第2話 貴族の匂い -カルケラタン島・地下闘技場・奴隷区画-
帝国暦982年 7月14日(火曜日)
朝の鍛錬を終え、薄いスープとカビたパンだけの朝飯を終えた頃。
突然、共同房の鉄扉が開いた。
「視察だ! 全員、牢屋入口の鉄格子前に整列!」
看守の魔導騎士が叫ぶ。奴隷たちは反射的に動く。
俺もセシリーも、黙って鉄格子前に並ぶ。
廊下から漂ってくるのは、甘ったるい香水の匂い。
……貴族だ。
先頭に立つのは、白銀のマントを翻した中年貴族。それに続くのは……。
「ふぅん……これが噂の地下闘技場? 思ったより臭いわね」
甲高い、耳障りな声。
金髪の縦ロール。真紅のドレス。
胸元が深く開いた、明らかに場違いな衣装。
年齢は17か18。顔立ちは整っているが、目つきが腐っている。
魔導貴族の令嬢だ。
名前は知らないが、こういうのは見飽きた。
典型的な「遊びに来た迷惑貴族」だ。
「ねえ、あんたたちって本当に魔法使えないの? ほんとキモいわ~」
令嬢は鼻を摘まんで笑う。周りの取り巻き騎士たちも下品に笑う。
セシリーが小さく震えた。俺はそっと少女の肩に手を置く。
……我慢だ。
令嬢の視線が、俺たちに絡みつくように這う。
「あら? あんた、結構いい体してるじゃない」
突然、令嬢が俺の前に立ち、牢屋の鉄格子に指で突っ込み俺の腹筋を撫でる。
冷たい指先。香水の匂いが鼻を突く。
「気安く触るな」
俺は低く呟いた。
「……は? 何? 今、奴隷の分際で私に口答えした?」
令嬢の目が吊り上がる。
次の瞬間、
バリバリッ!
令嬢の指先から青白い雷が迸った。
普通の奴隷なら即死だ。
だが、俺は動かない。
雷は俺の体に触れた瞬間、音もなく消えた。
「……え?」
令嬢が目を丸くする。
周囲の騎士たちもざわつく。
「……お前みたいなゴミ貴族が、俺に魔法を使ったな?」
声は低く、静かで、場が凍りつく。
ヴィオレッタの笑顔が引きつる。
「な、何よ下等生物の分際で! この私が――」
次の瞬間。
ガキィン!!
牢屋の鉄格子が、まるで紙のように歪んだ。
エランの左手が鉄格子を曲げた。
格子にできた隙間に右手を突っ込み、ヴィオレッタのドレスの胸元を鷲掴みにして引き寄せる。
「ひっ!?」
恐怖に引きつったヴィオレッタの顔が目の前に迫る。
「次にここに来たとき、同じ口をきいたら
その綺麗な顔を床に叩きつけて、泣き叫ぶまで蹴り続ける。
お前の自慢の金髪を掴んで引きずり回し、
そのドレスを引き裂いて、裸で観客席に放り出してやる。
覚えとけ、クソ貴族」
セレナは檻の中で、両手で顔を覆いながら、
耳まで真っ赤に染めて、小さく呟いた。
「……かっこよすぎ……」
ヴィオレッタの顔が真っ青になり、涙が溢れる。
ヒールがカタカタ震えて、失禁しそうなほど怯えている。
「ひっ……!?」
令嬢の顔が恐怖に歪む。
従者たちが慌てて引き離そうとするが、エランはびくともしない。
「申し訳ございませんが、ここまでにして頂けないでしょうか。どうか無礼をお許しください」
静かな、しかし芯のある声。
群衆をかき分けて現れたのは、
黒髪の少女だった。
年は18ほど。白い簡素なドレス。胸は……かなり大きい。
顔立ちは上品で、どこか怯えたような瞳をしている。
魔導貴族の紋章付きのマントを羽織っているが、どこか浮いている。
「……リ、リリア? なんであんたがここに……」
先ほどの令嬢、いや、ヴィオレッタが顔を歪める。
「私は父上の命で、正式な視察に……」
リリアと呼ばれた少女は、人前が慣れていないのか怯えながらも一歩前に出る。
そして、俺を見た。
……なんだ、この違和感は。
普通の魔導貴族なら、俺の体質に気づくと嫌悪の目を向ける。
だがこの娘は、違う。
興味……と、怯えと、ほんの少しの……期待?
「ヴィオレッタ様、もうお帰りください。……これ以上騒ぎを大きくすると、父上にもご迷惑が」
「……っ! 覚えてなさいよ、この奴隷ども!」
ヴィオレッタは顔を真っ赤にして立ち上がり、取り巻きを連れて逃げるように去っていく。
残ったのは、リリアとその付き添いの老騎士だけ。
静寂。
奴隷たちは息を呑んで見ている。
リリアは、ゆっくりと俺に近づいてきた。
「……あの、あなたは……」
俺が怖いのか、少女の声が震えている。
俺は無言で少女を見下ろす。
すると、リリアは突然、深く頭を下げた。
「ごめんなさい……! ヴィオレッタ様の無礼を、私が代わりに……」
周囲がどよめく。
魔導帝国の貴族が、奴隷に頭を下げるなど、前代未聞だ。
リリアは顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。
「……あなた、名前は?」
「エランだ」
「エラン……さん」
少女は、なぜかその名前を、慈しむように繰り返した。
まだ、誰も知らない。
この出会いが、血塗れの道の、最初の石畳になることを。
昼前の地下闘技場は、甘い香水と、微かな血の匂いが混じり合っていた。




