第7話 舞い降りた天女(二)
「……で、何でお前がここにいるんだ?」
紅は、素直に答えた。
「廊下を通って、そこの襖から入って来たからだよ」
「そうじゃない」
「ドライヤーを返しに来て待ってたんだけど、直くんが案外長風呂だから、ここでゴロゴロしてたんだよ」
「すんな」
「うん」
ゴロゴロしていたとの言葉どおり、客用の浴衣を着た美少女は、裾がはだけて太ももまで見えて、長い黒髪が纏わり付いているのが何とも悩ましい格好だ。
紅は起き上がると、裾を整えてちょこんと布団の上に正座した。
そこを退け、という意味だったのだが、わざとなのか天然なのか、初夜の新妻風味だ。
「侍女にやらせろと言ったはずだ」
「夜遅くに起こしちゃ可哀想だよ。えへへ、僕、直くんの奥さんみたいだね!」
「…………」
直人は、この少女の反応を、いちいち考慮に入れるのは、やめることにした。
「どうして、どうやって、この離れに入り込んだ?」
「淑子さんが、ここが一番安全だって言ったから。鮎子さんは、直くんがお留守で勝手なことは出来ないって、すごく困ってたんだけど、僕がさっさと中に入っちゃったから、追い出せなくなっちゃったんだよ」
天女みたいなボクっ娘は、「だから鮎子さんを叱らないであげてね」と笑った。
鮎子が「すごく困って」いた様子は、想像に難くない。
淑子はともかく、高天原家当主という、誰も逆らえない権力者が、わざわざ引き取ったらしい《高天原の玖》を、追い返して良いものか、とっさに判断がつかなかったのだ。
かといって、紅を屋敷に上げてしまえば、直人の逆鱗に触れて「物理的なクビ」になるかもしれない。頭から血が引く思いだったことだろう。
「安全、ね」
「違うの?」
直人は答えなかった。ただ、
「あの性悪女……」
と、胸の内で毒づいた。直人の傍が安全というならば、それは直人が戦うという前提だ。
淑子は、直人が「殺人武闘団」の頭領だとは知らなくても、功との死闘を制するほどの者だということは、知っている。
(お前が功さんを殺したのね)
化け物とばかりに罵ったくせに、淑子は直人を何者かと戦わせ、利用しようとしている。
勝手に、直人の命を賭けたのだ。
「どうしたの? 直くん。ちょっと怖いお顔だよ」
鎌をかけられたのだろうか。それとも、この少女の勘がいいのか。
直人は、無表情がデフォルトだ。母とも思えない母が、今更鬼畜だった所で、眉の一ミリも動かない。
「俺は、元々怖い奴だよ。だから、あの女がお前を俺に丸投げしたんだろ。……それで、あの女はお前の安全を確保する為に、俺と誰と戦わせるつもりだ?」
「僕を喰らおうとする男たち全部。僕の敵なら女でも」
あまりにも漠然とした、しかし明確な言葉だった。
この少女の、天女と見紛う美しさ。まだ少女だ。もっと美しくなるのだろう。
喰らおうとする、という、狂った暴力感じさせる、言葉の選び方。
無防備で朗らかに見えるこの少女は、必死に逃げて来たのか。
「俺も男だ。危険だとは思わなかったのか?」
「思ったよ。でも、僕は無力で頼れる人もいないし、直くんに会ってみてすぐわかった。このひとは、僕を踏みにじることはしないって」
屈託のない、無邪気な、そして消えない業のような艶冶な笑みで、少女は続けた。
「僕の体を見て、欠片も欲情しなかったのは、君が初めてだよ。高天原直人くん」
直人は、不可解ことを言われたと思った。
「は? 天女の水浴び見て欲情するかよ」
「…………」
天女は、ぽかんとした。
あまりにも素朴に、真っ直ぐに、「有り得ない」という口調で言われてしまった。
「……ふふっ」
紅は笑った。
「天女って言ってくれたのも、直くんが初めてだよ」
天然に気障な事を言ってしまった、と直人は後悔したが、言ってしまったものは仕方が無い。
「嬉しいな。僕のお母さんも、天女って言われてたんだよ。お揃い!」
母子揃って、規格外の美人らしい。
「その母親は、どこにいる?」
「どこにもいないよ。僕が殺したから」
さらりと言うから、迂闊にも茫然とした。一秒。死闘なら決定的な隙となるというのに。
「お母さんは、僕に殺されて、私の呪いを半分だけ解いてくれた。だから、私は生き残って、お母さんの遺言を叶えなきゃいけない――叶えたいの。必ず」
長い睫毛に縁取られた、真摯な黒い瞳が、直人を見上げた。
「直くん、お願い。それまで私を守って。私に出来ることなら何でもするし、私があげられるものは、全部直くんにあげるから」
何でも――全部。簡単には、言えない条件だ。
生と死のギリギリの崖っぷちで、愛する――きっと――母の遺言を叶えたいと。
直人は、権力と富を巡る思惑が渦巻くこの家で、継人以外と関わるつもりは無かった。
でも、紅の必死な言葉と姿が、無感動に生きてきた直人の心の琴線に触れたのだろうか。
「――依頼しろ」
「え……?」
直人は言った。
「俺は、《依頼》を受けなければ動けない。それが掟だ。お前は既に、『全て』という対価を差し出した。だから『玄冬に依頼する』と言え。それで契約は成立する」
不思議そうに、赤味が差す唇が呟いた。
「げんとう……?」
「他言するな。すれば俺はお前を殺さなければならない。口の重さに自信があるなら、――言え」
「……うん」
紅は目を閉じ、祈るように言った。
「玄冬に依頼する。直くん以外のものから私を守って。対価は、私と僕の全て」
「その《依頼》、玄冬が受けた。僕だか私だか知らないが――」
そう言えば、べに、と呼んで欲しいと言っていた。
「べにを守ってやる。それでいいんだろ?」
「……ありがとう」
紅は、花の蕾がほころぶように笑った。
「よろしくね。僕のお兄ちゃんかもしれない直くん」




