とある少年の追憶
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リンと初めて会ったのは、幼稚園のときだったそうだ。
家が向かい合わせということで、よく遊んでいたらしい。
親から聞いただけで、思い出とは到底呼ぶことのできない、曖昧な記憶だ。
でも、不明瞭だというだけで、俺の一部であることに変わりはない。物心ついたときには一緒にいたような気がするし、自分の人生で思い出すことのできる最も古い記憶は、リンと一緒に遠足に行ったときのものだ。
たとえ後から人工的に植え付けられただけの記憶だったとしても、俺とリンが幼馴染だということは、とても重要なことだった。それこそ、アイデンティティーに関わるほどに。
俺はリンと幼馴染として、小学三年生のときまで一緒にいた。四年生に上がるタイミングで、リンは引っ越していった。たしか、親御さんの仕事の都合とか、なんてことはないよくある理由だった。
お別れ会を開いてプレゼントを渡し合って、引っ越しの日には一緒に遊んで、駅でバイバイ。そういう、普通のお別れができた。何も不条理なことはない。実際、涙も出なかったし、自分が悲しいのかどうかもよくわからなかった。
でも俺にとってそれは、生まれて初めての「何かを失う」という経験だった。
ぼんやりとだが、俺はこのままずっとリンと一緒にいられて、一緒に大人になっていくんだろうと思っていた。だから、こんなにも唐突に、あっけなく、別れの時が来るなんて考えもしなかったのだ。
心にぽっかりとあいた穴を埋める方法を見つけようと、俺は本を読むようになった。知らない世界の物語には、その方法が書いてあるんじゃないかと本気で考えたのだ。
親友と喧嘩をしてしまった少年の物語。最愛の妻を失った男の物語。親と離れ離れになった少女の物語。別れや喪失を記した物語はこの世に溢れていた。むしろ、それが書いていないものを探すほうが難しかった。
そして俺は、ある言葉を知った。
「さよならだけが人生だ」
幼い俺の心に、その言葉はとてもしっくりきた。出会った瞬間から、いつか別れの時がくることが決まっている。すべてのものは、いつかこの手のひらから零れ落ちていく。それは至極当前のことで、仕方のないこと。そんな諦めと清々しさを併せ持った言葉だと思った。
その言葉を知っていたから、中学二年の春休み、母とミライが家を出て行ったときも、悲しかったけれど、なんとか耐えることができた。
さよならだけが人生だ。だから、悲しんだって意味がない。俺の人生観は、リンとの別れを機に大きく変わっていった。
本ばかり読んでいたからか、少しばかり周りの子たちよりも大人になるのが早かったらしく、クラスメイトたちがみんな猿に見えてきて、気づいたら一人ぼっちになっていた。
でもどうせ仲良くなっても、いつかは「さよなら」なのだからそれでいいと思っていた。
いつも活字に逃げて、どうしても本を読めない時間は空を見てやり過ごして、空想だけが俺の友達で。でもそのうち寂しさに耐えきれなくなって、ガラでもないのにバスケ部なんか入ったりして、勝手に傷ついて。
そんなどうしようもない奴が、リンと別れてからの俺だった。
リンと別れてから六年後の春、俺は高校生になった。
高校最初の日、俺はあまり期待していなかった。
どうせ高校も中学と変わらない。部活なんか入らず、静かに三年間をやり過ごそう。友達なんて無理してムリしてつくるものでもない。そう思っていた。
遅刻ぎりぎりの時間に学校に行き、教室の真ん中で、誰にも座られずポツンと空いた席に、俺はスッと座った。
読みかけの文庫本を鞄から取り出し、開いた瞬間、
「お、ヤマトじゃんっ。久しぶりっ」
と大きな声がした。
ヤマトというのは自分の名前だが、俺のことをヤマトと呼ぶのは親しかいない。自分のことを呼んでいるわけじゃないのだろうと、俺はすぐさま活字に意識を戻した。
けれど次の瞬間、肩をゆすられ文字が揺らいだ。
「ねえ、ヤマトってば」
声のするほうを睨むと、可愛らしい女の子がすぐ隣に立っていた。彼女が声を掛けていたのは俺みたいだが、どう見ても知り合いではない。
「どちらさまですか?」
「エエッ、忘れたの? あんなに遊んだのに? 時の流れとはかくも残酷なものなのね」
俺にこんなかしましい知り合いはいない。そう思って訝しげに彼女の大きく開く口を眺めていたら、彼女は少しだけ不機嫌そうな顔をした。
「リンだよ、リン。富永凛。ほんとに忘れちゃったの? 向かいに住んでたじゃん」
記憶の引き出しの一つが無理やりこじあけられた。
「思い出した?」
そう笑うリンは、俺の知ってるリンだった。
どうやら人生は、さよならだけじゃなかったらしい。
リンは高校進学と同時に、元の家へと帰ってきたらしい。入学式のときはまだ引っ越しておらずホテルから来たのだと、律儀に我が家へ挨拶に来たリンが言っていた。
六年ぶりに会うリンは、外見こそ可愛らしい女の子になっていたが、中身は昔と同じ、小学生男子のような明るさと純真さと粗暴さを合わせ持った、俺の大好きな幼馴染のままだった。
一方俺はというと、身長だけは無駄に伸びたもののイケメンになったわけでもなく、中身は劣等感と自意識と人見知りでいっぱいの、立派な根暗になり下がっていた。
クラスカーストからしても、どうしたってリンと俺は対等ではない。
けれどリンは昔と同じように、俺を友達として扱ってくれた。
相手によって態度を変えられるほど、リンが器用なタイプじゃなかったというだけの話かもしれない。でも、すっかり人間不信になって、色々とこじらせためんどくさい奴になっていた俺にとって、リンは救世主のような存在だった。
「ヤマトってひねくれすぎじゃない。もう少しポジティブに考えた方がいいよ」
「暗いよ、暗すぎるよ。ブラッケストだよ。あ、黒の最上級ってことね」
「その思考回路は友達ができないからやめなさい」
「人生に対してやる気がないでしょ。お母さんの子宮にやる気おいてきたんでしょ」
「昔はもうちょっと素直でいい子じゃなかったっけ? ウチがいないあいだにインドとか行ってきたわけ? 自分探しし過ぎて自分見失ってない? 人間性にパンチパーマかけてきちゃった?」
「絶望したわ。ヤマトがそこまで社会不適合者になりさがっているとは思ってなかったわ。一回MRIで頭見てもらうことをレコメンドするよ」
そんなふうに彼女はボキャブラリー豊かに俺をけなしつつも、直したほうがいいところを何度もこりずに指摘した。
それに、クラスで人気者のリンが大きな声で話していれば、それだけで俺にも居場所ができた。他のクラスメイトたちも、こいつはいじっても大丈夫なヤツだ、もしかしたら面白いヤツなのかもしれない、と思って話しかけてくる。リンのおかげで、俺は最低限度の社交性を身に付けることができたのだ。
普通、俺みたいなめんどくさい奴とは誰も関わろうともしない。でもなぜかリンは、ずっと一緒にいてくれた。
――昔、仲が良かったから? 可哀想な奴だと思って同情してくれたから?
理由はいまだによくわからない。
昔から一緒にいるが、リンにはよくわからないところがあった。他の人が怒らないようなところで怒ったりするところとか。客観的に見たらどっちが正しいか微妙な問題にも、個人的で主観的な善悪を押し付けたりするところとか。
たとえば部活の大会が近いからと言って文化祭の手伝いをしない男子に「ありえない。それはあんたの事情でしょ。こんなの朝三十分早起きすれば一週間で終わるんだから、ちゃんとやって来て。これはあなたの役割よ」と怒鳴りつけたことがある。
「朝三十分早起きするならお前が早起きすればいいだろう」とか、「俺より暇な奴いっぱいいるだろう」とかその男子はぐちぐち文句を言っていたが、結局彼は手伝いをきちんとやった。
リンが怒る三日も前から「代わりに俺がやるからいいよ」とか、「部活の大会が忙しいなら仕方ないだろ」とかずっと言っていた俺としては腑に落ちなかったが、それでもリンは押しきってしまった。
そう、リンは変わっている。
クラスカーストのトップにいるのに、そういうやつ特有の鬱陶しさがなくて、嫉妬されることもなくクラスのみんなから好かれていたところとか。私立文系志望者といえば、普通は理数科目が苦手なのに、リンは数学が好きで社会が嫌いなところとか。アホみたいにポジティブなのに、自己啓発本みたいに暴力的ではなくて、むしろ深夜ラジオみたいに優しいところとか。
リンは本当に、変わっている。そして俺は、そんなリンが昔から大好きだった。
俺みたいなヤツと一緒にいてくれる懐の深さも、自分の感情を信じ切ることのできる強さも、それを言葉にして人にぶつけることのできる勇気も、すべてが憧れの対象だった。
小学生男子のように素直で裏表がないところも、保育園の先生みたいに誰にでも優しくて誠実なところも、ぜんぶが大好きだった。
何があっても。それこそ船が遭難して無人島に行くことになったりとか、いきなり地下牢獄に閉じ込められてデスマッチをやらされるはめになったりとか。そんな生きるか死ぬかの状況になったとしても、リンだけは味方でいてくれると、俺は心のどこかでずっと思っていた。
俺にとってリンは、太陽で、空気で、雨上がりの虹で、とろけるように甘いチョコレートで。……ともかく、俺のぜんぶなのだ。