第2巻:第3章 ドラゴンに会っちゃった
どこまでも続く広大な大地。そこを深くえぐって、幅の広い川が流れている。
川は水量が豊かで澄み渡り、見事なほどの緑色。そこから川底までかなりの深さがあると見て取れる。
谷の上にある大地も、かなり水の豊かな土地のようだ。水田や麦畑が広がり、その間に無数の用水路や運河が張り巡らされていた。そして大地のところどころに大きな森が残され、その木立ちがほどよい防風林になっている。
その大地から川に向かって、何本もの滝が流れ落ちていた。高さは80mぐらい。崖の上から一直線に流れ落ちるもの、斜面に沿って白く砕けながら注ぎ込むもの、様々だ。
そんな崖の間に、なだらかな傾斜地が点在している。そこは町を作る最適地だ。中でも圧倒的に広く、そして川まで続く斜面には大きな都市が築かれていた。
「ふむ。これは厄介ですねぇ」
川沿いにある高台から、ブルーノがぼんやりと港を眺めていた。
ここは帝都サクラスからフルヴィ川を1,600km溯った場所にある都市ケオシィ。帝都から竜の山脈へ向かう最短コース上にある河港都市だ。
そこにある港に今、大きな軍用船の船団が入港していた。船は全部で5隻。そのうち港に入れるのは3隻が限界らしく、2隻は少し上流で港が空くのを待っている。
船から降りてくるのは、たくさんの荷馬車と人だ。それが港からケーブルカーを使って崖上にある大地まで運ばれている。
港にはケーブルカーが3つ設置されていた。いずれも2台の台車が交互に上下して、途中ですれ違うようになっているつるべ式だ。そのうちの1台に荷物が積まれている。1度に馬車4台が乗り込める大型の台車だ。その台車の下から大量の水が流れ出てきた。ケーブルカーは水の重みで上下させる仕組みだ。捨てられた水は側溝を通って川に流れている。そしてほとんどの水が抜け切った頃、台車がガタンと揺れて坂道を登っていった。
「アサッシニオさま。あれは第2次調査隊ですか?」
「報告によれば、あれはアルテースから来た2千の増援部隊だそうです」
荷揚げ作業を不快そうに見ているブルーノが、部下の質問に淡々と答えた。そのブルーノが顔を上げ、崖の上に目を向けた。
街の郊外にある広場に、大きな野営地が作られている。そこを見ながら、
「あそこではサクラスから来た総数2千の軍勢と、ユーベラスから来た1千の軍勢が出発を待ってます。ここで合流して竜の山脈へ向かうのでしょう。あの中に救世の勇者がいたら、とてもではありませんが手を出せませんね」
と、苦しい胸のうちを吐露した。
「ソルティスの勇者は、いったいどこにいるのでしょうか?」
「さあ、それがわかれば苦労しません」
部下の疑問に、ブルーノが半分投げやりな口調で答えた。
「各地に捜索部隊を派遣してるのですが、サクラスを出てから今日で12日。今日まで何一つ消息を摑めないというのは、いったいどうしたことでしょうね」
そう言って、ブルーノがわざとらしく溜め息を吐く。
「捜索部隊には引き続き勇者探しを任せますが、見つかるまでの間、我々は最短経路上で待ち伏せする以外に策はありません。まったく嘆かわしいことです」
と、ブルーノが言った矢先、
「アサッシニオさま。邪教の勇者の居所がわかりました!」
と言って、ヒゲ面の第6隊長が高台へ駆けてきた。その男の手には、丸めた紙が握られている。
「それは本当ですか、第6隊長?」
「この新聞ですよ。4日前のできごとですが、邪教の勇者たちはコーンヒル地方のエトラって町にいたみたいで……」
そう言って、第6隊長が丸めていた紙を広げた。持ってきたのは新聞だった。
「記事を読むとですね。『7月25日、救世の勇者はエトラで目撃されている。そこから先の足取りは摑めていない。教会関係者は守秘義務があると口を鎖すが、教会の子供たちの話によればエトラから従者を伴い船に乗ったという。本紙記者はこの情報を元に勇者を追跡している。続報に期待したい』だそうです」
「エトラ? コーンヒル地方へ向かっていたとは……。北行きはないと思っていました。それが事実なら、これは完全に裏をかかれましたね」
話を聞いたブルーノが、複雑な表情を浮かべる。そのブルーノが新聞の表紙を見て、
「しかし、その記事を書いたのがソロリエンス新聞とは……。判断に困りますね」
更に複雑な表情へと変わっていった。
「アサッシニオさま。何か問題でも?」
「大ありです。ソロリエンス社は『他人の不幸は最大のエンターテイメント』が信条の困った新聞社です。事件を大袈裟に扱い、事件がなければでっち上げてでも記事を作りますから、その記事もどこまで信用できるかわかったものではありませんよ。でっち上げ記事で戦争を起こしかけた前科もありますからね」
「はあ、そういうものですか。ようやく手がかりが摑めたと思ったのですが……」
第6隊長が残念そうな顔で新聞に目を落とした。それから新聞をグシャッと握り潰して、高台にあった金網製のゴミ箱に放り捨てる。
「とはいえ、でっち上げと決めつける材料もありませんし……」
ブルーノが判断を決め兼ねていた。
指導者の価値は、どれだけ早い段階で指示を出せるかにかかっている。時間との戦いの中、情報が半分わかるまで動かないのは愚かな指導者だ。3割でも遅すぎる。情報の2割がわかった時点で決断しなくては、まともな指導者とは言えない。
「コーンヒルにいるとなると、グレーシィ地方へ来るには北のユーベラスをまわって羊の山脈の東か西のどちらかを……。いえ、グレーシィ地方からではなく、西のアルゴン海の側から竜の山脈に……」
ブルーノが今ある情報を元に、どうするのが最適か、答えを必死に求めようとする。
これが確定した情報なら、考えられる選択肢は限られる。だが、情報源がでっち上げ記事の前科を持つ新聞だ。ウソだった場合も考慮しなくてはならない。
「まさか、わたしは大きな思い違いをしているのでは……」
表情を険しくしたブルーノが、地図を出して広げた。
岩の山脈の東に霧の沙漠。エトラはその南東側にある町だ。そこを流れるウィート川は岩の山脈の近くを通る。
岩の山脈を挟んで西側には高地が広がっている。そこは無数の川が複雑に流れている場所だ。しかも水に浸蝕されて奇妙な形になった岩が多いため、奇岩の高地と呼ばれている地域である。
「アサッシニオさま。どうされました?」
ブルーノが地図上の奇岩の高地を指差したまま考え込んでいる。そのブルーノに、ヒゲ面の第6隊長が何事があったのかと声をかけた。
「奇岩の高地です。ここには竜の山脈ほどではありませんが、ドラゴンさまが住まう土地の1つ。我々にとっての聖域ではありませんか」
答え始めたブルーノが、更に表情を険しくした。
「もしもソルティスの勇者の目的地が、竜の山脈ではなくここだとしたら……」
ブルーノは地図を指差したまま、見落としていた可能性に気づいたようだ。
「あのぅ、お言葉ですが、アサッシニオさま。コーンヒルからでは、奇岩の高地へ向かう道はないと思うのですが……」
「地図にはなくとも、あります。いえ、あったはずです」
第6隊長の言葉をブルーノが否定した。
「1世紀半前の帝国大統一の時、王国連合参加に消極的だったグレーシィ侯国に、連合国の大軍が岩の山脈を越えてきたことがありました。正確にはドラコ暦3,348年の10月6日の事件です。あの時に作られた道が今も……」
「あのぅ、アサッシニオさま。ドラコ暦3,348年って、聖暦では何年でしょうか? 聖暦でないと、ちょっと……」
「聖暦で……何年でしょうか……ですって?」
話の腰を折ってきた部下を、ブルーノが鋭い目つきで睨んだ。それに「しまった」という顔になった部下が、ジリジリとブルーノから離れていく。
「聖暦とは何ですか、聖暦とは!? 聖暦はソルティス教の暦ではありませんか。ドラゴン教徒であればドラコ暦を使いなさい! 今年はドラコ暦3,486年です」
「す、すみません。以後、気をつけます」
慌てて平謝りしながら、失言した部下が更に後ろへ下がっていく。その横では、
「今年は聖暦803年だろ。それで事件はドラコ暦で3,348年で、今年はドラコ暦では3,486年だったか? えっと……、あとは頼む。俺、4桁のひき算はダメだ……」
「よし、わかった。……で、今年はドラコ暦で何年だっけ?」
ヒゲ面の第6隊長ともう1人の部下が、ブルーノに聞こえないようにヒソヒソと話していた。ソルティス教はフォルティアース大陸で最大の宗教だ。その影響でソルティス教の使う聖暦が周りに氾濫している。そのためドラゴン教徒とはいえ、いつの間にかその暦に慣らされていたのだ。そこで改めてドラコ暦を持ち出されても困るというものである。
そんな部下たちを無視して、
「山脈を越えた大軍は、グレーシィ侯爵の逃げ込んだシェーベスの城を襲ったのでしたね。とすると、この川を遡れば……」
ブルーノは地図に目を落としていた。
奇岩の高地を流れる川は少しずつ合流して、大きな流れとなって高地から流れ出ている。シェーベスは奇岩の高地の南西側にあり、流れ出る川沿いに作られた城下町だ。現在ではフルヴィ川の支流にある港町として栄えている。
ブルーノは地図上のシェーベスに着目したあと、視線を川の上流へと移った。
「レヴィンとヴェヘム。ここは昔の……」
ブルーノの目が奇岩の高地に作られた、2つの町に止まった。
奇岩の高地はドラゴンの棲息地であるため、ドラゴン教にとっては聖域である。ここがドラゴンの棲息地となっているのは、そこが火山地帯のために地熱が高いからだ。
「たしか、この2か所にも、ソルティスの教会がありましたね」
だが、そこがドラゴン教の聖地となったのは比較的最近のこと。それまでは火山地帯に多い温泉地の1つであったため、湯治場として栄えていた。当然、2つの町には古くからソルティス教の教会が建てられている。
となれば、追っている勇者がその教会に立ち寄る可能性も出てきた。そして、そこを拠点として、奇岩の高地で何かを始めるかもしれない。
「この大規模な調査隊は、いわば我々の目を欺くためのオトリかも……」
ブルーノの表情が、更に険しくなっていく。
「コーンヒルを担当する捜索部隊からの連絡は?」
「定期報告のみで、発見の報告は何も……」
ブルーノの確認に、部下の1人がかしこまった態度で答えた。
「捜索部隊の常駐場所は?」
「ゼネラです」
「ゼネラ? コーンヒル地方のほぼ真ん中にある大都市ですか」
ブルーノが地図で位置を確かめた。
「目撃されたエトラはウィート川本流域の町。ゼネラは支流域。情報が伝わるまで時間がかかります。現地の担当者の耳には、まだ届いてない可能性もありますか……」
ブルーノの視線が地図上のコーンヒル地方からグレーシィ地方に移った。
「電信を打ちなさい。まずはレヴィンとヴェヘムへは『異教徒の旅人に警戒せよ』と。それとゼネラにいる捜索部隊には新聞の事実関係を確認させなさい」
「はっ! ただちに電信を打ちます」
ブルーノの指示を受けて、部下の1人が駆け出していった。
「我々は新聞記事が正しいことを前提とし、拠点をシェーベスへ移します」
「アサッシニオさま。拠点を移すとおっしゃられても、まだ情報が足りません」
ブルーノの決定に、部下の1人が異論を挟んできた。
「それに、もしも勇者がこのケオシィを通るようなことがあれば……」
「何らかの情報があるのに現状維持ですか? それは愚か者のすることです。わたしにはケオシィに残る必要性を感じません。わたしは邪教の勇者が山脈を越える、ないしは聖地で何かをしてくる時の火急の場合を想定して指示を出してるのです。移動に異論があるのでしたら、それなりの論拠を示しなさい」
部下の意見をブルーノが厳しい言葉で退けた。そう言われてしまうと、異論を挟んだ部下は、それ以上の句を続けられないようだ。
「アサッシニオさま。移動はどのように行いますか? 港から船で向かえば7日ほどの旅となりますが」
次にヒゲ面の男が尋ねてきた。
「ソルティスの調査隊が集結してる今、我々が集団で動くのは目立って危険です。ここは散開して、シェーベスで合流しましょう。わたしは運河を使って、平底舟で移動します。昼夜走らせれば、5日後には到着できるでしょう」
「なるほど。グレーシィ地方は無数の運河が張りめぐらされてますからな」
ブルーノの答えに、尋ねた男が納得している。
「なお、新たな動きがあった場合、全員の到着を待たずに行動を開始する場合があります。指示は地下教会に残しますので、遅れた場合はその指示を確認してください」
ブルーノが男たちの顔を見ながら、注意事項を付け加えた。その言葉を部下たちが真剣な顔で聞いている。
「それでは、これより散開。各自、任意の手段で移動しなさい」
『はっ!』
ブルーノに敬礼して、男たちが別々の方向へ動き出した。
港へ向かう者がいれば、乗り合い馬車や運河の水上バスの乗り場へ向かう者もいる。
そしてブルーノは平底舟に乗り込み、大地の奥へ向かって消えていった。
さて、その頃、帝都サクラスでは、
「救世の勇者の足取りが新聞で報じられておるぞ。これは一大事ではないか」
帝国議会の幹部議員たちが、新聞報道をめぐって大騒ぎになっていた。
「またソロリエンス新聞か」
「帝国では報道の自由を認めているが、無節操な報道にまで自由を認めておらん」
「ドラゴン病の危機が叫ばれる時に、この報道が妨害になるとわかってないのか?」
「一民間企業に公共の利益を考えろとまでは言わんが、自分たちの報道がどんな悪影響を及ぼすか。せめてそのぐらいは考えて欲しいものだ」
「まったく同感です。今はドラゴン教の過激派が、勇者の行方を追っている可能性が高い状況だ。その者どもに居場所を教える利敵行為はやめてもらいたいものですな」
幹部議員たちが集まっているのは、帝国議会の議事堂にある時計塔──その最上階にある部屋だ。そこに用意された円卓を囲んで、自由討議が行われている。
部屋には議員たちの他に男女数人の神官たちがいた。神官たちは書記や準備係など、議会の裏方を任された者たちである。
「やつらは病気が広がり、社会が混乱すれば新聞が売れるとしか思っておらぬのだ。病気が広まれば自分や家族も病死するかもしれぬのに、なんとも浅はかなことを……」
「サンクヮッドの自治戦争未遂事件から、何も教訓を学んでませんね」
記事に目を通した議員が、不快そうな表情を浮かべて新聞をビリッと破った。
「サンクヮッドか。あの事件はありもしない独立運動をでっち上げ、更に帝国が住民から搾取してるなどと事実無根の記事を書いたのが原因でしたな」
「新聞報道を鵜呑みにした偽善バカどもが大量の武器弾薬を提供しちまったおかげで、サンクヮッドの市民は退くに退けなくなって、あと一歩で開戦になるところだったな」
「ああ、あれは危なかった。帝国もサンクヮッド市民も戦いたくないのに、どんどん開戦へと追い込まれて……」
幹部議員たちにとっては、まだ生々しく記憶に残っている事件のようだ。あの当時を思い出した議員たちが、一様に暗い表情を浮かべている。
「そう言えば、あの時はソロリエンス社のサンクヮッド支社が帝国軍に攻撃されないように、社屋の上に帝国旗を掲げたのでしたな」
「そうそう。それを見たサンクヮッド軍の若い士官が、ぶちキレて社屋に砲弾を撃ち込んだおかげで、戦争は未然に防がれたのでしたね。あれで双方とも新聞に煽られただけだと気づくことができて誤解が解消されたのですが……」
「あのあとソロリエンス社が、『砲弾を新聞社に撃ち込むのは報道機関への圧力だ』『言論弾圧には断固屈しないぞ』などとわめき散らしてましたけど」
「あはは。あれは今思い出してもいい気味でした。ああいうのを自業自得とか、因果応報と言うのでしょうな」
「同感です。あれを『風船にじゃれつくバカ猫』と言うのですよ。風船遊びが楽しくて、ついつい夢中になったら爪を立ててバン! で、風船の持ち主にフーッと唸るのです」
議員の中から乾いた笑いが起こった。今の冗談で、新聞社への怒りが少しだけ和らいだようだ。その時、立派な僧服を着たソルティス教の大司教が、
「そういえば、あの時の英雄殿がまだ来てませんが」
と言い出した。その言葉に、
「おや。また今日も遅刻ですか?」
「彼の遅刻グセはなかなか直りませんな」
議員たちの間で、そんな会話が交わされる。
そこに、
「す、すまぬ。もう話は……始まっておるのか?」
今にも床が抜けそうなほど肥った男が、大汗をかきながら部屋に入ってきた。
男は口を大きく開けてぜーぜーと息をしている。顔も真っ赤に染まり、今にも倒れそうな様子だ。その男を見ながら、数人の議員や神官たちがくすくすと笑いを堪えている。
「クリプトン卿、遅いではないか。とうに始まっておるぞ」
「すまぬ。巻き上げ機が故障しててのう。必死に階段を登ってきたのだ」
遅刻した男が、自分の席へ向かいながら言い訳してくる。それに別の議員たちから、
「故障? 巻き上げ機、故障してましたか?」
「私が来た時には、いつも通りに動いてましたが」
そんな疑問が上がってきた。
「ああ、それをやったのは私です。最後に来るのはクリプトン卿と決まってますからね」
ほっそりした男が、軽く手を挙げて自分の悪事を白状する。
「あ、そこの神官くん。下へ行って『故障』と書いた貼り紙を取ってきてください。クリプトン卿には良い運動になったでしょう。登る間に1kgぐらい痩せませんでしたか?」
「テルル卿。そういう冗談は、やめてくれぬか……」
何喰わぬ顔で若い神官に用事を申しつけた男に、肥った男がイヤそうな顔で文句を言った。そんな肥った男に目を向ける大司教が、
「あの時の英雄も、今ではただの肥満オヤジですか」
と零して、情け容赦ない時間の流れを痛感した。
などという騒ぎが起こっているとも知らず、肝心の勇者さまご一行は、
「脚立を渡された時は『何のため?』なんて思ったけど。けっこう使うものなのね」
切り立った崖に作られた、木造の桟道を歩いているところだった。
桟道は崖に一定間隔で穴を空けて横木を差し込み、その上に板を渡して作られた道だ。桟道の下にも無数の横木が崖に差し込まれ、そこに立てられた支柱が道を補強している。
この桟道には丈夫そうな欄干が取りつけられていた。落下事故を防ぐための設備だ。他にも雨と小石程度の落石を防ぐために、屋根のある場所もある立派な桟道である。
だが、この桟道は作られてから長い年月が経っているようだ。所々で屋根が崩れ落ち、桟道も朽ち落ちて途切れている。中でも屋根がなくて野ざらしになっている場所は、桟道の傷みが激しかった。
2人は桟道が朽ち落ちた場所で、折り畳み式の脚立を伸ばして架けていた。それで先にある桟道へ渡ろうとしているのだ。
「脚立はアルミニウム製の角パイプ。軽くて伸ばせば6m近く。それなのに重さは8kgロで耐荷重180kg。しかも大きなゴムタイヤが付いてるから、折り畳んで荷物を括りつければ、持ち運びに便利な台車にもなるし、スライド式の荷台もあるから荷物上げにも便利なスグレモノ。教会も、山越えのために良い物を貸してくれたわね」
「え〜いっ! 解説なんかしてねえで、さっさと荷物を固定しろ!」
2人は今、見事に崩れ落ちた桟道の両側にいた。ナバルは先の桟道で荷物を引っ張る役目。メイベルは手前の桟道に留まり、荷台に荷物を固定する役目だ。
その荷物であるリュックサックは、これまでとは違ってパンパンに膨らんでいた。山越えをするために、念のために携帯する食料をいつもの3倍にしたからだ。しかも巻かれた毛布や雨避けの覆いなどまで結わえつけられ、大変な大荷物になっている。
今、荷台に載せて運ばれようとしてるのはナバルのリュックサックだ。それを荷台に固定したメイベルは、フライパンなどのぶらさがるリュックサックを背負っている。魔法の杖はその上で、毛布と一緒に固定されていた。
ちなみにメイベルは冬用の修道服を着ている。今は夏だが山の気温を考えて、早めに着替えておいたようだ。もっとも、今はまだ暑いのか袖を肘のあたりまでまくっている。
それに対してナバルは、まだ夏服のままである。
「よし。もう大丈夫だ」
荷台に載ったリュックサックが、無事に先の桟道へ運ばれた。すぐさまロープを解いて、ナバルがリュックサックを荷台から下ろす。その頃合いを見計らって、
「じゃあ、行くわよ」
今度はメイベルが、リュックサックを背負ったまま脚立を渡り始めた。
「おいおい。本当に気をつけろよ」
「大丈夫よ。魔法で身体を4分の3浮かせてるから、脚立に負担はかけないわ」
揺れる脚立の上を、メイベルがゆっくりと歩いてくる。桟道と桟道の間は5m。その下は高さが優に300mはある断崖絶壁だ。落ちたら一巻の終わりである。しかも吹き上げてくる強い風の影響で、脚立はかなり不安定だ。
「違う。魔法の使いすぎで、途中で体力切れなんかするなって言ってんだ。それに魔法でスカート押さえるなんて、余計なトコに体力使うんじゃねえ!」
「きゃあ、ナバルさんのエッチぃ♪」
ナバルの言葉に、メイベルが棒読みで軽口を叩いた。
とはいえ、実際に吹き上げてくる風は相当な強さだ。メイベルはスカートがめくられないように魔法で押さえているが、ちょっとでも気を抜けばお腹どころか胸の高さまでめくられてしまいそうだ。そうなるとバランスまで崩されて、体力切れ以上に危険である。
「ほら、手を出せ」
ナバルに言われるまま、メイベルが右手を伸ばした。その手を強く握り、ナバルが優しく引っ張ってくれる。そしてメイベルの足が、無事に先の桟道にたどり着いた。
「一応は心配してくれたのね?」
脚立を渡り終えたメイベルが、そう言って軽く息を吐いた。だが、
「当たり前だ。動けなくなったメイベルさんを、誰が運ぶと思ってるんだ?」
「…………そっちの心配……ね」
ナバルの言葉に、メイベルが荷物を背負ったままガックリと肩を落とした。もう少し優しい言葉を期待してただけに、今の言葉は「やっぱり」だった。
そのメイベルが気を取り直すように、桟道から下界を見渡す。
「うわぁ〜。けっこう登ったわね。ウィート川とテュラの町があんなに小さく見えるわ」
メイベルが眺望の素晴らしさに、思わず歓喜の声を上げた。
空には青空が広がり、その下に見渡す限りの砂地──霧の沙漠が広がっている。もっとも、そのところどころに水溜まりがあり、その周りや砂丘の北斜面が緑に染まっていた。今は霧で湿気の多い季節とは言え、あそこは沙漠だ。日なたの斜面では熱で地中にある水まで蒸発してしまうため、草は日陰の多い北斜面でより良く育つのである。
沙漠の間を縫うように、大きな川が流れていた。ウィート川だ。その水面に映る青空と綿雲は、いかにも幻想的な雰囲気を演出している。船で通った時には濁っていた水が、まるでウソだったような光景である。
そして川のこちら側には、まるでミニチュアのような街並みが見える。2人が山脈越えの前に泊まった町、沙漠の中にある港町テュラだ。
「メイベルさん。あまり端に寄りすぎると危ないぞ。桟道が腐ってて、いつ落ちるかわからないんだからさ」
脚立を折り畳むナバルが、慎重に作業している。対照的にメイベルには、
「魔法で身体を3分の2浮かせてるから大丈夫。もしも桟道が崩れても、その時は完全に浮いちゃえば問題はなしよ」
まるで緊張感というものが欠けているようだ。
「ったく、体力が切れたらどうすんだよ」
ナバルが文句を口にしながら、折り畳んだ脚立にリュックサックを結わえた。そして、
「一応、訊いておくが、メイベルさんの荷物はどうする?」
「このまま背負うわよ。こっちの方が楽だから」
「そうなのか? 本当に体力切れだけは勘弁してくれよ」
ふうっと嘆息したナバルが、脚立を引いて歩き始めた。
ナバルの心配も当然だ。メイベルは山脈越えを始めた頃から、ずっと荷物を背負い続けている。それで体力が保つのか心配なのだ。
しかし、メイベルの言っていることにも一理ある。メイベルは魔法を使って荷物ごと身体を浮かせている。魔法を使えばその分だけ体力を消耗するが、魔法を使わないで登った場合と、どちらが疲れるかの問題だ。メイベルの体感では、魔法で身体を3分の2ほど浮かせた状態が、もっとも体力を消耗しないのだろう。
魔法を使えるメイベルと、使えないナバルの感覚の違いである。
「それにしても、よくまあこんな断崖絶壁に道を作ったものだと思うわ。帝国統一戦争の時に、山脈を越えてグレーシィ地方へ攻め込むために作られたそうだけど、これがどれだけの難工事だったのかは、見るだけでわかるわよね」
桟道を進みながら、メイベルがそんな解説を口にし始めた。
「だけどさ、せっかく作った道を補修しないのは困ったものね。ここよりずっと北に立派な馬車道が作られたから、物資のほとんどがそちらを通るのはわかるわ。だけど、奇岩の高地にはマルル山を初めとして5つの火山がある火山地帯で、昔はけっこうな湯治場として栄えてたそうよ。そこへ向かう湯治客にとって、この道はけっこうありがたいものだったはずなのにね」
などとメイベルが話してる時、ナバルの足許がミシミシと音を立てた。すぐにナバルが岩に手を突き、桟道への負担を弱めようとする。だが、桟道が見る間に沈んでいった。
「地よ固まれ。でもさ、火山の地熱があるせいで、奇岩の高地はドラゴンにとって棲みやすい環境になってるのよね。実際に数多く生息してるらしいし……」
メイベルが慌てず騒がず、解説する片手間で呪文を放った。それでナバルの足許が安定し、無事にその場を通りすぎることができる。それで、通りすぎた場所を、
「そのおかげで奇岩の高地周辺はドラゴン教の聖地にされちゃって、それから湯治客がだんだんと少なくなっていったそうよ。で、いつの間にか温泉地は廃れて、道も使われなくなったから補修もされなくなったらしいの。まったく、迷惑な話よね」
とぼやきながら振り返った。
メイベルが魔法を解いた途端、桟道が再びきしみ始めた。メリメリと木の裂ける音が響き、桟道が形を変えながら沈んでいく。そして、バキッと大きな鳴り響いた直後、桟道が破壊音を轟かせながら崖下へ崩れていった。
「ホント、補修されない道って、あっという間に荒れるのよね」
落ちていく桟道を見送りながら、メイベルがぽつんと零した。
桟道が張り出した岩に叩きつけられ、無数の破片に砕け散った。そのうち1枚の板材が長辺方向の軸で回転しながら、風に乗って遠くまで流されていく。
「それにしても、だいぶ涼しくなってきたわね。たぶん、まだ山の3分の1、1,500mも登ってないと思うけど、朝のうちに冬服に着替えておいて正解だったわ」
軽く身震いしたメイベルが、そう零しながらめくっていた袖を伸ばした。
「吹き上がってくる風はまだ乾いてるから、1,000mで10度も下がるのよ。これで霧を作るようになると、下がり方は1,000mで5度になるけど……」
と話している間に、ナバルはどんどんと先へ進んでいた。といっても足許が腐り落ちないか慎重に確かめながら歩いているため、それほど離されてはいない。
そのナバルを小走りで追いかけながら、
「ねえ、ナバルさんもいい加減に冬服に着替えた方がいいわよ」
メイベルが大きな声で話しかけた。
「上を見ればわかると思うけど、ここから先はずっと霧に覆われてて、陽射しは期待できないわ。身体が冷えて体力がなくなるわよ」
「いや、今は体力を心配するよりも、少しでも早くこの狭い桟道を抜ける方が先だ。着替えは昼飯の時にでもするさ」
メイベルの忠告を聞き入れず、ナバルは先を急ごうとしている。そのナバルに、
「早く抜けたい気持ちはわかるけどねぇ。ナバルさん。この桟道、60km以上あるって、知ってて言ってる?」
と、メイベルが問いかけた。
「60km?」
そう問い返したナバルが、ようやく足を休めた。
「そうよ。と言っても地図上で見てだいたい60kmだから、ひょっとしたら100kmあるかもしれないわ」
そう言って、メイベルが地図をナバルに向ける。
もっとも、地図にはこの桟道は載ってない。赤い線で、このあたりに道があると描き込まれているだけだ。どんな感じに曲がりくねっているのか。どんな起伏があるのか。地図からはまったく読み取れない。
「それに足許を確かめながら歩いてるでしょう。それで普通に歩くより遅くなってるんだから、そうね、1時間に2kmも進めてないと思うわ。だから1日10時間歩けたとしても、抜けるまで最低でも4〜5日はかかると思うの」
「4〜5日……」
メイベルの言葉を繰り返して、ナバルが気難しそうな表情になった。
「今は何時だ?」
「たぶん、11時ぐらい。太陽が見えないから、正確じゃないけど」
羅針盤を手に、メイベルがだいたいの時間を答えた。
「仕方ないな。あそこの屋根のあるところで昼飯にしよう。ちょうど近くで水が湧き出てるみたいだし、桟道の下に小屋も作られてるしな」
少し考えたナバルが休憩を決めた。
目指す屋根のある桟道は、崖伝いにゆっくりとまわった反対側にある。
桟道を作った目的は山脈を越えて軍を攻め込ませるためだ。だが、その後も旅人にとって使い勝手が良いようにと、数kmおきに寝泊まりできる小屋が造られている。もちろん、小屋には簡単な用を足せる場所も設けられていた。
「ん? メイベルさん。何してるの?」
再び歩き始めようとしたナバルが、メイベルが崖に張りついてるのに気づいた。そのメイベルがほんの1mほど崖をよじ登って、岩の間から伸びている草をむしり取る。
「いい薬草を見つけちゃった。これ、滋養強壮にいい薬草よ。運動で上がった体温を下げる効果もあるの。軽く調理するから、お昼に一緒に食べましょう」
戻ってきたメイベルが、そう言って採ってきた草を見せてきた。赤紫色の茎に肉厚の葉が左右対称に並んだ草だ。その草を指差して、
「茎を折ったところから、黄色い汁が出てるでしょう。これをケガやヤケドしたところに塗ると、炎症を抑える効果もあるの」
と、メイベルが笑顔で解説を加える。
「メイベルさん、たくましいな……」
メイベルの様子を見て、ナバルが呆れたような口調で零した。
「昨日、テュラを出る時の旅立ちの神事で、山脈越えでレヴィンへ向かうと決まっただろ。あの時には『山登りはイヤ』とか『何日も野宿するのはイヤ』なんて愚痴ってたのにさ。山登りを始めてから、急に生き生きしてないか?」
「え!? そう見える?」
ナバルの言葉に、メイベルがおどけた顔で両頬に手を当てる。だが、すぐに明るい笑顔をナバルに向けると、
「まあ、たしかに初めは不満だったわよ。これまでは馬車や船を使った楽な旅だったし、夜も教会や船のベッドでゆっくり休めたもの」
と語り始めた。
「だけど、考えてみるとわたし、世界中を調べてまわる旅がしたかったのよね。それで見知らぬ世界を体験するとか、先人たちの叡知に触れてみたかったのよ。で、ふと今やってること振り返ってみたら目的は救世の旅だけど、帝都にいたら見る機会のなかった風力機械とか、帝都とは違う気候風土を観たり体験したりできたじゃない。しかも、今は地図に載ってないような歴史遺産の上を歩いてるのよ。技術は時代と共に進歩するって言われるけど、この桟道を作った技術はけして未熟じゃないわ。むしろ当時の技術力の高さに驚いてるの。そう思ったら、もうワクワクしてきて……」
「わかった。わかったから少ししゃべるのをやめてくれ!」
このまま放っておいたら話がいつ終わるかわからない。そう感じたナバルが、話を遮るように止めさせる。
「メイベルさんってさ。機嫌が悪いと解説するクセがあるっていうのはわかったけど、機嫌が良くても解説するんだな。それも楽しそうに」
「あはは。まあまあ、それがわたしの性格ということで……」
ナバルの皮肉を、メイベルが笑顔で聞き流そうとする。
「さあ、さっさとあの小屋へ行って、お昼の用意を始めましょう。午後のために、しっかりと食事を……。わぁ、こんなところにレモン苔が生えてるわ!」
その場を誤魔化すように進もうとしたメイベルが、桟道の脇で食用の苔を見つけた。岩から滲み出す水を吸って、群生している苔だ。
「これは最高のビタミン補給になるわ。それにちょっと酸っぱいから、疲労回復にいいのよねぇ。これもお昼に使いましょう。保存食だけだと栄養が偏るから、野草は欠かせない栄養源よね」
などと語りながら、メイベルがリュックサックから植物採集用の容れ物を出して、そこへ苔や薬草を放り込んでいく。そんなメイベルを見るナバルが、
「本当に楽しそうだな……」
と呆れた声を出した。そして、ふと霧のかかった山頂を見上げて、
「『女心と山の空』だったか? よくわかんねえ」
と零して大きな溜め息を吐くのだった。
それから5日の時が流れた。
岩の山脈の山頂付近は、相変わらず濃い霧に覆われたままだった。そのため岩の間を縫うように作られた木造の桟道は、屋根があっても湿った状態だ。
もっとも、だからと言って木が腐るようなことはない。ここは標高4,000mを超える山の上だ。気温は夏でもなかなか零度を超えない。そのため桟道にはうっすらと薄い氷が張り、欄干には小さなツララが垂れ下がっている。
そして桟道の3m下では、黒く汚れた氷河が静かに岩を削っていた。
「寒いな。本当に敵の勇者は、この道を登ってきてるのか?」
桟道の下に造られた小屋の中で、男たちがテーブルを囲んでカードゲームに興じていた。
男たちは5人。いずれも腰に剣を下げ、頭から毛布をかぶって震えている。
「さあ、どうだろうな。アサッシニオさまの命令で待ち伏せしてはいるが、俺の知る限りじゃこの30年、この道を登ってきた人はいないそうだ」
男たちはアサッシニオ派のドラゴン教徒だった。どうやら通り道であるここで待ち伏せているようである。
「道があるのかどうかすら、誰にもわからねえんじゃねえか?」
「それじゃ、下手すりゃ寒い中で待ちぼうけってことになるのか。その7、もらった!」
そう言った男が、持ち札をバサッと手前に広げた。そして捨て札を持ってきて、
「8倍役だ。おまえら、手持ちの札の点数を正直に申告しろよ」
と上機嫌に言いながら点数表に結果を書こうとする。
その時、
「おい、見張りの交替時間だぞ。次は誰だ?」
と言って、桟道から男が下りてきた。その言葉に、
「次の見張り番は俺だ。すまん、時間に気づかなかったよ」
と詫びながら、背の高い男が階段を駆け上がっていく。その男に向かって、
「あのやろう。振り逃げしやがった。これじゃ集計できねえじゃねえか!」
と、ゲームに勝った男が文句をぶつけた。背の高い男は集計できないように、カードを混ぜてから行ってしまったのだ。
「うう〜、寒ぃ〜。今日は一段と冷え込んでるぞ」
先ほどまで背の高い男が座ってたイスに、見張りから戻った男が腰を下ろした。そして毛布をかぶった男の前に、
「ほれ、これでも飲んで温まれ」
と、熱い飲み物が出される。
「すまんな。くぅ〜、手が冷えて言うことを聞かねぇ〜!」
そうぼやいた男が、カップを包むように持って手を温めようとする。
「アサッシニオさまからの新しい命令は、まだ届かないのかな?」
「今日、だったか? アサッシニオさまがシェーベスに到着されるのは。何か新しい情報があれば命令が変わると思うが」
カードを切る男が、そう言って話題に乗る。もっとも、その話題は続かず、
「うう〜、寒ぃ〜。待ち伏せするなら、もっと暖かいところでやろうよ」
寒さへのぼやきに戻るのだった。
その同時刻、山を登るナバルとメイベルは、
「やっと、霧が晴れてきたわね」
ようやく厚い霧を抜け、もう少しで桟道の最高地点に到達しようとしていた。
桟道の下には真っ白な雲海が広がっている。そこから突き出る何本もの岩の間を、桟道は縫うように伸びていた。
そこを進む2人は、ナバルの左腕にメイベルがしがみつくような恰好で寄り添っている。魔法の杖と一緒に、ナバルの腕を抱えているような感じだ。2人の荷物は折り畳んだ脚立の荷台に固定され、それをナバルが引いて歩いている。
「メイベルさん。くっつきすぎだぞ」
「そんなこと言ったって、こうでもしないとナバルさんまで魔法で温められないのよ。文句を言うのなら、離れてみましょうか? 周りを見ればわかると思うけど、ここは氷点下の世界よ。雲の上を見てよ。何かキラキラ光ってるでしょう。あれ、始めて見る現象だけど、たしかダイヤモンドダストって現象よ。あれが見られるってことは、このあたりは氷点下20度近い寒さなの」
「悪かったよ」
メイベルの言葉に、ナバルが不愉快そうに答えた。
メイベルに何かを言えば、それが何倍にもなって返ってくる。言いたいことは口に出して伝えるけど、理屈では絶対に勝てない。ナバルはこれまでの旅で、そんな結論を導いていた。それに魔法での暖房に限らず料理その他まで、あまりにもメイベルに頼りきりだ。それでは自分の自尊心が許せないので、ナバルは2人分の荷物運びをしてるのである。
もっとも携帯してきた食料はほとんどを使い終えたため、荷物はかなり少なくなっているのだが……。
「山の上まで、あと何mもないわね」
山頂を見上げたメイベルが、残りのだいたいの高さを目で測った。
青空の中で、岩山が氷で白く輝いている。その下に見える桟道が最高地点だろうか。距離にして200mほど。緩やかな上り坂ではあるが、もうこの先は平らだと思っても間違いない場所まで来ている。
「あ、何か飛んでる!」
空を見上げているメイベルの目に、黒い影が飛び込んできた。
陽の光が眩しい。逆光であるために、黒い影の形を十分に捉えられない。
「大きいな。10m。いや、15mはないか?」
ナバルも大きな影に気づいた。その直後、2人の上を大きな影が横切っていく。
「すごい。大きい……」
急いで地上に視線を落としたメイベルが、岩肌に映った影を目で追った。巨大な翼、大きく太い足、トカゲのような先のとがった尻尾。明らかに鳥とは違う姿だ。
影と桟道の比較から、少なくとも人の7〜8倍の大きさはありそうだ。
「まさか、あれがドラゴンなのか?」
「それ以外にないと思うわ。だって、あんな形の鳥なんかいないもの」
再び空を見上げたメイベルが、飛んでいく生き物の姿をしっかりと目に焼きつけた。
2人は空を見上げたまま、すっかり足を止めている。その2人が見ている前で、巨大な生き物はゆっくりと旋回しながら、やがて岩山の向こうへ消えていった。
「ナバルさん見た!? 今の……」
「ああ。しっかり見た。ドラゴンなんて初めて見たぞ」
「わたしもよ。大きいとは聞いてたけど、あんなに大きいなんて……」
2人とも興奮ぎみの声になっていた。
「う〜ん、残念だわ。もっと近くで見たかったわね」
「その意見には俺も賛成だが……。なんか、暑くねえか?」
ふとナバルが、妙に身体が熱くなってるのを感じた。直射日光を浴びているからか。それとも興奮して熱くなったのか。そんな理由を考え始めた時、
「あ、しまった……」
いきなりメイベルの身体が、ナバルの右手を抱えたままガクンと落ちていく。
「おい、どうした!?」
「ごめんなさい。体力切れ……みたい……」
ナバルにしがみついていた腕の力が抜け、するすると沈み込んでいく。そのメイベルの腕を、反対にナバルががっしりと摑んだ。
「とうとう、やっちまったか」
身体中の力が抜け、メイベルがだらしなく垂れ下がる状態になっていた。ナバルが腕を動かすたびに、その動きがメイベルの身体中にフニャフニャと伝わっていく。
メイベルは魔法を使いすぎて体力が切れると、身体中から力が抜けてしまうのだ。
「ドラゴンに見とれて、つい魔法の加減に失敗したわぁ。暖房の魔法って、けっこう体力を使うのよねぇ。はぅ〜、寒くなってきたぁ……」
メイベルの声も、どことなく抜けた感じだ。
「しょうがねえなあ」
そう零したナバルが、1度メイベルを床に寝かせた。そして脚立に括りつけていた荷物を解いて毛布とロープを取り出す。
「どうするの」
「背負うに決まってるだろ」
何とか動く目で様子を窺っていたメイベルに、ナバルがそう答えた。
「はぅ〜。申し訳ないです」
「とんだお荷物だよな。これさえなければ、最高の旅のお供なんだけどさ」
そんなことを言いながら、ナバルが折り畳んだ毛布にロープを通した。次にメイベルの手にミトンの手袋をはめ、腕を自分の肩に載せるように背負った。そのメイベルを、先ほど作った毛布とロープで背中に縛りつける。即席のおんぶ紐というわけだ。
「ナ、ナバルさん!?」
「すまんが、強めに固定させてもらうぞ。その方が運びやすいからな」
「強めにって、それはちょっと……」
ナバルに密着するハメになったメイベルの顔が真っ赤になった。そんなメイベルの心情など気にも留めず、ナバルが大きな毛布を首のまわりに巻きつける。暖房効果を狙った、一種のポンチョだ。そして、最後に自分の手にもミトンの手袋をはめて準備完了である。
「どうだ、寒くないか?」
歩き始めたナバルが、メイベルに具合を訊いてきた。
メイベルは首が据わってないため、ナバルの頭に頬を密着させる恰好だ。その恰好を意識するあまり、耳たぶまで真っ赤になっている。
(う〜。心臓が速くなってるぅ〜。この鼓動、全部ナバルさんに伝わってるのかな?)
次にメイベルが心臓の鼓動を気にした。身体がしっかりと固定されているため、ナバルの背中から体温がしっかり伝わってきている。そのため、自分の方からも鼓動が伝わりはしないかと、気になってしょうがないのだ。とはいえ、意識しても平静には戻らない。むしろ意識すればするほど鼓動は速くなっていく。
(お、お願いだから止まって! あ、止まったら死んじゃうから、えっと……)
メイベルが必死になって冷静になろうとする。だが、思えば思うほど泥沼状態だ。頭に血が昇って、今にも卒倒しそうな感覚を味わっている。
そんなメイベルの心の葛藤など露知らず、
「メイベルさん? 大丈夫か? 寒くないか?」
と、ナバルが問い直してきた。それにメイベルが、
「うん。熱い……」
とだけ答える。メイベルの頭は、あまりの熱さに茹だってきていた。
「また、雲の中に入ったな」
2人が道の最高地点を通りすぎてから、小一時間が経とうとしていた。
あたりはすっかりと濃い霧に包まれ、視界が5mもない状態だ。そんな中で見えるのは岩肌と桟道だけ。それも少し離れると桟道しか見えなくなるため、まるで空中回廊を歩いているようだ。
「吸い込まれそぉ〜。異次元通路だわぁ〜……」
ナバルにおぶさったままのメイベルが、ぼうっと前を見ながらうわ言のように零した。
霧が濃いために先が見えず、1本道とわかっていても迷いそうな感じがする。
そんなことを言ったメイベルは、いまだ顔を真っ赤にしたままだ。相変わらず首が据わってないため、ナバルの頭に頬が密着している。それを意識しすぎるあまり身体中が上気し、まるで長湯してのぼせたように目が虚ろになっていた。
「頭の中が真っ白だわぁ〜」
メイベルは周りの景色と同様、頭の中が真っ白になって、今にも陥ちそうな感じだ。
その時、ナバルが「おっ」と短い声を漏らした。
「ナバルさん。足許、大丈夫?」
頭を気持ちだけ起こして、メイベルがそんなことを尋ねた。
桟道の床は湿って氷が薄く張っている。その氷で時たま足を取られて、ナバルの身体が流れるのだ。その様子は背中に強めに縛られているため、滑った時の感覚がそのままメイベルにも伝わってくる。だが、
「大丈夫。この程度の氷なら問題はない」
ナバルはそれほど氷を気にしてないようだ。
足を取られても、そこは氷に慣れた北国育ち。凍った路面を歩いていても、上半身は常に安定している。おかげでおぶさってるメイベルは、体勢の乱れまでは感じなかった。でなかったら首が据わってないだけに、ムチ打ちになってたかもしれない。
「お、屋根が見えてきたぞ」
霧の向こうから、ぼうっと桟道を覆う屋根が見えてきた。
「じゃあ、下に小屋があるのかしら?」
「少し休みたいのか?」
「わたしはいいのよ。それよりもナバルさんは疲れてない?」
「大丈夫だ。今は先を急ぎたいからな。休まなくていいなら素通りするぞ」
そんな話をしてるうちに、屋根のあるところに着いてしまった。
屋根は老朽化して、一部が朽ち落ちている。そんな屋根の下に1人の男が立ち、白い息で手を温めていた。
(あのバッジは……)
屋根の下にいる男の胸に、金色のバッジが輝いていた。そのバッジを見つけたナバルの脳裡に、帝都で起こったテロ事件の記憶がよみがえってくる。あの時、倒した魔導師の胸にあったバッジと同じ物だ。だが、
「こんにちは。今日は霧が濃いですね」
山で人と出会ったらまず挨拶。そんなお約束を守って、ナバルが男に声をかけた。
「おう。今日は寒くて敵わんよ」
「こんにちは。風邪をひかないように、気をつけてくださいね」
言葉を返してきた男に、メイベルもそんな声をかける。
「おう、おまえらもな」
すれ違う二人に、男が気さくに声をかけてきた。
その男に軽く会釈して、ナバルが荷物を括りつけた脚立を引いて通り過ぎていく。
「湯治客かな。病気のお嬢ちゃんを背負って山を越えてくるとは、なかなか根性のある若者じゃねえか」
2人の背中を見送りながら、男の表情が和らいでいた。それに山では一瞬の出会いであっても声をかけ合うため、何となく人の温かさを感じるのだ。それを満喫した男が、
「はぁ〜、山はいいよなぁ〜」
温かくなった心を、思いっきり霧の向こうへも伝えようとする。だが、
「……え? 湯治客!? ンなわけねえだろ……」
男は大いなる勘違いに気づいた。
「ちょ、ちょっと待てぇ〜いっ!!」
男が大きな声を上げてナバルを呼び止めようとする。しかし、
「ちぃっ。あれはやっぱり待ち伏せだったな」
ナバルは後ろを振り返らず、すぐさま駆け出していった。
「何があった?」
桟道の下にある小屋から、男たちが次々に駆け上がってきた。その男たちに、
「敵の勇者だ。突破されたぞ!」
と、見張り役だった男が伝える。
「追え! 逃がすんじゃねえぞ」
「全員出ろ! 追撃戦だ!!」
剣を腰に下げた男たちがナバルたちを追い始めた。
「てめえ。何を見張ってたんだよ!」
追いかける中、男の1人が見張ってた男に文句を言う。
「何って……。術にハマっちまったんだよ。あいつら、心理戦を仕掛けてくるぞ」
ただの思い込みだが、物は言いようである。
「あんにゃろう! この借りはキッチリと……。うわっ!!」
見張り役だった男が、急にすっ転んだ。それを振り返ろうとした男も、
「おい、どうし……。うをっ!?」
見事に足を取られてすっ転んでいる。
「おまえら、何やってるんだよ!」
転んだ2人の横を、あとから来た男たちが追い越していく。ところが、
「うぎゃ!」「どわぁ〜!?」「ぶぎっ!!!」
その男たちも凍った路面に足を取られて、ぶざまな醜態をさらしていた。
「ナバルさん。逃げ切れそう?」
対してナバルの方は、転ぶことなく逃げ続けていた。北国育ちで凍った路面を熟知してるからだろう。メイベルを背負うというハンディがあるにもかかわらず、凍った曲がり道も難なく駆け抜けている。
それに対して男たちの方は、凍った路面に四苦八苦していた。曲がり道で桟道から落ち、追撃戦から脱落する者も出ている。落ちた者にとって幸いだったのは、そこが高い崖ではなく、ほんの3m下は氷河であることだ。落ちた時の衝撃でしばらく動けなくなっているようだが、表面の雪がクッションになって大きなケガはないようである。
「分かれ道だ」
桟道が途中で二股になっていた。右へ行けば曲がりくねった平らな道。左へ行けば長い下り坂だ。道が分かれる真ん中に、小さな道標が立っている。
「ナバルさん。レヴィンは右よ」
「わかってる!」
逃げるナバルたちは右の道を選んだ。
「右へ逃げたぞ!」
追いかける男たちも、ナバルに続いて右の道を選ぶ。ところが、
「うわぁ〜。誰か、止めてくれ〜……!!」
氷に足を取られて左の道へ入ってしまった男が、そのまま長い下り坂を滑り落ちていった。更に1人脱落である。
「あのやろう。なんて足の速さだ!」
なかなかナバルに追いつかないため、男たちの1人が毒突いた。
しかし、実際には男たちは凍った路面に足を取られて、足が鈍っていたのだ。しかも、ここは標高4,000mを超える高地である。すぐに呼吸が苦しくなり、全力で走ることができなくなってくる。
もっとも、呼吸が苦しいのはナバルも同じだ。しかもメイベルを背負っているため、体力の消耗は男たちの比ではない。
「あ、霧が晴れてきた……」
下り坂に入ってからしばらく走ったところで、徐々に視界が開けてきた。
目の前に草原が広がっている。そこから無数の岩が、地面から突き出しているような光景だ。2人は山脈を越え、その背後にある奇岩の高地に踏み入れたのだ。
「くっ。道が乾いてきたか……」
霧が晴れたと同時に、湿っていた桟道も乾いてきた。それはナバルに味方していた条件が消えた瞬間でもある。
その直後、桟道が途切れ、ナバルたちは広い草原に出ていた。
「とうとう追い詰めたぞ!」
案の定、道が乾いたと同時に追っ手たちに追いつかれてしまった。
周りを取り囲まれ、とうとう足まで止められてしまう。
追ってきた男たちの数は3人。初めは6人であったから、途中で3人が脱落したわけだ。
「逃げ切れなかったか……。これは仕方ないな」
覚悟を決めたナバルが、荷物を括りつけた脚立を放り出した。そして、腰に下げた剣を抜き放ち、男たちに立ち向かおうとする。
「ちょっと、ナバルさん。3対1じゃ、圧倒的に不利じゃないの!」
ナバルの背中におぶさったままのメイベルが、ナバルに文句を言ってきた。
「メイベルさん。体力は回復したか? 魔法で援護できるか?」
「ごめんなさい。それはまだムリ……」
ナバルの確認に、メイベルが悔しそうに答えた。
今のメイベルは体力切れで、全身から力が抜けている。援護しようにも、何もすることができない。それどころか完全に脱力して首まで据わってないのだ。背負うナバルにとってはお荷物以外の何物でもない状態である。まさに絶体絶命だ。
「くっ。指が動かねえ……」
それでも、まだ天に見放されてなかった。追ってきた男たちは手が冷たくなり、指が動かなくなっていたのだ。そのため手を剣にかけても、それを引き抜けないでいる。
男たちと違ってナバルはミトンの手袋をはめている。それが幸いしていた。
「残念だったな!」
ナバルがわざと剣を大振りした。それに慌てた男たちが、思わず包囲を解いてしまう。
「まだ逃げられる!」
ナバルが脚立を拾うと、再び走り始めた。
「逃がすものか。しかし……」
男たちはナバルを追いながら、どうすれば良いか悩んだ。ナバルは剣を持っている。それに対して自分たちも剣は持っているが、指が動かないために握ることができないのだ。どうやれば足を止められるか。どうやって指を温めて剣を握るか。その答えを求めて、男たちが必死に知恵を働かせようとする。
ところが、男たちが答えを見つける間もなく、
『おぬしらぁ〜。なぁ〜にをやっとるかぁ〜!!』
頭上から大きくお腹に響く声が轟いてきた。
「な、なんだ!?」
今の声に、ナバルが思わず立ち止まった。そのナバルの耳に、
「ド、ドラゴンさま!」
「しまった。ここは聖域の……」
追いかけてきた男たちの声が聞こえてくる。
「ドラゴンだって?」
ナバルが振り返ると、男たちが天を見上げて固まっていた。その男たちの視線をたどったナバルの目に、太陽を背にした巨大な黒い影が飛び込んでくる。
「で、でかい……」
黒い影は地面から突き出した岩の上に留まっていた。影の正体は体長15mはある立派なマウンテン・ドラゴンだ。背中にある大きな翼を折り畳み、太い足の指で岩を摑んでいる。そのドラゴンが大きく鋭い牙をむき出して、ドラゴン教徒たちを睨んでいた。
巨大なドラゴンを見たナバルが、その大きさに圧倒されて1歩、2歩と後退った。
『ここはわしらの土地である。それを土足で踏み荒らすとは、どういう了見であるか?』
ドラゴンが再びお腹に響く声を放ってきた。強い威圧感のある重苦しい声だ。
「申し訳ございません。異教の勇者を追いかけていたもので、迂闊でございました……」
年長の男がひれ伏して、ドラゴンに必死に詫び始めた。それに遅れるように、もう1人の男も地に跪き、ドラゴンに敬意を表している。だが、
「わしらの土地って……。ここはまだ聖地じゃ……?」
一番若い男だけは突っ立ったまま、ドラゴンの言葉に疑問を挟んできた。
「ばかやろう。ドラゴンさまに逆らうヤツがあるか!」
年長の男が若者を叱責した。ドラゴン教徒にとって神であるドラゴンに逆らうことは、最大の禁忌なのだ。それに、
「ドラゴンさまの御前で、大変な醜態を演じましたこと。平に、平にお詫び申します」
ドラゴンの前で争うのは、絶対にあってはならないことだ。
『おぬしら、詫びるつもりがあるなら、今すぐ立ち去るが良い』
「はは。速やかに……」
ドラゴンの言葉を受けて、年長の男が立ち去ることを約束する。とはいえ若者は、
「あ、でも、俺たちは異教の勇者を……」
と、それでは敵の勇者をみすみす見逃してしまうと、ドラゴンの言葉に難色を示した。
それに腹を据え兼ねたのは年長の男だ。若者の腕を摑んで、
「このばかやろう。ドラゴンさまに意見するなど、1億2千万年早えんだよ!」
と怒鳴った。そして肩を怒らせたまま、若者を引っ張って連れていこうとする。
もっとも、年長の男はまだ指が冷えていて、若者の腕を強くは摑めないようだ。途中でするっと腕が抜けたため、怒りで真っ赤になった顔を若者に向けてくる。
「わかりましたよ……」
そんな形相で睨まれると、若者もあきらめるしかない。まずはドラゴンに向かい、
「数々の非礼、大変に申し訳ありませんでした。お言葉通りここは退散いたします」
と深々と頭を下げて謝罪する。次にナバルを悔しそうに睨んで、
「これで終わったと思うなよ!」
と捨て台詞を残そうとした。その若者の脳天に、
「ばかやろう。ドラゴンさまの前だというのがわからねえのか!」
「いい加減に学習せえ! 学習!」
2人の先輩がゲンコツを落としている。そんなドツキ漫才をするドラゴン教徒たちに、
『おい……』
とツッコミを入れたドラゴンが、体格の割には小さく可愛い手の指で頬を掻いている。
そのドラゴンが怒り出す前にと、ドラゴン教徒たちは渋々立ち去っていった。
その男たちを見送ったドラゴンが、
『おぬしらがウワサに聞くソルティス教の選んだ勇者と、その従者であるか?』
と、今度はナバルたちに威厳のある重低音の声で話しかけてきた。そのドラゴンが答えを聞くよりも早く、
『で、おぬしら。いったいどちらが勇者で、どちらが従者なのだ? というか、なんという恰好をしとるのだ?』
と尋ねて首を傾げている。
ドラゴンが気にかけたのは、メイベルを背負っているナバルの姿だ。防寒のために毛布をポンチョ風に巻いているため、まるで1つの身体から2つの首が生えたような姿になっていたからだ。
「マウンテン・ドラゴン……。こんなに間近で見られるなんて……」
「メイベル……さん?」
ナバルの背中で、メイベルがガタガタと震えていた。そんなメイベルに、ナバルが訝しそうに目を向ける。
「しかも、マウンテン・ドラゴンに話しかけられちゃったわ……。話には聞いていたけど、本当に人の言葉を理解できるなんて……。聖典を初めとする多くの文献に、人間よりもはるかに知能が高い生き物と書かれてるけど……」
そう口にしたメイベルが、震える腕で背後からナバルに抱きついてくる。
「それにマウンテン・ドラゴンは、1体で兵士1万人分の攻撃力があるとも謂われてるのよ。口から岩をも熔かす灼熱の炎を吐くらしいわ。そんなバケモノと戦って……、勝てるわけないじゃない!」
メイベルがポンチョの中でナバルの服を摑み、強く目を閉じて顔を埋めてきた。
最初こそドラゴンを間近で見た感動と興奮があったようだが、今はそれよりも恐怖の方が先に立っている。
『おぬしらに問う。わしと戦うつもりであるか否か?』
「ダメ! ナバルさん、絶対に戦っちゃダメよ!!」
ドラゴンの言葉に、メイベルがガバッと顔を上げて必死に止めようとしてきた。
「戦う気なんかねえよ……。あ……」
そう答えたナバルが、自分が剣を抜き放ったままなのに気づいた。
だが、剣を鞘に収めるかどうか、少しためらいがあるようだ。再びドラゴンを見上げ、相手の出方をうかがうような素振りを見せる。
『安心せよ。おぬしが刃向かって来ぬ限り、わしからは手を出さぬ』
「と言われてもなあ……」
ドラゴンの言葉を信じるかどうか、ナバルが迷った。そのナバルに、
「鞘に収めて。お願いだから……」
と、メイベルが頼んできた。その言葉でようやく踏ん切りがつき、
「メイベルさんが言うなら信じよう」
ナバルが剣を鞘に収める。
『ふむ。話し合う気構えはあるか。ならば無益な殺生はせずに済む』
そう言ったドラゴンが、ゆっくりと身体を前に傾け、顔を2人に近づけてくる。
『ならば、わしも話し合う気構えを示そう。まずは名乗りからだ。わしは西の山の長老である。名前はカーム・コップとでも名乗っておこう。本名はおぬしらには発音どころか、聞き取ることもできぬであろう。ゆえに本名を名乗らぬ無礼を許されよ』
西の山の長老ドラゴン──カームが、そう言って先に自分の身分を明かしてきた。
『試しに発音してみよう。ゲゥ……、ゴ……グ……と』
本当に声が低すぎて、2人には聞き取れなかった。
それはともかく、先に名乗られたからには、名乗り返すのが礼儀である。その前に、
「メイベルさん。もう動けるようになったみたいだから、自分の足で立てるよな?」
と、ナバルがメイベルに尋ねた。それに、
「うん。もう大丈夫」
と言ったメイベルが、慌ててナバルから腕を離した。ずっとナバルに抱きついていたことに気づいたのだ。
ナバルが身体に巻いていた毛布を取り、続いておんぶ紐にしていたロープを解いた。それでようやく地に足を下ろしたメイベルが、顔を真っ赤にしてナバルから離れていく。
『おぬし、どうしてこの娘を背負うておったのであるか?』
カームが首を傾げて、ナバルにメイベルを背負っていた理由を尋ねてきた。それに、
「メイベルさんが魔法を使いすぎて、体力を使い切ったからだ。そうなると全身から力が抜けて、しばらく動けなくなるからな」
と、ナバルが毛布を折り畳みながら答える。
『ほう。娘よ、おぬしは魔法使いなのか。魔法を使いすぎると力が抜けて動けなくなるとは、わしらと同じであるな。ドラゴンと人とネコ。昔からよく謂われることであるが、種族は違うのによく似ておるな』
ナバルの言葉に、カームがそう言って面白そうに笑った。その話にメイベルが、
「ホント、よく似てますよね。まったく違う進化をたどってるはずなのに、ドラゴンと人とネコは魔法生理も免疫生理も、近い生物種よりも似通ってるなんて……」
と学術的な興味から乗ってくる。だが、
「……面白い……と思うのは……わたしだけ……のような…………」
すぐに相手がドラゴンだったことを思い出して口籠った。
『面白い娘である。まずはおぬしに問う。名は何と申す?』
「メイベル・ヴァイス……です」
『メイベル・ヴァイスか。憶えておこう』
カームがしばらく品定めするようにメイベルを見て、次にナバルに視線を向ける。
『次に、おぬしの名を問おうか』
「俺はナバル・フェオールだ。ソルティスの神託により勇者に選ばれた男だ」
ナバルが親指で自分を指し示し、自信に満ちた声で答えた。
『なるほど。ナバル、おぬしが勇者で、メイベル、おぬしが従者というわけか』
カームがそう言いながら、2人の顔を何度も見比べた。そのカームの表情が急に険しくなり、
『では、勇者と従者であるおぬしらに問う。勇者の使命がドラゴン退治というウワサがある。それはまことか?』
と尋ねてきた。その言葉に、メイベルの顔から一気に血の気が失せていく。
「それは……」
と、ナバルが答えようとする。だが、それを遮るように、
「違います。そのウワサは大間違いです!」
メイベルが慌てた声で否定してきた。
「わたしたちの使命はデスペランという流行病が再び猛威を振るいそうなので、それを調査して喰い止めることです。このデスペランという病気はですね、1世紀半前に大流行して、世界の3分の2の人たちを死に追いやった魔の病気です。わたしたちはカームさんが聞いたようなドラゴン退治などという使命は……」
『待て待て待て!』
メイベルの言葉を、カームが慌てて止めてきた。
『すまぬが、もっとゆっくりしゃべってくれぬか。それから、できれば二重主語は使わないでもらいたい。わしらドラゴンの間では、あまり入れ子の言葉は使わぬのだ。意味はわかる。であるが慣れておらぬので、ちと理解に時間がかかるのだ』
「はぁ……。二重主語……ですか……?」
カームのお願いに、メイベルが拍子抜けしたような顔になった。その隣ではナバルが、
「二重主語? なんだ、それは??」
単語の意味がわからなくて、どんな言葉を使わないで欲しいのか想像できないでいる。
「ドラゴンの言葉に、二重主語はないのですか?」
『ないことはない。しかし何というか……若い者の間だけで使われてるというか、わしのような年寄りには、ちと異質な言葉というか……』
メイベルの疑問に、カームが困ったように答えてくる。どうやらドラゴンの間では使われないというより、二重主語は若者言葉という色合いが強そうだ。
カームの……と言うよりもドラゴンの妙に人間臭い部分に触れたせいか、メイベルから恐怖心がすうっと薄れていく。
「それでは、ちょっと改めまして……」
表情に笑みの戻ったメイベルが、軽く咳払いする。
「わたしたちに与えられた使命。それはデスペランの調査です。デスペランは1世紀半前に大流行した病気です。当時、世界の3分の2の人が病気で亡くなりました。その病気がまた流行する。そんな兆しがあります。本当に流行が迫っているのか。わたしたちはそれを調査する使命を帯びてます。そして流行が迫っているとしたら、蔓延する前に何とか喰い止めるのも使命の1つです。ということで、わたしたちにドラゴンを倒せという使命はありません」
『ふむ。1世紀半前に大流行した病気であるか』
メイベルの説明を聞いたカームが、複雑そうな表情を浮かべて考え込んだ。
『わしらが死に神咳と呼ぶ病気であるな。あの大流行で、わしらは9割もの仲間を失った。その大流行が、また迫っておると申すか?』
「はい。まだ確定ではありませんけど、最近、それらしい病気が報告されてまして……」
カームを見上げて、メイベルが補足を加えた。その言葉に、カームが『ふむ』と答えてしばらく黙り込む。
『病気が報告されてると申したが、それはどこで始まっておるのだ?』
「竜の山脈のふもとです。最初に報告されたのは、ヴァレーの町です。病気はそこから東に向かって拡がってますので、病気の発生源は風上にある竜の山脈と考えてます」
『竜の山脈。ヴァレーの町。わしの住み処のあるあたりではないか』
メイベルの話に、またカームが考え込んだ。小さく可愛い指であごのあたりを掻き、それから空を見上げて『う〜ん』と唸る。
『何も起きておらぬと思うのだが、何かの間違いではないのか?』
「間違いではありません。デスペランの初期症状と似た病気が各地で見つかっています」
『初期症状? 死に神咳にそのようなものがあるのか?』
「あります。乾いた咳と目の充血、それから微熱と涙ないし洟水……。あ、これは人間の場合の症状ですけど……」
『ふむ。そのような症状が見つかったのか。人間どもの科学の発展は目覚ましいものだ』
小さな手の指で頬を掻きながら、カームがまた身体を前に傾けて、メイベルに顔を近づけてきた。
『それで人間どもは、2度も軍隊を送ってきたのか? 人間どもは死に神咳をドラゴン病と呼んでおるからのう。わしらが病気を撒き散らしたと考え、病気が広まる前に何とかしようと襲ってきたのか?』
「それ、軍隊じゃありません。デスペランの調査隊です」
カームの言葉をメイベルが慌てて否定する。だが、
『調査隊と申したか? いきなり攻撃して来おったぞ』
と言って、カームが険しい表情になった。
『ゆえにわしらは反撃して、2度とも殲滅してやったのだ』
「そんな……」
カームの言葉に、メイベルが言葉を失った。
少し気を許したものの、やはり相手は圧倒的な力を持つドラゴンだった。どんなに人間の科学技術が進んでも、いまだ太刀打ちできないバケモノだ。
それを思い出し、そして痛感したメイベルの顔から、再び血の気が失せていった。しかも急に足から力が抜け、身体が後ろへ倒れていった。
「おい、メイベルさん!?」
崩れていくメイベルを、ナバルが片腕で支えた。そのナバルの服を摑み、メイベルが胸に顔を押しつけてくる。
『うむ。ちいとばかり、おどかしてしまったかのう。しかし殲滅させたのは事実である。それで3度目の襲撃はあるのか。それを確かめに、おぬしらの都まで様子を見に行ってきたところである。その帰りに、なかなか面白い人間に出会えたようだ』
カームがメイベルを見ながら、そんなことを言って目を細めた。
一方でメイベルは、ナバルに体重を預けたまま震えている。
『ふむ。だいぶ陽が傾いて寒くなってきたか』
後ろを振り返ったカームが、低くなった太陽に目を向けた。
陽の高さは30度ぐらいか。夏の強い陽射しで暑く感じたが、ここは標高4,000mもある高地だ。冷え込みの方が強くなってくる。
『寒さで身体が動かなくなる前に、わしは退散するとしよう』
そう言うと、カームが頭を持ち上げて、背中の翼を大きく広げた。
『別れの前に1つ訊いておこう。勇者に選ばれた者よ。もしもわしらと戦わねばならぬとしたら、おぬしはどうする?』
カームが頭上からナバルを見下ろす恰好で、そんなことを訊いてきた。その質問を耳にしたメイベルが、背中に電気の走るような恐怖を味わわされる。ところが、
「必要があるのなら戦う。それが俺の使命ならな」
と、ナバルは臆さずに答えたのだ。
思わず顔を上げたメイベルが、ナバルに文句をぶつけようとする。だが、あまりのことに声にならないようだ。
直後、メイベルの意識が吹っ飛んだ。恐怖が限界を超え、心が緊急停止したのである。
『がっはっはっ。なかなか肝の据わった勇者であるな』
ナバルの答えに、カームが機嫌良さそうに大笑いする。
『おぬし、ナバル・フェオールと申したな。気に入った。娘の名とともに心に刻んでおくぞ。これから先、西の山へ来るのか?』
「それはわからん。俺はソルティスの神に導かれるまま旅を続けるだけだ。目的地が西にある竜の山脈なら、行くことになるだろう」
気絶したメイベルの身体を支えながら、ナバルがカームの質問に答えた。それに、
『そうか。それは大変な旅であるな』
と零して、カームがナバルの顔をマジマジと見詰める。そして、
『ここで出会ったのは何かの縁である。今日はおぬしらを近くの町まで運んでやろう』
と、2人を運ぶことを申し出てくれた。
「本当か? それはありがたい。俺たちはレヴィンという町へ向かってるんだ」
『レヴィンと申したか? それは歩くにはちと遠いのう』
ナバルの言葉にそう返したカームが、北の方角に顔を向ける。
「遠いのか?」
『まだ40kmある。歩いたらあと2晩は野宿するであろう』
「まだそんなにあるのか。そこまで運んでもらうのは申し訳ないな」
カームの答えに、ナバルが困った表情を浮かべた。だが、
『そう遠慮するでない。40kmなど、わしにはひとっ飛びの距離である。それに、わしの今日の目的地は、レヴィンの近くにある山だ。ちいとばかり寄り道するだけである』
と言ってきたカームが、ナバルに向かって手を伸ばしてきた。
『さあ、わしの手に乗るが良い。娘と荷物を持ってな』
ドラゴンの手は体格の割に小さい。それでもナバルたちが乗るには十分な大きさだ。
「それじゃ、遠慮なく乗せてもらうよ」
ナバルがそう感謝しながら、メイベルを抱えてカームの左手に乗った。2人の荷物を括りつけた脚立は、カームがしっかりと右手に持つ。そして、
『それでは、暴れて落ちるでないぞ!』
とナバルに断ると、カームは大空へと羽ばたいていくのだった。




