最後の王子
暗闇を切り裂くように、男と馬は雨の中を駆け抜けた。木々のざわめきを抜け、視界が開けた崖の上。そこで男が見たのは、紅蓮の炎に飲み込まれ、今にも崩れ落ちそうな王城の姿だった。ためらうことなく、男は炎上する城へ向かった。男は城に近づくにつれ、ある人物の安否を案じる心が、胸を締め付けた。
男は城門の手前で、駆け抜けてきた馬の手綱を強く引いた。
「すまない、ここからは一人で行く。」
短く言葉をかけると、彼は馬の鞍から素早く飛び降りた。馬は興奮した様子で嘶いていたが、男は手早く近くの朽ちた大樹の根元に手綱を括り付けた。安全とは言えない場所だったが、一刻の猶予もなかった。
ちらりと背後の馬に視線を送り、無事を祈る。
次の瞬間、男は顔を覆うほどの熱風と煙が渦巻く城門へと、迷いなく踏み込んだ。すでに城門は半ば崩れ落ち、内部からは紅蓮の炎が猛烈な勢いで吹き出している。
「待っていてくれ、必ず――」
誰にともなく呟いた言葉は、炎の轟音にかき消された。
城内へ踏み入れた途端、熱気が肌を焼き、煙が呼吸を困難にする。男は濡れた布で口元を覆い、前も見えないほどの炎と煙の中を突き進んだ。
かつて豪華絢爛だった回廊は、いまや崩れ落ちた瓦礫と燃え盛る木材の山と化していた。床は踏み抜けば奈落へ落ちそうなほど熱く、天井からは今にも焼け落ちた梁が剥がれ落ちてくる。男は身をかがめ、迫り来る炎の舌を避け、崩れる壁を乗り越えて進む。彼の目は、ただ一点、城の最奥に位置する玉座の間へと向けられていた。
道標となるはずの壁の装飾は燃え尽き、通路を示すはずの灯りはとっくに消え失せている。だが、男の足は止まらない。この城の構造を隅々まで知り尽くしているかのように、彼は記憶だけを頼りに、最も早く玉座に至る道を選び取る。時折、かすかに聞こえるうめき声や、助けを求める叫び声に一瞬立ち止まりそうになるが、振り切るようにして、男は先へと進んでいく。
目的はただ一つ。玉座の間にいるであろう、あの人物の安否を確認すること。もしかしたら、王座の間だけは、まだ完全に燃え落ちていないかもしれない――そんな淡い希望と、絶望的な予感が入り混じる。灼熱の嵐となった城内を、男は汗と煤にまみれながら、玉座の間への最後の階段を駆け上がった。
灼熱の通路を駆け抜け、男はついに玉座の間へと足を踏み入れた。熱気と煙はさらに濃くなり、視界は煤と涙で歪む。
玉座の間は、かろうじて炎上を免れていたものの、すでに大部分が焼け崩れ、煤と灰の匂いが充満していた。その中央、かつて栄華を誇った玉座の足元に、男は二つの人影を見つけた。
息をのむ。
そこに横たわっていたのは、見慣れた豪華な装束をまとった、王と王妃であった。その体からはすでに生命の輝きは失われ、冷たくなっていた。だが、彼らの死因は、火災によるものではなかった。王と王妃の着衣に、焼け焦げた痕跡は見当たらない。
男が近づき、その遺体を視認した瞬間、彼の目に驚くべき光景が飛び込んだ。王の胸元には、黒ずんだ血が滲んだ大きな刺し傷があった。王妃の首筋にも、刃物で付けられたような深い痕跡が見て取れた。
城が燃えているにもかかわらず、彼らは焼死ではなかったのだ。これは、ただの火事ではない。王と王妃は、何者かによって殺された。そして、その殺害を隠蔽するかのように、城は炎上させられたのだ
男の喉から、一言も声が出ない。これまで胸の奥底で抱き続けてきた、かすかな希望は、現実のあまりにも残酷で、そして卑劣な企みによって、一瞬にして打ち砕かれた。焦燥と絶望、そして無力感が、鉛のように彼の全身を支配する。なぜ、なぜ間に合わなかったのか。そして、誰が、このような非道な行いを――。
男の握りしめた拳が、小刻みに震えている。彼が命がけで辿り着いたその場所は、かつての希望の象徴ではなく、ただ虚しい残骸と、二人の亡骸、そして新たな謎が横たわる終焉の地だったのだ。炎は容赦なく音を立てて燃え盛り、まるで彼らの最期を弔うかのように、静かに玉座の間を照らしているかのようだった。
王と王妃の亡骸を前に、男は膝から崩れ落ちた。その膝は焼け焦げた床につき、彼の顔は煤と涙でぐしゃぐしゃになる。彼の震える唇から、絞り出すような声が漏れた。
「くそっ……間に合わなかった。なぜだ……なぜ、お守りできなかったのだ!」
彼は自らの無力さを呪うように、強く拳を地面に打ち付けた。
「せめて……せめて、あなた方だけでも、この場所から救い出すことができていたら……!」
燃え盛る城の轟音の中、男の悔恨の声が虚しく響き渡る。彼の心は、守るべき人々を守れなかったという絶望と、この惨劇を阻止できなかった自責の念で引き裂かれていた。
王と王妃の亡骸を前に、男はただ立ち尽くしていた。胸を締めつける無力感と、怒りにも似た感情が入り交じる。その時、耳に届いたのは、かすかな、しかし確かに命を訴えかける赤ん坊の泣き声だった。男はハッと顔を上げ、音のする方へ視線を向けた。声は玉座の間の片隅、今にも崩れ落ちそうな巨大な暖炉の奥から聞こえてくる。
男は危険を顧みず、熱気を放つ暖炉へと駆け寄った。焼け焦げた装飾品や灰を払い除け、奥を覗き込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。王と王妃が、最後の力を振り絞って隠したのだろう。丁寧に布にくるまれた小さな赤ん坊が、王妃の形見と思しきティアラの上で、小さな口を開けて泣いていたのだ。赤ん坊の顔は、煤で汚れてはいるものの、傷一つなく、生命力に満ちていた。
男は震える手で、そっと赤ん坊を抱き上げた。その小さな命の温かさが、鉛のように重かった男の心に、かすかな光を灯す。その時、赤ん坊を包む布の隙間から、王家の紋章が刺繍された襟元が見えた。そして、その幼い顔立ちが、若き日の国王によく似ていることに気づいたのだ。
守り抜くべき希望
「おお、神よ……!生きて、いらっしゃったか!」
男の声は震え、瞳からは熱いものが溢れ落ちる。それは、守り通せなかった王と王妃への悔恨と、この小さな命が生き延びていたことへの、深い安堵と感激だった。
「殿下……!まさか、まさか、あなたがご無事だったとは……!」
彼は赤ん坊を胸にしっかりと抱きしめる。この荒廃した世界で、たった一人残された希望。燃え盛る城の中で、そのあまりにも尊い命の重さが、男の腕にずっしりと伝わってくる。
「必ず、必ずお守りいたします。命に代えても……この国と、あなた様を!」
男の中に、新たな使命感が燃え上がった。王や王妃を守れなかった無念が、この幼い王子を守り抜くという強固な決意へと変わった瞬間だった。彼は玉座の間を振り返り、王と王妃の亡骸に最後の別れを告げた。この小さな命こそが、亡き国王と王妃、そしてこの国の未来なのだと。
男は燃え盛る玉座の間に、王と王妃の亡骸に最後の別れを告げた。彼の腕には、この国の唯一の希望である幼い王子がしっかりと抱かれている。もはや悲しみに浸っている暇はない。城はすでに限界を迎え、天井や壁が本格的に崩落を始めていた。
「殿下、必ず、必ずお守りいたします!」
男は王子が煤を吸い込まないよう、自分の上着で顔を覆い、固く抱きしめた。視界は煙で遮られ、足元は瓦礫で埋め尽くされている。轟音とともに、巨大な梁が彼らのすぐ先で崩れ落ち、道を塞いだ。男は迷わず方向転換し、記憶の中のわずかな通路を探す。
炎は城全体を飲み込み、熱波が背後から彼らを追い立てる。床が抜け、炎の海が口を開ける。男は時折、火の粉が舞う中を駆け抜け、時に燃え盛る木々を蹴散らし、崩れ落ちる壁の間をすり抜けた。崩落の衝撃で、城全体が軋み、呻いているのが肌で感じられる。
かつて通った道は、もはや原型を留めていなかった。男は王子の小さな命を守るため、己の全神経と体力を振り絞る。崩れ落ちた階段を飛び降り、火の海と化した中庭を走り抜ける。王子は男の腕の中で、奇跡的に静かに身を預けていた。その小さな温もりが、男の心を奮い立たせる唯一の支えだった。
城門へと続く通路が、いま、まさに大きく傾き始めている。男は残る力を振り絞り、最後の難関へと身を投げ出す。背後では、王城の象徴であった中央の塔が、轟音と共に崩れ落ちていく。爆風が背中を押し、男はまるで吹き飛ばされるかのようにして、かろうじて城の外へと飛び出した。
煤と汗と血にまみれ、男は地面に膝をつく。腕の中の王子が無事であることを確かめ、安堵の息を漏らした。だが、故郷の王城は、いまや燃え盛る炎に包まれた巨大な墓標と化していた。
煤と汗と血にまみれ、男は地面に膝をついていた。彼の腕の中では、王子が奇跡的に静かに眠っている。崩れ落ち、燃え盛る故郷の王城を背に、男は安堵のため息をつきながら、王子の無事を改めて確認するようにその小さな顔を見つめた。
城内では視界が悪く、混乱の中で気づく余裕もなかったが、いま改めて王子に目をやると、その首から小さな首飾りが下がっているのが見えた。煤に汚れてはいたものの、それが王家を示す紛れもない紋章であることは一目瞭然だった。精巧な細工が施されたそれは、単なる装飾品ではない。王が緊急時に備え、あるいは最後に託した希望として、王子に着けさせたものに違いなかった。
男は静かに、その紋章に触れる。冷たい金属の感触が、王子の命、そして王家の血筋が、確かにこの腕の中にあることを告げていた。
「くそっ……!」
男の顔に怒りの感情が鮮やかに浮かび上がる。王と王妃を殺害し、城を焼き払った諸悪の根源への、押さえきれない憤りだった。
「必ず……必ず、突き止めてやる。この惨劇の裏に潜む、すべての真実を!」
男は、王子を抱き直し、力強く立ち上がった。彼の視線は、燃え盛る城ではなく、はるか彼方の地平線の向こうを見据えている。ここから、長く困難な旅が始まる。王子の命を守り、失われた王国を取り戻し、そしてこの悲劇の黒幕を暴くための、孤独な闘いが。




