第二話「赭は、再会の色。」その弐
私は帰りのバスに揺られながら、今日の初仕事を自分なりに振り返り、至らないところは多々あったが、自分なりに精一杯にやれたのではないかという自己満足に、少し気分を良くしていた。
出掛けにお婆ちゃんが作ってくれたお弁当もすっかり空になっている。お弁当の中身は、へべす(平兵衛酢)のお握りだった。休憩時間には、やはりまかないが用意されたので、私は代わりにへべすのお握りをスタッフの皆に食べて貰ったのだ。
『へべす』とは平兵衛酢とも書く。日向市の特産で柑橘類の一種。スダチやカボスに味が似ているけど、酸味が程好く、香りと味のバランスがとても良い。それをお握りに混ぜ込んだものが、へべすお握りだ。へべすの皮が彩と食感のアクセントになって、板長の玄さんにも好評だったらしく、冗談なのか、お店のメニューに加えてもいいなと言ってくれた。
恭華さんにスタッフの紹介をしてもらった時、最初はちゃんと挨拶できなかったけど、お婆ちゃんのへべすお握りのお陰で、みんなと少し仲良くなれた気がする。
私は、その時の恭司くんの顔を意味もなく思い出し、顔が赤くなった。そして同時に、面倒くさそうにへべすお握りを食べていた店長の顔も思い出し、何故か、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
その時だ、携帯がベートーヴェンのシンフォニー9番を再び奏でる。スマホの画面に、私達の最後の舞台が写し出された。それを撮影したのが着信の主である。
早坂京子先生。
「京子先生の京は、凶暴の凶なのかな?」
私はそう口にして、大きく溜め息をついた。それが、夕陽に輝く塩見川の景色に吸い込まれていくと、私は目を軽く閉じた。
コンサート会場に響き渡る私達の声。ベートーヴェンが綴った歓喜の歌。私の脳裏に蘇る至高の瞬間、最高の思い出。
私はバスを降りると、ベートーヴェンの第九を口ずさみながら、祖父母の家と続く坂道を登り、そして自然と子供の顔を思い浮かべ、疲れていた足取りが軽くなるのを感じた。
『O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.』
(ああ 友よ、この音楽ではない
そうではなくて 心地よく 喜びに満ちた歌を始めよう)
それなのに、玄関の扉を開けた瞬間、見慣れない女性の靴が視界に飛び込んできた。ここにはとても場違いな、お洒落で洗練された靴に私は嫌な予感を覚える。
「まあ、鼻歌なんてご機嫌やなあ。仕事は上手ういったんかい」
私は無意識に険しい顔をしていたのだろう。奥の部屋から顔を出したお婆ちゃんは、私の姿を見るなり心配そうな顔をした。
「どんげした。なんでそんげ険しい顔をして鼻歌を歌うてきたんやい」
「お婆ちゃん、誰かお客さんが来てるの?」
「悠希を訪ねて、名古屋からお客さんが来とるちゃ。なんでん、部活ん先生だって仰っちょるけど」
私は怒りに震える手を、ぎゅっと握り、掌に食い込む爪の痛みを頼りに平静を装った。
「綾瀬さん、元気そうね。午前中に何度も綾瀬さんの携帯を鳴らしたんだけど……」
早坂先生はそう言いながら、まだ歩きだしたばかりの子供の手をとり、ゆっくりと部屋から廊下へと歩いてきた。
早坂京子。この女はそういうやつだ。
彼女は他人が心を痛め、体を傷つけ、そして身を犠牲にして産んだ子供を、自分はそんなことは知らぬ存ぜぬの態度で、まるで罪とは無縁の善人の様に受け入れようとしている。こんな女をかつては姉のように慕っていた自分がとても愚かで恥ずかしい。
「先生、止めてください。その子は私の子供です。お願いですから今すぐ私の子供から手を離してください」
私の声が予想外に大きかったからなのか、私の怒りが予想外に顔に表れてしまったからなのか、それまでにこやかに笑って早坂先生に懐いていた子供が、突然、泣き出してしまった。
「先生に対してそんげ言い方せんでんいいやろ。積もる話もあるやろうかぃ、少し二人で外でも歩いちょいで」
そう言うと、お婆ちゃんは子供を抱き上げ、私と早坂先生を残し廊下の奥へと消えて行った。
残された私と早坂先生は、気まずい雰囲気で家の外へ出ると、家の裏手の土手を登り、塩見川を見下ろす高台へと向かった。夏の太陽がようやく山に沈み、海の上の空には一番星が見える。
海風が、私の頬を優しく撫でた。
「先週ね、榊原さんが亡くなったの。ご自宅で首を吊ったのよ。貴女に報せるべきか、榊原さんのお母さんもずい分と迷ったのだけれど……」
突然、この女は何を言い出すのだ。
早坂京子の言葉が、暴力的に私の中へと入り込んでくる。
「……榊原さんと綾瀬さんが、まるで本当の姉妹みたいに仲良くしてたから……でも貴女があんな事件を起こして……榊原さんのお母さんも……」
耳から入ってくる早坂京子の言葉が、鉛のように重たく私の体に沈んでいく。
そして、その言葉を遠くに感じ、やがて何も感じなくなった時、私の目の前が真っ白になった。
私は早坂先生の話を最後まで聞き終わる前に、意識を失いその場に倒れ込んでしまったらしい。
榊原史恵。
私が不登校で学校を休んでいた時、私はずっと史恵の家の、史恵の部屋で過ごしていた。そして、史恵の腕の中で、この心と体をずっと守っていたのだ。
守りたい相手に、私はずっと守られていた。