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蝸牛は花と散る

 仕事を終え、玄関のドアを開けて電気を点けたら、一瞬ドキッとした。足元の狭い廊下の床に、なにかじわりとする気配がしたのだ。

 靴も脱がず、恐る恐るしゃがみこんで見回してみると、その気配の正体は蝸牛だった。蝸牛は、私が驚いているのとは対照的に、人間がすぐ近くにいるのに怖がっている様子はなく、マイペースで徐々に徐々にベージュ色の床を前進していた。ヤツが這っていた床は、ヌメリでテカテカと光っていた。

「びっくりした・・・、なんなのよ」

 私は静かに呟いた。私は動物も虫も好きではないが、実家が田舎で自然の多い場所で育ったので、慣れているので不快感はなかった。

 見た目は、よくイメージする蝸牛である。殻は薄い濁った茶色で、当然だが渦巻きの形をしていて、黒いライン模様が入っている。体も殻と同じ薄い濁った茶色で、ヌメヌメと柔らかそうで、細い2本の触覚をピンと立てている。

 どこから部屋に入ってきたのか考えようとしたが、そんな事を考えるよりもサッサと行動に移さなければならない。

「悪いけど、ここは私の部屋だから」

 私は、蝸牛の殻を潰さないように、そっと指で摘まんだ。蝸牛は、殻に引っ込むわけでも、体をくねらせて抵抗するわけでもなく、大人しく摘ままれた。

「あんたの住む世界は外よ」

 私は蝸牛を摘まんだまま、再度外に出た。階段を下りて、アパートのゴミ置場と駐輪場にある花壇の所まで来た。大家さんの老夫婦が、毎日丁寧に手入れをしており、いつの季節も何かしらの花を咲かせている花壇だ。私は、花壇のレンガで出来た囲いに、蝸牛をそっと置いた。私の手から離れたヤツは、またしてもマイペースにレンガの上を前進した。私がヤツをこの花壇に連れてきたせいで、せっかく綺麗に咲いている紫色の花が食い散らかされたりしたら、ちょっと申し訳ないような気もしたが、それよりも早く部屋に戻ってビールが飲みたい気持ちが勝ったので、私は部屋に戻った。


 次の日、仕事から帰り、キッチンで手を洗おうとすると、シンクに蝸牛がいた。

 乾いたシンクの中をヌメヌメと這っている蝸牛を見つけて、どうも昨日廊下を這っていた蝸牛と同じヤツだろうと思った。大きさと殻の黒いラインがほとんど同じだったからだ。

 排水口からゴキブリが侵入してくるとは聞いたことがあるが、蝸牛も入ってくることがあるのか。そう考えているよりも、我が物顔で堂々と私の部屋に居座ろうとしている事に腹が立ってきた。

「分かってないわね、ここはあんたの居場所じゃないの」

 私はヤツの殻を摘まんで、外に出た。アパートの向かいにある、忘れられたような小さな公園の、名前も分からない木の幹にヤツを貼り付け、素早く部屋へと戻った。


 それから、蝸牛は毎晩私の部屋に訪れてきた。

 風呂場の浴槽、洗面所、トイレ、テーブルの上・・・。ヤツはのんびりマイペースで我が物顔で這っていた。ヤツを見つけるたびに、私は外へヤツを追い出した。近所の別の公園、コンビニの窓、川沿いの草むら、図書館の駐車場・・・。イライラした私は一度、歩いて20分くらいかかる、普段は利用しないドラッグストアまで行って、建物の壁にヤツを貼り付けた。そしてまた20分かけて家まで帰った。

 しかし、ヤツが私のスチールで出来たベッドの縁を這っていたのを見つけた時、私はついに諦めた。

「わかった、もうわかったから」

私はベッドに腰をかけて、深くため息をついた。

「あんたが、ここにいたい気持ちは、よーくわかったから」

 友人と酒を飲んで帰ってきたので、少し酔って寛大になっていたのかもしれない。

「でもね、人間の生活にはルールとプライバシーってもんがあるのよ」

 私は、黒いスチールの上を這っている蝸牛に言い聞かせた。そう言っておいて、じゃ蝸牛の世界にはルールやプライバシーは無いのか、という考えが頭をよぎったが、それ以上は面倒臭かった。とりあえず、その日は使っていないコップにヤツを入れて、小皿で蓋をして、化粧だけ落として眠った。


 翌日、休みだった私は、近所の100円ショップで小さな虫かごを買った。「蝸牛の飼育方法」とネットで検索し、餌のために胡瓜も一本スーパーで買った。本当は、かごの底に土を敷き詰めたり、殻のカルシウム補給のためのサプリメントだったり、水分を保つための霧吹きだったりも必要らしいが、そこまで面倒は見きれない。なので、虫かごの底に少し水を張り、胡瓜の薄切りを2枚入れて、蝸牛をコップから移した。蝸牛は嬉しそうでもなく、かといって不満そうでもなく、相変わらずマイペースにプラスチックのかごの底や壁を這っていた。私はコップを洗い、残りの胡瓜を齧りながら、「死んだら、それまでだ」と思っていた。

 蝸牛との共同生活は、さして私の生活を脅かすようなことはなかった。かごの水が乾いていたら水を足し、胡瓜を食べ終わっていたら新しい胡瓜を与え、週に一回は公園の水道で(部屋の水道で洗うと雑菌や感染症の恐れがあるらしい)虫かごを洗った。

 虫かごを公園のぬるい水で洗いながら、なぜ私はこんなにもヤツに親身になっているのだろう、と度々疑問に思った。勝手に人の部屋に侵入し、勝手に居座っているヤツに、適当ではあるけれど、こんなわざわざ住んでいるヤツの部屋を掃除してやってるなんて。愛情?執着?そんなものは最初からない。私らしくないじゃないか。私は何事にも親身になって寄り添うことを避けて生きてきたのに。仕事も、友人も、かつての恋人も、実家の家族も、自分自身もおざなりにしてきた。そのせいか、私の周囲からは年々人が去っていき、近づいてきたとしても、早々と見切りをつけてしまう。別に構わないけれど。

 そして、共同生活が始まってしばらくすると、私の独り言が以前より増えていった。

「会社の先輩が、また一人でキリキリして、忙しい忙しいって一人で言ってるよ。誰も聞いてないのに」

「私の吸ってる煙草が値上がりしてた。20円も」

「結婚してる友達がさ、旦那さんが皿洗いやってくれないって、ずっと愚痴ってる。そこまで言うなら、サッサと自分でやっちゃえばいいのにねぇ」

「今日の合コンで仲良くなった人、優しいんだけど、コンビニを家族と経営してるんだって。もしその人と結婚したら、向こうの両親と一緒にコンビニで私も働かなくちゃいけないかと思うと、面倒よねぇ」

「このワンピース、もう私の歳で着てたら痛いと思う?でも、気に入ってるんだよなぁ」

「実家から、じゃがいも届いたけど、肉じゃがかカレーくらいしか作れないよ。コロッケやポテトサラダは面倒臭いし、太りそうだし」

 言った後に、私はハッとして赤面し、恐怖すら覚えてしまう。蝸牛と共同生活している上に、独り言をブツブツ呟いているなんて、他人から見てもホラーではないか。

 一方の蝸牛は、私をそもそも認識しているのかすら怪しいくらい、マイペースにかごの中を這い回り、胡瓜を齧り、食べた分だけ糞をした。憎たらしかった。見返りなんて求めていないが、「いつもスミマセン」くらい言えないのだろうか。私もだいぶマイペースな方ではあるが、ヤツのマイペースには負ける。そう思うと、ますます憎たらしくなった。


 そんな蝸牛への憎らしさが爆発したのは、共同生活を始めて3カ月経つか経たないかの頃だった。

 その日、会社の上司から「君は責任感と学習能力がないな」と言われ、先輩からは「段取りが悪い」と言われ、当然のように残業をし、友人から行く気力もない合コンに誘われ、やっと部屋に帰ってきたら実家の母親から「オススメの結婚相談所があるので登録しなさい」と一方的なメールが送られてきて、もうなんだかグチャグチャと散らかった部屋になったような気分だった。

 ビールを開けて飲み、煙草に火を点けて、ベッドに腰かけても、グチャグチャな気分は片付かなかった。

 目の前の低いガラスのテーブルに置いてある虫かごの中では、蝸牛が相変わらずヌメヌメとマイペースで這い回っていた。虫かごは、齧りかけの胡瓜と、緑と黄色が混じった糞で汚れていた。また、このかごを週末に公園に行って洗いに行かなければならない、そもそもなんで私がやらねばならぬ、なぜこうなってしまったのか、そう思うと、蝸牛のマイペースさと存在そのものに腹が立ってきた。

「お気楽でいいわね、あんたは。なんのしがらみもなくてさ。誰のお陰で、そうやってのんびりマイペースで生きていられると思う?あんたなんかと一緒にいても、楽しくないし、ちっとも癒されない。少しは、私の拠り所になりなさいよ」

 一気にそれだけ言うと、もうなにもかもどうにでもなれと思ってしまい、ビールを飲み干し、煙草を灰皿に押し付け、化粧も落とさず、そのままベッドに潜り込んで、気づいたら眠っていた。

 明け方、なにも食べずに眠ったせいか、空腹で眼が覚めた。化粧でベタベタの顔を擦りながら、ゆっくりベッドから身を起こして、何気なくテーブルの方へ眼をやった。

 虫かごの中に、蝸牛はいなかった。その代わりに、一輪の白い花がポツンと入っていた。私は起き上がり、カーテンを開けた。東向きの窓から、ほんのりと明るい外の光が入ってきた。喉の渇きと空腹で、とりあえず水と牛乳をコップに一杯づつ飲んだ。まだ、この状況が上手く受け止めきれず、眼と体を起こそうと思い、風呂場へ向かった。

 シャワーを浴びて、肌を化粧水と乳液で手入れをし、髪の毛をタオルで拭きながら戻ってきたが、やはり虫かごの中には白い花が一輪入っていた。蝸牛がどこかに隠れているのかと疑ったが、かごの中はカラカラに乾き、胡瓜の薄切りも、糞も、ヤツが這っていた跡も残っていたかった。

 改めて、その白い花を観察したが、植物に疎い私には、なんと言う名前の花なのかサッパリ分からない。百合のような豪華で大輪ではないし、かといって野原に咲いているような素朴な感じでもない。真ん中の雄しべと雌しべと言うのだろうか、それは黄色く、その周りを5枚の白い花弁が囲っている。茎は細く、緑色の小さな葉が1枚生えていた。幼い頃、画用紙にクレヨンでイメージして描いた花の絵が、そのまま出てきたようだ。

 細い茎をそっと摘まんで、マジマジと花を眺めた。拠り所になれ、と昨夜の私は確かに言った。それで花になったのか、アイツは。私は、思わず苦笑いをする。もしそうだとしたら、安直、ありきたり、バカみたい、そう思った。こんな花で、私の拠り所になったつもりなのか。私は、最初に蝸牛を入れた、使っていないコップに水を入れ、それに花を挿して、テーブルに置いた。虫かごは、そのまま燃えないゴミの袋に入れた。


 夜になり、仕事から帰ってきた私は、部屋に入り電気を点けた。白い花は、テーブルの上のコップの中で枯れていた。朝のイキイキとした面影はなく、カサカサと茶色く変色し、枯れた花弁はテーブルの上に散っていた。コップの中の水は、まだたっぷり残っているのに、茎も葉も茶色く乾いていた。

 蝸牛の時は、案外逞しく生きていたのに、花になったとたんに、こんなにも簡単に枯れて散ってしまった。それなら、無理に花にならなければ良かったのに。本当にバカみたいだ。私は、テーブルに散った花弁を拾い集め、茎をコップから抜き取ると、全て燃えるゴミの袋に入れた。そして、口を普段よりきつめに結んだ。また蝸牛に戻って、部屋の中を這い回られたら、たまったものではない。

 翌日の朝、アパートの階段を下りて、駐輪場と花壇のあるゴミ捨て場に向かった。ゴミ捨て場に着くと、「可燃ゴミ」と張り紙が付いている箱に、枯れた花が入った袋をそっと置いた。

「愛情なんてないんだから、誤解しないでね」

 私は、ゴミ袋に向かって小さく呟いた。

「愛も情も、重すぎないくらいが、ちょうどいいんだから」

 私は、くるりとゴミ置場に背を向けて、仕事へ行くために駅へ向かった。今夜も残業になりそうだ。

子供の頃、田舎の祖母の家の中で、よくナメクジと遭遇したのを思い出して、そこからイメージして書きました。

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