼は会社を自身と同一視し、会社への脅威は、すなわち自分自身への脅威と捉える。斎藤の行動は、彼にとって許しがたい裏切りであり、排除すべき障害でしかなかった 。

捜査本部の雰囲気は一変した。相手は、政財界にも強い影響力を持つ巨大企業のトップ。生半可な証拠では太刀打ちできない。捜査は極秘裏に進められ、参加する捜査員も綾音を中心とした少数の信頼できるメンバーに限定された。

「武田のアリバイを崩す。それ以外に道はない」

綾音はチームに告げた。これは、単なる殺人事件の捜査ではない。警察組織の威信をかけた、巨大な権力との戦いだった。武田という男は、単なる殺人犯ではない。彼を生み出し、その暴走を許してきた、この国の企業社会というシステムの歪みそのものだった。綾音たちの戦いは、その歪みにメスを入れる、危険な手術でもあった。


第八章:機械の中の幽霊


武田健次郎のアリバイは、デジタルの要塞だった。犯行時刻、彼は丸の内の本社最上階にある社長室で仕事に没頭していた。その証拠として、彼の業務用PCからは断続的に社内サーバーへのアクセスログが残り、数通の業務メールが送信され、さらにはオンライン決済で備品の発注まで行われていた。物理的に社長室にいたとしか考えられない、完璧な記録だった。

「だが、もし彼自身がそこにいなかったとしたら?」

綾音は、新たな仮説を立てた。「デジタル・ゴースト」。彼が物理的に別の場所にいながら、社長室のPCを遠隔操作していた可能性はないか 。

綾音のチームは、裁判所から捜索差押令状を取り、帝都ファーマ本社のサーバーを押収した。しかし、最新鋭のセキュリティに守られた社内ネットワークから、外部からの不正アクセスの痕跡を見つけるのは困難を極めた。

「正面玄関から入れないなら、裏口を探すしかない」

綾音は、帝都ファーマのシステム管理者の一人、若手の技術者に接触した。彼は、武田の独裁的な経営に疑問を抱いていた数少ない社員の一人だった。綾音は、警察への協力者として彼の良心に訴えかけた 。内部告発に近いその行為は、彼自身のキャリアを危険に晒すものだったが、彼は斎藤の死の真相を知りたいという思いから、協力を決意した。

彼の協力のもと、チームは社内ネットワークのログではなく、ビル全体の通信を管理する、より巨大なネットワークトラフィックのログを解析した。そして、ついにその痕跡を発見した。

犯行時刻、武田のPCとの間に、極めて高度に暗号化されたリモートデスクトップ接続が確立されていた。そして、その接続元を示すIPアドレスを追跡すると、それは斎藤が住む世田谷区のマンション近くで契約された、使い捨ての通信端末へとたどり着いた。

武田健次郎は、社長室にはいなかった。彼は、斎藤のマンションのすぐ近くに潜み、そこから社長室のPCを遠隔操作して、自らの「デジタル・ゴースト」を作り上げていたのだ 。

最新技術を駆使して構築された鉄壁のアリバイは、同じく最新技術によって、その脆い正体を暴かれた。それは、自らの力を過信した独裁者の傲慢さが生んだ、唯一の隙だった。


第九章:五百億円の秘密


全ての証拠が揃った。武田のアリバイを粉砕する通信ログと、斎藤が遺した暗号メッセージ。綾音は上司と共に、帝都ファーマの社長室へと向かった。最後の戦いの舞台だ。

武田は、余裕の笑みを浮かべて二人を迎えた。 「刑事さんが、こんな所まで何の御用で?」

綾音は、一枚ずつカードを切るように、証拠を突きつけていった。解読されたメッセージの内容、斎藤の脅迫、そして、犯行時刻に斎藤のマンション近くから社長室のPCへアクセスしていた通信記録。

武田の表情から、少しずつ笑みが消えていく。そして、綾音がリモート接続の証拠を提示した瞬間、彼の顔は能面のように無表情になった。観念したように、彼は深く息を吐いた。

「…あの男は、理想主義者すぎた」

武田は、罪を認めた。しかし、そこに反省の色は一切なかった。彼は、まるで経営判断の失敗を語るかのように、冷静に事実を述べ始めた。

DI-818の臨床試験で、予測を超える心血管系への副作用が確認されたこと。そのデータを、彼は自らの指示で隠蔽し、著名な大学教授に金を渡し、安全性を強調する偽りの論文を発表させたこと 。その全ては、会社の未来を守るためだったと彼は語った。

「DI-818をリコールすれば、帝都ファーマは倒産する。数万人の従業員が路頭に迷い、日本の製薬業界は国際的な信頼を失う。それに比べれば、統計上の誤差に過ぎない数の患者の命など、必要悪だ」

彼の論理は、常人には理解しがたいほど冷徹で、合理的だった 。斎藤は、その完璧なシステムの中で、偶然にも隠された真実のデータを発見してしまった。そして、正義感から、武田の築き上げた王国を根底から揺るがそうとした。

「私は彼に何度もチャンスを与えた。だが、彼は聞かなかった。彼の正義は、あまりにも高くついた。だから、私がコストを計算し直した。それだけのことだ」

武田にとって、斎藤の殺害は、経営上のリスクを排除するための、冷酷な「損切り」でしかなかった。彼の瞳の奥に宿る暗い光を見ながら、綾音は人間の心の最も深い闇を覗き込んでいるような感覚に襲われた。そこにいたのは単なる殺人犯ではなく、自らを神だと信じ込み、人の命さえも貸借対照表の数字としてしか見ることのできない、歪んだ怪物だった。


エピローグ:震動


武田健次郎の逮捕は、日本社会に巨大な震動をもたらした。

帝都ファーマの株価は暴落し、市場はパニックに陥った。DI-818は即日販売中止となり、世界中で集団訴訟が巻き起こった。政府は特別調査委員会を設置し、製薬業界と学術界の癒着にメスを入れることを発表した。一つの殺人事件が、巨大な企業の不正を暴き、社会の根幹を揺るがす大スキャンダルへと発展したのだ 。

数ヶ月後。 かつて捜査本部が置かれた所轄署の会議室は、がらんとしていた。ホワイトボードはきれいに消され、事件の痕跡はどこにもない。綾音は一人、窓の外に広がる東京の街並みを眺めていた。

武田は法廷で裁かれるだろう。だが、彼を生み出したこの社会の構造そのものは、何も変わらないのかもしれない。勝利の味は、どこか苦かった。

彼女の脳裏に、斎藤達也の顔が浮かぶ。完璧な仮面の下で、歪んだ正義感に燃え、孤独な戦いの末に命を落とした男。彼は、良心を持たない巨大なシステムに対し、たった一人で良心であろうとした。

綾音は、そっと目を閉じた。刑事として、一人の人間として、自分は何をすべきなのか。答えはまだ見つからない。しかし、彼女の心には、新たな決意が静かに灯っていた。この街で、真実を求める人々の声なき声に耳を傾け続けること。それが、彼女に課せられた使命なのだと。

戦いは終わった。しかし、彼女の本当の戦いは、まだ始まったばかりだった 。空は、どこまでも高く、そして青かった。


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