第51話 穴ふたつ
救急車が校舎の入口で止まり、三階の――調理室の辺りが騒がしかったのは、直人の耳は聞き取っていた。
だが、午後になっても全く情報が入らないまま、帰りのHRが終わった。
……ところに忍から連絡が入った。
「べに、教室にいてくれ。俺が戻るまで、ひとりになるな」
「うん!僕いい子にしてるよ!」
ぐっすり眠ってスッキリしたのか、紅は元気に答えた。
「何だ?忍」
『紅ちゃんのアリバイは、監視カメラが記録してる。情報は遮断したけど、次は「紅ちゃんに嫉妬した柳子の妄言」っていう噂を流しておくから大丈夫だ』
「日本語で頼む」
『何だ、知らないのか?……あ、箝口令敷いたの俺じゃん』
通信機の向こうで、忍が言った。
『調理実習中に、コンロの火が柳子の髪に引火した。油でもかぶったのか?って思うくらいの燃え方で……、まあ分析してみたところで、あの火傷じゃ痕が残るのは変わらないし、今後の事故防止を徹底するしかないな』
――――髪が燃えた――――
直人がとっさに思い浮かべたのは、髪の毛を切り刻まれながら、頭を手で庇ってうずくまっていた紅の姿だった。
「あいつ、調理実習でも高天原特権で三角巾被んないのか?」
『帽子みたいに被ってるだけで、髪の毛垂らしてる子って結構いるぞ。お前のクラスにもいるだろ?』
「知らねえよ」
『お前……本当に紅ちゃんしか見てないんだな』
「通信切るぞ」
『とにかくだ』
忍は、真面目な口調で言った。
『紅ちゃんの無実の証拠は、俺が父上に証拠を送っとく。それでも、寵妃の沙也香さんが怒り狂って離れに突撃してくるかもしれないから、対応には気を付けてくれ』
「了解」
直人は通信を切った。
不思議なくらい、何の感慨も湧かない。
紅が髪を切られているのを見た時には、怒りのあまりに視界が血の色に染まるような気さえしたのに。
「まあ……俺は、元々こんなんだったよな」
他人に興味はない。例外は、亡き師と継人だけだった。
やたら了が自分に懐いてくるのは、玄冬の一族の年長者として、適度に相手はしていたが。
たまに何かゴチャゴチャ言ったりやったり、絡んでくる人間はいるけれども、大抵はどうでもいい。関心を持つことすら面倒くさいと思っていた。
――――紅に、出会うまでは。
きっと、自分は大きく変わってしまったのだろうと直人は思った。
紅と共にいると、『調子が狂う』。
紅以外の人間、クラスメイトや兄弟にも、いくらかの情を感じるようになっていた自分に気付かされた。
柳子のことは一時は許せないと思ったけれども、当の紅が新しい髪型や髪飾りを気に入って喜んでいるので、直人だけが腹を立てる意味はない。
柳子と《壱》の宗寿の絡み方は似通っていて、どちらも不義の子、偽物と言い、お前なんかと蔑むことで、つまらないプライドを保とうとしている。
余程、嫌われているのだろう。……どうでもいい。
今はただ、紅の本当の笑顔を、守りたい。
「くれちゃん」
直人が出て行ってしばらくすると、授業中は姿を消していた了がやってきた。
「了くん、お勉強はいいのかな?」
「お勉強は、忍くんの特別プログラムでやってるから、授業をうけるより全然いいよ」
「しのぶくん、って四番目のおにいちゃん?」
「面白い人だよ。ちょっと変わってるけど」
了の青い瞳が、紅の黒い瞳を見つめた。
「僕が代わりに謝るんじゃ、ダメだった?」
「ん?柳子ちゃんのこと?」
「知らないの?」
「何かあったみたいだね。何かは知らないよ。自動的に呪いが返ったのなら、心当たりはあるけど」
のろい?と小首を傾げる了に、紅は言った。
「特別な儀式をしなくてもね、人は人を呪えるの。誰かを傷付けるような言葉や行動もそうだし、強い憎しみや恨み、強い悪意は、素人でも無意識に使っている呪いなの。相手の精神が強かったり、《守護》の力が大きかったりすると、穴ふたつのひとつに落っこちるけどね」
「…………」
「呪いはね、キッチリと本人に返った方がいいの。悪人の大往生って言葉もあるけど、そういう場合は家族や何の罪もない子孫に返りが来るんだよ。それは理不尽でしょ?」
紅は、にこりと笑った。
「僕の髪の毛の事なら、もう過ぎたことだよ。だから、何が起きても了くんのせいじゃないの」
「じゃあ……どうして?」
紅は、笑っていなかった。笑っているのに、笑っていなかった。
「直くんはね、僕を守ろうとして怪我をしたの。いっぱい、血が出てたの。プロの殺し屋ならともかく、柳子ちゃん相手に、あの直くんが、だよ?」
了は、一瞬青い目を見開いて、そして、不思議に大人びた、ほろ苦い微笑を浮かべた。
「……くれちゃんは、直兄のために怒ってくれたんだね。僕も、直兄が苦しむのはイヤだよ。……柳子ちゃんは、何かを失わないと、何もわからない子なんだ」
そして、おひさまのように笑った。
「直兄が守りたいひとが、くれちゃんでよかった!」
「ふふっ、ありがと。僕も、直くんの可愛い弟が了くんでよかったよ」
さほど時間を置かずに、直人が戻って来た。
「さっき、了が来てただろ。何の用だったんだ?」
「直くんを大好き同士で、直くんへの愛を語り合ってたんだよ!」
「帰るぞ」
紅は、背を向けた直人の腕に、ぎゅっと抱き付いた。
「今日は、自転車を回収して帰らなきゃね!」
離れの玄関の前で、ひとつの攻防が繰り広げられていた。
「奥様、なりません。当主様はお静かに過ごすようにお望みです」
「五月蠅いッ!私に触れていいと思ってるの!?」
沙也香は止める護衛の手を振り払い、高天原鮎子に詰め寄った。
「あの私生児を出しなさい!!よくも、柳子を…!よくも私の娘を…!!」
「こちらに庶子などおりません。直人様と紅様はまだお帰りではありませんが、いらしたとしても、そのように正気を失っている者と、会わせる訳には参りません」
「何ですって!?この侍女風情が。あんたなんか、識さんのひと言で、……」
沙也香は気付いた。何処かで見た顔だと思ったら、
「あんた、淑子の侍女じゃないの。不義の子の侍女に格下げになったの?」
「紅様の時は、御台様のたってのお願いで断り切れませんでしたが……私も二度目は無いのです」
嘲う沙也香に、鮎子の小さな呟きは聞こえていなかったが、淡々と続けた。
「御台様には、大変良くして頂きました。今は、飛ぶはずの首を繋げて下さった御恩で、直人様にお仕えしております。――――この屋敷の住人以外では、自由に出入り出来るのは《高天原の弐》継人様だけです。お引き取りください」
「あんたに用はないわ!!」
「私もです」
鮎子の拳が、ドッと沙也香の鳩尾に入り、沙也香はずるりと崩れ落ちた。
「奥様!!」
「お静かに。気絶しているだけです。早く寝所に運んで差し上げなさい」
呼ばざる客を見送った所に、鮎子の主人と保護対象が帰ってきた。
「あれ?鮎子さん。黒ずくめの人たちがあっち行ったけど、何かあったの?」
「沙也香様のお加減が芳しくないようでしたので、お帰り頂きました」
鮎子は、丁寧な所作で一礼した。
「直人様、紅様、お帰りなさいませ」