第2巻:第4章 どうして運が悪いの?
「昨日は本当に驚きました。お2人が、まさかドラゴンに運ばれてくるなんて……」
のんびりとお湯に浸かりながら、長い黒髪の修道女がメイベルに話しかけてきた。
メイベルが高原でドラゴンに会ってから、一晩の時が流れていた。
今は明け方。太陽が東にある岩の山脈から顔を出し、高原に朝が訪れる時間である。
そこでメイベルは今、教会にある大きな露天風呂に入っていた。朝食を済ませたあと数人の若い修道女たちに誘われ、一緒に露天風呂に入ることにしたのだ。
お湯は白く濁って硫黄のにおいを漂わせている。これまでの旅で溜まった疲れを癒すには、最高の憩いの場である。もっとも、
「メイベルさん。待ち伏せしてたドラゴン教徒との戦いで魔法を使いすぎて、気を失われたそうですわね。お勇ましいですわ」
「えっと、それは何というか……」
長い黒髪の修道女の言葉に、メイベルが返事に困っていた。
メイベルはあのあと、長老ドラゴン──カームに運ばれてきた記憶がない。あのまま疲れも手伝って、朝まで寝ていたようなのだ。
昨晩、メイベルがなかなか起きてこないので、ナバルは1人で教会の人たちの質問攻めに遭い、事件の大筋を語ったようなのだ。その話によれば山を越えたところでドラゴン教徒の待ち伏せに遭い、メイベルの魔法でどうにか突破したことになっていた。しかし、奇岩の高地まで逃げてきたところでメイベルの力が尽き、そこを囲まれて絶体絶命の状況になった。ところが、そこに運良くドラゴンが現れてくれたため、ドラゴン教徒は殺生をできず引き下がったというながれだ。で、そのドラゴンがなかなか気の好い相手で、親切にも教会まで連れてきてくれたというのである。
ナバルの性格からして、メイベルが山を越える前に体力が尽きたとか、ドラゴンを目の前にした恐怖で気絶したとか、不名誉になる部分を隠してくれていた。
まあ、ナバルの気配りはありがたいのだが、そのためメイベルは今さら違うとは言い出せず、居心地の悪い気分を味わっている。
そんな気持ちを誤魔化すように、
「でも、朝の礼拝をサボってみんなで朝風呂って、いいのかな?」
と、メイベルが話題を変えようとしてきた。
「司教さまが認めてくださったのですから、問題ありませんわ」
「あはは。ホントはこの教会では、何か祝い事のある日にしか礼拝してないのよね。で、今日は勇者さまと従者さまが来たおめでたい日だから礼拝をしようかって話も出たけど、勇者さまがぐっすりお休みだったから、なし崩し的に中止になったのよ」
教会で一番若い修道女が、お湯の中で楽しそうに泳いでいる。そんな彼女の言葉に、
「久しぶりにベッドで休めたのだから、なかなか起きられないのも仕方ないわね。おかげで旅立ちの神事までの時間ができたから、こうやってお風呂に入れるんだけど……」
と零して、メイベルが両手を挙げて大きく伸びをする。
いつもであれば朝食と礼拝が終われば、すぐに旅立ちの神事が行われる。神事で決められた行き先によっては、朝早く旅立たなければ、その日のうちに着けるはずが着けなくなって野宿になるかもしれないからだ。
とは言え、肝心の勇者であるナバルが寝てるのであれば、神事を行うことができない。そこでナバルが目覚めるまでの時間潰しとして入浴してるのである。
「このままナバルさん、お昼まで寝てないかなぁ〜」
などと言って、メイベルがゆっくりと肩まで沈んでいく。
そのメイベルのところに、教会で一番若い修道女が泳ぎながら近づいてきた。その女の子がニヤッと笑みを浮かべて、
「ねえ、メイベルさん。勇者さまとは、どんな関係なの?」
と尋ねてくる。
「…………はぁ!?」
「とぼけないでよぉ。2人だけで旅してるんでしょ。もう恋人の関係とか、ぬふふ……」
女の子が悪戯っぽい笑みを浮かべて、ちょっとイヤらしい声で笑った。そんな女の子の無邪気な質問だったのだが、メイベルはつい真剣に考えてしまう。
「恋人って……。わたしとナバルさんは、恋人なんかじゃないわよ。ただくじびきで決められただけの、勇者と従者……という関係で……」
メイベルがお湯の中で、人差し指の先をツンツンし始めた。そのメイベルに、
「何もないの? 男の人と女の人が、何日も一緒にいるのに?」
と、女の子がつまらなそうな表情を浮かべて念を押すように訊いてくる。
そんな女の子の言葉に、メイベルが返事に困ってしまった。
「ないわよ。何も……」
「なぁ〜んだ。つまんないのぉ〜」
メイベルの答えを聞いた途端、女の子が急に興味を失ったように泳いでいってしまった。それで解放されたメイベルが、大きく安堵して鼻までブクブク沈んでいく。
「ゴメンね。あの子、今、何でもかんでも色恋沙汰にしたい年頃みたいなんだ」
そう言ってメイベルに近づいてきたのは、ショートヘアの少女だ。見た感じの年恰好としては、この教会でもっともメイベルに近いと思われる少女である。その少女に、
「あの手の質問は、なかなか慣れないわ。あはは……」
と返して、メイベルが赤くなった顔にパシャッとお湯をかける。
「それにしても、こんなに広いお風呂を自由に使えるなんて、ここは羨ましいわね」
「ホント、ここは天国ですわ」
メイベルの言葉に、長い黒髪の修道女がお湯でとろけそうな顔で答えてくる。
「昔は湯治客が多くて、大変だったそうですわ。でも、ドラゴン教徒がこのあたりを聖地にしてからは、湯治客がほとんど寄りつかなくなったそうですのよ」
「それでも昔の名残で、今も湯治客の接客役として、あたしたち給仕係や厨房係を派遣してるんだよねぇ。日々のお勤め以外にやることなんてないのにさ」
黒髪の修道女とショートヘアの少女が、口々にこの町と教会のことを話してきた。そこに泳いでいた女の子が戻ってきて、
「きゃはは。だから、ほとんど毎日遊んでるんだよね」
と言うと、またパシャパシャとしぶきをあげてお風呂の端まで泳いでいってしまった。そこまでの距離、だいたい20m。ほとんどプール並みの大きさである。
そんな女の子に白い目を向けたショートヘアの少女が、
「どこの教会でも似たようなものだけどさ。自由が多いと、遊びまくって堕落する人と、自分を磨いて成長する人の違いが出るじゃない? この教会は放任主義が徹底してるから、それが顕著に出てくるんだよね」
と、メイベルに言ってきた。この少女は時間を遊んですごすのは嫌いなようだ。
「メイベルさん。メイベルさんの袖章を見たけど、あれ、間違いなく宮廷料理人だよね。それもタマネギ3個。料理人の中でも、ずっと上の位の……」
その少女が真剣な眼差しをメイベルに向けてくる。
「ねえ、毎日、どのくらい料理の勉強してきたの? ぼくも宮廷料理人を目指してるんだけど、どれだけ努力すればなれるかな? ぼく、毎日10時間は料理の練習してるんだ。それで今年タマネギ1個になって、今はここの副料理長を任されてるんだよ。それとね、今朝の料理は料理長じゃなくて、ぼくが作ったんだ。どうだったかな?」
真剣な眼差しというよりは、熱い眼差しだった。
それもそのはず、メイベルは少女にとっては雲の上の人。それが目の前にいて、しかも一緒にお風呂に入っているのだ。あれこれと聞いてみたいことがあって当然である。
ちなみにソルティス教の修道士、修道女の中で階級を与えられるのは、全体のせいぜい5人に1人でしかいない。その階級であるが、どの階級も5つの位があって、象徴物が5つ描かれた1番上の位にはソルティス教の修道会全体で1人しかいない。そして4つ描かれた階級も10人しか認められないため、それらは階級というよりは勲章のような扱いだ。そのため事実上象徴物が3つ描かれた階級が最高位である。
また、階級とは別に技術の高さが認められれば、袖章に銀の縁取りが入れられる。その中から更に選ばれた者だけが金縁の宮廷専属となれるのだ。
当然、階級に縁取りを持つ者は、周囲からは一目も二目も置かれることになる。
余談であるが、ソルティス教の中核である聖サクラス教会には、帝国全土から優秀な者たちが集められている。いずれも階級を持ち、かつ銀縁を認められた者ばかりだ。そして現役の宮廷専属者も、すべて聖サクラス教会にいる。
宮廷料理人を目指すということは、少女は自分もその仲間になることを夢見ていることだ。もちろん、その競争率の高さも十分に承知した上でである。
「10時間……かぁ。それはすごいわね。わたしは2時間もしてない……かなぁ……」
「ウソ!? ご謙遜でしょ? それで宮廷付きのタマネギ3個になれるわけ……」
メイベルの言葉に、少女が驚いた声で否定してきた。
「本当よ。わたしが旅を始める前、一番力を入れてたのは博物学よ。宮廷付きの学者たちに交じって、一緒に研究させてもらってたわ。それに科学技術や水力技術の勉強したり、それから魔導師の修行したり、もちろん料理の勉強もするけど、料理の腕前だけじゃなくて、食材の勉強もいろいろしたわ。季節ごとの旬の食材とか、調理法とか、栄養学も勉強したし、毒や薬についても勉強したわ」
「そんなにいろんなことしたら、料理の勉強する時間がないじゃない」
「うん。あまりないわ」
「ないって……」
思わぬ答えに、少女が絶句しかけている。
「これはわたしの持論だけど、何かを目指す時に一点豪華主義というのは限界があると思うのよ。砂遊びで塔を作ることを考えるとわかると思うけど、あまり高い塔は作れないでしょう。でも、土台を高くすれば塔はいくらでも高くできるわ。料理も似たようなものだと思うのよね。一見関係ないような知識が、料理の役に立つような……」
メイベルがお湯に肩まで浸かり、ゆっくりと空を見上げた。
青空の中で、朝日を浴びた綿雲が黄金色に輝いている。その雲を目で追いながら、
「実際、厨房係になって必死に料理を勉強してた頃より、博物学の勉強を始めてからの方が上達が早かったように思うわ。初めの頃は道具の上手な使い方とか、野菜の切り方とか、お鍋の火加減とか、お魚の焼き具合とか、そんな小手先ばかりに気持ちが向かってたけど、料理で大切なのは小手先の技術じゃないのよね。そういう部分は必死に覚えなくていいのよ。大切なのは1つ1つの食材や調味料の性格を知ること。これを知っておくとね、目の前に並んだ材料をどうすれば美味しく料理できるか、それがわかってくるのよ」
と料理について語る。
「えっと……。言ってる理屈は何となくわかるけど、どうして博物学なの?」
「理由は簡単よ。博物学は食材や調味料について、それがどんな風土で育って、それがどんな特徴を持つもので、それを普段食べてる人たちはどんな調理をして、それがどんな歴史をたどってきたのかって知識を与えてくれるのよ」
少女にそう答えたメイベルが、視線を温泉に戻してくる。
「小手先の技術も大切だけど、それは食材をダメにしない程度で十分だと思うの。本当に必要なのは、どれだけ食材のことを知ってるかなのよ。ありふれた食材でも深く知ってるほど料理や味つけに幅が広がるわ。反対にどんなに腕に自信があっても、食材のことをろくに知らない料理人は、最高の食材を与えてもありきたりの料理しか作れないの。たとえば同じ種類のお芋でもね、油で揚げると真っ黒になる品種と、白いままこんがり揚がる品種、それから油の熱で甘味が出てくる品種、油に味が溶け出しちゃう品種、油を吸ってベシャベシャになる品種などがあるの。品種によって、ホント、性格が違うのよね」
「材料の性格……。そんなもの、考えたこと……。あ……」
メイベルの話を聞いた少女が、思わず手で口を掩った。
自分は間違った調理方法で、食材の持ち味を殺していた。そして、それが今朝の料理に対するメイベルの感想で、メニューにない油を使った芋料理を例に出して遠まわしに問題を教えてくれている。少女はそう感じたのだ。
もっとも当のメイベルにはそんなつもりなど微塵もなかったのか、
「ふぇ〜。このままお湯に溶けちゃそうだわぁ〜……」
お湯の心地よさにすっかり目を細めて肩まで浸かっている。
そこに、
「メイベルさん。勇者さまがお目覚めになられましたわ」
と言って、灰色の服を着た見習い修道女が脱衣所のドアを開けて声をかけてきた。
「ただいまお食事をされてますので、お済み次第、旅立ちの神事を始めるそうですわ」
「は〜い。わかりました」
伝言を聞いたメイベルが、さっそくお湯から上がって出ていこうとする。
さて、それと同じ頃、
「ついに勇者を発見しましたか」
内陸の港町シェーベスに設けられたドラゴン教アサッシニオ派の活動拠点。そこに到着したブルーノに、さっそくナバルたち発見の報せが伝えられた。
「場所はどこですか?」
「電信は2つあります。1つはレヴィンから。昨日の夕刻、勇者がドラゴンさまに連れられてレヴィンの教会に到着したそうです」
「ドラゴンさまに連れられて?」
報告の言葉に、ブルーノが怪訝そうな表情を浮かべる。
「それはいったいどういうことですか?」
「詳細の報告はありません。以上です」
ブルーノが詳しい事情を求めようとしたが、そこまでの情報は入ってきてなかった。
「ふむ……。何があったのかはわかりませんが、ドラゴンさまは勇者がレヴィンに立ち寄ることをお認めになったのでしょうか?」
ブルーノの表情が怪訝そうなものから困った感じへと変わっていく。発見の報を受けたのだから、すぐにレヴィンにいる仲間たちに襲撃を命じようと思った。だが、それでは勇者を運んだドラゴンの考えによっては謀反になってしまう。
ブルーノは結論を出せないまま、
「もう1つは?」
と、次の報告を求めた。
「2つめはヴェヘムからです。昨日の午後、峠で見張っていた小隊が山を越えてきた勇者と接触。追撃戦を仕掛けましたがドラゴンさまが現れ、追撃を止められたそうです」
「またドラゴンさまが?」
報告を聞いたブルーノが、また怪訝そうな表情を浮かべる。だが、
「あ、2つめの方が時間的には先ですか。とすると、その追撃を止めてきたドラゴンさまが勇者をレヴィンにある教会へ運んだのですね」
と、だいたいの状況を理解した。そして、
「ドラゴンさまに運ばれたとなると、レヴィンを襲撃するのは得策ではありません。でも、勇者が今レヴィンの町にいるとなれば好都合。そこから先の道はただ1つ。ふもとにあるオーマンドの町に寄るはずです」
と、自分たちに有利な状況と見てブルーノがほくそ笑んだ。
「全員、ただちに出発の準備をなさい。これよりオーマンドで勇者たちを待ち伏せます。レヴィンからオーマンドまで3日ですが、2日で来るかもしれません。ここからも丸2日はかかります。時間の猶予はありませんよ」
ぞろぞろと建物に入ってくる男たちに、ブルーノが次の命令を与えた。
狙っていた獲物がついに網にかかった。そのことに男たちの士気がイヤでも高まってきた。ブルーノの命令に、
『おお〜〜〜〜〜っ!』
と、気合いを入れて返した男たちが、再び次の場所へ旅立っていく。
そんな1日が、早くも終わりに近づいていた。
レヴィンの町から旅立ったナバルとメイベルは今、
「まずいな。今日は雨宿りしたまま野宿になりそうだな」
「うん。そうなりそうね」
突然の激しいどしゃ降りに遭い、山道沿いに造られた屋根と柱だけの小屋で立ち往生していた。
空を厚い雲が掩っている。雨の強さはバケツをひっくり返したなどという形容では物足りないほどの激しさだ。雲の上でドジっ娘の雨の女神さまが、雨水を入れたタンクの底に穴を空けてしまった。そんな感じがするほどの雨の強さである。
雨宿りしてる2人は、ブルーノが予想した通りオーマンドの町へ向かっていた。だが、読みは1つだけはずれていた。ブルーノの予想した街道は馬車が通れるように、坂道を緩やかにするために深い森を大きく迂廻する経路で作られた道だった。だが、2人は山のふもとまでの約36kmを、一直線に深い森を突っ切る山道を下っていたのだ。
もっとも山道とはいえ、日々ロバで荷物を運ぶ道のためにそれなりに整備されている。距離が36kmもある山道ではあるが、1日で十分に踏破可能な道なのだ。
とはいえ、それが可能なのは天候などの条件が良ければの話。今は整備されたことが逆に徒となって、山道は雨水の流れる激流となっている。そこを歩き続けるのは、非常に危険な状況だ。
「ゴメン、メイベルさん。俺が寝坊しなかったら……」
「別にナバルさんの寝坊のせいじゃないわ。もし寝坊してなくても、もう少し先で雨宿りしてただけで、何も変わりないと思うの」
メイベルはナバルの背中に手を当て、濡れた服を乾かそうとしている。すでに自分の服は乾かし終えていたようだ。
その2人が雨宿りする小屋は、山道から少し高い場所に造られていた。ここでは頻繁に大雨が降っては道が川のようになるからだろうか。小屋の床は地面から離して造られ、水が流れ込んでこないようになっている。また小屋の周りには木々が生い茂っているため、風で雨が吹き込んでくる心配もない。おかげで床は水浸しにならずに済んでいた。
その小屋の中には背もたれのない長イスが4つ、四角く並べられている。服を魔法で乾かし終えた2人はその長イスに腰掛け、なかなか降りやまない空模様をしばらくの間見上げていた。その空が少しずつ暗くなってきている。夜の帷が下りてきたようだ。
「さむぅ。冷えてきたわね」
不意にメイベルが、そう言ってブルッと身体を震わせた。
「夏とは言え、やっぱ山は冷えるな。これからもっと寒くなるだろうから、今のうちに冬服に着替えるとしようか」
そう言うと、ナバルが荷物の中から冬物を引っ張り出して着替え始めた。もちろん、服は近衛士官の冬服だ。それを見たメイベルが、
「わたし、あっち向いてるわ!」
と、慌ててナバルに背中を向けた。
そのメイベルは着替える準備を何もしてない。それに気づいたナバルが、
「メイベルさんは着替えないのか?」
と声をかける。
「それが、さあ。わたし、冬服、置いてきちゃったのよねぇ」
そう答えたメイベルが、頭の後ろをポリポリと掻いていた。
「置いてきた!? 出る時に教会で用意してもらってただろ?」
「それがね。たまたまわたしに合う大きさの服がなくて、それで無理に身体に合わない服を持ってくのも何だかなぁ〜と思って……」
背中を向けたまま、メイベルが言い訳ぎみに答えてくる。そのメイベルの頭に、
「仕方ねえなあ。それでも羽織ってろよ」
と言って、ナバルが着替えたばかりの夏服の上着をかぶせた。ふわっと広がった上着が、やがて垂れてメイベルの頬に当たる。そこにはまだナバルのぬくもりが残っていた。それを感じた途端、メイベルの顔がボンッと真っ赤になった。
「あ、あ、あ、ありがと……ね……」
いきなり心臓の動きが速くなって、メイベルの声が上ずってしまった。だが、ナバルはメイベルの変化には頓着せず、荷物を気にしている。
「そういえばメイベルさん。毛布はどうした? まさか、それも置いてきたのか?」
ナバルが見ていたのは、メイベルの荷物だ。周りにフライパンなどがぶら下がっているが、毛布や寝袋のようなものは見当たらない。
「そ、それも、もう必要ないと思って置いてきちゃった」
また頭の後ろに手をやったメイベルが、そう答えてテヘッとばかりに舌を出す。それを聞いたナバルが、たちまち表情を険しくして、
「この大バカ野郎!」
と怒鳴りつけてきた。
「メイベルさん。おまえは山を甘く見すぎだ。今日みたいに途中で何が起こるかわからないんだぞ。冷え込みが強かったら命に関わるんだぞ。そのための毛布を置いてくるなんて迂闊すぎるじゃないか!」
「いや……そのぅ……」
怒られるメイベルには返す言葉がなかった。今日中にふもとまで下りられると思って、装備から毛布をはずしてしまったのだ。この判断の誤りは言い訳のしようがない。
「ったく、仕方ないなあ……」
大きく溜め息を吐いたナバルが、そう言って自分の荷物から毛布をはずした。そして、毛布を持ってメイベルの隣に腰を下ろすと、
「2人で1枚じゃ、ちと小さいよな」
と言って、メイベルを抱き寄せてきたのだ。
「そ、それは待ってよ! まだ、気持ちの整理というか、覚悟が……その…………」
思わず逃げてしまったメイベルが要領を得ないことを言ってくる。それに「はあ?」と声を出したナバルが、突っ立っているメイベルの顔を見上げる。
「そんな恰好じゃ、風邪をひくぞ」
「そ、それはわかってるけど……」
ナバルの言葉に、メイベルが困ったように言葉を返した。そのメイベルが、
「えっと……。上着、借りるわね……」
と断りながら、ナバルの上着の袖に腕を通す。
「それを羽織ったぐらいじゃ、まだ寒いだろ」
「うわぁ〜。ナバルさんって、意外と大きいのね。わたしが着るとブカブカだわ」
メイベルが言葉をはぐらかした。周りから何度もナバルとの関係を言われたせいで、メイベルは自意識過剰ぎみになっていたのだ。
それに対してナバルの方は恋愛沙汰には無頓着な性格のため、けっこうな気配りはできるのだが、メイベルの今の心情に対しては配慮できないらしい。
ナバルはメイベルの気持ちが理解できないイラ立ちも手伝って、
「風邪ひいても知らないからな」
と言うと背中を向けて、怒ったように長イスの上で横になってしまった。
(しまったぁ〜。ナバルさんを怒らせちゃったかなぁ〜?)
ナバルにそっぽを向かれたメイベルは、強い自己嫌悪に襲われた。
(急いで謝らなきゃ。でも、どんな言い訳をすればいいのよぉ〜?)
しかし、謝ろうにもどうすれば良いのかわからないみたいだ。1人で頭を抱えて、混乱する思考を必死に整理しようとしている。
だが、今が寒いのは事実だ。またブルッと身震いすると、手近な長イスに腰掛け、
(取り敢えず、魔法で身体を温めながら考えましょ。疲れてるから、あまり魔法は使いたくないんだけど……)
と考えながら魔法で身体を温め始めた。
(どうして逃げちゃったんだろ? 逃げなければ、一緒に毛布を使えたのに……)
ナバルの背中を見ながら、メイベルが先ほどの行動を反省する。ナバルの方はというと、今も背中を向けたまま寝てしまったようだ。そのナバルの姿がだんだん見えなくなってくる。完全に日が落ち、夜になったようだ。となると森の中は完全な暗闇になってしまう。
(どうしよう。今からでも入れてもらえるかなぁ? でも、これから毛布に潜り込むなんて……)
真っ暗になったせいで、メイベルは気持ちが焦り始めていた。暗闇の中に1人だけでいるのが怖いという気持ちと、恥ずかしいという気持ちが激しくぶつかり合っている。
取り敢えず、手を伸ばして毛布の隅っこをちょこっとだけ指でつまんだ。これで暗闇の中での孤独感は和らいだ。となると、相対的に恥ずかしさの方が強くなってくる。
(ナバルさん、もう寝たかな? 起きてる時に潜り込むのは恥ずかしいなあ。声をかけて確かめてみようか? って、わたし、何考えてるのよ!)
メイベルが独り芝居で頭を悩ませていた。思いきって潜り込むしかない。それは自分でもわかっている。早くしないと魔法で体力を使い切ってしまうからだ。昨日も体力切れで倒れている。となると若いとはいえ、1日でどれほど回復してるかわからないからだ。
とはいえ、どうしても潜り込む勇気が出てこない。
(あはは……。なんか、暑くなってきたわね。…………え? 暑く!?)
そう気づいた時には手後れだった。あっと思った時にはメイベルの身体中から力が抜けていたのだ。
(いけない。また、やっちゃった……)
メイベルの身体が、長イスの上にへちょんと横たわった。昨日と同じ、感情が昂ぶったせいで、魔法の加減に失敗したのだ。
そして、メイベルは自分のバカさ加減を後悔しながら夜を明かすことになった。
「このアホ! マヌケ!! 大荷物っ!!! 本当に風邪ひくバカがどこにいるんだよ!?」
翌日、山のふもとにある教会から、ナバルの怒鳴り声が聞こえてきた。その理由は、
「お願い、頭に響くから、そんなに怒鳴らないでよ。……ごほっ、ごほごほっ……」
体温計を咥えてベッドに寝かされているメイベルだった。咳で喉をやられたのか、メイベルの声はしわがれたひどい状態になっている。
「いいや、ハッキリ言わせてもらう。あの寒空の下でグーグー爆睡するなんて、いったい何を考えてるんだよ? おかげで熱出したメイベルさん背負って、下りてくるハメになったんだからな。脚立は上の教会に置いてきちまったから、雨でぬかるんだ山道を、お荷物背負ったまま大荷物2つ抱えて大変だったんだぞ」
ナバルが文句を言いながら、メイベルの額から濡れタオルを取った。
そのナバルの穿くズボンは泥で汚れていた。今は乾いて白っぽくなっているが、その汚れがぬかるんだ山道がどれほど大変だったか、十分に物語っている。
ちなみに今の時間は午後の3時すぎ。ぬかるんだ道と大荷物という悪条件が重なったため、ナバルは飲まず食わずのまま昼を大きく過ぎた頃に教会へたどり着いたのだ。
そのナバルがタオルを洗面器の水で冷やして、固く絞ってからメイベルの顔に載せる。
「あぷっ。あのさ、濡れタオルを替えるか、文句を言うか、どっちかにしてよ」
メイベルが顔にかけられたタオルを取った。それを折り畳んで額に載せ直しながら、ナバルに苦言をぶつける。
「じゃあ、文句だけにしようか?」
「できれば……、ごほっ、もう1つの方にして……」
ナバルから冷たい言葉をかけられたメイベルが、情けない口調でお願いする。そこに、
「勇者さまと従者さま。お昼食をお持ちしました」
と言って、灰色の修道服を着た女性が部屋に入ってきた。トレイに載っているのは、パンとスープとハムサラダという簡単なものだ。
「今日はまだお食事を摂られてないのでしょう。昼食の残り物で申し訳ございませんが、まだ十分にお替わりがありますので、ご不足でしたら気兼ねなくお申しつけください」
修道女がそう言いながら、ベッドの横に用意された小さなテーブルにトレイを置く。
そのテーブルには、砂時計が置かれていた。砂を黄色く着色した砂時計である。すでに砂はすべて下に落ちていた。だが、わずかにガラスの内側に張りついていた砂が、トレイを置いた震動で一気に流れ落ちていく。
「従者さま。お食事の前に体温を診させていただきます」
砂時計を見た修道女が、メイベルの口から体温計を取った。その修道女の左袖には、白い盾の絵が描かれている。これは医療係の袖章だ。だが、階級に相当する杉の絵がないところから、彼女はまだ見習いの看護師であるらしい。
「38度8分。これは安静にしなくてはいけませんわ」
目盛りを読んだ修道女が、そう言って診療簿に体温と症状を書き込む。
その間にメイベルは、食事のためにベッドから身体を起こしていた。青い寝巻きに着替えているが、寝汗でかなり湿っている。それに気づいた修道女が、
「ただいま杉2本の医師は往診のため出かけております。教会に戻り次第こちらにお連れしますので、それまではどうかごゆっくりご静養くださいませ」
と話しながら、替えの赤い寝巻きを持ってくる。
着替えのために、ナバルとベッドの間にカーテンが引かれた。それでメイベルが着替えている間、ナバルは先に昼食を食べ始めている。
「あ〜あ。風邪をひくなんて最悪だわ。……ごほっ」
カーテンの向こうから、メイベルが着替えながらブツブツと零す声が聞こえてきた。
「どうしてわたしは……ごほっ、こうも運が悪いのかしら?」
「運が悪いんじゃねえ。メイベルさんがバカだから自業自得なんだよ」
メイベルの嘆きに、ナバルが不満たっぷりに憎まれ口を叩いてきた。
「な……。バカって何よ。バカって……!?」
カチンと来たメイベルが、着替えの手を止めて言い返してくる。
「バカにバカと言って何が悪い? 夏風邪はバカがひくものだ。証明されたじゃねえか」
「あ〜の〜ねぇ〜……」
更に畳みかけてくるナバルの言葉に、メイベルが一瞬怒りで呼吸を止めた。
「わたしのどこがバカなのよ? ……ごほっ、具体的に言いなさいよ」
「ああ、言ってやるよ。そりゃ、メイベルさんは物知りだし、学識豊かだからそっち方面では頭がいいとは思うよ。だけどな、やってることはバカそのものじゃないか」
「なんですってぇ〜……。ごほっ、ごほごほっ」
怒りからメイベルがむせ返った。それで「言いすぎたかな?」と思って、ナバルが言葉を止める。だが、メイベルの方は気持ちが収まらなかった。もうすっかり頭に血が昇ってしまい、熱で真っ赤になった顔が更に真っ赤になっていく。
「運が悪いのがバカなら、くじ運の悪いナバルさんもバカじゃないの?」
売り言葉に買い言葉というか、頭に血が昇って論理が支離滅裂というか。メイベルがすごい剣幕で言い返してきた。そのメイベルが手早く寝巻きを着替え終えると、カーテンを開けてものすごい形相でナバルを睨んでくる。
「俺のくじ運が悪い? 冗談を言うな」
メイベルに睨まれた途端、ナバルも反射的に言い返してしまった。
「そりゃ、なかなか近衛隊に入れないことがあったから、くじ運が悪いと思ったこともあるさ。だが、それは俺が勇者に選ばれるための布石だったと証明されたじゃないか」
「証明された? ごほっ。いったいどうやって証明されたのよ? ごほっ」
「勇者に選ばれたこと自体が証明じゃないか。それで足りないなら、これまでの旅で証明してやるよ。このサクラスからこのオーマンドまで、1度たりともくじびきのせいで寄り道したことがあったか? 岩の山脈を越える大変な道もあったが、最短距離で来てるじゃねえか。それに高原で会ったマウンテン・ドラゴン。あれ、俺たちが向かってる竜の山脈の長老だぞ。これらをすべて運のせいにするなら、これほどの強運はねえ。つまり、俺には神がついてる。くじが教えるのは神の導きだ。最高の幸運であり強運だ」
メイベルと睨み合いながら、ナバルが言い切った。もっとも、くじびきが神の教えだと信じてないメイベルには、今の言葉が癇に障ったらしい。
「たかがくじびきに、……ごほっ、神さまがついてると言い張るのね」
熱も手伝ってか、メイベルの目がすとんと据わった。
「じゃあ、試してみようかしら。……ごほっ」
と言いながら、くじびきの材料を求めて部屋の中を物色する。
そのメイベルの目がナバルの腰に向かったところで、ニヤリとイヤな笑い方をした。
「それじゃ、今日1日。……ごほっ、腰に下げるものをくじびきで決めてみましょうか」
と言うと、メイベルがフラフラしながら部屋の片隅にある掃除道具入れを開けた。メイベルの目当ては、モップとホウキだった。次に壁から掛かっていたハンガーを取り、それらをベッドの上に並べる。
「おい、そんなものをくじで選んで、どうする気だ?」
「剣を寄越しなさいよ。……ごほっ、ナバルさんには神さまがついてるんだから、選ばれるものに間違いはないんでしょ。……ごほっ」
メイベルの目が完全に据わっていた。
いつものメイベルなら、不愉快なことがあれば長々と解説してくるはずだ。だが、今日はそれがない。どうやら熱でいつもとは違う精神状態にあるようだ。
そう感じたナバルは今日のところは下手に逆らわない方が良いと判断し、
「わかったよ。好きにしろ」
と言って、腰に下げていた剣をメイベルに渡した。
「えっへっへ〜。ついでだからぁ、これも追加ねぇ。……ごほっ」
更にメイベルがリュックサックから大きなフライパンとお玉を持ってきた。そして、それらの名前を紙に書いて、即席のくじ札を用意する。
「さあ、さっそく選んでもらいましょうか。……ごほっ」
「おまえ、なあ……」
そのあとメイベルがやったことに、ナバルが頭痛を覚えた。
メイベルはくじ札を布団の中に放り込んだのだ。おかげでナバルは、布団に手を入れてくじを選ぶという、なんともマヌケなくじびきをするハメになっている。
「は〜い。くじを検めま〜す。……ごほっ」
メイベルがわざとらしく明るい声で、ナバルから紙切れを取り上げた。それを広げて、
「ナバルさんが今日腰に下げるのは、フライパンに決まりましたぁ〜♡ ……ごほっ」
ナバルに紙に書かれている文字を向けた。それを見たナバルが、思わず「げっ」と短い声を漏らしている。
「と言うことだから、ナバルさん。今日は1日、……ごほっ、フライパンを腰に下げてるのよ。これは神さまが選んだことだから、……ごほっ、不服はないわよね?」
などと勝手なことを言いながら、メイベルが布団の中から残りの紙切れを全部出した。それから布団に潜り込んで、
「あぅ〜、なんだか、また熱が出てきたわぁ……」
と零して横になった。
「俺は剣士なのに、なんでフライパンを……」
窓辺では腰にフライパンを下げたナバルが、物思いにふけった目で空を見上げている。
その2人のやり取りを最初から最後まで見ていた修道女は、
「仲がおよろしいですわ♪」
と、微笑ましく思っていた。
教会でそんなできごとがあった時と、まさに同じ時刻、
「邪教の勇者が、もうオーマンドに着いてた……ですって?」
運河を移動してきたドラゴン教徒たちが、続々と2人のいるオーマンドに到着していた。そこで平底舟を降りるブルーノのところに、勇者滞在の報せがもたらされた。報告してきたのは、この町に住むアサッシニオ派のドラゴン教徒である。
「思ったよりも早いですね。それで、いつごろ到着したのですか?」
「目撃報告によれば、それらしき人物が教会を訪れたのは、午後の2時半ぐらいと」
「今から1時間ほど前ですか。ならば、よほどのことがない限り、まだ教会にいますね」
時計を見たブルーノが、そう言って状況の把握に努める。
「このオーマンドに、帝国の軍隊は駐留してますか?」
「警備隊が1部隊4人のみ駐留してます」
「なるほど。その程度であれば邪魔される心配はありませんね」
そう言ったブルーノが、ここに集結した顔ぶれに目を向けた。その数、ブルーノ自身を含めて25名。大半は途中から追撃に加わった者たちだが、サクラスからの歴戦の猛者もけして少なくない。
「アサッシニオさま。やりますか?」
最初に声を上げてきたのは、ヒゲ面の第6隊長だ。
「あなたたち、移動の疲れはありませんか?」
「そんなものないです。気にせず叩きましょうや」
「その通りですぜ。俺たちゃ、そのために来たっすからね」
ブルーノの問いかけに、男たちから口々に勇ましい言葉が返ってくる。それに、
「わかりました。あなた方の心意気を、思いっきり邪教の勇者にぶつけてやりましょう」
と、ブルーノがこぶしを挙げて答えた。それに鼓舞されるように、
「おーしっ。やったるぜ!」
「今日が敵の勇者の最期だ!」
男たちもこぶしを挙げ、互いの士気を高め合うのだった。
その頃、自分に追っ手が迫ってるとも知らないナバルは、
「ここはのどかな町だな」
と零しながら、教会の窓から見える町の景色をぼんやりと眺めていた。
町に並ぶ建物は、その多くが2階建てだった。その屋根に載せられた風車が、ゆっくりまわっている。風車の羽根は真横ではなく、どれもがやや上向きに取りつけられていた。
風車の中には整備不良のものがあって、ギギッときしみ音を立てている。だが、それがまた都会の喧騒とは違った落ち着いた風情を放っていた。それでいながら街の人通りの多さと風車の数が、町に活気があることを感じさせくれる。なんとも絶妙な雰囲気である。
その様子を見るナバルの腰には、大きなフライパンがぶら下がっていた。先ほどメイベルにムリヤリくじを引かされ、持つハメになったフライパンだ。
そんなナバルの背中を、先ほどからベッドに横なったメイベルが微笑みながら見ている。ナバルが腰にフライパンを下げている恰好が面白いという理由もある。だが、それよりもちゃんと下げている律義さがおかしいのだ。
そのナバルが、
「奇妙な物が走ってるな」
先ほどから教会の前を何台も通りすぎていく不思議な乗り物に目を向けた。前後に大きな車輪のある、地面を蹴りながら進む立ち乗り自転車のような乗り物だ。この町は平らな場所に作られているため、このような乗り物が使われているようだ。
(メイベルさんが見たら、絶対に近くまで行って見ようとするよな)
乗り物を見送ったナバルが、チラッと部屋の中に目を向けた。
それで思わず目が合ってしまったメイベルが、慌てて視線を逸らせている。
「お2人さま。お着替えを用意しました」
そこに医療係の見習い修道女が、2人分の着替えを持って部屋に入ってきた。
修道女が持ってきたのは、2人分の夏冬各1着ずつだ。メイベルは風邪で休ませるために寝巻きに着替えさせていたが、ナバルは山を下ってきたままの汚れた恰好だった。
「お召し物は、こちらに置きますわ。勇者さまはお隣に部屋を用意しましたので、どうぞご自由にお使いください」
修道女がメイベルの足許に、2人分の着替えを並べて置いた。
「早めに着替えないと、教会の中を汚しちまうな」
そう言って、ナバルが泥だらけになった自分のズボンに目を落とした。今はもう泥は乾いている。だが、そのために歩くたびに細かな塵をばら撒いていたのだ。
それではいけないと思ったナバルが、すぐに着替えようと替えの服を手に取った。
「あのぅ、すみません。この教会には、……ごほっ、お薬はありませんか? せめて解熱剤ぐらい、……ごほっ、飲みたいんだけど……」
熱が苦しいのだろうか。メイベルが近くにきた修道女のスカートをつまんで、解熱剤を求めてきた。その声を聞いたナバルが、動きを止めてメイベルに顔を向ける。
「申し訳ありません。まだ杉2本の医師が往診から戻っておりませんので、薬をお出しすることができないのです」
薬を求められた修道女が、困った表情で謝った。
「常備薬みたいなものは、……ごほっ、ないの?」
「はい。調合前の薬剤しかありませので、わたしにはどれをお出しすれば良いのか……」
「薬剤!? じゃあ、……ごほっ。当然、その中には生薬もあるのよね?」
ゆっくり身体を起こしたメイベルが、修道女に教会にある薬の種類を確かめる。
「然様でございますが、それが……?」
「それなら、薬は自分で調合するわ。……ごほっ、案内してください」
メイベルはすっかり自分で薬を作る気になっていた。
「えっ!? ですが、素人がお薬に手を出されるのは……」
「大丈夫よ。わたし、サクラスにある研究所で、御用学者たちと一緒に薬草や薬木の研究をしてたのよ。……ごほっ」
そう言いながら、メイベルがベッドの縁に座って、スリッパに足を載せた。そして、
「だから、生薬だけなら、……ごほっ、自分で調合できるわ。まあ、材料があるのなら、……ごほっ、滋養強壮と疲労回復のお薬も作っておきたいわね」
と言いながら、修道女の肩を借りて立ち上がろうとする。そのメイベルを、
「いい加減にしろよ。そんなこと、少し熱が下がってからでもいいじゃないか」
と言って、ナバルがベッドに戻そうとした。
「熱を下げるために、解熱剤が必要なのよ!」
至極当然な意見だった。だが、その解熱剤を作るために起き上がった結果、こじらせて熱が上がったとしたら本末転倒である。
「とにかく、おまえは寝てろ!」
着替えを放り捨てたナバルが、強引にメイベルを抱き上げた。そして半ば力ずくでベッドに寝かせ、頭から布団をかぶせてやる。
「ナバルさん。強引すぎ!」
「何とでも言え。おまえはバカだから、絶対に何か悪い運を引き寄せるぞ」
非難してくるメイベルに、ナバルがまたも憎まれ口を叩いた。そのナバルをメイベルが低い声で唸りながら睨んでいる。
と、その時、
『この教会に潜伏してる邪教の勇者告ぐ。ただちに我々の前に出てきなさい』
という声が、教会の外からかけられてきた。
「なんだ?」と言って、ナバルが窓のある場所に顔を向ける。
「この声……」と零したメイベルも、布団をめくって身体を起こした。
『きみ個人には怨みはありません。ですが、勇者の目的がドラゴン退治と聞き及んだ以上、我々ドラゴン教団としては、きみの存在を見過ごせません』
外から聞こえてくる声の主が、なんとも身勝手なことを言っている。それを不愉快に感じたナバルが、窓から顔を出して声の主の姿を求めた。
ナバルが探すまでもなく、その声の主は教会の正面にいた。その周りに大勢の男たちがいる。手に剣や銃などの武器を持った、異様で不気味な集団だ。
『きみには5分の猶予をあげましょう。きみが救世の勇者を自負するなら、時間内に出てきなさい。さもなければ、我々は関係のない市民を巻き添えにしてでも、踏み込んできみを捕まえてやりますよ』
「あのやろう。好き放題言いやがって……」
窓から男たちを見ていたナバルが、醜悪で恥知らずな言葉に怒りが込み上げてきた。
「ナバルさん。まさか、1人で行く気なの?」
部屋から出ていこうとするナバルを、メイベルが慌てて呼び止める。その横では、
「どうしましょう。困りましたわ。こういう場合は、まずお茶を淹れて……」
修道女が突然の事態に遭遇して、パニックを起こしていた。
「俺が出ていかなきゃ、あいつら、ためらいもなく市民に危害を加えるぞ」
「ごほっ。それはわかってるけど……」
ナバルの答えに、メイベルが言葉に詰まった。帝都でテロを起こし、数多くの市民を巻き込んだ集団だ。彼らが他人の命を虫ほどにも思っていないのは経験済みである。
満足な助言もかけられないうちに、ナバルは部屋から出ていってしまった。
「そうだ! ナバルさん、ちょっと待ってよ!!」
メイベルが大切なことに気づいて、慌ててナバルを呼び止めようとする。それは、
「剣を忘れてるわよ! フライパン持って、どうする気よ!?」
ナバルが部屋に勇者の剣を置いたまま出ていったことだ。
これは一大事と思ったメイベルが、ベッドから飛び降りて剣を摑む。ところが、
「ごほっ。……ごほっ、ごほほっ…………」
熱があるのに急に動いたため、平衡感覚を奪われてバタンと倒れてしまった。
「アサッシニオさま。誰かが出てきやすぜ」
教会の前で待ち構えるブルーノたちの前で、礼拝堂の扉が大きく開かれた。そこから近衛士官の服を着た若者が現れて、今、階段をゆっくりと下りてくる。
「これはこれは意外や意外。あの時の剣士くんではありませんか」
出てきたのは、もちろんナバルだ。その姿を見たブルーノが、見知った顔に目を丸くしている。他にも、
「あの時の若造か……」
「ソルティスの邪神め。味な真似をしてくれたな……」
と、帝都でナバルと一度手合わせした者たちが、警戒した面持ちで身構えている。
「出てきてやったぞ。これで文句はないか?」
「ほほう。これだけの数を前に、きみは勇敢ですね」
怖けた感じを見せないナバルに、ブルーノが不快そうな顔になった。
「そりゃ、当然だ。俺はソルティスの神に選ばれた勇者だからな」
「ほう。それは大した自信ですね。しかし、1人でこの大人数を相手にできますか?」
そう言うと、ブルーノが腰に下げていた剣を抜き放った。それに倣って、ドラゴン教徒たちもいっせいに自分の持つ武器を構えてくる。
「剣を持つのは6、いや7人か。あとの銃を持つ雑兵は、ただの頭数合わせか」
「てめえ、舐めてんじゃねーぞ!」
銃を構える若者が、ナバルの言葉に激しく怒声を返してきた。だが、ナバルは若者の言葉など無視するように、
「俺には神の加護がある。来るならそれなりに覚悟しろよ」
と言って右手で腰にあるものを摑み、それを高々と挙げた。
「……フライパン…………ですか?」
ブルーノが面喰らった顔で、そう零した。その言葉に、
「あ、そうだった……」
ナバルが一瞬鬱な表情を浮かべて、ちらりと右手にあるものに目を向ける。
「それは何の真似ですか?」
ブルーノが警戒しながら、ナバルにフライパンの意味を尋ねた。
「これは神に選ばれた今日の武器だ」
「神に選ばれたって、フライパンが……ですか? ひょっとしてくじびきで……?」
「そうだよ。悪いか!」
ブルーノにそう答えたナバルが、大きなフライパンを剣を持つ時のように構えた。
その恰好を見たヒゲ面の第6隊長が、
「アサッシニオさま。どう思いますか?」
と、ブルーノに耳打ちしてきた。
「ソルティスの邪神のことですから、何か理由があると思うのですが……」
ブルーノがフライパンをジッと見詰めて、神の意図を探ろうとする。
「くじびきで決めるなどバカバカしく思うのですが、ソルティス教はそれで勢力を拡大し、帝国を持つ大陸最大の宗教に成り上がったのです。舐めてかかると痛い目に遭いますよ」
どうやら答えの取っ掛かりすら摑めなかったようだ。それでも自分を納得させようと、小難しい理屈を並べている。
教会の前を異様な緊迫感が包んでいく。その緊迫感に堪えられなくなったのだろう、銃を構えた若者が、銃口をナバルに向けて引き金に指をかけた。
「させるか!」
若者の動きに気づいたナバルが、フライパンを銃口に向けて立てる。直後、
「うわっ!」
銃声が鳴り響き、ブルーノの後ろにいた男が悲鳴を上げて仰け反った。
銃口から出た弾がフライパンで跳ね返され、それがブルーノの後ろにいた男に命中したのだ。しかも跳ね返る時に弾が変形し、男の身体を大きな破壊力で貫いた。その際の強い衝撃がショックとなって、男は意識まで吹き飛ばされている。
「そんな使い方が……」
今の一瞬のできごとに、ブルーノが剣を構えて警戒した。倒れた男は、激しいショックのあまり痙攣している。その男に目配せしたブルーノが、憎々そうに顔をゆがめた。
その間にナバルは、銃を撃った若者の顔面をフライパンで叩いていた。銃は先込め式の単発式だ。一度撃ってしまうと、弾を込め直すまで次の攻撃ができない。その間に反撃を喰らうと、まったくの無防備になってしまう。ナバルが銃を持つ男たちを雑兵扱いしたのは、そういう理由があるからだ。
「小僧が、舐めた真似をしやがって!」
ナバルの側面を狙って、ヒゲ面の第6隊長が仕掛けてきた。彼の剣が横なぎにナバルの肩口を狙ってくる。
反射的に身をかがめたナバルの上を、剣が風を切りながら通りすぎた。だが、その剣がただちに向きを変え、再びナバルを襲ってくる。
ガチッという音がして、フライパンが剣を弾いた。そのまま2人が体を入れ替え、2回、3回と火花を散らす。
「う、撃てねえ……」
ナバルが男たちの間に飛び込んだため、銃を持つ者たちが迂闊に攻撃できなくなった。
男たちはナバルを取り囲んでいる。見様によっては有利な立場だ。だが、それは撃ち損じれば、背後にいる味方を撃ってしまう位置関係である。包囲される中でナバルが激しく動いている。そのため男たちは狙いを定められず、むしろ同士討ちを恐れて引き金に指をかけたまま動けない状況になっていた。
しかも、第6隊長の振りまわす剣に巻き込まれまいとして、男たちは2人から距離を空けようとしている。それが徐々に包囲の輪を大きくする要因になっていた。
「うおっ!」
一瞬の隙を狙われた。広がった輪の弱いところを狙って、ナバルが包囲から外へ飛び出したのだ。その際に1人が足を引っかけられ、後頭部にフライパンを打ち込まれている。
「逃げたぞ! 追え〜っ!!」
銃を撃つ間もなかった。包囲から逃れたナバルが通りの角を曲がり、建物の影に姿を消してしまう。
そのナバルを追いかける男たちが、銃の引き金に指をかけたまま通りの角を曲がろうとする。その先頭を行く男の眼前に、真っ黒な鉄の塊が迫ってきた。
「うごぉ……」
鈍い音がして、先頭の男が吹っ飛ばされた。それに巻き込まれた3人の男の銃が次々と暴発する。そのうちの1発が、剣を持った味方の右肩を撃ち抜いてしまった。
「待ち伏せとは、やってくれるじゃねえか!」
巻き込まれなかった銃士が、角を大きく曲がって銃を構えた。その彼の目に、通りを逃げていくナバルの後ろ姿が飛び込んでくる。
直後、銃が火を噴いた。しかし、弾はナバルに当たらず、地面で小石が弾ける。
「ちっ、はずした!」
撃ち損じた銃士が、舌打ちしてポケットから次の弾を取り出した。急いで次の弾を込めようとしているのだ。
「おい、敵の勇者はどっちへ逃げた」
空に浮かぶ飛行剣士が、銃士に目撃情報を求めてきた。訊かれた銃士が顔を上げ、
「先の角を左だ!」
と、短く答える。
「よし、わかった」
そう言うと、飛行剣士が建物の屋根よりも高く飛んでいく。ナバルを上空から追いかけようとしてるのだ。
空にはその飛行剣士の他に2人の飛行戦士の姿がある。銃を構えた飛行銃士と、指導者ブルーノの姿だ。
「一瞬の間に、5人がやられましたか……」
空から地上に目を落としたブルーノが、悔しそうに零した。
路上には5人が倒れている。教会の前に3人、それと通りの先で2人だ。他に4人の男たちが銃に弾を込めるために脱落している。
「二手に分かれろ。おまえらは右、残りは左だ」
「くっ! また別れ道だ」
「お〜い。空からも見つかんねえのか?」
追いかける男たちがナバルを見失ったようだ。早くナバルを見つけようと、部隊を少しずつ分けている。だが、それを見たブルーノが慌てて、
「あまり分かれてはいけません。相手は腕の立つ剣士くんです。各個撃破されますよ!」
地上に向かって大声で指示を与えた。
相手はナバル1人とわかっていても、ブルーノは慎重だった。それは最初に遭遇した時に、ナバルがかなり腕の立つ剣士だと思い知らされていたからだ。
その時、
「ぐぉ……」
屋根の上を飛んでいた飛行銃士が悲鳴を上げた。その銃士を襲ったのは、風車の陰から出てきたナバルだった。
「……なっ!?」
思いがけない場所にナバルを見たブルーノが、一瞬動きを止めてしまう。
やられた飛行銃士が、地上に落ちてどうっと鈍い音を立てた。その音を聞きつけたドラゴン教徒たちが、いっせいに音のした場所へ集まってくる。
「なぜ、きみが屋根に……」
そんな疑問を口にしたブルーノに、屋根を駆けるナバルが低い姿勢で迫ってきた。
「それはな、囲まれねえためだ!」
ナバルの振ったフライパンが、ブルーノの持つ剣の柄に当たった。それで弾かれた剣が、回転しながら地上へ落ちていく。その剣が、
「のわっ!! 危ねぇ〜!」
駆けつけてきたヒゲ面の第6隊長の足許に、見事に突き立った。
得物を失ったブルーノが、ナバルのいる屋根から離れていく。そのブルーノの姿を、地上にいる男たちが見つけた。すぐに屋根の上にいるナバルの姿も見つけ、銃を持つ男たちが狙いを定めようとする。だが、
「くっ。隠れやがった……」
銃に気づいたナバルが、屋根の縁から数歩下がった。たったそれだけのことで銃が無効化されている。
「さすがは邪神の選んだ勇者です。なかなかの戦い上手ではありませんか」
ナバルを憎らしそうに睨むブルーノが、気持ちを落ち着けるようにメガネの位置を正そうとする。そのブルーノを睨み返すナバルも、
「だから言っただろ。俺には神の加護があるってさ」
と言って、フライパンの持つ手首をくるくると回してみせた。
その頃、教会の礼拝堂では、
「もう、剣なしで、どうやって戦うつもりなのよ。……ごほっ」
と言って、メイベルが勇者の剣と従者の杖を抱えて出ていこうとしていた。
メイベルは寝巻きの上に、修道服の上だけを羽織った恰好だ。そのメイベルを、
「従者さま。お熱が高いのです。動いてはお身体に障りますわ」
と、医療係の見習い修道女が引き止めようとしている。
「今は自分の身体なんか……。ごほっ、気にしてる場合じゃないわ」
と言いつつも、立ち止まったメイベルが壁に片手を突いた。熱があるため、実際には立っているのもつらい。だが、それでも必死に追いかけようとしているのは、
「早くナバルさんに剣を渡さなくちゃ……。わたしが意固地になって、……ごほっ、くじびきでフライパンなんか持たせたから……」
自分がしたことへの罪悪感と、従者としての使命感に突き動かされてのことだ。
「銃の音が、まだ続いてるわ。どうやら、まだナバルさんは無事みたいね。……ごほっ」
外から何度も銃声が聞こえてくる。それが鳴り止まないのは、まだナバルが戦っている証拠だ。それに少し安堵したメイベルが、大きく2度、3度と深呼吸する。そして、再び壁に手を突きながら歩き始めた。
「だけどさ。フライパンで戦いに出るなんて、ムチャクチャだわ。……ごほっ」
それでもナバルが武器を持っていないのは大きな気がかりだ。そのナバルに早く剣を届けようとするメイベルが、ようやく礼拝堂の扉までたどり着いた。
「剣を持っていく前にやられたら、承知しないんだからね!」
そう強い口調で訴えたメイベルが、礼拝堂の扉を開いた。
「……こほっ。…………えっと……」
扉を開けて表通りを見たメイベルの目に、予想外の光景が飛び込んできた。
教会の前に3人の男が倒れていた。うち1人は地面を血で濡らしている。
通りの反対側には、たまたま通りかかった市民が数人立ち止まっていた。だが、その中から倒れた男たちを手当てしようとする者はいない。男たちが武器を持っているため、誰も関わりを持ちたくないのだ。
「これ、フライパンでやったのかしら? ……こほっ」
「さあ?」
メイベルに尋ねられた修道女が、答えに困って首を傾げる。だが、メイベルは尋ねておきながら答えを期待してなかった。メイベルは騒ぎの音に神経を向けている。音が聞こえてくる方向を探って、追いかけようとしているのだ。しかし、町の建物はレンガ造りが多いため、壁の反響で容易には場所を特定できないでいる。
「あっちから……かしら? ……こほっ」
メイベルが音の感じから、教会の正面からやや左の方角に目を向けた。礼拝堂の扉は南に向かっているはずだから、南南東の方角である。
その音を目指して、メイベルが礼拝堂前の階段を下りていく。だが、
「…………あぅ……」
最後の1段を残したところで、不意にめまいが襲ってきた。だいぶ日が傾いてきたとはいえ、熱のある身体には夏の強い陽射しは毒であった。
「従者さま。ですから安静にしてくださいと申してますのに……」
慌てて駆け寄った修道女が、メイベルの身体を気遣う。そのメイベルは階段の一番下に腰かけ、低い声で「う〜ん」と唸っていた。
さて、戦いの中にいるナバルの方は、
「おしっ! また1人脱落だ」
屋根の上で今もフライパンを手に奮闘を続けていた。
今、1人の剣士がナバルとの戦いに敗れ、屋根から落とされたところだ。
ドラゴン教徒たちはナバルを追いかけ、続々と屋根によじ登ってきている。とはいえ屋根の上は狭く不安定だ。しかもナバルが屋根から屋根へ飛び移るため、せっかく登っても別の屋根へ逃げられることが何度も繰り返されている。追いかけようにも、屋根の間隔は広いところでは5m近く。踏み切りを少しでもためらえば、次の瞬間には地面に叩きつけられる危険がある。実際、ナバルを追いかけた3人が別の屋根に飛び移り損ねて、地上に落ちて大ケガしていたのだ。となれば飛び移る自信のない者は、
「いてっ。後ろから狙うなんて卑怯だぞ!」
銃で離れた場所から狙うしかないようである。もっとも、
「もっと近くで撃たねえと、当たっても威力ねえじぇねえか!」
先込め式の銃では20mも離れると致命傷を与えるのが難しくなっていた。それが更に40mも離れると、厚い服で防げるほど威力が落ちてしまうのだ。
離れた場所から狙える飛び道具ではあるが、これではオモチャと大差ない事態である。
先ほども弾がナバルの背中に当たったが、服には穴すら空いてない。
その銃に対抗するナバルは、
「おおりゃあぁ〜〜〜〜〜……」
撃った者を特定できたら一気に距離を詰め、弾を込め直す前に地面に叩き落としていた。
まるで屋根の上のモグラ叩きである。
そして誰かが狙っていると気づいたら、フライパンで一時的に顔を隠している。フライパンは頭部への致命傷を防ぐにも格好の防具だった。
「小僧! いい気になるんじゃねえぞ」
そこへ屋根に登ってきたヒゲ面の第6隊長が、剣を横に構えて迫ってきた。その構えが急に上段に変わり、渾身の力を込めて打ち込んでくる。
ナバルが一瞬、避けるのをためらった。屋根の上は不安定だ。そのため体勢が崩れるのをつい嫌ったため、反応が遅れたのである。
「くぅ……」
打ち込まれた剣をフライパンの底で受け止めた。そこを第6隊長がすかさず、
「灼熱たれ!」
と剣に魔法をかけ、刀身を一気に白熱させる。高熱でフライパンを熔かし斬る作戦だ。
ところが、
「と、熔けねえ……」
第6隊長の作戦はフライパン相手には意味がなかった。それどころか、
「しまった! こっちの剣がダメになっちまった」
熱でぐにゃりと折れ曲がったのは、第6隊長の持つ剣の方だった。すぐにナバルの前から撤退し、反撃されないように隣の屋根に飛び移った。
「アサッシニオさま。あの武器は侮れませんぜ」
「そのようですね。まさかフライパンが、これほど恐ろしい武器だったとは……」
第6隊長の言葉に、ブルーノが不愉快そうな顔をナバルに向ける。
いつの間にか味方の半数を失っていた。その事態に追い込んだ武器が、信じ難いことにとても戦いに向いているとは思えないフライパンなのだ。
そのフライパンを持ったナバルは、今、飛行剣士と戦っている。屋根の上にある風車を背後にして、何か奇策を狙っているような戦いぶりだ。
しかし、飛行剣士は奇策に感づいたのか、ナバルとの間合いを広げる。
それを見て取ったナバルが、風車の羽根が通りすぎる間合いを見て、風車の建物の陰に隠れてしまった。飛行剣士が風車の羽根を廻り込んで追いかけようとする。
だが、それこそがナバルの狙った奇策だった。ナバルが風車に手をかけ、土台を回転させる。それで羽根の向きが変わり、避け損なった飛行剣士の足に羽根が引っかかる。
「うりゃあ!」
ナバルが体勢を崩した飛行剣士の後頭部に、フライパンを叩き込んだ。ヅガンと鈍い音がして、飛行剣士が屋根の上で動かなくなる。
「これで厄介な飛行野郎は、あいつ1人だけになったな」
ナバルが足を止めて、空にいるブルーノに目を向けた。
日が大きく傾き、地上を少しずつ朱に染めていく。
屋根の上にいるのはナバルとブルーノだけである。あとの者たちは全員地上に下りていた。そこからナバルが屋根を飛び越そうとする一瞬を狙おうと銃で待ち構えているのだ。
「そろそろ、戦うには良い時間ですね」
ナバルと対峙するブルーノが、剣を構えてゆっくりと位置を変えた。少しずつ高度を下げ、ナバルの目線に近くなっていく。そのブルーノの姿が不意に夕陽の中に溶け込んだ。
「やりやがったな!」
夕陽の目くらましだ。それに気づいたナバルが目を細め、身体を横へ動かしてブルーノの姿を捉えようとする。
「もう遅いですよ!」
ナバルが再びブルーノを見た時には、もう眼前まで迫っていた。そのブルーノは剣を大きく振りかぶり、ナバルの腰を狙って斬り込んできている。
「うわっ……」
得物がフライパンだったのが幸いだった。幅の広い底が、間一髪のところで剣を受け止めている。だが、
「げふっ……、うお……」
ブルーノの突進してきた威力までは殺せなかった。ブルーノを見つけるために身体を横へ動かし、それで体勢が崩れた分だけ踏みとどまれなかったのだ。転がるナバルが、屋根の傾斜を滑り落ちていく。
「ほう、運が良いですね。ギリギリ落ちませんでしたか」
屋根の縁でナバルの動きが止まった。手から離れたフライパンが、地上に落ちてグシャリと変形する。
「おい、足が見えるぞ!」
地上にいるドラゴン教徒たちが、屋根から半分飛び出した足を見つけた。それで銃を持つ者たちが、銃口をナバルに向けて構える。今、下から見えるのは足だけだ。だが、それが胴体まで見えたら、すぐに引き金を引くつもりなのだ。
「剣士くん。これで勝負ありましたね」
屋根の縁まできたブルーノが、そう言ってナバルの額を足蹴にした。自分ではトドメを刺さず、手下たちに始末させるつもりだろう。
「このやろう……」
何度も足蹴にされるナバルの身体が、少しずつずり落ちていく。地上ではナバルが落ちる瞬間を、ドラゴン教徒たちが銃を構えて待っていた。
その頃、少し休んで再び動けるようになったメイベルが、音を頼りにナバルを追っていた。自分がフライパンを持たせたせいで、ナバルが窮地に立たされていないか。とにかく、それが心配なのだ。そして抱えている勇者の剣を一刻も早くナバルに届けたい。そんな使命感がメイベルの心を支配している。
「従者さま。あまり無理をなさらない方が……」
そんなメイベルを気遣って、見習い修道女がついてきている。気持ちとしては無理にでも部屋に連れ帰って寝かせたいのだが、教会内の階級的に目上の者に強制できなくて困っているのである。
「わたしは従者なんだから、お荷物にも、足手まといにもなっちゃダメなのよ」
メイベルはそう自分に言い聞かせて、熱で倒れそうな身体を支えている。とはいえ、
「ここを曲がったあたり……かしら? なにか騒がしいみたいだから……。……ごほっ」
さすがに息苦しいのか、建物の壁に手を突いて軽く小休止する。
「……こほっ。ここで休んでる場合じゃないわ……」
大きく深呼吸したメイベルが、気力を振り絞ってまた前に進んだ。それで角を曲がったメイベルの目に、
「ナ、ナバルさん!?」
構えた銃を上に向けるドラゴン教徒たちと、屋根から腰まで落ちたナバルの姿が飛び込んできた。
「往生際が悪いですね。さっさと落ちなさい」
屋根の上にいるブルーノが、執拗にナバルの額を足蹴にして落とそうとしている。それに堪え切れなくなったナバルの身体が、ずるずると沈み始める。
「落ちるぞ!」
銃を構える者たちが、いっせいに引き金に指をかける。
「させないわ! 祝福の風よ!!」
咄嗟に従者の杖を構えて、メイベルが術を放った。
杖の先に光が集まり、そこから風が噴き出す。それが地上を這うような無数の小さなつむじ風となって、ドラゴン教徒たちに迫っていった。
『うわぁ〜っ!?』
驚きの声を上げた男たちが、無数のつむじ風に飲まれていく。吹き飛ばされるというより、砂浜で波に足をすくわれたような感じだ。男たちがバタバタと倒れ、銃が次々に暴発する。
その無数のつむじ風は壁を伝って建物を這い上がっていった。その風の強さにレンガがきしみを上げ、もろい箇所が風に砕かれていく。だが同時に、その風が落ちてくるナバルを受け止めるクッションになった。
「すごい魔法ですわ……」
メイベルを追いかけてきた見習い修道女が、今の一部始終を目に焼きつけた。
空中で落下の止まったナバルが、そのまま風に乗って道の中ほどへ流されていく。
「ナバルさん。大丈夫!?」
やがて風がやみ、ナバルが地面に下りた。そして立ち上がるナバルに、メイベルが声をかける。その声を聞いたブルーノが、
「あの小娘は……」
メイベルを不愉快そうな顔で見た。
帝都で自分たちを苦しめたナバルのみならず、メイベルまで姿を見せてきた。
「まさか、あの小娘が従者ですか? 剣士くんの勇者と小娘の従者。ソルティスの邪神め。悪魔のごとき所業を……」
この事態はブルーノにとって、理解を超えたできごとだ。だが、
「しかし、あの小娘。出てくるのが遅かったのは、どうやら病気でもしてましたかね?」
あくまでもブルーノは冷静だった。メイベルが寝巻きの上に上着を羽織っただけなのに気づいたのだ。しかも体力が尽きかけているのだろう。項垂れて大きく息をしている。そのメイベルの身体を、一緒に来た見習い修道女が支えていたのだ。
「くっくっくっ。まだ勝機はこちらにあるようです」
屋根を蹴って身体を宙に浮かせたブルーノが、地上へ舞い降りようとする。
部下のドラゴン教徒たちは風の魔法で倒されてはいるが、無事なようだ。剣を持つ者は構え直し、銃を持つ者は弾を込めて決戦に備えようとしている。
対するナバルはフライパンを失い、今はまったくの丸腰である。
「今度こそ最期ですよ。剣士くん。きみの奮闘ぶりは、きっと伝説として残るでしょう」
ブルーノが空中で動きを止め、抜き放った剣の先をナバルに向ける。
「……ん!? 何の音ですか?」
部下たちにナバルにトドメを刺すように下命しようとした矢先、何かが急に大きな音できしみ出した。と同時に小石や砂が落ちるパラパラという音も聞こえてくる。
「……なにっ!?」
その直後、ブルーノが信じられない光景を目にした。つい先ほどまでいた建物の壁が、ゆっくりと通りの側へめくれるように倒れ始めていたのだ。
「小娘の魔法の影響……?」
思わぬできごとに、ブルーノは避難の呼びかけを忘れていた。
その間も壁はゆっくりと傾きを大きくしている。倒れる先の通りにいる者たちは、まだ自分たちに向かって壁が倒れてきていることに気づいてない。
そして傾きがとうとう限界に達した。レンガは圧縮される力には強いが、引っ張られる力には弱い。そのため、一気に壁の崩壊が始まった。
「壁が倒れてくるぞ!」
「ここから逃げろ!!」
ようやく身の危険に気づいた男たちが、大慌てで逃げ始めた。壁とは反対方向へ逃げ出す者。一か八かで通りの先へ逃げようとする者。反応は様々だ。だが、
「げげっ!?」
ナバルは気づくのが完全に遅れてしまった。逃げようにも、もう目の前まで壁が迫ってきていて手後れだ。そのまま逃げ遅れたドラゴン教徒たちと共に、壁の下敷きにされる。
「ナ、ナバル……さん……?」
メイベルは意識が朦朧としていたため、目の前で何が起こったのか、まったく見ていなかった。轟音に気づいて顔を上げた時には、あたりは一面の土ぼこりで何も見えなくなっている。
「今、何があったの? ……ごほっ」
「それが……、建物の壁が倒れてきて…………」
メイベルの疑問に、修道女が茫然とした顔で答えた。
土ぼこりが晴れ、少しずつ状況が見えてくる。
上空では剣を構えるブルーノが、驚いた顔で固まっている。そのすぐ横にある建物の壁がなくなっていた。建物の2階にいる住人が、恐る恐る外を覗いている。建物は部屋の中が丸見えになったドールハウス状態だ。
そして、ようやく土ぼこりが晴れて見えてきた地上では、
「いってぇなあ……」
ナバルが今も、その場に突っ立っていた。
そのナバルの頭に、折れた窓枠が載っている。どうやらうまい具合に窓の部分にいて、壁の下敷きになる事態を避けられたようだ。だが、窓は運悪く外開きであった。こうなると幸運だったのか不運だったのか判断に悩むところである。
「ナバルさん。……ごほっ、ケガはない?」
「あいよ。無事みたいだ……」
メイベルの呼びかけに、ナバルが片手を挙げて答えた。そのナバルの頭から、砕けた窓枠がパラパラと落ちていく。
「俺には神に選ばれた勇者だぜ。ちゃんと神の加護があった……だ……ろ…………」
そう言いかけたナバルが不意に言葉を止め、
「いってぇぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜……」
その場に頭を抱えて蹲った。一時的な緊張が解けたため、緊張によって抑えられていた痛みが戻ってきたのだ。
「痛がるぐらいなら、そんなに心配はいらないわね。……ごほっ」
ナバルの無事を知って、メイベルが安堵する。そのメイベルが修道女の支えから離れて再び自分の足で立った。そして従者の杖を構え、上空にいるブルーノを睨みつける。
「これは最悪ですね。手負いと病気とはいえ、勇者も従者もまだ動けますか。それに対してこちらは……」
ブルーノがそう言って、自分たちの戦力を確かめようとする。
倒れた壁は通りを覆い尽くし、反対側の建物まで達していた。壁とは反対方向へ逃げた者たちは、これでは一溜まりもなかっただろう。残っている部下たちは、通りの先へ逃れた4人だけだ。
「第1隊長と第6隊長は無事ですか。しかし第6隊長は武器を失い、他の2人も……。あちらは小娘が病気とはいえ、まだ体力は尽きてません。また捨て身で魔法を使われたら堪りませんね。しかも、剣士くんの得物まで持ってきてるとは……」
ブルーノがもう一度戦いを仕掛けるか、それとも撤退するかの決断に迷っていた。
戦力的には2対2。相手の状況を考えると、形勢はブルーノたちに分がある。しかし、繰り返される神の加護のごときできごとを考えると、安易に攻撃には踏み切れなかった。
「今日は撤退します。すみやかに退きなさい!」
唐突にブルーノが決断した。その理由は、
「電撃よ!」
町に駐留する帝国軍の警備隊が、ようやく現場に到着したからだ。最初に攻撃を仕掛けたのは、警備隊の魔導剣士である。
「遅くなりました。見習い修道女カレン。勇者さまと従者さまはご無事ですか?」
階級章から警備隊長と思われる男が、修道女に軽く敬礼して声をかけてくる。
「はい。おケガはされてないみたいで……」
「それは良かった」
そう言って、警備隊長が敬礼を解いた。そして次にナバルに敬礼し、
「では、後事は我々にお任せください」
と断ると、そのまま隊員たちと逃げるブルーノたちを追っていった。
「終わったの……かな? ……こほっ」
急にメイベルの足から力が抜けた。そのまま地面にへたり込み、手に持った杖と剣が地面に転がる。そのメイベルに、
「おまえなあ、病人だったらおとなしくベッドで寝てろよ」
と言いながらナバルが近づいてくる。
「なによ! わたしが来なかったら、かなり危ないことになってたじゃないの」
メイベルはナバルを窮地から救ったと言いたかった。
「いや、来たから、もっと危ない目に遭わされたような気がするぞ」
ナバルは壁の下敷きにされそうだったことを言ってくる。
「あぅ〜。それは……」
今の一言は痛かった。熱で魔法の加減ができなかったせいだろう。そのため、ナバルを危ない目に遭わせたのは事実だ。そのメイベルの頭に手を載せて、
「でも、まあ助けられたのは事実だからな。ありがとうよ」
と、ナバルがお礼を言ってくる。その言葉に、メイベルが照れた笑みを浮かべる。
「あのさ、ナバルさん。ごめんなさい。ナバルさんがフライパンで戦うことになっちゃったの、意地を張ったわたしのせいじゃない。だから……」
「わかったわかった」
ナバルが肩をすくめて、拾い上げた剣と杖を修道女に預けた。そして、
「えっ!? ちょっと、ナバルさん?」
「さっさと教会に戻って、ベッドに放り込んでやる。話はそのあとだ」
ナバルがメイベルを抱き上げると、そのまま教会へ向かって歩き始める。
「本当にごめんなさい。わたしは従者なんだから、ナバルさんのお荷物にも足手まといにもなりたくないのに……。……ごほっ」
抱かれるメイベルが、申し訳なさそうにそんなことを言ってきた。そのメイベルに、
「気にするな。お荷物だっていいんだよ。邪魔な粗大ゴミにさえならなけりゃさ」
と、ナバルが優しい言葉を返してくる。
「まあ、なんだ。メイベルさんはよくやってると思うよ。時々、思いがけない失敗をしてくれるけどさ」
「その失敗が、問題なのよねぇ……」
メイベルの目が、宙を游いでナバルから離れていく。そんなメイベルの反応に、ナバルが苦笑いを浮かべた。そのナバルが、
「そうだ、フライパン。あれは神の選んだ、最高の武器だったぞ」
などと、少し興奮した声で言ってきた。
「やっぱ、くじびきで選んだ武器には、神の加護があるんだろうな。ホント、すごい武器だったぞ。メイベルさんにも見せたかった」
ナバルの言葉は今ひとつ要領を得なかった。
「あ、でも、なくしちまったのは残念だったな。あとで探さなきゃ」
「あれはただのフライパンなんだから。また……こほっ、調達してもらえばいいわ」
ナバルに視線を戻したメイベルが、そう言ってナバルに笑みを向ける。
そんな2人の後ろを歩く見習い修道女は、
「ホント、仲がおよろしくて、うらやましいですわ」
と、2人のやり取りを微笑ましそうに聞いていた。




