抑制の逆効果
感染性自制機能障害のワクチン接種を、何とか指定期限内に終えた彼は、しかし明らかに不機嫌だった。
もっとも、不機嫌になるからこの注射を嫌い、指定期限間際で打つはめになったともいえる。何せ、この欲求を押さえきれなくなるという奇病に対するワクチンは、打たれた人間に強い不快感を与えるものであるからだ。注射中には、頭の中には何かが侵入する異物感と、頭が膨れるような圧迫感に襲われ、注射後には妙に過敏になる神経に悩まされることになる。実際彼は、普段なら聞き流せるであろう医師のてきとうな念押しや注意事項の確認に、かなりの苛立ちを感じていた。しかしそういった感情を行動に表すことは、ワクチン注射によって阻まれた。このワクチン注射は自制薬とも呼ばれ、病気を予防する効果以外にも、接種者の自制機能を増強する働きも担っているのである。
彼は結局、見るからにやる気なさげな医師に不満を吐きだすことなく、てきとうな礼を言って診察室を出た。けれども不機嫌が治ったわけではない。廊下から受付へ向かう彼の心は、相変わらず不満で一杯だった。そもそも、実在すら怪しい病気のワクチンを、こんな遠方までわざわざやってきて、高校生の身分からすれば高すぎる金額払ってまで、なぜしなければならないのか。彼は広く世間で言われていることを改めて思った。そもそもこれが流行ったのは、彼の祖父母の世代と彼は聞いている。それから一年どころかひと月もしないうちにワクチンが作られ、以後国は接種を義務化したままだという。しかしこの病気の存在を証明する患者は全て隔離されており、その施設や過去の感染者の映像などはまったくない。感染すると獣のごとくなって暴れまわるという話だが、疑わしいところである。
もっとも、彼がどれほど愚痴を言っても仕方ないことだ。義務は果たさないと面倒なことになるし、それに打たずに万が一かかってしまったらという恐怖もある。彼自身それをよく知っているから、とりあえず嘆息に全て乗せて吐き出して、ともかく受付の待ち合い所へ向かった。幸いに空いていたそこの椅子の端に、少し乱暴に腰を下ろす。それから暇潰しのために持ってきた小説を取り出そうとして、ふと、隣の椅子にも本があることに気付いた。裏表紙が上を向いており、そこにはどこかの名前とバーコードが付いている。図書館の本のようだ。彼はてきとうにそれを一瞥して、小説を読み始めた。おそらくはだれかの忘れものだろうが、彼はその本に特に興味はなかったし、少しやさぐれていた彼の心は、見知らぬ誰かの失態に軽く冷笑するばかりだった。それよりも彼は、自身の読書の方がよっぽど重要だった。病院特有の香りと、小さな話声の聞こえる待ち合い所は、神経がむやみに敏感になった彼でも、十分に落ち着くことができる空間だった。彼は読書に没頭した。
しばらくすると、ふと隣に人の気配を感じた。本がある側とは逆の方だった。ちょうど集中が切れてきていた彼は、数秒してもその気配が動かないことから、隣にある本をとりに来たのかもしれないと思い、一旦自分の本を閉じて隣にあった本を手にとり、その人の方を見た。
彼は絶句した。
目の前にいたのは、驚くほどの美少女だった。
黒く美しい、流れるような長い髪。きらきらと輝くような、黒く光る澄んだ瞳。幼さの残る可愛らしい顔立ちに、女性的な曲線をバランスよくつけたすらりとした体躯。四肢はほっそりと精巧で、指先もなんともきれいな形をしていた。
そしてなにより特筆すべきは、彼女が放つその不思議な感覚だった。彼はなんだか、心の中にある未知の器官を刺激されたような気がした。それはあまりに曖昧でいいかげんな感覚ではあったけれど、自分の中に彼女へ対する何かしらの心動があったように思えた。彼は彼女を見上げたままの不格好な姿で固まって、彼女の真赤に染まって彼をじっと見つめている様を眺めた。二人何もせずに固まっている状況が、しばらく続いた。
唐突に、彼は名前を呼ばれた。
彼はびくりと反応した。それに影響されたかのように彼女も体を震わせ、混乱する彼が意味なく急いで渡した本をようやく受け取った。慌てて彼から離れる彼女。それを尻目に、彼もまったく不必要に慌てた様子で、受付まで小走りで行った。彼は頬を一層上気させながら、受付の婦人から言われた値段を払った。その間、多分に落ち着かない気分でそっと後ろを盗み見た。けれど、先ほど彼がいた席の辺りには、今はもう誰もいなかった。彼は落胆して、釣銭をもらい、そのまま病院を出た。
帰りの電車は、いつもよりも気が立たなかったが、代わりに気分は重かった。
ワクチン接種の日から数日が経った。
彼はその数日間のうちに、かの病理にかからなくなった代償とでもいうように、奇妙な症状が発露するようになった。
それはいつも突発的に、それでいて慢性的に起こった。起床、食事、登下校、授業、入浴、就寝。日常生活のありとあらゆる行為をしようとする度に、彼はなんの明確な理由もなく彼女の存在を想起した。つややかな黒髪、宝玉じみた瞳、滑らかな肌、華奢な体、豊かな胸部。それら精巧に作られた部位たちを絶妙に調和させて成り立つ彼女の姿を、彼は脳髄の映像に常時認めた。それは精彩と繊細を欠いており、彼女の特徴的な部位を除いてはほとんど漠とした映像でしかなかったが、しかしたとえ完全な細部まで表現しきらなくとも、幻想の彼女は、現実の彼女を除いて彼の知る何よりも魅力的であった。
彼は当初、この不可解な症状に対して、戸惑いと疑問を持って受け止めた。たしかに彼女は素晴らしかった。たった一目見ただけで、彼の脳裏に焼き付いて離れないくらいには、その溢れる魅力に惹きつけられた。けれども、ほんの些細なことで彼女を連想してしまうのは、事あるごとに彼女を記憶から引き出さずにいられないのは、一体どういうわけなのだろうか。彼はそこまで考えて、真っ先にワクチンの副作用を思いついた。それは当然公表されているものではなかったが、実在しない可能性のある病への対策という無駄かつ不愉快なものへ反抗心のためか、都市伝説ともいえる根も葉もない副作用の存在が、巷ではよく噂になっていた。
彼はささやかでも恐怖を慰めるために、インターネットで調べてみることにした。関連しそうな様々なワードを、何通りも何通りも打ちこんで調べてみた。しかし結果は芳しくなく、少なくとも彼と同じ症状の人間が他にもいるかもしれないということがわかっただけで、原因も治療も不明なままだった。彼はそれでも何とか情報を得ようと、図書館に行ったり知人にそれとなく探りを入れたりしてみたが、どれもめぼしい結果は得られずに、彼はより一層謎の恐怖を感じなければならなかった。
時が経っても彼のおぼろげな不安は拭えなかったが、しかし症状の方はさらに進行した。彼は自制薬によって強化された自制機能で何とかこの空想を押しとどめようと試みた。それによって少々の効果はあったがしかし、所詮は焼け石に水だった。
回数をこなした彼女に対する幻想はより強度を増して、彼の中で次第に実体化していった。彼の脳髄の生み出す幻覚に住む彼女は、あの日見た、頬を紅潮させて立ち尽くすだけの彫像ではなくなった。彼女は彼の空想において、人間らしい表情や動きを取り戻し始めた。見開かれた瞳や整った顔立ちは、表情を豊かに変えてみせた。彼女は小さな口を開けてよく笑い、愛嬌のある目をこすりながらよく泣き、形のいい眉を吊り上げてよく怒り、そして彼女の温和な雰囲気を表すようによく微笑んだ。体もまたそんな表情に合わせて体勢を変えられた。彼女はちょこんと可愛らしく座りこんだり、きれいな腕や足を組んでみたり、元気よく歩いたり走ったり、また彼に対して満面の笑みで手を振ってみせたりもした。そんなとき、彼は無性に手を振り返したくなる気分に駆られることがしばしばあった。
彼女は彼が空想に描く回数を重ねれば重ねるほど、生き生きと存在を充実していった。それに比例して、彼の心にある不安は摩耗し、代わりに彼女への思慕と愛情が彼の心を支配した。彼は彼女の表情に見惚れ、彼女の行動を愛で、彼女の呼びかけに無上の喜びを覚えた。彼はいつしか、彼女を病の一種でなく、一人の異性として認識していた。彼女はまったく麻薬的であった。彼の、多少ひねくれてはいるものの純粋さの残る根幹に、それは慈雨の甘露のように吸収された。彼女はもはや彼にとって必要不可欠だった。彼は日常的に起こる無意識の想起だけでは飽き足らず、意識的に彼女へ思いを馳せ、自分自身の意思によって、彼女に対する漠としたイメージを加速度的に具体化していった。彼の知り得ぬ彼女のこと、例えば気質や性格、声や生活態度は、彼のもとで具体的に思案された。彼女は彼の思考の迷宮で、大人しさと儚さを持った存在となり、彼に慈愛の目で見られながら、楽しげに家事をこなしたり、学校へ嬉しそうに通ったりと、ささやかで慎ましやかな生活を送った。
概ねはそんなふうに彼女を描いたが、しかし時たま彼は、彼の気まぐれか、あるいはたった一目見ただけの彼女に対する真剣な探求のために、空想を広げて他にも様々な彼女を思い描いてみたりした。彼は彼女を勝ち気な性格にしたり、無口な気性にしてみたり、卑屈な性根にさせたりした。繊細で病弱であることもあったし、寒気のするほど鬱屈していることもあった。彼はそんなふうに思い思い彼女を思い描きながら、それでも一切傷つかない、彼女という存在の持つ不思議な魅力に酔いしれた。
また、彼は空想だけでなく、夢の中でも彼女と逢瀬を重ねた。夢の中の彼女は、彼の幻想の一つでありながら、普段のそれとは一線を画して、彼自身による操作感を排した存在だった。彼女は彼の予想できない事象を度々行い、それが彼に彼女をより立体的に感じさせた。そのため彼は、彼女の夢を毎回心から喜んだし、彼女もそれに応えるように、彼の予期し得ぬ装束や性格へ、自らを自在に変えて現れた。ある時は無垢な少女に、ある時は婀娜な妖婦に、ある時は神秘な精霊に。囁くような声で、溌剌としたものいいで、甘えるような声色で。しなだれかかるような、走り回るような、じっと静かに佇むような。辛辣でいて温和、妖艶でいて清楚、神聖にして淫堕。その時々に異なる魅力と雰囲気を用いて、彼女は彼を誘惑した。彼はその誘惑に一も二もなく応じて、ただ夢中で彼女と戯れた。
夢と空想と彼女。彼はそれらに没頭した。彼の現在過ごしている生活の大半は、この三要素によって、いや、彼女という存在に対してのみ費やされていると言ってもよかった。そして彼はそのことに、一切の疑問を抱かなかった。どころか、彼女への思考時間がまだ少ないとすら思っていた。それほどまでに彼女は彼に深く入り込んで、彼もそれに抵抗しなかった。当分はそれで、彼は満ち足りていた。
しかし、数日経つと事情が変わった。
彼はやがて、深い虚無感に苛まれ始めた。
彼が彼女を空想するごとに彼女は人間的になり、彼女が人間的になるほどに、彼女は現実的な魅力を高める。その連鎖が、空想の彼女を実際の彼女へ、少しずつ近付けていった。実際の彼女を決して超えることはなかったが、空想の彼女もまた、十分に彼女特有の魅力を放つようになった。
けれどもそんな彼女は、決して空想から抜け出して現実になりはしなかった。彼は、彼女が頭脳で人間的な行為をする度に、彼女に触れ得ぬ事実を痛いほどに自覚しなければならなかった。彼はその対応策として、空想上の彼女の隣に同じく空想上の自分を立たせてみたが、それはあまりに逆効果だった。彼は想像の中で彼女に触れたし、会話をしたし、見つめ合ったりもした。精神はそれでわずかばかりは充足した。けれども彼の感覚は、より一層の飢えを感じさせられた。触覚や嗅覚や聴覚は実質的な、確実な存在を強く求めたし、ともすれば幻覚で十分に満足していたはずの視覚ですら、本当の彼女を切望した。彼はそんな痛々しいほどの請願を心から理解していながら、すべて無視する他どうしようもなかった。彼は彼女について、あの可憐な外見を除いて一切の知識を持ち得なかった。否、その外見すら、過度の空想で飽和して摩耗して、そもそも彼女が現実に存在することさえ、もはや定かではないように思えた。当然彼女の所在地などわかるはずもない。
彼は彼女に会えない。
たったそれだけの、シンプルな真実の鋭さと残虐さは、もはや筆舌に尽くしがたいものだった。彼はあまりの苦痛に耐えきれず、何度も彼女に対する夢想を振りほどこうとした。自制薬が打ってあるという事実も、このときばかりは彼を味方した。けれど、味方はすれども役には立たない。そもそも彼女は、切り離すにはすでに彼と同一化しすぎていた。記憶から消すことはもちろん、彼女への自覚的な空想さえ、ふとした拍子に彼は行っていた。時間がある時には彼女と出会い、はっと気付いて喪失感に責められる。そんなことが延々と、休むことなく繰り返される。この残酷な車輪が回るほど、彼の精神はどんどんすり減っていった。
策を考え抜いた彼は、彼女との繋がりを断つために、なるべく他の事象で思考を埋めることを思いついた。彼は即座に行動を開始した。おろそかだった勉学に集中し、普段やりもしないトレーニングを開始し、積極的に家事などを手伝った。根拠のない行き当たりの策であったが、効果はあった。幸いにして、何かに集中している時だけ、彼は彼女を忘却できた。彼はそれ故ひたすら何かに打ち込んで、積極的に彼女と離れようとした。けれども彼の精神が、その急激な負荷に耐えられるはずもない。彼が集中できるのはごくわずかな時間だけだった。それを過ぎると、拘束が剥がれたように一気に心が彼女で満たされた。彼はその時が来る度に、敗北感と不甲斐なさとが入り混じる複雑な幸福に流されてしまうのだった。
その日も彼は、集中力を一つの事柄に束ねて、彼女に注がれぬようにした。今日帰宅途中の彼の頭を一杯にしたのは、つい先ほど習った世界史の語句たちであった。グラックス兄弟、スパルタクス、マリウスとスラ、三頭政治。彼はそれらの語句を、彼女のために培った空想力で描いたローマの風景に馴染ませ、記憶に刻み込もうと努めた。しかしそんな努力は、不意に浮かんだカエサルという名詞によって打ち切られた。彼はその英雄の名を想起するのと同じくして、ある逸話をも無意識に引き出した。
彼はふと、思考が言語の海から飛び去って、古代エジプト風の大広間へと降り立つのを感じた。広間には、資料の像とそっくりのカエサルが手持無沙汰に立っていた。
どこからか足音がした。そちらを見ると、数名の奴隷が一巻きの絨毯を持って、こちらにやってくるようだった。彼はその絨毯を見て、一目で何かしらの予感を感じたが、しかし彼はもう止められなかった。表現し得ぬ魅力を内包した絨毯は、英雄から離れたところに置かれた。いぶかしむ英雄をよそに、奴隷たちは足早に立ち去った。豪奢な扉が音を立てて閉められる。すると、それが合図であったかのように、絨毯が一人でに転がり始めた。カエサルはそれに警戒して身構えるが、しかしその中から現れたものを見て、即座に全身の動きを止めた。
絨毯の中から現れたのは、一人の少女だった。エジプトの装飾を身につけ、香るような美を発する、途方もなく魅力的な少女。彼は慌ててカエサルを自分の姿に差し替えて、ゆったりと立ちあがった彼女をじっと眺めた。異邦の衣をまとった彼女は、いつにも増して艶かしく蟲惑的だった。体の描く曲線、細くしなやかな四肢、熱っぽく潤んだ瞳。息苦しかったせいか、紅く上気した頬が扇情的な衣装と相まって、ぞくりとするほど感情をかきたてた。彼は今にも抱きつきたい欲望を押さえながら、彼女へゆっくり、割れものを触るように慎重に手を伸ばした。彼女は柔らかく微笑んで、その手をとった。滑らかな感触が彼をより興奮させた。彼はその手を引いて彼女を胸に抱きとめた。彼女は黙って受け入れ、さらに彼の背へ手をまわした。彼は有頂天になった。すぐに自身も手を彼女の体へまわして、彼女と真っ直ぐに見つめ合った。煌めく黒目が彼を射抜いて、直接に魅力を送り込んだ。彼はその媚薬を喜んで飲み干し、そのまま彼女の唇へ――
けたたましい音が鳴った。
彼ははっとして、続いていたらしい足の運動を止めた。直後に下ろされる、黄と黒の遮断機。いつの間にか目の前に立っていた、背の高い柱。赤い両目が交互に光り、右向きの矢印が点滅している。彼はそれを見て、ようやく現状を把握するとともに、我に返って表情を悲痛に歪めた。彼はまた、ここ最近と同じ後悔と反省をせずにはいられなかった。体に残る柔らかな肢体の錯覚が、彼を一層惨めにした。
湿って陰気な暗闇が、どんよりと彼の心を覆った。黒い雲が立ち込める果てのない広大な海で、一人取り残された気分だった。彼は自虐的に嘆息し、気付かぬうちにやってきたらしい電車を眺めながら、その悩みない姿に心底嫉妬した。
彼は自転車を降りた。自分の現実をはっきりさせたい気分だった。彼は地面の感触を確かめ、頭を軽く振って、辺りを見回した。人のいない閑静な一帯は、彼の記憶にない場所だった。どうやら帰路から離れてしまったらしい。彼はまた嘆息した。自分の不注意に怒りを湧かせる気力は、もうなかった。
電車が完全に過ぎ、少し遅れて音が止んだ。はたして家の方向はどこだろうか。彼は静かになった踏切を、弱々しい足取りで進もうとした。
途端に彼は、再び幻覚に襲われた。
線路の向こうに、見慣れた姿が立っていた。黒い髪に黒い瞳、線の細い体躯に精巧な四肢。黒を基調とした、品のいい制服じみた服を着て、彼女は少し呆けた顔で立っていた。
彼は戸惑った。心臓が跳ね上がり、体が震えた。視界の中の彼女は、何だか今までの幻覚とは異なる質のようだった。その隅々まで補正された体もそうだが、なにより初対面の時と同じく、自意識のどこかにある不可視の器官が、過剰に反応しているふうに感じられた。心は早くも歓喜と感動に溢れ、彼の心を満たし始めた。
しかし彼は彼女を真実在と認めたわけではなかった。彼の意識は頑として彼女を幻覚だと断じ、その証拠として彼女と出会った場所を持ちだした。あの場所には県内県外問わず多くの人間がやってくる。であるのに、そこで会った一人が偶然同じような場所にいるのは、一体どれほど有り得ないことか。脳内の自制薬も今回ばかりは手伝って、彼は彼女の幻覚を見るまいと、俯いて歩き始めた。自転車に乗り直すのは面倒だったし、そんな手間をかけるよりも速く進んでここから去りたかった。彼はふらふらとした調子で足を交互に差し出し、線路を手早く越えようとした。
声がかけられた。
彼は驚き、首が飛びそうな勢いで顔を上げた。
彼女が視界に、頬を染めて立っていた。
帰宅早々、彼は勢いよくベッドに飛び込んだ。そうしなければいられない気分だった。しばらく滑らかなシーツの感触を堪能して、それから何か堪え切れない様子でばたばたと大きく暴れた。至福の笑みでごろごろと転がり、歓喜の表情でどたどたとベッドを叩いたり蹴ったりした。
現実の彼女は、彼の最上の妄想にも軽く打ち勝つほどに魅力的だった。彼女の鮮明な姿や声、態度、雰囲気など、彼が完全に知り得ず補完していた所所は、彼の想像をはるかに超えて完勝した。彼は自らの想像力を恥じながらも、彼女の生粋の美に感嘆せざるを得なかった。彼は彼女の髪が揺れる度、服が風にはためく度、まぶたや口が開閉し四肢が動き表情がくるくると変わる度、彼女の繊細さや秀逸さ、美麗さに心を奪われた。
結局彼女とは少しばかり会話をし、少ない距離を歩いただけなのだが、彼にはそれで十分すぎるくらいだった。いないと思っていたものがいた。いてほしいと思ったものがいた。ずっと話したいと、触れたいと望んでいた人にめぐり会えた。彼は、夢が叶った興奮と理想が具現化した幸福に、多分に酔いしれた。
そんな収まりがつかない心中にも構わず、先ほどの彼女との記憶が、彼の脳内に延々と映され、さらに彼の心を振りまわした。彼は頭の中のそれらを眺めるたび、彼は幸せそうな笑みを一層深めた。それから彼は、彼女との会話に集中した。彼女との話は、短い故にわずかではあるけれど、彼女の情報を彼に伝えてくれた。彼女の通っている学校の名前や、彼女の家のある辺り。あの時間には、いつも線路の辺りを通るということもわかったし、その話し方からは丁寧で心優しい性格が見てとれた。
無論、それ以外の、たとえば彼女の連絡先などの踏み入った情報は聞けなかったが、彼の満たされた心は、その程度の些事では動じなかった。彼はここ数日でもっとも穏やかな気分だった。今までとのあまりの変わりように、彼自身生まれ変わったような錯覚さえ覚えた。見るものすべてが輝きに満ちて、あらゆるものがあらゆるものを祝福して、彼は自分を含める世界の全てに感謝した。彼の眼に映る世界はどうしようもなく平和だった。彼は彼女の作った平穏に抱かれながら、ひたすらに溢れる幸せを体で表現した。
翌日から、彼の下校路は距離を増した。言うまでもなく彼女に会うためだった。そして彼の目的は、ほとんど毎日達せられた。彼は用事がない限りその道を選び、もし彼女がまだ来ていない時には、彼女が現れるまで待っていた。彼女も彼女で、彼に対して少しは好意があるらしく、彼が少し遅く来る時には、彼女がいつも待っていた。とはいえ、二人が踏切に来る時には、待つ回数より二人同時にやってくる回数の方がずっと多かった。その偶然の一致に彼はある種の運命を感じる一方、彼女が自分を待ってくれるという事実や、彼への態度や表情や素振りなどがいかにも好意的に思われて、彼は彼女のことをより強く思わないではいられなかった。
そんな毎日がしばらく続いた。その間に彼は彼女と連絡先を交換したり、休日にどこかへ出かけたりした。彼女のこともよく知ったし、彼自身のことも知ってもらえた。彼は有頂天だった。足された帰宅距離や普段より若干下がった勉学や運動を、彼は歯牙にもかけなかった。もともと少なかった友人関係も気にならなかったし、家族からの妙な視線もどうでもよかった。彼は彼女以外の存在など目に入らなかった。世界は彼と彼女の二人だけだった。そしてそんな世界が永遠に続くことを除けば、彼は他に何も望まなかった。
彼は平穏な心で、至福の日々を過ごしていった。
ある日のことだった。
彼が一刻も早く帰宅しようと学習物の片づけをしていると、クラスメイトの少年に呼び止められた。彼に少しばかり雰囲気が似ているものの、会話した回数など数えるほどしかない、別段親しくもない少年だった。彼は作業を中断せず、苛立ちを込めて面倒そうに答えた。少年は彼の怒気に少し怯んだようだったが、少年にとっても大事な用が彼に関連するらしい、一旦詰まった言葉を無理やり吐き出すようにして、少年は彼に放課後の時間の有無を尋ねた。
彼は即座に無いと断言した。
先ほどよりもずっと明確に怒りを含んだその答えに、少年は今度こそ完全に絶句した。外見的にも気の弱そうなところのある少年だったが、性根もやはり変わらないらしい。少年は怯えを含んだ目と表情で、わかった、邪魔をして悪かった、というような台詞を残して、そそくさと立ち去った。彼は鞄を持ってその背中を軽く一瞥した後、早足で教室を出ようとした。
そこで、彼の端末が振動した。
彼が端末を取り出して見てみると、彼女から連絡がある旨が画面に示されていた。喜びと不安の入り混じった気持ちですぐに内容を検めると、本文には、今日は会えない、というような内容の文が、謝罪とともに至極丁寧かつ申し訳なさそうな様子で書いてあった。
彼はしばらく固まって、それから至極暗い顔で嘆息した。
彼は結局、まだ教室に残っていた少年の話を聞くことにした。それによると、少年は今日、ある事をしようと思っているのだが、それは違法であるため、自分一人では心もとない、どうか一緒についてほしい、というものだった。
彼は違法行為を宣言する少年に呆れ、断ろうとした。そういったことに興味がないわけではないが、行為が露見した場合の彼女との関係を考えれば、答えは必然である。また、少年が違法行為を具体的に教えないことも気にかかった。
しかし少年は思いの外食い下がった。少年が話しかけることができたのが、彼ともう一人のクラスメイトだけだったこともあるかもしれない。人数が少なすぎた。仮に彼を入れても、まだ小心の少年を安心させることはできない人数だったようだ。また、そのクラスメイトも問題であった。彼もよく知らないクラスメイトは、どうでもいいという様子で少年の提案を受け入れていた。違法行為に加担するにはあまりにいいかげんで、首謀者に少なからぬ恐怖を与える態度であった。それ故に、少年の説得には異様な熱が否応なくはいった。少年は何度も、迷惑はかけないとか、絶対にばれないから安心だとか、何かあったら責任をとるとかいう内容を繰り返して彼に言った。彼はそんな言葉を一切真に受けなかったが、しかし少年の語り方から、どうやらその違法行為というのは、飲酒や喫煙に近いものであることを知った。少なくとも、他人を傷つけたりどこかに被害を出したりする内容ではないらしい。彼は少し考えて、その程度なら問題ないだろうと承諾した。最悪彼の力でも何とかなりそうな面子だったのも、その考えを後押しした。
彼とクラスメイトは、早速少年に連れられて少年の家にやってきた。マンションの一室で、部屋は広く、しかしだれもいなかった。二人は部屋に通され、しばらく少年の準備とやらが完了するまで、退屈そうに待った。彼が意外だったのは、少年がパソコンを操作しているということだった。てっきり飲酒などを想像していた彼は、少しだけ警戒した。しかしここで帰るのも後ろ髪引かれる話だった。彼は微妙な心境で少年の準備が終わるのを待った。その間、重苦しい沈黙がクラスメイトとの間に下りた。特に接点があるわけでなかった二人は、あまり耐えられない空気を変えようと、必要に迫られて二言三言話したが、しかし会話はすぐに打ち切られた。話すにはあまりにも互いを知らず、共通しそうな話題もなかった。妙に気まずい雰囲気が漂う中、少年が準備完了の旨を告げた。
彼はクラスメイトとともに、多少の不安と期待を抱きながら画面を覗き込んだ。一般的なものより大きいように見えるディスプレイには、動画再生の画面が浮かんでいた。少年は二人がしっかり画面を見ているのを確認して、開始の言葉を呟き、動画の再生ボタンを押した。
数秒後。
画面には、男女の絡み合う画が映された。
彼は驚愕した。それはまさしくずっと前に禁制化された、いわゆるアダルトビデオだった。自制薬の効能を下げるという理由で禁じられ、実際にこれによって自制障害に陥った人も多いという代物だ。それだけでなく、そもそも高度の自制が可能な現代人においては、完全に不用なものといわれているものでもある。自制薬普及後に、全て廃棄されてしまったと言われている類の珍品だ。
それがなぜ、こんなところに……。彼は思考の片隅でそう思っていたが、しかし大部分はそんな疑問には目もくれず、眼前の景色に完全にのめり込んでいた。男女が互いに絡み合い、組み合い、重なり合う姿は、彼に今まで感じたことのないほど強い刺激と、そして根源的な恐怖と興奮に襲われた。それがまた中毒性を孕んでいて、彼は視線を離せなかった。それを煽るように、液晶の向こうの痴態はより激しさを増していった。前、後ろ、正面、上下。画面の二人は色々に体勢を変えながら、興奮極まった様子で交わり続けた。
彼は強まる心臓の音を聞きながら、熱くなった体でそれに見入った。すると、一瞬、交わる女性の顔が、なぜか彼女の顔に見えた。彼はぎょっとして、慌てて見直した。映っていたのは、やはり彼女とは似ても似つかない女性だった。彼は安堵すると同時に、何か嫌な気分になった。神聖なものが汚された感じがした。けれども彼は、やはりどうしてだか、画面から目を離せなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。動画がようやく終わった頃には、彼は気がおかしくなってしまった錯覚に陥っていた。彼は初めて彼女と女性が重なってからその後、何度もその幻覚を見るはめになった。その度に彼は言いしれぬ不快と不潔とを感じたが、しかしどうしても途中で止められなかった。隣の二人が行動を起こさなかったのもあるかもしれない。彼は結局最後まで、興奮と不愉快と衝撃の入り乱れた気分で動画を見続けてしまった。よほど刺激が強かったのか、頭がこれ以上ないほどにくたびれているのが、自分でもよくわかった。彼は何も考えられず、何も考えようとしなかった。特に彼女のことは、なるべく触れないようにしておいた。平時ならほとんど不可能なこの選択も、異常な精神状態の今なら何とか可能だった。
少年の口が終了を告げた。今日の予定はこれだけだということを興奮した顔で告げて、彼とクラスメイトにこれからの予定を尋ねた。その態度は、暗に出ていってほしいと言っているようだった。二人は少年の思う通りにした。特に彼は、一人になりたい気分だった。二人は一緒に部屋を出て、それから一言も話さないまま別れた。彼にそんな余裕はなかったし、向こうの雰囲気も彼に同意しているようだった。
彼は一人、自転車に乗って、風を浴びながら帰路を急いだ。
しかし、体の熱は、少しもとれそうになかった。
一晩が経った。彼はそのうちに心は落ち着くだろうと考えていたが、しかし彼の熱は冷めるどころか、一層激しく燃え上がった。
実際の彼女に会っても、彼の空想癖は治ることはなかった。そのため彼は、彼女と出会って以後も、日常生活では常に彼女が頭の中にいた。もっとも、現実の彼女と出会えるようになってからは、この空想は以前のような苦痛を彼には与えなかった。
けれども今、彼の空想は、前日までのものとはまったく異なっていた。以前の空想は少なくとも彼を満たしたが、今の妄想は彼に欲望と悪感情を与えた。まるで悪意を持った手によってすり替えられたようだった。彼の思う彼女の姿は、あの慎ましさも穏やかさも取り払われ、どれもこれもひたすら淫靡で卑猥なものになっていた。裸体であったり、下着姿であったり、あるいはごく普通の服を着ていても、恥部を露出させていたりした。のみならず、記憶の中にある動画の女性がそっくりそのまま彼女に変更され、あらん限りの痴態を繰り広げて見せた。彼はそれらが、彼女に対してあまりに侮蔑的で屈辱的な光景に思えた。彼は大切なものを汚された思いがした。彼は冒涜的なそれらを排して、どうにか前のような映像に戻そうとしたが、しかしそれを思う度に、彼は昨日の映像が自動的に連想された。まるで、彼の心中を察してやっているのだと言わんばかりだった。図星を指されたという意識もあったのか、彼は逆上してますます反抗しようとした。性欲も欲求の一つである。ならば、現代人である彼自身に自制できないわけがない。彼は脳内に滲みこまれたはずの自制薬の存在を強く意識して、それによってこの不愉快な欲望を押さえようと努めた。
だが、彼の努力は全て無駄に終わった。
彼は結局、その妄想に打ち勝つことはできなかった。彼は無意識に、以前よりもずっと高い頻度で妄想を生じさせた。その威力は凄まじく、以前であっても問題なく集中できたことにすら、まともに集中できなくなるほどだった。むしろ、無理に抑えようとすればするほど、未知の欲望はその勢いを増した。そこから伸びてくる触手は、彼を強制的に妄想の中へ放りこみ、根源的な凄惨さを含んだ絵図を彼に無理やり見せつけた。
彼は恐怖した。その絵図の持つグロテスクだけでなく、自分の精神が侵略されていること、彼女の尊厳が汚されていること、そしてそれを止めるどころか加勢している自分もあること。その他、効き目の感じられない自制薬、禁忌的な欲望の膨張、妄想の長大化も彼の負荷になった。彼はそれらの生み出す恐怖と嫌悪感と欲情とに絶えず苛まれ、常に不本意な葛藤を抱いていなければならなくなった。それは彼が呼吸を行う限り、鼓動を感じる限り、ひたすら永遠に続くのではないかと思われた。
そんな彼の精神が、彼の心を狂わせる主体である彼女と傍にいて、落ち着いていられるわけがない。彼は彼女といることによって、さらに心を傷つけた。彼女が話したり、微笑んだり、軽く触れ合ったりすればするほど、彼の妄想は過剰な生々しさをもって彼に迫った。頭の中の、妖艶な笑みを浮かべた彼女の乱れた姿に、彼は少なからず興奮を覚えた。彼はそんな時いつも、一個の獣になった気がした。魂を辱められ、存在価値を奪われた心持になった。そしてそれ以上に、彼は彼女に罪悪感を覚えないわけにはいかなかった。
ともすればそれは、存在し得ない彼女を夢想していた時よりもはるかに苦痛であった。彼は彼女とまともに顔をあわせることができなくなった。会話や注意は散漫になって、彼女を度々怒らせた。ますます彼は彼女に申し訳が立たなくなって、自分がどうにも許せなくなっていった。
彼は日を追うごとに、精神的に衰弱していった。自意識がはっきりせず、現実から現実感が失われていった。彼女に会ってもそれは消えなかった。どころか、さらにひどくなった。吐き気や頭痛に悩まされ、感覚が狂っていくような気分。耐えがたい不快感の中で彼は、もうもがくこともできずに沈んでいった。
ある日、彼は唐突に、彼女から離れる決心をした。それはかなりなんの前触れもなく、唐突に思いついたことだった。今すぐに壊れてしまいそうな心情で、これ以上はもう耐えられないだろうと、彼はどこか他人事のように判断した。それ以外に、方法がないように思えた。彼はその日から、あの踏切へ行かずに真っ直ぐ帰る道を選んだ。当然、彼女からすぐに連絡があった。彼はかなり悩んだものの、断腸の思いで無視することにした。彼女に一言くらい、言いわけでもいいから言っておくべきとは思ったけれど、少しでも彼女に関わってしまえば、今の決意が途切れてしまう気がした。彼は潰れそうな心で、彼女からの連絡が届かないようにした。
彼の生活はひどく残酷なものになった。世界は彼女に会う以前よりずっと荒廃した。彼の精神は、妄想と罪悪感とで一時も休めなかった。毎日毎日、ひたすらに無意味な世界を、無駄で悲惨な拷問に耐えながら生きているようだった。価値のある時間は一秒もなかったし、彼を癒すものも何一つなかった。たったひとつ、彼を救えるだろうものは、彼の脳髄に住みついて淫猥な笑みを浮かべ、その手でその口でその体で、彼の心をひたすらに嬲った。
彼は、いや、もはや彼だったものは、日常生活を機械的に過ごすだけになっていった。
何日かが経った。彼は依然として、日々を外見だけは普段通りに過ごしていた。ただ、内面はどうしようもないほど憔悴していた。体に影響こそないものの、彼の精神は崩壊寸前だったとさえ形容できた。欲望は収まることを知らず、自制薬は完全にその存在を抹消した。あるいは、それこそがこの欲望に拍車をかけていたのかもしれない。抑圧がさらなる欲求の活発化を招くと知った彼は、脳内の、彼女に似た何かに好きにさせるようにした。それが彼の心をさらに退廃させる要因になったのだが、今現在の、あとは壊れるだけの彼にとっては、もはやそれはなんの意味も成さなかった。
その日も彼は、歩いて帰路を進んでいた。自転車は傍らにあったが、彼は乗る気にはなれなかった。日常へのささやかな抵抗の意味もあったのかもしれないが、おそらくは違うのだろう。彼はもう、そんな事を自発的に考えられるような頭の状態ではなかった。彼の思考のほとんどは、妄想に費やされているのだから。
彼はいつも通りの道を、いつも通りの目的地へ、いつもより遅い速度で向かっていった。軽く覚束ない足取りになることがある他は、だれが見ても普通の男子高校生の帰宅途中にしか見えなかった。しかし実際には、彼は眼前に何者かが現れても避けることすらできない状態だった。彼の目は景色を見ながら何も見ておらず、耳は聞こえながら聞こえておらず、そういった感覚器官の全ては、やはり妄想へつぎ込まれていた。
しかし、たった一つの例外があった。
彼は背後から呼びかけられた。
その声はたしかに彼に届いて、彼は思わず振り向いた。
彼は視界の先に彼女がいることを認めた。久方ぶりに見る彼女は、たとえ顔を強張らせていても、途方もなく魅力的だった。頭の中の魔物など比べ物になるわけもなく、恥じて奥に隠れたように思われるほどだった。事実彼はもう頭の中にあの存在を見いだせなかった。いつぶりかの純粋な心で、彼は彼女の容姿に見惚れた。流れる黒髪、輝く瞳、細い体の曲線に形のいい手足。相変わらずのそれらが、今まで以上の美をもって彼の心に入り込んだ。
彼が惚けながら、何故ここにいるのか漠然と考えた。そして、以前彼女に自分の家がある辺りを教えたことを思い出した。そんなふうにぼんやりとした彼を、彼女は泣きそうになりながら、開口一番、大声で罵った。彼は突然の大音量と見たこともない彼女の様子に、少なからず狼狽した。そうしている間にも、彼女は矢継ぎ早に語を放った。彼女は怒りをむき出しにして、彼を非難した。突然会わなくなったこと、連絡を断ったこと、そしてその理由を何も教えてくれないこと。彼女は語彙の少ない悪口雑言で、涙ぐみながら糾弾した。そして理由を問いただそうとした。しかし彼は、真相を彼女には言えなかった。彼はただ平謝りして、しかし真実を明かすわけにもいかず、てきとうな理由で誤魔化そうとした。けれども、もとから危うかったうえに唐突な彼女の登場で掻き乱された脳髄が、まともな答えを用意できるはずがない。彼女は彼の弁明を聞いても、厳しい表情を緩めなかった。
彼の話に区切りがついて、二人は静かになった。泣きそうな彼女とすまなさそうな彼は、しばらく見つめ合った。
やがて、彼女は彼に、これからの付き合いについて、縋るような目で尋ねた。涙を湛えたその瞳を、彼は無視できなかったし、またこれ以上、彼女に会わないでいられる気もしなかった。彼は今までの無礼を謝罪し、関係を元に戻すことを告げた。しかし彼女は、それだけでは満足しないようだった。彼女は彼に、今日これからの予定の有無を尋ねた。彼が無いことを伝えると、彼女は厳しい、しかし若干笑みを隠しきれない表情で彼の手をしっかりととり、一緒に来るように言った。彼はもとから逆らう気もない。自転車だけ置かせてもらってから、彼女の肌に久しぶりに触れたことで動揺しながらも、彼は大人しく従った。
彼がやってきたのは、敷地の広い、少し大きめの家だった。家を案内してくれるのだろうか。彼のそう考えたが、しかし彼女は彼の手を引いたまま、玄関扉の前を横切って庭のほうに進んだ。彼が怪訝に思いながらついて行くと、広い庭の中央に陣取る、一個の箱が視界に飛び込んだ。それは大きく簡素な物置のようだった。彼女は彼を行こうと誘い、物置の方へ向かった。彼はただわけもわからず、手が引かれる方に行った。
物置は整理されていた。物が少ないからそう見えたのかもしれない。あるものはどれも大したことがなさそうなものだった。彼がしばらく中にあるそれらを眺めていると、彼女が床のある一点を指差した。そこには、人が四人ほど乗れるくらいの四角があった。二人はその四角の傍に近付いた。そして彼女は彼に、内緒だよ、と囁いて、四角に少し細工をした。すると、四角から取っ手が現れた。
彼女がいたずらっ子のような顔で四角を持ちあげると、下にはぽっかりと穴が開いた。彼女は彼に、入るよう促した。彼は、その秘密基地じみたその場所に軽く感心しながら、彼女に言われるまま階段を下りた。
中は小屋より一回り小さいくらいのようだが、それでも十分な大きさだった。柔らかなカーペットが敷かれ、明るく瀟洒な照明が天井から下がっている。壁には大きなスクリーンと書棚があり、部屋の中央辺りには背の低い卓とソファが置かれていた。映画室かと思ったが、ミニキッチンのような施設や、ベッド、勉強机なんかも置いてある。まるで本物の基地のようだった。
彼が物珍しげに眺めていると、彼女が下りてきた。彼女は自慢げな様子で、ここが自分の秘密の部屋なのだと語った。もとは祖父のものだそうだが、亡くなってからは彼女が使っているらしい。贅沢な隠れ家なのだと、珍しく胸を張って自慢してみせた。事実素晴らしい代物であるため、彼は正直に称賛した。
彼女は明らかに気をよくして、それから、これが自分の秘密であると言った。彼女の友人にも、ここについては教えたことがないという。これを知ったからにはもう逃がすわけにはいかないと、彼女は冗談めかして言った。彼はバツが悪そうな顔で頷いた。
彼女は満足そうにして、それからせっかくスクリーンがあるのだからと、彼をソファに座るよう指示した。彼は言われたとおりにすると、彼女がスクリーンのそばの機器を何やら軽やかに操作した。しばらくして彼女は照明の光度を落とした。薄暗い部屋。彼は妙に落ち着かない気分でいると、ふと半身に柔らかな感触を覚えた。見れば、彼女がぴったりとくっつくようにして座っていた。
彼は慌てた。頭の奥に、怪物の顔が見えた気がした。彼は何とか離れようとしたが、しかし離れられなかった。ここで離れてしまえば、彼女がどう思うかわからなかったし、また彼自身この温もりを離したくはなかった。
彼は何とか耐えようとした。しかし、それはこの場においても逆効果だった。しかも彼はすでに、彼女の柔らかな感触や淡い香りをしっかりと感じてしまった。せき止められた水が放出するような勢いで、彼の全身に熱が回り、心になにかが流入した。自制薬など、煽る以外に相変わらずなんの意味もなさなかった。
彼の視界の中で映像が開始されたが、そんなことはもう気にしていられなかった。彼はただ、今にも引きちぎれそうな理性を掴むことで精いっぱいだった。無理やり感覚に注がれる彼女の存在を除けば、他のものに気をまわしている余裕はなかった。幸いに彼の頭は真っ白で、怪物からの後押しはなかった。彼は祈った。このままの状況で全てが続くように、心から祈った。なんとしても欲望を行動に移すわけにはいかなかった。今、こうしてそばについてくれる彼女も、自制が利かなくなった彼の姿を見てしまえば、何と思うかわからない。彼は燃え上がるような心身で、どうにか心を押さえ続けた。続けようとした。
一瞬。
彼女の体が動いて、彼の腕がとられた。
彼女は赤い顔で、楽しげに、悪戯っぽく、彼の腕を抱きしめていた。
彼の腕が、彼女の柔らかな胸に触れた。
彼は、くらりと、頭を振った。
何か、脳のおかしな部分が開いた感じがした。
彼は彼女を見つめた。
彼女も、彼を見つめ返した。
しばらく時間が流れた。
そして。
それから。
彼は、
―――――――――――――。
翌日。
自室のベッドで、彼はごく普通に目を覚ました。
彼はベッドの上で半身を起こし、しばらく目を閉じて何も考えないようにした。思ったよりずっと簡単にそれはできた。彼はようやく、彼女に初めて会うより前の自分に戻った気がした。ワクチンで過敏になった心が落ち着いて、眠らされていた怠慢な心が目を覚ました気分だった。ただ、それにしては、心がずいぶんと穏やかに安定していた。なにかと常に繋がっているような、そんな安心感があった。
彼は無気力そうにベッドから降りて、いつも通りの朝の支度を済ませ、自転車に乗っていつもの登校路を進んで行った。朝の道は静かだった。人気のない明るい道を前進しながら、彼はふと昨日のことを思い出した。彼女を押し倒したことやら、その後吐き出した告白とも欲望の発露ともつかない文句やら、それを聞いた彼女の、不思議に嬉しそうな顔やら。彼はそれから、その後行われたもっと深い交わりも思い出した。彼女の体の感触もよみがえった。しかし、それらはあまりにも鮮烈であったけれど、同時にとても遠かった。
正直にいえば、彼は彼女を押し倒した瞬間に、破滅の絵図を確定した未来として考えていた。それ故彼の記憶のような現実の方が、むしろ突飛で幻想的だった。また、脳髄の生みだした多量の妄想の名残が、その経験を埋没させていた。実際的な感覚の残滓はそこここに感じてはいるけれど、彼の自我は現実味のない夢として判断していた。
夢。彼は、そうかもしれないと考えた。今日ようやく戻ってきた普段通りの自意識が、それを証明している気がした。今までの彼女に悩まされた毎日は、すべて夢だと思った方が現実的な気がした。今日はワクチン接種の翌日なんじゃないだろうか。彼はそう思いながら、自転車を漕いだ。
気付くと、彼は見覚えのない所に来ていた。いや、見覚えが薄い、というべきなのかもしれない。なにか、来たことはあるのだけれど、詳しい場所は覚えていない、そんなような景色だった。弱い既視感というべきか。彼は初めて見るような何度も見るような、そんな不思議な気持ちで辺りを珍しげに眺めながら、そのまま進んだ。
しばらく行くと、踏切に差し掛かった。ちょうど電車が通るところだった。彼は横になった遮断機の前で、ぼんやりと線路の向こうを見た。なんだかおかしな気分だった。自分がここにいるのが当たり前な気がした。そして、ここにいなければ始まらないような気もした。そんな気分と同時に、彼は目を見開いた。
電車がやってきた。長い体は、すぐに眼前を過ぎていった。彼は、まだ鳴りやまないけたたましい音を聞きながら、じっとそこに立っていた。
遮断機が上がった。彼は動こうとしたが、途中で止めた。向こうの方が早かったからだった。
夢のような美少女は、線路を急いで渡ってきた。そして、静かに見ている彼にそのまま突っ込んだ。彼は自転車を投げ捨てるようにして両手を空にし、何とか彼女を受け止めた。
彼は彼女を見た。ゆっくりと上がる彼女の顔は、ほんのりと赤かった。
彼もまた顔を赤くして見つめる中、彼女は彼に囁いた。
彼は少し驚いた顔をして、少し考えてから、返事をした。
短い会話が、真っ直ぐに交わされた。
しばらくして、彼は彼女を離して、自転車を適当な場所に置いた。
それから。
それから、二人は。
二人は、二人のどの学校がある場所とも違う方向へ、二人並んで歩いて行った。