物忘れな恩人
帰りの電車の中で大きなため息を付く。
今日もでかいミスをやらかしてしまった。
今日は得意先での会議だった。
これから推し進める大プロジェクトの大事なプレゼンテーションを行うためだ。
規模も規模だけに先輩方にも手伝ってもらい資料を作っていった。
完成するまでに何ヶ月も掛かってしまったがそれなりに満足のいくものができたはずだった。
だが当日になって全ての資料を家に置いてきてしまったのだ。
会社に置いておくと忘れると思い、持ち帰ったのが仇となった。
当然、相手先は大激怒。
二代前の担当者から続いてきた関係をたった一つの自分のミスで終わらせてしまうこととなってしまった。
部長のあんな表情は初めて見たな。
自分に向けられた失望の瞳を思い出しながらもう一度ため息を付く。
周りの客は迷惑そうに俺を睨んでいる。
申し訳ないと思いながらもう一度ため息を付いた。
ある日を境に忘れ癖がひどくなった。
資料やプリントはいつものこと。
ひどい場合は友人との約束なんかもすっぽかしている。
おかげで友と呼べる仲のものは居なくなった。
たまにくるメールの相手は無料会員のお知らせくらいのものだ。
「よお、兄さん。暗い顔してなにかあったのかい」
突然隣から掛けられる中年の低い声。
振り向くと灰色のパーカー姿の男がこちらを見ている。
姿勢が悪いせいかボサボサの長い髪がフードの隙間から下へと垂れ下がっている。
身なりは綺麗だがそのせいで不摂生な印象を受けてしまう。
「ちょっと会社でやらかしてしまってね、少し落ち込んでたんだ。気に障ったなら謝る」
「気にしないでくれ。落ち込むなんて日常茶飯事だ。今日はあんたの番だ、話しておくれよ」
妙に親切な男だな。
それでも話し相手のいない俺にとってはありがたいことだった。
事の経緯を話している間も彼は真剣に聞いてくれていた。
適度に相槌を打ち、それ以外は聞き役に徹してくれた。
「そんな感じで今日はずっとナイーブだったんだ。すまないな、こんな話に付き合わせてしまって。俺はまだしばらく先の駅なんだがあんたの話も聞かせてくれないか」
「俺の話か?うーん、落ち込んでる最中のあんたには悪いが嬉しかった出来事でもいいか」
「もちろん」
「さんきゅ。俺はちょっと田舎の出身でな、まだ昔のしきたりとかが残ってる集落で育ってきたんだ」
吊り革を握り直して男の方へとワクワクを隠さず向き直る。
田舎とかしきたりとかなんてワードはアニメの中でしか聞いた覚えがない。
「そこでは村以外との人間との関わりをきつく禁じられていた。何だか不思議な力を宿した一族らしい。その時は何でだか分からなかったんだが当時の俺はすごく若かったんだな。ある晩両親が寝静まった頃を抜け出して山を降りてみたんだ」
「よほど嫌だったんだな」
「そしたらさ、案の定迷っちゃったんだよな。こんな都会みたいに電柱なんてあるもんじゃなかったし、自分の方向感覚だけを突き進んだわけ。そしたら木々の間から光がちょいと見えたんだ」
「ほうほう」
「やっと街に着いたんだって思ったけどただの交番だった。でも無駄に歩いたせいでヘトヘトで中に入ってたんだ」
「無事に辿り着けてよかったじゃないか」
「でも駐在のにいちゃんは驚いてたね。怒るところだと思うんだけど途中からは笑いながら俺の話を聞いてくれてたよ。そんで明るくなるから前に地図とライトを渡してくれたおかげで帰ることができたんだ」
あらかたの事を話したところで男は話を一度区切った。
どこか悲しげな表情で過ぎ去る窓の外を眺めている。
「何日から経ってからライトを返そうと交番に行ったんだ。もちろんその日は昼間の明るい日に。でも別の駐在しかいなくて、その人に聞いたら俺が言った次の日に辞職したっていうんだよ」
おもむろに彼は手に持っていたものを俺に見せてきた。
銀色の棒状をしたもの。
「これを手にすればあんたの記憶障害もなくなるだろうよ」
一瞬で理解する、これは先程口にしていたライトだろう。
遠目からみても年季が入っているのが伺える。
それに彼の言っている記憶障害とは先程言っていた不思議な力とやらが関係しているのだろう。
「いや、受け取るのは辞めておく」
俺は手の平を突きつける。
「恐らく。これを受け取れば今日みたいなミスはしなくなるってことだろ。だろうけど…それを言い訳にしたくないっていうのかな」
自分でも何を言っているのか分からない。
それでも相手の目を覗き込むことは何故だか出来た。
「ふっ、変わらないね。そんな感じしてたよ」
彼は笑いながらライトをポケットにしまった。
嫌な気分にさせたと忌避したがその顔は満足そうにしている。
『次は〇〇〜。〇〇〜。お出口は左側です。Thanks you for…』
どうやら長い時間話していたようだ。
目的の駅に着いたアナウンスが車内に流れた。
「じゃ、これはまたの機会に返するよ。それじゃぁ…この会話を忘れなかったら、とかでどうだい?」
「分かった、それまで預かっていてくれ」
じゃあな、駐在のにいちゃん、と。
手を挙げながら彼は電車を降りていく。
閉まりゆくドアの隙間から彼の後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなるまで見送った。
不思議な青年だったな…。
やがて車体が動き出したところで名前を聞いていなかったことを思い出す。
また肝心なところで忘れてしまった。
頭を掻きながら自分の不甲斐なさに反省する。
「あのライト、受け取っておけばよかったかな」
俺は彼のことを助けた事すら忘れてしまった。
今日、彼が会いに来なかったら絶対に再会することはなかっただろう。
果たしてそんな現状のなかでもう一度再会なんてできるのだろうか。
後悔しても変わらないことは分かっている。
それでも過去のことを思い出す最後のチャンスだったのかもしれないと考えてしまう。
だからこそ。
だからこそ、今日出会えた奇跡は忘れていけないと心に刻んだ。




