夕暮れの帰り道
勉強のキリがよかったので待ち合わせにはまだ少し早いが、俺は自習室の外に出た。本日二度目のラウンジは昼間よりも混んでいる。みんな集中力が切れてくる時間だからだろうか。
「よぉ、きくやん。おつかれ」
誰がきくやんだ、と思って首を傾けると、昼のチャラ男、あらため田辺がいた。
「よっす」と答える前に田辺は俺の隣へと座った。そのとき、ふっと覚えのある匂いが鼻に届いた。
「休憩? 俺は夕飯いこっかなって思ってるとこなんだけど」
「いや、もう帰るとこなんだけど……田辺、タバコ吸うのか?」
「あ、クサい? わりいわりい」
田辺は攻撃的な髪色とは対照的に、人懐っこい笑顔を浮かべた。だから俺はつい、「わかるけど、あんまやめとけよ、身体にわりいぞ」と言ってしまった。
途端に田辺はスッと目をそらし、「ん、ああ」と小さく頷く。
そこまできて、俺はようやく自分が余計なことを言ったのだと気が付いた。
「わかるけど」って、いったい自分は何を分かった気になっていたのだろう。
田辺は「なあ、きくやん……」と改めて切り出してきた。
そのもったいぶった、少しだけ緊張をはらんだ調子に、俺の身体は反射的に硬直する。
続きをはやく聞きたくて、
「なんだよ?」
と急かす。すると彼は待っていたとばかりに、すかさず、
「富永ちゃんて、可愛いよな」
と至極真面目な顔で言った。
思わず両手で顔を覆ったが、手の隙間からため息が流れ出る。俺の自己嫌悪を返してほしかった。
「……可愛いよ」
ため息と一緒になって、今度は本音がこぼれ落ちてしまった。
「だよなぁ、ぜひ仲良くなりたい」と田辺が明るく言うので、俺は眼鏡の隙間から手を抜き取り、「ムリだっつの」といちおう釘を刺しておいた。
「え、きくやん。もしかして狙ってる?」
さすがチャラ男は鋭い。退かした手でもう一度顔を隠したくなった。
「そういうわけじゃねーけど」
「ならええやんけ、可愛い女の子はこの世の男たちの共有財産なんだから」
「お前それ一発で炎上できそうなパワーワードだからな、それ」
「だいじょぶだいじょぶ、オレTPOはわきまえるクチだから」
親指を立てる田辺に冷ややかな視線を向けていると、「おーっす」と声がしてリンが来た。
「お、リンちゃん。おつかれー。いまきくやんと話してたんだけどさ……」と田辺が言い出したので、「余計なこと言わんでいいっつの」とそれを遮って席を立つ。どさくさに紛れて名前で呼んでいたことに少々むかついていた。田辺は「えへへっ、おつかれー」と笑った。
ラウンジを出るとリンは「金髪系男子と仲良さそうに話してるヤマトってなんか不思議」と言ってニヤついていた。俺も解剖台上のミシンと蝙蝠傘のように偶発的な出会いだとは思うが、はたしてそれが美しいかどうかはわからなかった。
ずっと屋内にいたからか、外の空気が気持ちいい。電車を降りると、空は綺麗な茜色に染まっていて、ぽつりぽつりと浮かぶ雲までも淡く輝いて見えた。
隣のリンも同じように空を眺め、ふぅっと大きく息を吐いた。
高校のときはリンが部活に入っていたり、女友達と一緒に帰っていたり。そもそも俺と一緒に帰っているところを見られたくなかったと思っていたのかも……。などなど、まあ色々な理由であまり一緒に帰れなかったが、これからは一緒に帰れるというならそれだけで浪人した甲斐があったと思った。
「あーあ、始まっちゃうね、浪人生活」
リンがぽつりと言った。心を読んだかのようなタイミングに、少しどきっとする。
俺は誤魔化すように「ああ、始まるな」と何の意味もない言葉を呟いた。
「なんかさ、恐いね。みんなが前に進んでく中で、自分だけ足踏みしてるみたいで」
「別にリンだけじゃないだろ。世の中に浪人してる奴がどんだけいると思ってるんだよ」
「うん、まあ、そうなんだけどさ。でもやっぱり浪人してない人の方が多いわけでしょ、周りの人とか見てもさ」
こんなふうに弱気なリンは珍しい。もちろん、いつでも明るいというわけではないけれど、こういうふうに感傷的になることはめったにない。
きっとこの綺麗な夕日のせいだろう。高い建物が多い予備校の周辺と違い、家の周りは一軒家が多く空を阻むものがない。美しいオレンジのグラデーションを、リンはまだ見つめ続けていた。
「俺は、お前と浪人するのも悪くないなって、ちょっとは思ってるのにな」
聞こえるか、聞こえないか。そのくらいの微妙な声の大きさで、そんな言葉を口にしてみる。
聞こえないふりをされても、誤魔化されてもいい。そんな保険をかけて、俺は時々、ズルい言葉を口にする。そうすることで、溢れだしそうなこの気持ちのガス抜きをしているのだ。
「嬉しいこと言ってくれるじゃん。なんか元気でたわ」
「なら良かった」
「まあね、自分で決めた道なんだから……頑張るしかないよね」
「そうだな」
なんだか無性にリンの手を握りたくなった。というか、抱きしめたくなった。
でも、もちろんそんな勇気は俺にはない。そんな勇気があったら、とっくの昔に俺はリンと友達ですらなくなっているだろう。
バイバイ。そう言って、リンは家に入っていった。俺も向かいに建つ自分の家へと入る。暗い廊下を歩き、自分の部屋のドアを開け、ベッドへ倒れ込んだ。
今日はなんだか、とても疲れた。
――わかってるよ。
俺は勘違いしそうになる自分の心に、いつも通りのお説教をし始めた。
――自分のような根暗で冴えない奴が、リンと一緒にいられるのはとても幸運なことで、それ以上を望むなんて分不相応だってことくらい、わかってる。
繰り返し自分に言い聞かせ、期待しないように気を付ける。期待しなければ、傷つくことも、裏切られることもない。
――俺は、リンにとって特別でもなんでもない。ただの、友達の一人。
夕日と、それが照らし出すリンの横顔を思い出すと、胸がチリチリと痛んだ。今はただ、この気持ちが消えてくれるのを待つばかりだった。
ジャージに着替え、鞄の中から弁当を取り出し、リビングへ向かう。テレビをつけて一人、昼に食べなかった弁当を食べた。
母さんはきっとこれからも毎日弁当をつくるのだろう。今はまだいいが、夏はどうするべきだろうか。さすがに日中放置しておくと、腐ってしまう気がする。まあ、リンも毎日外食はしないだろうか。
インスタントコーヒーの入った飲みかけのマグカップを持って、テレビを消して部屋に戻る。リンも勉強しているだろうか。いや、していないかもしれない。
外を見るともうすっかり日は落ちていて、夜の闇が街を覆いつくしていた。こんな日は流れ星に願いを伝えたくなるが、そんなもの見た試しがない。
――まあ仕方ない。星のない夜空が、都会育ちの俺の空なのだから。月さえあればいいのだ。日々姿を変えていく月を、俺は愛しているのだ。
何の役にも立たないポエムに苦笑いをして恥ずかしさを誤魔化してから、勢いよくカーテンを閉めた。留め具がレールをこするザーザーという音だけが、耳に心地よく残っていた。