只者ではない
俺たちがあの中庭でお弁当を食べてから何日か経った後のある日の朝。
今までの努力もひと段落して、元に戻した7時のアラームで目覚めてリビングに降りると、いつもは通学鞄の隣に置いてあるはずのお弁当が見当たらなかった。アレ、返すの忘れてたっけ!?とも思ったが、俺は祥子ではないのでそんな凡ミスは犯さない。
「あれ?今日のお弁当は?」
「あらら、忘れちゃった~~」
「せめてもうちょい演技してよ……。棒読みすぎるよ……。」
俺の母親がそんな祥子みたいなことをするわけがないので、まあ、どうみても祥子がお弁当を作ってくれたってことなんだろうけど。
ここで一つ問題がある。
俺の分のお弁当を作るの、いくらなんでも早すぎないか?
俺は祥子の分のお弁当を作るために3週間ぐらいかかったし、なんならそれでも割と要領のいい方だと思ってたのに、たったの数日で、俺と同じレベルまでたどり着くっていくら何でも早すぎる。
もしかしたら一周回って「義明の為に作りたいのに義明の好みわかんねぇ……そうだ!本人に食べてもらって判断した方が早くね!?」って考えに辿り着いたのかもしれんが、だったらだったでせめて予告なり何なりして、俺に心の準備というものを先にさせて欲しい。あとついでに悶死する準備も。これが終活ですか。
お母さん、逝ってきます……!!
まるで戦場に出陣する学生のように、心の中で母親に敬礼をしながら家を出る。流石に不謹慎すぎた。
玄関の呼び鈴を鳴らして、祥子が出てくる。
口には出さないものの、やっぱり俺のためにお弁当を作ってくれたのは間違いないようで、両手を忙しなく動かしてソワソワしてる。かわいい。抱きしめたい。
もっと正確に言えば、抱きしめてその良い匂いを堪能した後で『ちょ、ちょっと、なんで朝から硬くしてんの……』と満更でもなさそうに頬を赤らめた祥子に小声で問い詰められたいな……と童貞丸出しの妄想をしたところで、そういえば俺たちってキスどころかハグも全然していなかったよなということに気づいた。
つまり俺たちは恋のABCのAすら未だに踏めてない状態なんだが、このことをスプラトゥーンになぞってS+って呼んでたクラスメイトの呼び名を使わせてもらうことにする。俺たちはS+のカップルだ!!……ダサいな。
ちなみに、昔の祥吾はABCのBをちくBの事だと10年もの間本気で勘違いしていたらしい。正確にはBはベッティング(要は前戯)っていう意味らしく、それは俺も知らなかったんだが、せめてボディタッチとか、そういう感じで間違えろよ。そんなニッチなところにBが入るわけねーだろ。
「よーっす、逝こうぜ」
「ん、うん?イントネーションおかしくない?」
おかしくないだろ。お料理を初めてまだ4日だぞ。
俺ならまだ『切れ味の悪い包丁でニンジンを切るのがこんなに難しかったのか……っ!』と衝撃を覚えている頃だぞ。
流石にネタだとは思うが、もしかしたら食品に似た何かを食わされる覚悟も一応しておくことにする。
まあ何でそんな事をする必要があるのかと問われれば、多分お弁当の調べものをするついでにネットのメシマズ嫁レビューをついうっかり見てしまった俺が悪いんだけど。
なんであんなに具体的にマズイ飯の描写してくんだよ容易に想像できちまうだろ。アレを見たのが寝る直前で本当に良かった。
もし夕食直後にあのサイトを見てたらそのおぞましさに14年ぶり2度目のリバースを決めていたかもしれない。
気持ち悪くて吐きたいけど吐けない時はあのサイトを見れば一瞬で吐けるに違いないと、俺の脳にまた一ついらない記憶が焼き付いた日だった。
まあそして、いつもみたいに、違うか、いつも以上に二やついている祥子と並んで帰り道を帰っているわけなんだが。
結論から言う。
祥子のお弁当には、俺の危惧したような食品に似た暗黒物質はなかったし、もっと言えば普通に美味かった。
やっぱり母親熟練度が違うから、出汁の味とか塩味の加減とかに多少のばらつきはあったものの、料理を初めて一週間とは思えない程には実によく出来ていたと思う。
だからこそ、だからこそ。
「祥子さぁ……なんだいあのメニューは??」
「えー、美味しかったんでしょ?」
確かに俺は、昼休みの終わりに「美味しかった」と一言だけ言って祥子にお弁当箱を返した。
愛情や感動と共に、ありったけの皮肉を込めて。
そうでもしないと、このツッコミたい気持ちを抑えられそうになかったから。
祥子だってその真意が分からない程アホじゃないが、その皮肉を理解した上であえてすっとぼけてくるくらいには常識人でもない。
「確かに美味しかったよ!?
美味しかったけどさぁ……
なんで精のつくものしか入れてねーんだよ!!!!!!!!!」
「あー、バレた?」
「レバーやウナギだけならともかく、山芋が見えた瞬間の俺の気持ちが分かるか?
愛妻弁当を期待してたらネタに全振りした弁当が出てきた俺の気持ちが分かるか!?」
朝から多少は浮かれてた俺もまあ確かに悪い。
祥子が本気で料理に取り組んでくれたのに、冗談めかして毒物ガ―とか言ってた俺も、そりゃあ悪かったと思うよ。
に、してもだ。
まさかこんな形で俺の斜め上を越してくるとは思ってもみなかったし、思いたくもなかった。
「悪かったってゴメンゴメンだから首根っこを掴むのはやめてぇぇぇぇ」
制服の首根っこを掴んでガンガン頭を揺らしてやる。どうみても女の子には一生しないような乱雑な対応だが、あら不思議!祥子にはやっても許される!
「わ、私だって、そりゃあネタに走った部分だって大いにあるけど。
……でも、多少はあのお弁当に本心だって隠してあるんだよ?」
「え、それって……」
今までにない程顔を真っ赤にしながら、俺の横で、俺にしか聞こえない程の声で小さく泣きじゃくるように呟く。何故かは分からないが、マズイ!と脳が思いっきり警鐘を鳴らす気がした。
「義明がどう思ってるかはわからないけど、私はそういうこともやぶさかでないっていうか、むしろ義明の方から襲われた……っ、いやなんでもない」
祥子が自分の欲望を惜しげもなく晒した瞬間に、さっきまで親友とバカな話をしていたはずの俺たちの空気は一変した。
祥子の感じる顔やエッチによがり狂う顔なんかは今までに何度も妄想したことがあるが、羞恥をこらえるようなその顔は俺の妄想上の祥子より何倍も魅力的に見えた。ブンブンとその顔を振り回して今の言葉を否定しようとすればするほどその言葉の真実味が増していくことに、彼女は気づいているのだろうか。
あと一歩二歩程近づけばその身体に手が届くという絶妙な距離を保ったままでそよ風が吹くと、まるで祥子の吐息や身体から発せられる匂いが風に乗ってこっちに甘い香りを届けてくれるような錯覚に陥る。2か月前は鼻で笑っていたはずの冗談みたいな状況を目の前にして、俺たちはその場から足をどうしても動かせずにいた。
「……むしろ、義明は、したいの?」
子どもが親におもちゃをねだるような純真さで、あまりにも淫靡なお誘いが突如として飛んできた。どこまでも魅力的なその提案に喉が鳴る。
祥子から発せられる甘い熱に当てられるように、もしここで欲望のままに『したい!』と強く言えたなら、どれだけ楽だっただろうか。
だけど、祥子が本心から答えてくれたのに、俺が本心を返さないのは、例え祥子が許したとしても自分自身がどうしても許せなかった。
「……そりゃ、俺だってしたいよ。
したいけど、こんな風に楽しんでる今も大切だから。
もしかしたら、今までの関係に戻れないのかもしれないって、心のどっかで考えてしまうんだ。
……それ以上を乗り越えてきた俺たちがその程度で変わるわけないって、分かり切ってるのにな。
結局俺は、ぬるま湯にいつまでも浸かっていたいだけの甘ったれたガキだよ」
自分で分かっていたことではあったが、こうして言葉に発してみると改めて自分の情けなさを痛感せずにはいられない。
そのくせ身体は本能のままに祥子を求めようとしたままなのが、今の俺のみっともなさを象徴していて思わず自己嫌悪に陥ってしまう。自分の本能に拒否反応を起こしたのなんてこれが初めてかもしれない。
それでも、祥子には分かる。分かってしまう。いや、分からないはずがない。
言葉の上では延々と逃げているはずの俺が、本当は今でも祥子を求めたいと思っていることも。
俺が、その卑怯の塊みたいな、面倒くさい男だってことも。
「義明のヘタレ、意気地なし。
……学校で時々感じるエロい視線とか、結構分かるんだからね?」
「ぐっ……すんませんでした」
俺に背けたはずの顔を動かして、少しだけ見えた横顔からジト目が飛んでくる。その通り過ぎてぐうの音も出ない。
「いや、まあ、私がもし逆の立場だったら絶対そうしてたと思うし、別にいいんだけどさ……
ちなみに、どんなこと考えてたの?」
「そりゃあ、まあ、その……」
これ以上、この話題を広げるのは危険だ。
今ならまだ、今までの二人でいられる。今までの、親友の延長線上でいられる。
だから、今ならまだ引き返せる。
だけど、同時に知りたくもある。
祥子が、どんな風にエロいことを妄想してたのか。
普段のアホなやり取りで流れる穏やかな空気とも、恋人になった時やこの間一緒に寝た時に感じた甘酸っぱい空気とも違う、情欲的な空気が二人の間に渦巻き始めた。いつもは耳に入ってくるはずの子どもたちの遊び声や、公園の宿り木に止まっている小鳥の鳴き声が、今だけは酷く遠くに聞こえる。
もし今の俺にこの夕焼けと長く伸びた日陰が見えていなかったなら、今が何時くらいなのかも理解できなかったかもしれないと考えてしまう程には、目の前の恋人から発せられるその仕草や声に、俺の身体中の神経が怖い程に集中していた。
「なんで祥子の制服姿はこんなにエロく見えるんだろうなぁとか、体育の後に感じる制汗剤の良い匂いとか、あとは驚いたときの『ひゃっ!?』っていう声とか……ぶっちゃけ割とオカズにしてたよ」
「……っ、そ、そうなんだ。
そ、そこまで具体的に言われるとは思ってなかったなぁ……あはは」
額に汗を浮かべながら、乾いた笑いで祥子が応える。
それは「やめろ」のサインなのか、それとも「やめなくてもいいよ」のサインなのか。
普段と変わらないその笑い声と俺の嗜虐心を誘ってくるようなその怯えにも似た目はどう見ても釣り合っていなかった。ある種気味が悪い程にアンバランスな祥子の表情に、彼女の官能が高まった姿の片鱗を感じてひどく興奮する。もしも本当に俺が祥子を襲ったとしたら、どんな風な顔をして俺を悦ばせてくれるのだろう……。と考えるだけでも思わず鳥肌が立った。
「……そういう祥子は?どうなの?」
「わ、私?」
不自然にヒクつく笑みを全力で抑えながら語り掛けた声は思わず上ずってしまった。
押すなと言われたスイッチは押したらダメだと分かっていてもつい押したくなるように、その善悪の境界線が少しずつ曖昧になってくるのを感じる。
あと一歩だけなら大丈夫、あと一歩だけなら……。
お互いがそんなことを考えていたら、その超えちゃいけない一線に二倍の速さで近づいてしまうことにすら、今の俺たちには気づけない。
どの道祥子から振ってきた話題なんだ、祥子の気が済むまで付き合ってあげるしかないか……という逃げ道を用意しておくのは俺の悪い癖だが、今回ばかりはその悪癖を利用せずにはいられなかった。
「わ、私は……、もし義明が告白の時に勢いで襲ってきてたら、とか、一緒に買い物に行ったときに私の服装に興奮しちゃったらどうしよう、とか……
あるいはもし今ここで、義明に襲われちゃったら、とか……っ考えたら、なんだかたまらなくてっ……」
「っ!!」
俺の予想を遥かに超えた祥子の返答で、淡い桃色のようだった雰囲気に一瞬にして濃い色が付いた。俺が言えと命令したわけでもないのに、どこまでも素直に下心を曝け出してくれるその健気さにクラッとくる。春の夕焼けには不釣り合いなほどに火照った身体がその熱さを逃がそうとして全身から汗が噴き出るのを感じながら、どうしてこの女を未だに抱いていなかったのか自分でも不思議に思った。
祥子も俺もただただ妄想を述べているだけなのに、お互いのことをもっとよく知りたいという欲望が湧き続けて止まない。『な~んてね、冗談だよ』と茶化せる期限はもうとっくに過ぎてしまったことを、いつの間にか額にもこびり付いていた汗でなんとなく感じ取った。
「……へえ、そうなんだ。」
熱に浮かされた脳は正常な判断能力を失っていて、自分でも知らなかった悪戯心が次々に溢れ出してくる。
「……じゃあ、今夜もシコったりするのか?
だったら手伝ってやるよ、その方が気持ちいいだろ?」
熱に浮かされたままの会話は、ひどく現実離れしていて真実味がまるでない。理性は保っているはずなのに喋っている内容は肉欲にまみれていて、まるで夢の中で会話しているような錯覚さえ感じる。少なくとも今だけは、世の中の常識とか俺たちのルールなんていう規則は存在しなかった。
「……っ、す、するんじゃあないかな?
面白いね、へ、ヘタレならやってみてよ。どうせ言葉だけで、出来っこないんでしょ?」
いつものちょっかいというには済まされない、度を越した誘惑に身体がグッと揺れ動く。
誘うような口ぶりでありながら、その挑発に俺が乗ることをひどく期待して瞳を濡らしているのがたまらない。
「……今のお前の顔を見て、出来ないわけないだろ」
ちっぽけなプライドが壊れるのを感じながら、それ以上に膨らんだ今夜への期待を収められずに掠れた声で囁いた。
手を伸ばせば、その身体を抱き寄せられる。今すぐに、その身体をモノにできる。
そんなギリギリの間隔を空けながら、妖しい雰囲気のままで歩みを進めて、結局一度もその身体には触らずに祥子と別れた。『じゃあ、また後で』と視線だけで通じ合う。口に出せないわだかまりが更に膨れ上がった気がした。
家に帰ってから、夕飯を食べている時も、お風呂に入っている時も、自分でも驚くほどに無心だった。
期待で情欲が加速するとか、あるいは興奮しすぎて一度抜くとか、そんな風にはならねえんだな~と、むしろ冷静に自己分析が出来る程には落ち着いていた。
まるで賢者モードになったような落ち着きぶりで、浮つかせたままの身体を動かして祥子の部屋に向かう。
カーテン越しにも明かりがついたままなのは分かっているので、コンコン、と窓をたたいて祥子を呼ぶが返事が返ってこない。不審に思いながらも試しに窓を開けようとしたら何故か開いてしまった。隣の寝室の明かりは既に消えていたので、祥子の両親を起こさないようにしないと……と、状況にあっているのかあってないのか分からないような心配をしながら祥子の部屋に入った。
これから乱れようというのに、祥子の部屋の匂いはまるでアロマを焚いているかのように甘く優しい香りがして、身体は興奮したままで心が落ち着いていくのを感じる。
さて、当の本人はと探すと、そのベットの真ん中で庇護欲を掻き立てるような愛くるしい寝顔をしながら堂々と寝ていた。布団からはみ出た左手が重力に従ってだら~んと垂れているアホっぽさ加減が絶妙に祥子っぽくて思わずにやけてしまう。
とりあえず窓を閉めて『すぅ…すぅ…』と聞こえてくる可愛らしい寝息が本人のものであることを確認して、俺はこの状況に思わずため息をついた。
寝ていた。
寝てる。
おおおおおおおい!何してくれとんじゃああああ!!??
この昂りをどうやって解消すれば――というところで、『義明、大好きぃ……』という寝言が聞こえる。
ああもう、なんか。
倫理観とか、初めてが大事にしたいとか、どうでもいいや。
目の前に襲いたい女がいる、だから襲う。それだけか。
至極単純な思考回路だけを脳に残しながら、俺は添い寝をするように布団に潜り込んで、その肩へと手を伸ばした。
疲れました。最後も多分改稿してもう少しねっとりと書き直しますが、本当に疲れたので一旦乗せときます。
間違えてパンツを脱いでしまった方がいらっしゃればR18要素にも(別枠で)挑戦しようと思います。




