第39話 竜の終の地
空の蒼に、紅の翼が弧を描いた。
悟はアカネの背にしっかりと身を預けながら、竜の終の地を目指していた。
ラキア・ガルドが遺した言葉……“竜の終の地”に、騎竜兵の真の力がある。
それが何を意味するのか、まだはっきりとはわからない。
だが、アカネの誕生の地、そして老竜が最後に眠った場所が、その答えを握っているという直感だけはあった。
風を裂いて進む紅竜。
だが、そう簡単に辿り着けるはずもなかった。
「またか……!」
雲の影から、数多の影が飛び出してくる。
空を泳ぐように舞う、小型の飛行魔物たち、翼のある喰い残しどもが、集団となって行く手を遮ろうとしていた。
(悟、つかまってて)
アカネの声が届いた瞬間、彼女は大きく息を吸い込んだ。
そして、その口から、陽を呑んだかのような灼熱が解き放たれる。
咆哮。
その一声で、空は一瞬、紅に染まった。
熱風が吹き荒れ、触れた魔物たちは抵抗する暇もなく焼き尽くされ、空に黒い灰が舞う。
「……圧倒的だな」
その力を目の当たりにしながら、悟はふと過去を思い出していた。
……疾風。
かつて自分が搭乗していた戦闘機。その機体で銃弾の嵐の中を、命を賭して飛んだ日々。
照準を絞り、機銃を撃ち、敵艦へと突っ込んでいったあの時。
もし……もし、あの空を、疾風ではなくアカネと共に飛んでいたら。
機銃も対空砲火も関係なく、咆哮ひとつで敵艦隊を焼き尽くしていたかもしれない。
仲間たちも……生き残れたかもしれない。
そんなこと、意味はない。わかっている。
過去はもう、戻らない。あの世界も、あの空も、もう無い。
けれど。
(今は、生きてる。アカネと一緒に)
ふと顔を上げたその先に見えた。
空の向こう、もやに包まれた雲間に、一本の巨木が姿を現した。
あまりに大きく、雲より高く、根を天へと伸ばしているかのような錯覚。
それが、《竜の終の地》。
かつて老竜が最期を迎え、アカネが生まれ落ちた、命の根源とも呼ぶべき場所。
そこに何が眠っているのか。
風が、また導こうとしていた。
巨木の根元に、アカネは静かに降り立った。
風が止む。あまりに大きすぎる幹の前では、世界そのものが息をひそめているかのようだった。
だが、それは見た目にはただの樹。
崩れた石碑も、朽ちた建物もない。ここに何かが眠っているとは、とても思えなかった。
(……ここが、竜の終の地)
アカネは小さく息を吐き、巨木へと歩み寄った。
そっと、幹に手を添える。
瞬間、大樹の表面が淡く光を帯びた。
脈打つように、その光は波紋となって幹を走り、無数の枝葉へと広がっていく。
アカネの瞳が、大きく見開かれた。
(……なに、これ……)
頭の中に……いや、魂の奥底に、老竜の記憶が流れ込んでくる。
遥かな時を越えた知識。空の理、竜の血脈、かつて竜が語った言葉、命の重さ。
すべてが、風のようにアカネを通り抜けていく。
その瞳に浮かんだのは、痛みでも恐れでもなかった。
ただ、静かな覚悟。
一方で、悟もまた巨木に近づいていた。
そっと手を伸ばし、幹に触れる。
その瞬間、大樹の一部から、細い枝のような光がスッと伸びはじめた。
まるで、誰かに呼応するように。
「これは……」
悟はその光の端を、ためらいながらも掴んだ。
すると、握った手に重さが生まれ……光の中から一本の槍が、すうっと姿を現した。
槍の穂先は風にたなびくようにしなやかで、軸には根を思わせる意匠が走る。
風と木……竜と人が共に戦った時代を象徴するかのような、古の槍。
そのとき、悟の内に声が響いた。
《竜樹槍》
「……これが、“竜騎兵の真の力”……」
老竜の記憶を宿したアカネが、ゆっくりと振り返る。
(悟、それ……あなたに選ばれた武器だよ)
槍の刃は風を纏い、まるで呼吸をしているかのように脈打っていた。
アカネは竜の知識を、悟は新たな武器を得た。
かつての竜騎兵がそうであったように、いま、ふたりはその意思を継いだ。
悟は静かに槍を構えた。
掌に伝わる感触は、かつて風鋼の刃を握ったときのそれとはまったく異なる。
風を裂くというより、風とともに在る、そんな錯覚すら覚える。
「……これが、竜騎兵たちが使っていた槍……」
風鋼の刃はしなやかで鋭く、悟の身体には馴染んでいた。
だが、この槍は違った。重量、全長、振り抜きの感覚、どれも、今の悟には過ぎた代物に思えた。
しかし……
(ラキアとの戦いが、無駄だったはずがない)
あの死闘の中で、悟は槍という武器の間合いと動きの“感覚”を、否応なく叩き込まれていた。
握り直し、軽く突きを放つ。
風が追従するように槍先を走り、草葉を震わせた。
「……いけるな。いや、慣れていくさ」
肩越しに、アカネが彼を見守っていた。
(ねえ、悟……)
「ん?」
(あたし……もう“ただの子竜”じゃない。あの大樹が見せてくれたの、きっと全部“あたしの根っこ”……)
アカネは自分の胸元に手を置くと、そこに灯る微かな火を感じるように目を伏せた。
(老竜の記憶、そして竜たちが辿った終わり……でも、それだけじゃない。“なぜ終わりを迎えたのか”も)
「……なにか、わかったのか?」
(うん。でも、まだ全部じゃない。断片的にだけど……“あれ”が、全てを壊した)
アカネの言葉に、悟は眉をひそめた。
「“あれ”……瘴気、か?」
(……ううん、“瘴気の始まり”)
風が、ゆっくりと吹いた。
それは老竜の眠る大樹が、ふたりに託した最後の残響のようでもあった。
悟は槍を背に回し、アカネの背に手を置いた。
「なら確かめに行こう。アカネ、お前となら、空の果てにだって行ける」
(うん。あたしも、もっと強くなる。全部の“根っこ”を取り戻す)
紅き竜の翼が広がった。
風が巻き、ふたりを空へと押し上げる。
老竜の眠る地を背に、ふたりは再び飛び立った。
“真の竜騎兵”として。




