第3話 湯の匂いと小さな牙 -地下闘技場・共同浴場-
帝国暦982年 7月15日(水曜日)
今日は試合がない日だった。
三日に一度だけ許される「共同浴場」の時間。
薄暗い地下の浴場は、湯けむりと奴隷たちの体臭で充満している。
男区画と女区画は、腰の高さの石垣で仕切られているだけだ。
……隙間だらけでほとんど仕切りの意味がない。
「おいエラン、今日も背中流してやるよ」
屈強な奴隷のオッサン、ガルドが笑いながら近づいてきた。
「いい。自分でできる」
俺は短く断る。
烙印を見せるのは、もう慣れたが、見せたくない相手もいる。
湯船に浸かりながら、俺は静かに呼吸を整える。
反魔心境・第二の型「流水」。
湯の中で精神統一すると、徐々に周囲の雑音が遮断され、体内に蓄積された憎しみが、ゆっくりと水のように流れていく。
……静かだ。
と思った瞬間。
「ねぇ、エランってば!」
石垣の向こうから、大きな声。
セシリーだ。」
「……何だ」
「ちょっと来てよ!」
少女は石垣の上に顔だけ出して、頬を膨らませている。
湯に濡れた銀髪が頬に張り付いて、普段より幼く見える。
「……どうした」
「もう! こっち来なさいって!」
仕方なく石垣に近づくと、セシリーは小声で囁いた。
「あの女、また来てたよ」
「……そうか」
昼過ぎ、リリアがまた視察に来ていた。
理由は「資料を忘れたから」らしいが、明らかに嘘だ。
俺の前でだけ、妙に挙動不審になる。
「……あんた、あの女のことどう思ってるの?」
セシリーの瞳が、湯けむりの中で揺れる。
「……別に」
「別にって……! 貴族だよ? しかもあんな胸でかい女、絶対狙ってるでしょ」
少女は自分の貧相な胸を両手で隠すようにして、睨んでくる。
……嫉妬か。
俺は小さく息を吐いた。
「……お前が気にするようなことじゃない」
「気にするよ! 私は……私は……!」
セシリーの声が震える。
次の瞬間、少女は石垣の上に両手をついて、体を乗り出した。
濡れた小さな体が、ほとんど丸見えになる。
「……っ!」
「見てよ! 私だって……!」
頬を真っ赤にしながら、少女は必死に胸を寄せようとする。
……無駄だ。ほとんど変わらない。
だが、その必死さに、俺の胸が少し疼いた。
「……バカ野郎」
俺はそっと手を伸ばし、セシリーの頭を撫でる。
「ひゃっ……!?」
「十分だ。お前は、お前のままでいい」
少女の顔が、爆発するように赤くなる。
「……もう! バカエラン! 変態!」
叫びながらも、少女は石垣にしがみついたまま、離れない。
湯けむりの中で、小さな牙を剥き出しにした子猫みたいだった。
その時。
「……あの、エランさん……?」
そんな新しい声にエランは癖で反射的に身構えてしまう。
石垣の向こう、女区画の浴場入り口に、リリアが立っていた。
地面に触れないように白いワンピースの裾をたくし上げて、恥ずかしそうにこちらを見ている。
胸が……湯けむりで衣服が濡れて、輪郭がはっきり見える。
「……リ、リリア?....貴族がなぜ....」
セシリーが凍りついた。
リリアは顔を真っ赤にしながら、小さく手を振った。
「私も……お風呂、入っても……いいでしょうか?」
沈黙。
周囲の奴隷たちが、一斉に息を呑む。
魔導貴族が、奴隷の共同浴場に。
しかも、ほぼ裸で。
「……ダメに決まってるでしょ!」
セシリーが叫んだ。
だが、リリアは怯えながらも、一歩踏み出す。
「……私、エランさんに、お話があって……」
その瞳は、真剣だった。
俺は湯の中で、静かに息を吐く。
……面倒なことになりそうだ。
湯けむりの中に、2人の少女の匂いが混じり始めた。
甘い香水と、少女の体温と、微かな血の匂い。




