第一話「青藍は、始まりの色。」その参
バスの座席に座った私は、窓から見える塩見川を眺めていた。夏の陽射しに煌めく水面をぼんやり眺めながら、祖母の作ったお弁当の温もりを膝に感じる。
まかないを食べさせてもらえるから、お弁当は要らないと言ったのに、おばあちゃん心配性なんだから。
そう思いながら、そんな祖母のお節介を、今の私は素直に嬉しいと感じることができる。
その時、携帯が着信を告げた。着信音に個別設定したベートーヴェンのシンフォニー9番。電話の相手を思い出したくなくて、私は携帯には一切触れず、海へと流れる塩見川に目を凝らした。
「なんだ、綾瀬。バイト初日にそんなしかめ面をして」
気がつくと、通路を挟んだ隣の席に、なんと店長が座っていた。
「面接の時の勢いはどうした?社会人デビューで緊張でもしているのか?」
その嫌みな言葉に私は少し腹を立てたが、私が店長の顔を見ると、店長はとても穏やかな顔で笑っていた。
「店長もバスで通勤なんですか?だいたい、どこのバス停から乗ったんです?私、全然気がつきませんでしたよ」
「昨日は残業して、その後に少し飲んだから車は店に置いてきたんだ。バスにはお前より先に乗っていたよ。後ろの方の座席に座っていたんだが、綾瀬が物憂いな様子で、ぼっーとしてるから、少し声をかけようかと思ってな」
私は訳もなく恥ずかしくなり、きっと顔が熟れたトマトのように赤くなったのだと思う。私はすぐに顔が赤くなるのだ。そう思うと余計に、私は恥ずかしさで居心地の悪さを感じた。
「店長、そんな意地悪だから奥さんに逃げられるんですよ」
店長がバツイチであることは、面接の時に本人の口から聞いていた。
「奥さんが逃げたんじゃない。俺が逃げ出したんだよ」
一瞬、私は地雷を踏んでしまったと思った。しかし店長は、先程と少しも変わらない穏やかな笑顔を私に向けていた。
「俺は寄るところがあるから、綾瀬は迷わずにちゃんと店にたどり着けよ」
「子供じゃありません。心配はご無用です!」
「そうだな、お前はもう子供じゃないな」
そう言うと店長は、駅の少し前のバス停で降りてしまった。
次の瞬間、私の後に座っていた女性が突然身をのりだし私に話しかけてきた。
「そっかぁ、貴女が綾瀬さんなんだ。はじめまして、私、藤崎恭華。えっと、貴女の職場の先輩みたいな感じかな」