報われない僕たちは
これは俺の浪人生活を記した日記だ。
みっともなくて、痛々しくて、気持ち悪い、徒然なる備忘録……。
思い切って「恥の多い人生を送ってきました」とでも言えば少しは格好がつくのかもしれないが、残念なことに俺はこの言葉を過去形で使うことが出来ない。
ただ自分が、「恥の多い人生を送っている」というその自覚があることを俺は誇りに持ちたい。恥を知るというのは大人になる第一歩だからだ。
前置きが長くなった。
ともかくこの物語は、
――不完全燃焼のまま終わってしまった高校生活を。
――やり残した青春を。
――足りなかった勉強時間を。
すべてを補い。取り戻し。帳消しにするための、俺の一年間の軌跡だ。
*
「あ、……ない」
スマホの画面にはたくさんの数字がお行儀よく並んでいた。
活字というのはなぜだかいつも現実感が伴わない。コンピューターが勝手に打ち出しただけの言葉や数字に意味なんてあるのだろうかと思ってしまう。
もちろん、そんな考えは現実逃避の一種に過ぎない。確かにこれは数字の羅列に過ぎないが、紛れもなく俺、菊池大和のこれからを通知するものなのだから。
突然フッとシャンプーらしき甘い香りがして、意識は現実へと引き戻された。
「なかった? そっか、残念だったね」
隣でそわそわしていた富永凛がスマホを覗き込んでくる。
午前十時の発表からすでに三十分ほどが経っている。アクセスが集中していたためかなかなかサイトへログインできず、待たせて申し訳ないという気持ちもないではない。
だが家で男と二人きりという状況で、そんなに近づくのはよくないだろう。いや単に俺が男として意識されていないということの表れだろうか。
ちらりとリンの方を見ると、朱い紐のような小さな口が、笑顔になるのを抑え込もうとピクピクしているのがわかった。
「おい、お前な。もうちょっと、なんていうか、隠せよな」
リンはソファに背中を預けると、「ばれた?」と悪びれもせずに笑った。
「だから、もうちょっと隠せっつの」
つい一緒になって顔がにやけそうになる。俺も同じようにソファに全体重を預け、天井を仰いだ。ふーっと深く息を吐き、いつもの自分を取り戻す。
「だって、ヤマトだけ先に大学生になるとか、悲しすぎるじゃん」
「俺だけって、この世の大概の高校三年生は俺たちより先に大学生になるぞ。お前の友達もみんな受かったんだろ?」
「けっ、あんな奴ら、もう友達じゃないやい」
そう言いながら、両手を上げて、唇を尖らせた。
日の光が溢れんばかりに差し込み、部屋は電気をつける必要もないほどに明るい。どこかで鳥が鳴いているのが聞こえてきて、のどかなひと時に俺の心はすーっと浄化されていった。
いつも通りのけろりとしたリンを見ていると、何だか受験に失敗したことくらい何でもないことのように思えてくるから不思議だ。もちろんリンにはそんなつもりないのだろうけれど。
「薄い友情だな。別に大学生と浪人生って暇人同士なんだから、会おうと思えばちょくちょく会えるだろ?」
俺は足に力を込めて立ち上がり、ずり下がったメガネを持ち上げた。空になった二つのマグカップを持って流しに向かう。洗い物を手伝うつもりもないくせにリンはのそのそと台所についてきた。
「バカなこと言うもんじゃないよお兄さん。一方はバラ色のキャンパスライフを謳歌する華の女子大生、もう片方は勉強漬けの芋臭い毎日を送るニート。友情なんて成り立つわけないじゃん」
「それはたしかに否定できねーな」
浪人生とは学生でなければ社会人でもない。いわば金のかかるニートだ。そして、対等でない相手との友情はいつもどこかが歪んでいる。
「合格通知が届いた瞬間、あいつらと私たちの道は二度と交わらないものとなってしまったのだよ」
「俺もお前との縁は今年で切っておきたかったよ」
泡と一緒に余計な感情をシンクへと流す。リンの天真爛漫さは俺にとって、容量用法を間違えると痛い目を見る劇薬だ。
「またまたぁ。あたしが一緒でよかったって思ってるくせに。一緒に勉強頑張ろうね」
ぽんぽんと俺の背中を叩く、小さな手。自然に触れられたその手のせいで、つい心が緩みそうになって、強く奥歯を噛み締めた。
「勉強は一人でやるもんだろ。お互い二浪なんて金銭的にも精神的にもできるわけないんだから、今年は真面目に勉強するぞ」
「いや、ほんと。もう一回浪人したら、まじあたし口減らしのために殺されるわ。ヘンゼルとグレーテルだわ」
「俺もお前と一緒にもう一回浪人なんて決まったら精神が崩壊する自信がある」
「大丈夫、ヤマトもうだいぶ崩壊してっから。一周まわってまともになるかもよ」
リンの軽口を流し、俺は脳内でこの後スケジュールを考え始めた。
――親に連絡。学校に行って挨拶。それから予備校のパンフレットをもらって、これからの予定をチェックをして……。
メンタルに刺さるタスクが山積みだが、後に回せばそのぶん気が重くなるのは目に見えていた。
これからの一年を考えると、すぐ黒い影が自分の肩に手をかける。俺はそれを振り払おうと、にっと笑ってリンを見つめた。
「なんじゃこいつ? 気持ち悪いな」と言わんばかりの顔をされたが、気にしない。
大丈夫だ。覚悟はできていた。
入試当日の手ごたえで、不合格なことはわかっていた。今日の結果がダメだったら、浪人することも前から決めていた。わかっていたから、リンに来てもらったのだ。「一緒に合格発表を見てほしい」なんて、ガラにもないことを言って。
俺は手を拭き、スマホを手に取って洗面所へ向かった。きちんとリビングの戸を閉める。まずは父親に連絡だ。
出てくれなければいいのに……。心の底で、そんなことを考えていたからだろうか。二度目の呼び出し音が鳴り出す前に電話はつながった。
「もしもし。ごめん。落ちてたわ。浪人させて下さい」
矢継ぎ早に話す俺の分まで間をとるように、父さんはゆっくりと話した。
「そうか。……残念だったな。……気にするな、また頑張れ」
途切れ途切れに言葉を選びながら喋るその声が。普段は人の気持ちに疎い父に、気を遣わせているという事実が。自分の置かれている状況を嫌でも認識させた。
――俺はダメだったのだ、と。
しばらくのあいだ、意味もなく冷蔵庫の中を整理していたら、リンがまるで隠居した爺さんのように穏やかな表情で窓の外を見つめながら、ぽつりと言った。
「浪人したらさ、働き始めるの一年遅くなるよね? なんかお得じゃない?」
彼女の天真爛漫を通り越して脳みそ空っぽな発言に、俺は呆れて言葉も出なかった。冷蔵庫のドアを勢いよく閉めてリビングへ向かう。
相変わらず気だるそうに外を眺めているリンに少しだけ腹が立ち始めていた。
「お前なあ。じゃあずっと浪人してればいいだろ」
思ったより機嫌の悪い声が出てしまい、少し焦る。
これじゃあ完全に八つ当たりだった。
「いや、さすがにそれは。女子高生じゃなくなっちゃったんだからさ。早めに女子大生の称号を頂かないと」
リンはいつもの調子でそう言って、笑った。きっと気づかないフリをしてくれたのだろう。ますます自分が嫌いになりそうだった。
「だよな。大事だよ、所属があるって」
気まずさを誤魔化そうと、俺は意味もなく腕を伸ばしたり、屈伸をしたりした。
「準備運動? いいね。じゃあほら、さっさと行くよ」
リンは勢いよくソファから立ち上がった。
「どこに?」
「学校に決まってるでしょ。挨拶」
そう言って彼女は親指でぐっと玄関を指さす。俺は、やっぱりまだ少しだけ苛立っていたらしく、素直に「ありがとう」とも「一緒に来てほしい」とも言うことができなかった。
幼稚園の頃からの幼馴染とはいえ俺はこいつに少し、甘えすぎているのかもしれない。