第32話 数持ちの思惑(二)
名を呼ばれた宗寿は、意外そうに、しかし気分の良い様子で言った。
「ふん?俺を知っているのか」
「《高天原の壱》が、一番お父様に似ていらっしゃると聞いていたので」
その言葉は、次期当主の座を強く欲している宗寿が、最も気に入っている讃辞だ。
が、紅は神秘的な目を細めて、微笑を返した。
「――――でも、私を天女に例えた男は『二番目』ね」
宗寿は、ぴくりと眉根を寄せた。
紅の返答は、言外に「天女のように美しい」という形容は二番煎じとも聞こえる。
「一番目は、父上か?」
「違うわ」
「誰だ」
「気になるの?天女だなんて、戯言でしょう」
紅は、くすくすと笑ってはぐらかした。
まずい、と直人は思った。
宗寿の苛立ちに、会場に緊迫した空気がビリビリと張り詰める。
何を狙ったのか、紅の言葉も態度も、未熟な男をからかう女のそれか、「お前は一番の男ではない」という挑発だ。
少なくとも、宗寿はそう受け取った。
何事につけ、『正妻の一番目』の継人と比べられる『側室の一番目』の宗寿には、どんな話題であっても「一番ではない」という言葉は地雷なのだ。
宗寿の手が、紅の華奢な顎をくいと上向かせた。
「おとなしそうな顔をして、お前の母親もお前と同じ顔で父上を手玉に取ったのか?」
「まさか。私の母は身を隠して産んだ私を連れて、流離い続けた哀しいひとでしたのに。魂だけは天に帰れましたけれども、俗世に残した娘のことだけは、天の母もさぞ心残りでしょう」
ざわ、と周囲が揺れた。
正妻でも側室でもない女が産んだ娘が、数持ちになること自体が異例であるのに、紅は今『紅の母親は高天原識を拒み、最期まで高天原識のものにはならなかった』と言ったのだ。
高天原識は、八坂蘭を側室どころか妾にすることすら叶わなかった。
だが、蘭に瓜二つの紅を引き取り、正妻の娘同様の地位を与えた。それ程までの、美しい母娘に対する執着。
「……気易く、私に触れないで」
白い手が、ぴしりと宗寿の手を弾いた。
触れてはならぬのは、宗寿が高天原識という羽衣の盗人に似ているからなのか。
それとも、《高天原の玖》は既に高天原家当主という《真の一番》のお気に入りであり、身の程を知れということなのか。
――――違う。紅は、既に高天原直人のものだからだ。そのひとつに尽きるのだ。
紅は、ふわりと長い黒髪を揺らして宗寿に背を向けた。
「待ちやがれ!この、ぽっと出の九番目が!」
激した宗寿が、艶やかな黒髪を無造作に鷲掴みにした。
「生意気が過ぎるぜ。天女か何だか知らねえが、父上のペットの小娘なんざ、数持ちだろうと誰も敬っちゃくれねえし、守られもしねえと思え」
紅は、髪を乱暴に引っ張られても、大振袖という不自由な装いでも小さくよろめいただけで、痛みや恐怖の表情を浮かべることもしなかった。涼しげな声は、典雅な旋律のように、
「別に敬って貰えなくてもいいけど……守って貰えないのは、どうかなぁ?」
と赤い唇が紡いだのと、宗寿の手から黒髪がはらりと零れ落ちたのはほぼ同時だった。直後に、宗寿が咆吼する。
「ぐあああッ!!うぐぅっ、この、《偽物》がぁッ!!」
宗寿は、憎悪を剥き出しにした目で『七番目』を見た。右腕に激痛が走り、それは不自然にだらりと下がる。
「守ってくれてありがと、直くん」
いつもの口調で、紅は花のように笑った。
「宗寿」
直人は、紅を背後に庇って前に出た。
「紅のボディーガードは俺だ。御台様のご意向なんで、不満があるなら御台様に言え」
「……!」
(御台様が……?)
(何故……)
(どこの馬の骨ともしれぬ女の娘の後ろ盾に――――)
ヒソヒソとした外野の声は、直人には全部聞こえていた。
後ろ盾云々は、直人も今日が初耳だったが、確かに庶子である娘を《数持ち》にして手元に置く為に、正妻の養女扱いするのは舌打ちしたくなる巧い手だ。
「『一番目』が、みっともなく騒ぐなよ」
膝を付いて呻いている宗寿を、直人は冷ややかに見下ろした。
「肩と肘と手首の関節、三点セットで外れてるだけだろ。とっとと病院か接骨院に行ってこい」
直人は、会場のスタッフからマイクを借りると、一応断りを入れた。
「《漆》と《玖》は退席する。会場は三時間貸切だから、後は適当に楽しんでてくれ。此処で帰られると、食べ物とか飲み物とか勿体ないんで」
絶対、後は自分と紅と、ついでに宗寿や継人の後継者争いの噂話で楽しむのに決まっている思いながら、直人は紅の手を取った。
「行くぞ」
「うふふ、結婚式のお色直しで、中座するのってこんな感じなのかな?」
「再入場はしないからな」
背後から、宗寿が何か喚いているのが聞こえたが、面倒くさいので直人は雑音としてスルーした。のに。
軽く振り返った紅は、ゾクリとするほどの艶麗な流し目で言い放った。
「ああ、宗寿くん?私を一番目に天女と言ってくれた素敵な男なら、今私の隣にいるわ」