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第2話 高天原の漆――直人(一)

 山を下りた俗世では、暖かい陽気に恵まれた桜が散り始め、渡り廊下に美しい春の亡骸のように吹き溜まっていた。


 静かだ。母と呼んだことも無い母親から呼び出されたのは煩わしいが、足に纏わり付く桜の花びらと、この静けさだけは望ましい。


 騒がしいのは嫌いだ。欲望と陰謀が渦巻く世界も煩わしいし、関わるのは面倒くさい。


 高天原(たかまがはら)直人(なおと)。本家当主の第七子として《高天原の(しち)》の称号を持つ。


 高天原財閥の総帥にして高天原本家の当主・高天原(しき)の第七子であり五男。正妻の子としては第二子にして次男だ。


 直系男子優先相続の一族にあっても、五男であることから跡継ぎ候補から外れ、特に何も期待されてはいない。


 跡目には遠いとは言え、正妻の息子でありながら幼少時は本邸ではなく離れに放置されていたことから、不義の子ではと噂された。

 そんな子供が五歳で傍系の高天原(いさお)――――直人が七年間師匠と呼んだ――――に預けられて外部で育ったことなど、殆どの人間は知らないか、忘れ去っていたことだろう。


 七年前は無力だった子供が、殺人術闘団の頭領・第101代玄冬を襲名した物騒な少年に成長して戻って来たとも知らずに。


「長い間のお務めご苦労様。功さんが褒めていたわ」


 直人の師の名を出し、しかし母自身が褒める訳ではない。

 四十を過ぎたはずだが、不思議に若いまま時の流れを拒んだような美しい女――――現当主の正妻・高天原淑子(よしこ)は、白く無表情な顔で言った。


「本邸にお前の部屋を用意させました。中学校の制服を、急ぎ仕立てなければなりません。午後には業者が採寸に来ますから、それまでに自室に移って来るように」

「…………」

「それから、もうすぐ十三になるでしょう。祝いの品に望むものがあれば言いなさい」


 生まれてこの方、誕生日を祝われたことなどあっただろうか?

 制服の採寸なんて、普通の母親みたいな事を言う為に呼び出した訳ではないだろうに、さっさと本題に入って欲しい、と思いながら直人は答えた。


「離れの屋敷を下さい」


 直人が率直に答えると、母の表情が微かに動いた。

 怪訝と不快の色を直人は敏感に察知したが、構わずに具体的に言った。


「三日前、俺が戻って来た時に通された、先代の側女(そばめ)と《数無し》が住んでいた離れです。――――七年前の俺が最後の住人のようなので、誰も困らないでしょう」


 開け放たれた障子の向こうから、ふわりと桜の花びらが畳の上に落ちる。

 風も気温も柔らかいのに、淑子はピリリと神経質な気配の問いを返した。


「何故です?」

御台(みだい)様が俺の言動の意味に興味を持つとは意外です」


 直人は淡々と答えた。

 特に皮肉ではない。ただの感想だ。


「理由を言いなさい」

「本邸よりも、あちらの方が慣れているので」

「…………」

 和服美人が、険しい表情を浮かべた。


 あ、やっちまった。

 と直人は思ったが、「放置されるのには慣れているので」という裏の意味を勝手に創作したのは母なので、好きにすればいいと思う。


「何を企んでいるのです?」

「何も企んでいません。御台様の疑いが事実であっても事実無根であっても、俺は同じことを言うだけです」


 何故、そのように苛立った顔をするのだろうか?

 愛してもいない子供が、素直に都合の良い態度を身に着けなかった所で、それは俺の所為じゃないんだが?と、直人は素直に不思議だと思った。


「家事をする侍女を付けて下さい」

「何人欲しいの?」

「俺ひとりで住むので、真面目に働く侍女ならひとりで足りるのでは?」


 ここでイヤな顔をするのなら、かつて三人の侍女をあてがわれていたのに、幼少時の直人が満足な食事も与えられず、いつも同じくたびれた着物を着ていたことくらいは覚えていたようだ。

 世間ではこれを毒親とか虐待とか言うらしいが、直人にはどうでもいい。


「……嫌味な子ね。功さんに任せたから、少しはまともに育つかと思ったけれど」


 ぷつり、と直人の中で何かが切れた。どうでもよく、なくなった。


 直人は身軽に座卓を乗り越えると、淑子の襟の合わせ目をガシリと掴み、そのままズドンと背後の壁に打ち付けた。

 淑子は息が詰まり、呻き声を上げたけれども、一瞬のことで何が起こったのかわからなかっただろう。


「師匠の名を侮辱するな」


 呪いのような声と共に、闇のように黒い目が淑子の目を射抜き、見下ろしていた。見下していた。


「糞みてえに俺を産んで、師匠に押しつけた恥知らずな糞女が、二度と師匠の名を口にするな。……良かったな。師匠が一から俺を育ててくれたお陰で、俺がどんな人間でも、何をやらかしても、一秒たりとも俺を育てたことのないお前は、何の責任もありませんって言い訳出来るぜ。白い手の御台様」

「…………」


 淑子は、わなわなと口元を震わせながらも、何も言い返さなかった。

 所謂名家、良家の娘として産まれ、高天原家の当主の正妻として嫁いだこの女は、これほどの罵詈雑言を連ねられたことは、人生初なのかもしれないな、と直人は乾いた心で思った。


「何に腹を立てている?何を被害者ぶっている?因果応報っていう言葉は、お前の辞書には無いのかよ。恥っていう言葉もな。()()師匠に育てられた俺が戻ってきて、まだ自分の首と胴体がくっ付いてることを、不思議に思わないのか?」


 淑子は、見た。たかが十三歳の子供の黒い瞳に、子供が持ち得るはずのない、昏い殺気の炎が燃えているのを。


 陣痛で苦しんでやるものか、術後の痛みと傷跡に耐える方がいい、産声も聞きたくないと全身麻酔の帝王切開での出産から、一度もこの腕に抱いたことのない子供だった。


 赤ん坊のうちに身分の低い侍女と共に離れに追いやり、その後は傍系の高天原功に預けたまま、自分の手で育てたことはなかった、この息子が――――


 漸く、紅を塗った唇が動いた。


「お前が……功さんを、殺したのね」

「その名を、口にするなと言った!!」


 直人は、感情の制御は、師・高天原功から教わった。習得するのは難しくなかった。

 功に預けられた時には、既に幼い直人の心は虚無と化していて、怒ることも悲しむことも、恋しがることも寂しがることも、全く知らないか全て忘れ去っているような子供だったから。


 そんな直人の唯一の地雷が、七年のうちにひとつだけ出来た。

 直人に父親らしい父親が存在するのならば、それは高天原功だった。たとえ、功が殺人術の師匠であってもだ。


「三度目は無いと思え。俺は仏じゃない」

「……脅しているの?私を殺したいのなら、そうしなさい」

「イヤだ」


 あっさりと直人は言って、襟元を掴んでいた手も離した。砂壁に沿って、淑子の体がずるりと崩れ落ちる。


「お前、死にたがりの目をしてるな」

「…………」

「死にたければ勝手に死ね。白い手の臆病者に、わざわざ俺が手を貸してやるかよ。面倒臭い」


 直人は、言葉どおり面倒臭そうに、もう興味を失ったように淑子に背を向けた。

 ――――違う。元々、あの少年は淑子にも『母親』にも、興味など持っていなかったのだ。

 

「あ」


 直人は、部屋を出る前に飄々と振り返った。

「離れの鍵くれよ。無くてもぶっ壊して出入り出来るけど、修理代が勿体ないだろ」




「どうして、あの子を呼び出したりしたのかしら……?」

 淑子は、ぽつりと呟いた。


「……思い出せないわ」

 柔らかな風の向こうで、春の役目を終えた桜の木が、はらはらと花びらを散らしているのが見えた。


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