第53話 先代の陸――心人(一)
百貨店内にある個展の会場に着いた。
招待状は持っているが、出入りは自由で、代わりに警備員が立っている。
画家の個展にしてはちゃんとしているな、と直人は思った。
雰囲気でわかる。玄冬の一族とは違うが、防犯から殺しまで網羅する団体の出身なのだろう。
梅宮家が、そのような者たちと密な繋がりを持っているという情報は入っていない。
恐らく30年前の高天原識と同じように、《紹介屋》の斡旋だろう。
若くして死んだ永人の護衛は、警備会社から派遣された、優秀な、真っ当な、ボディーガードだった。
つまり、表の世界の人間だ。
直人はそうではない。裏の世界の人間だ。
永人を失った事を悲しみ悔いて、梅宮家は何らかの手段で《紹介屋》に辿り付いた。
大切なものを二度と失わないように、永人の同母弟である心人を、裏の世界の人間を雇って守っているのだろう。
「……きれい」
足を止めた紅が呟いた。
その絵は、咲き誇る紅い彼岸花の中に佇む少女像だった。絵の額の下には『天人華』と書かれている。
「何か、べにっぽいな」
「そうかなあ……このひとの方が、綺麗かも」
絶世の美少女を自認する紅にしては、珍しいことを言う。
直人は、隣の紅の方が綺麗だと思うが、紅の言うこともわかる気がした。
絵の中の紅い世界には、決して入り込めない。その少女と話をすることも出来ない。
絵は目の前に在るのに、決して手が届かない少女は、遠い想い出のように美しく。
「綺麗でしょう?でも、残念ながらその絵だけは非売品なのよ」
声をかけられる前から、気付いていた。
「蜜花さん、こんにちは」
唐橘蜜花。高天原識と藤川多喜子の娘にして、宗寿の妹。
妊娠中でゆったりした服を着ているが、お腹の膨らみはまだ目立たない。
「大丈夫よ」
蜜花は微笑した。
「梅宮家は、高天原家と殆ど交流が無くなったけど、唐橘家とは悪くない関係なの。お母様もお兄様も、《先代の陸》の消息は知らないわ。勿論、梅宮家当主が継人兄さんを可愛がっていること――――後ろ盾になることもね」
紅が、素朴に問い掛けた。
「蜜花ちゃんは、お母さんや宗寿くんが嫌いなの?」
「いいえ、大好きよ」
「だいすき……???」
紅は、頭にクエスチョンマークが点滅していそうな表情で言った。
「多喜子さんはよく知らないけど、猛犬注意みたいな宗寿くんは、蜜花ちゃんには優しいの?」
「横柄よ。でも可愛いわ」
……かわいい。
直人は言った。
「どのへん?」
「小さなことでも、褒めて褒めて褒めちぎると、とても得意そうな顔をするのよ。可愛いでしょ?」
それは、御しやすいという意味ではないのか。
「本人は猛犬みたいなのに、実は犬が苦手なのよ。子犬にじゃれつかれた時には、叫んで飛び上ったの。可愛いわ」
「…………」
「本当は、きのこの山もたけのこの里もどっちも好きなのに、優柔不断な男だと思われたくないから、一応きのこ派って答えるのよ。私はたけのこ派だけど、違う意見を言うと怒るから、私もきのこ派って答えることにしているの……うふふ」
「…………」
「秘密にしてね?お兄様が、唐橘家に殴り込みに来てしまうから」
言わなきゃいいのに。
「大好きなのに、次の当主は継人お兄ちゃんがいいの?」
「お兄様は、無能ではないけれど、乱暴で気位が高すぎるわ。傍に残る人間は、媚びへつらう者だけになってしまう。……それでは、ダメなのよ」
高天原家を出た聡明な姉は、もう母よりも兄よりも、夫やお腹の子供をより愛し、唐橘家の人間として生きることを選んで生きている。
「私は、欲しい絵を買ったから帰るわ。私が心人さんと知り合いだってこと、誰にも言わないでね?」
21歳の美しい人妻は優雅に微笑むと、やはりボディーガードを伴って去って行った。
「べに、行こう」
「……うん」
個展の会場は思うより人が多いが、美術館のような密やかなざわめきだ。
人の間をすり抜けて、直人は紅の手を引いた。
そして、奥へと進んでいくと、ひとりの人物がこちらを向いた。
金髪に、青い瞳。
だが、了のような白人の血を感じさせる面差しではなく、眼鏡をかけていた。
その人物は、立ち尽くしていた。
視線の先は、直人ではない。隣の紅だ。
紅が、紅い唇を開いた。
「初めまして。私は、八坂紅です。私を連れて来てくれたのは、継人さんの同母弟の直人くんです」
金髪碧眼の人物は、我に返ったように隣の直人を見た。
「ああ、継人君から連絡を貰っているよ。初めまして。直人君と、高天原紅さん……ではないのかい?」
「八坂紅、の方が、わかりやすいと思ったから」
紅は、歩を進めた。藍染心人――――かつての《高天原の陸》高天原心人へと。
「私は、八坂蘭の娘です」
紅は、心人を見つめた。
「私の母は、永人さんの、恋人でした」