第5話 卵探しの時間
小さい頃、迷子になったことがある。
幼稚園から小学生に上がっただけで、僕は自分が随分おとなになったような気がしていた。きっと煌人兄や智凛姉と同じ小学生になったことが、自分の中で誇らしかったんだ。なんでもできるような気がしていた。
小学校から帰る道すがら。ひとりになった後で僕は行ったことのないほうへと歩き出した。見たことのない景色に、なんだか楽しくなってどこまでも進んだ。陽が傾いて、空がオレンジ色に染まる頃、僕は帰り道がわからないことに気付いた。
来たほうへ戻ってみたつもりだったけど、歩いても歩いても知らない場所だ。町には帰路に立つ人たちがたくさんいて、同じぐらいの子供がお母さんに迎えられて笑いながら家へ入っていくのも見えた。並ぶ家々からは美味しそうな匂いがするのに、それは僕の家ではない。
歩き続けた足が痛くて、もう一歩も歩きたくない。なのに空はどんどん暗くなる。心細くて、どうしていいかわからなくて、途中で見つけた公園のベンチに座りこみ、べそべそ泣いた。
そんな僕を見つけた名前も知らない人が、母さんに連絡してくれて。車で迎えにきた母さんは、ものすごい形相で僕を怒鳴り散らした。
どうしてひとりでこんなところへ来たの。もうひとりでどこへも行っちゃダメ。わかったわね。返事は? ちゃんとこの人へお礼を言いなさい。本当にすいません、この子がお世話になりました。ほら陽翔、ちゃんとごめんなさいしなさい。
母さんが怖くて、ひとりぼっちも怖くて、僕はずっとずっと泣いていた。知らない人は僕と母さんをなだめていたけど、その日から母さんとはギクシャクしはじめたような気がする。
だから僕がバイトを始めるときも、大学に進学するときも、自宅から通える範囲でしかダメだった。母さんは僕をすぐ叱る。陽翔にはそんなことできるわけないっていう。ひとりでなんて生きていけるわけがないんだからって。
そんな言葉を思い出す度、僕はいつだって悲しくなる。母さんの言うとおり、僕はやりたくて選んだ仕事も続けられなかった。ひとりでなんて生きていけなかった。
やっぱり僕は、ダメなやつなんだ──。
「コーッ、コッコ、コーッ!」
「うわぁ⁈」
謎の鳴き声と共に、僕は飛び起きた。まるで部屋の中でニワトリが鳴いてるみたいだ。部屋の中をキョロキョロ見回しても、当然何もいない。
スマホを見ると、まだ朝の6時だ。早すぎるわけでもないけど、少し起きるには早い。嫌な夢を見ちゃったな、としょんぼりしていると、また「コワーッ、ココココ……」と鳴き声がする。
寝直すには気分も落ち込んでいるし、こんな声の中で寝られる気もしない。温かい布団からしぶしぶ這い出た。冷えきった部屋に震えながら歩いて窓へ近寄ると、恐る恐るカーテンを開く。
朝日に照らされた庭。正面には低木が植えられ、その向こうには鬱蒼とした林が広がっている。窓から左を見ると、昇りかける太陽が山々の隙間から顔を出している。その眩しい煌めきの下に、昨日通ってきた砂利道が見えた。
右に視線を移すと、なんだか木の板が壁のように張り巡らされた場所や、小さな木造の掘っ立て小屋がある。あれが、仁さんの言っていた畑なのかなぁ、と考えていると。
「コーーーッ!」
「わっ」
すごく近くでニワトリが鳴いている気がする。窓に顔を貼りつける勢いで下を見ると、茶色い羽根がチラチラと見えた。どうやら縁側の辺りにニワトリが一羽いるようだ。
「なにもこんな朝から、僕の部屋の前で鳴かなくたって……」
眉を寄せたけど、ニワトリは「コッコ、コッコ」と鳴きながらそこでゴソゴソしている。こんなんじゃ、うるさくて二度寝も無理だろう。
はぁ、と溜息を吐く。と、庭の物陰から防寒具に身を包んだ仁さんが現れた。こんな朝早くに、外に出て作業をしているんだろうか。農家って大変なんだな、とぼんやり思う。
すると、仁さんが僕に気付いて、にかっと笑って手招きをする。出てこい、ということなんだろう。正直寒いし眠いけど、呼ばれてしまっては無視するわけにもいかない。僕もダウンジャケットやあったかいズボンを履くと、足早に家の外へ出た。
キンと冷えた朝の空気は、澄み渡っている。薄雲がちらほらと浮かぶ空は綺麗で、思わずこぼれた溜息が白い。通学や通勤の朝はただ寒くて嫌なのに、知らない土地だからかどこか爽やかな気持ちになれた。
「おはよーさん、ずいぶん早起きだなぁ、陽翔」
仁さんがこちらに近づいてきたけど、その声は小さい。一瞬不思議に思って、それから思い出す。慶一郎さんはまだ寝ているのかも。
「コォーッ、コッコ、コッコ……」
そう考えた時に、縁側を鳴きながら歩き回るニワトリが目に入った。
いや、あの鳴き声出されて、寝ていられるのかな。
「あー、ハルコさんの声で起きちまったのか? 悪い悪い。住んでたら慣れるよ。慶なんか昼まで起きて来ねえからな」
仁さんはケラケラ笑っている。こんな近くで鳴かれて慣れるなんてことあるんだろうか、と思いつつ、仁さんに視線を戻す。
「あの子、ハルコさんっていうんですか?」
「かもしれないなぁ」
「かもしれない?」
「うちには5羽のニワトリがいるけど、俺にも見分けがついてねえんだよなあ。なんとなくハルコさんな気がするだけ。もしかしたらナツコさんかもしれないけど、まぁ誰でもそんなに変わらねえだろ、ははは」
随分適当な話だ。ハルコさんかもしれないニワトリも、僕たちを気にも留めず歩いているだけだし。僕は気を取り直して仁さんに尋ねる。
「仁さんは、こんな朝早くに何をしてるんですか?」
「農家の朝は早いからなぁ、……と言いたいとこだけど、ま、目が覚めた時が朝ってだけだよ。朝起きたら、まずハルコさんたちを小屋から出してやる。それで卵探しの時間。その後で朝飯」
「卵探し?」
首を傾げると、仁さんは「やるか?」と笑う。何をするのかはよくわからないけど、どうせ朝ご飯までやることもない。僕が頷くと、仁さんは庭の奥の方へと向かっていった。
部屋の窓から見えていた、板で囲われた場所へやって来る。近くまで来ると、高さ1メートルほどのベニヤ板が並んでおり、中を覗くとやっぱりそこは畑だった。何本も畝が並んでいて、冷たい土からは大根や白菜、ホウレンソウなどの見慣れた冬野菜や、ぱっと見ではなにかわからない葉っぱが生えていた。
その隣には金属の網で囲われたエリアがあって、そこへの入口は開けっぱなしになっている。中には草や低木と一緒に、木の小さな小屋が置かれていた。そして、ニワトリが一羽、その近くで歩いている。きっとここがニワトリ小屋なんだろう。
と、仁さんが小さなカゴを差し出してくる。細い竹みたいなものを編んで作られた、よくピクニックに持って行くバスケットみたいな。
「それに卵を集めてくれよ。何個かはあると思うからさ」
「えっと……小屋に入って、ってことですか?」
「あー、まぁ小屋の中で生んでることもあるかもだけどよ、なんかもうそこらへんに転がってると思うから。俺はちょっと畑に行くから頼んだなー」
仁さんはそう言うと、畑のほうへ行ってしまった。僕はといえば渡されたカゴを見て、それからニワトリのテリトリーを見る。
そう考えてみると、生きているニワトリを間近で見るのは初めてだ。白のメッシュが入った赤茶色の羽根に、控えめな赤いトサカ。卵を産むっていうことは、たぶん雌だよな、いや絶対そうだと考えながら、僕は恐る恐るニワトリ小屋へと進んで行った。
戸が開きっぱなしだった小屋の中を見ると、こじんまりとした薄暗い内部には止まり木っぽいものやエサ箱なんかが置いてある。そして地面にはポツンと、茶色い卵が落ちていた。
「うわ……ホントに卵だ……」
勝手なイメージだけど、卵って鳥の巣の真ん中にたくさん詰まっている気がしていた。でも、目の前にはちょっとこんもりした藁にポツンと落ちている卵。別にニワトリが温めてるわけでもない。一度近くのニワトリを振り返ったけど、僕に怒ったりもせず地面をつついている。
肩を竦めて、おずおず卵を手に取る。なんてことはない、普通の卵だ。ちょっと汚れてるけど。そっとカゴに入れて、他にも無いか眺めたけど小屋の中には見当たらない。外を探すしかなさそうだ。
ちゅんちゅん、と小鳥の鳴く声、それにコッコというニワトリの鳴き声以外には、何も聞こえない朝。僕は土の上を歩き、下を向いて卵を探している。じっと草むらや木の下を見つめても、保護色になるのか見つからない。その時も、ぼんやりと周りを見ると何か違和感を覚えて、そこへ近付くと卵が落ちていたりした。
探し物って、やっぱりただ探しているだけじゃ、見つからなかったりするのかもな。なんとなくそんなことを考えながら、僕は卵を4つほど見つけた。たぶん、もうないと思う。畑のほうへと向かうと、仁さんがほうれん草の束を握って出てきたところだった。
「おっ、どうだ? 卵はあったか?」
「4つありました」
「いいねぇ、じゃあ、朝飯は新鮮卵の目玉焼きだな。家に帰ろう。こっちは夕飯な」
仁さんがそう言ってほうれん草を振ってみせる。それに曖昧に笑って頷き、家へと歩き始めた。
「でも不思議です。ニワトリって卵を温めないんですね」
「うちのニワトリの卵は孵らないからなぁ。オスいないし」
「えっ、ニワトリってオスがいなくても卵を産むんですか?」
「そうそう。無精卵っていってな、交尾しようがしまいが関係無く、定期的に卵を産むんだよ」
「でもそれじゃ、ニワトリにとっては無駄じゃないですか? 僕たちは卵を食べられるからいいけど……」
「まー、そういう風に品種改良とかした歴史とかあんじゃないの? それに無駄みたいに思えるかもしれんけど、確か良い雛を生むためにも定期的に卵を産むのは必要なコトらしいぜ。俺もよく知らないけど。ハッハッハ」
「……無駄みたいに思えるけど、必要なこと、かあ」
ポツリと呟いて、卵を見る。雛にはなりっこない卵たちが、元気な雛になるためにも必要。なんだか不思議な気持ちになった。
なら、この時間も無駄じゃなかったりするんだろうか。
考えているうちに僕たちは帰宅し、そのまま流れるように台所へと向かった。
「よし、陽翔。叔父さんは即席みそ汁を用意する。陽翔はまず、その卵を優しくコレで拭いてくれ」
仁さんにキッチンペーパーを手渡される。そっか、買ってきた卵じゃないから、洗ってないもんな。さっき小屋の中や地面に転がっていたのを思い出しながら、割らないように気を付けて拭いていく。
「卵はなぁ、総排泄腔っていって……まぁなんだ……。な、出るモンは全部同じ管を通るしな。しっかり焼いて食わねぇとな」
「…………」
仁さんが何を言おうとしているのか、僕は考えて、それから眉を寄せた。この卵も、いつも食べている卵も、糞と同じ場所を通って──。深く考えそうになって、ぶんぶん首を振る。あんまり気にしていると、二度と卵が食べられなくなりそうだ。
大丈夫。仁さんが作ってくれた目玉焼きは、なんだかいつもの目玉焼きより美味しく感じるぐらいで、楽しめた。僕たちが喋るものだから、眠たげに起きてきた慶一郎さんにも同じものを振るまって、二日目の朝は過ぎていった。