予備校講師とクラスメイト
教室前方の扉が開き、背の高い男性が入ってきた。皆、即座に私語をやめて、座ったままぴしりと背を正す。やはりこういうところは学校とは違う。
教室に現れた教師は、黒髪ロン毛に花柄のシャツを着た、おおよそ数学教師とは思えない派手な風貌をしていた。やはり学校とは違う……。
まだ英語の教師が派手なのはわかる。しかし、数学教師が派手というのは珍しい。ぜったい他の数学の先生と仲が悪そうだ。
男性は手に持ったテキストをするりと教卓の上に置き、おもむろに口を開いた。
「授業に入る前に、最初に一つだけ話をしておこうと思います。君たちにお願いしたいことがあります」
空気が引き締まるのを感じる。皆が固唾をのんで、次の言葉を待っていた。
やる気がない奴は授業を受けさせない、とかいうめんどくさい話だったらどうしようとビクビクしているのだ。曲がりなりにも浪人生なのだから、しょっぱなから脅しや説教は聞きたくないという人がほとんどだろう。
「これから一年間、勉強していくにあたって、数学の面白さを理解しようという姿勢を捨てないでほしいんです。どういうことかと言うと、点数を上げるということばかりを意識すると、勉強がどんどんつまらなく、疲れてきて、頑張ることがそのうちつらくなってきます」
講師はこの話をし慣れているらしく、すらすらと言葉を紡いだ。
「もちろん、つらくても頑張らなきゃいけない、というのが受験勉強の一つの側面ではあると思います。ですが浪人生活という一年間を、ただただつらい、耐え忍ぶだけの一年にしないでください」
教室の緊張は彼の優しい話し方にほぐされていき、小さく相づちを打つ人が増えていく。メモを取り始める者も多かった。
「浪人してよかった、勉強ってこんなに奥が深かったんだ、大学に入る前に一年間この時間があってよかったな、大学にストレートで入って遊び惚けてる他のヤツらより俺は成長できたな。そんなふうに思える一年にしてほしいと思っています。そしてそのために、受験を単なる点取りゲームだと思い過ぎず、数学を楽しむという意識を心の隅に持ち続けてください。最後は楽しめたほうが勝ちます。以上、では授業に入っていきます」
初めて会ったばかりなのに、その人の言葉はすとんと胸の中に落ちてきた。
――頑張って、この人の教えてくれる数学の世界を学ぼう。
不思議とそんな気持ちにさせられた。これがプロなんだなぁとしみじみ思った。
その後の数学の授業も進むスピードはとんでもなく早かったが、これまでの自分の数学という学問に対する捉え方を変えてくれるような、そんな授業で、俺は予備校にやっぱり来てよかったなとしみじみ思った。
初授業はつつがなく終わり、休憩時間が来た。
リンは机の上のものもそのままに、身体をこちらへぐるりと九十度回転させた。
「やべえよ、授業はええんだけど」
「たしかにやべえな。これでスタンダードかよ。標準かよ」
一コマ目の数学は俺とリンは同じスタンダードレベルクラスだ。この予備校ではスタンダードレベル、ハイレベル、トップレベルの三つのクラスに偏差値別に振り分けられる。
俺は次の英語はハイレベルクラスでの授業なので教室移動だ。さっさとリュックに物を仕舞いこむ。
「な、やばすぎんべ。ウチら、プロフェッショナルでも救いようがねえバカってことか」
「スタンダードの下もつくってほしいよな、ドロップアウトクラスとか」
「もうなんかそれ英語にしたって隠し切れない落ちこぼれ感が出てるじゃんか。ドロップしてアウトしちゃってるんだから」
「じゃあオブラートに包んでボトムアップクラスとかか?」
荷物をまとめ終わり、俺は席を立った。
「もうあれか、個別指導とか家庭教師とか、金をかけるしかないのかっ。資本主義の豚となるしかないのかっ」
「意味わかんねーよ」
俺がキレのないツッコミを入れたところで、近くから笑い声が聞こえた。
それは後ろの席の金髪の男のものだった。たしか授業に遅刻して、後ろのドアからこっそり入ってきたヤツだ。
「いやあ、ごめん。二人とも面白すぎて」
金髪男は愛想の良い笑顔を浮かべた。
「まじ? これは受験勉強なんかやめて養成所入ったほうがいいかも」
「そんなこと言ってると初対面からアホがばれるぞ」
「フハハ、俺は田辺。よろしく。よかったら今日、昼飯一緒に食べない?」
「いいよー、私は富永凛。よろしくぅ」
「俺、菊池。よろしく」
「富永ちゃんと菊池くんね、よろしく。じゃあ次の授業終わったら二階のラウンジで待ってて」
おっけー、と言って教室を出ると、教室移動のないはずのリンがくっついてきた。人であふれる廊下を縫うように進み、階段をめざす。
「よっしゃ、友達ゲットだぜ。幸先いいな」
「チャラそうだったな」
明るい金色の髪に、縁の太いメガネ。服装こそ白シャツにジーンズと無難なチョイスだがこぎれいに着こなしていて、まさに王道のチャラ男という印象だった。まず間違いなく俺一人だったら声をかけられなかっただろう。
「そうでもないっしょ。ヤマトがコミュ障過ぎるだけだって」
リンがにやっと笑った。
「まあこの調子でリア充浪人生活をめざそうぜ」
「いや、充実しちゃまずいだろ、浪人生なんだから」
俺はため息交じりに返事をし、リンに手を振って別れた。
階段のすぐ隣の教室のドアが開いていて、黒板を消しているおじさんの姿が見えた。青い作業着と真っ白な髪を横目に、俺は階段を上り続けた。
授業が終わり二階に向かった。ラウンジには丸いテーブルとイスがたくさん置かれていて、端には自動販売機がお行儀よく三つ並んでいる。ここにたむろする輩を「ラウンジ族」などと言うらしいが、ここでダベっていたくなる気持ちもわかる気がした。
リンとチャラ男は壁沿いのカウンター席に並んで座っていた。
「英語の先生のボディーランゲージすごくない? 右手縛り付けておきたい」「めっちゃわかる。一回の授業で三百回転くらいしてるよね、あれは」「ほんとほんと、まじ電気起こせそう」
楽しそうに話している。俺は騒がしいラウンジでもちゃんと聞こえるように、大きな声で「おまたせ」と声を掛けた。チャラ男は「ううん、全然」と紳士的に微笑んだ。
「何食べる?」
「この辺だと、中華とイタリアンとカレーうどんは行ったことあるな。まああんまり時間ないよね。あとはハンバーガーとかラーメンとか?」
チャラ男と目があい、俺は咄嗟に「なんでもいいよ」とリンの方へ顔をそむけてしまった。高スペックな人間が近くにいるだけでドギマギしてしまう俺は本当に救いようがない。
「じゃあ、初日だし、優雅にイタリアンとしゃれこみますか」
「よし、おっけー」
俺が頷くと、「じゃあいこっか」とチャラ男が立ち上がった。
道すがら、俺は二歩前を歩く彼の背中を見つめていた。
お店を色々知っているところとか、仕切りがうまいところとか、俺はもう嫉妬を通り越して、感心してしまっていた。しかも田辺は派手な髪の毛に頼って顔のパーツを誤魔化しているタイプのチャラ男ではなく、ちょっとアヒル口で愛嬌のある、いかにもモテそうな顔をしている。何か一つくらい勝っている部分はないかと探したが、身長さえも彼の方が高い。
俺は無駄に傷つくことを恐れて不毛な粗探しを打ち止めにし、人の溢れるお昼休みの街に目を向けた。
みんな皺一つない服をばっちり着こなして、背筋を伸ばし、足早に歩いている。ショーウィンドウに映る自分の姿は、そんな春の街にそぐわないように見えた。
今日は私服一発目ということで、襟付きのシャツにチノパン、それに紺のジャケットという俺にしては気合いの入った格好で来たが、あまり風景に溶け込めていないように思えるのだ。朝、鏡で見たときにはそうでもなかったのになぜだろう。
行きついたイタリアンは、パスタとピザがメインのお手ごろ価格で店内は社会人や大学生で混んでいた。俺たちは外のテラス席に座り、サラダとコーヒーのついたランチセットを頼むことにした。
田辺は綺麗にサラダを食べながら、「二人は高校一緒とか?」と尋ねた。さすがチャラ男だ。いきなり「二人は付き合っているの?」なんていう不躾な質問をしたりしない。
「そう、腐れ縁ってやつ」
リンが何か言う前に、俺がすぐさま答えた。すると「腐ってないから。まだまだ現役バリバリで仲良しの友達だから」とリンが付け足した。
田辺は「なにそれ」と笑った。彼が笑ったのは、現役バリバリと言いつつさりげなく友達と言って、二人の関係を否定した巧妙な言葉選びゆえだろう。オブラートに包んでくれる気遣いが逆に俺のことを傷つけているとリンには気づいてほしいものだ。
隣で嫌いなパプリカを食べているリンは可愛げがあるが同時に憎たらしくもあった。俺と二人のときは、俺の皿に嫌いなものをよけるくせに。
午後もそれぞれ授業を受けたあと、自習室を見たいとリンが言うので少しだけ自習をしてから帰ることにした。
自習室は、机の前の棚が覆いかぶさるように突き出ていて、ちょっとした個室みたいになっている。しかし実際に座ってみると、意外とすぐ隣の椅子が近くて、まったく個室ではなかった。人と人の距離が近くて人口密度が高い。というか、所狭しと並べられた机と椅子のせいもあって部屋にある物質の密度が高い。つまり閉塞感が尋常ではないのだ。
これならたしかに一階やらラウンジやらで勉強をしたくなる気持ちもわかる。しかし俺はあんな騒がしいところで勉強はできないので、苦渋の選択だったが自習室に留まることにした。
初めこそすし詰め状態にウンザリしたものの、周りの人間もみんな頑張って勉強しているのだと思ったら物音はあまり気にならなくなった。