第2巻:第2章 神さまのお導き?
2人が旅に出て、早くも7日間の時が流れた。
これまでの旅は何事もなく平穏にすぎていた。心配されたドラゴン教徒の襲撃は、今のところ1度も受けていない。その間の移動はすべて乗り合い馬車。そして夜は教会に泊まり、食事や着替えを用意されるどころか、毎日お風呂にまで入れる恵まれ具合だ。
もっとも、
「……ということでして、この1世紀ほどの科学技術の大躍進ぶりは、これまでの人類の歴史にはなかった、大変な事件です」
世の中には何かがうまくいってる時には、必ずどこかに落とし穴があるものだ。
その落とし穴にはまったメイベルが今、礼拝堂で多くの信者たちを前にして、
「この大躍進の一番の功労者は、誰が何と言おうと、わたしは土木技術者にして大科学者であるイシュトヴァン・ネロであると思います。このネロが力学と電磁気学の原理を発見したことで、それまで経験則と試行錯誤に頼っていた技術の多くが計算で求められるようになりました。残念ながら彼が臨終の際に語ったとされる『神はくじびきをしない』という言葉が聖職者や世間の反発を買って評価が低いのですが、今のわたしたちの生活の多くが彼の科学理論の恩恵を受けていることを忘れてはいけません。それに何より、彼が本当に神を否定するような言葉を語ったのでしょうか。その証拠はありません。科学や数学嫌いの人が作り出したウソ。一種の都市伝説にすぎないとわたしは思ってます」
と、やや早口ぎみに熱弁を振るっていた。
ちなみに今の時間は朝の5時半ごろ。朝の礼拝の時間である。
まだ電灯は普及していないため、多くの人々は夜ふかしせず、日の出と共に目覚める生活を送っている。7月下旬の今ごろは4時半には空が明るくなり、5時前には日が昇る。夏場は朝の6時すぎには会社が始まるため、今は出勤前のちょうどよい時間帯だ。世間では7時に目覚めるのは寝ぼすけ、ダメ人間でも9時には目覚めるという時間感覚である。
そんな時間感覚の人々が、今日も教会の礼拝堂に集まっていた。
礼拝堂の収容人数は336人。4人掛けの席が横に間を空けて4つ並び、それが21列用意されている。最前列の席に座るのは教会の関係者たち。中央正面の席にはナバルと司教が座り、その左右に12人の修道士や修道女たちが並んでいた。
ちなみに中央から赤い服を着た修道長が1人、青い服の一人前が10人。そして灰色の服を着た見習いが1人である。
信者たちは2列目以降の空いた席を自由に選んで座ることになっている。いつもであれば席は3分の1も埋まれば多い方だ。だが、今日は町に救世の勇者が立ち寄ったということで、立ち見が出るほどの満席状態である。
信者たちの目当ては、もちろん勇者さまと従者さまの有り難いお言葉だ。しかもメイベルはソルティス教の中核である聖サクラス教会に所属する若き正修道女であり、しかも宮廷料理人、それもタマネギ3個のという高い階級持ち。となれば自然と期待も高まるのであるが、
「さて、このイシュトヴァン・ネロという大科学者は、いったいどのような方だったのでしょう。歴史上の大人物というと、つい聖人君子を想像してしまいますが、大変に面白い逸話を数多く残しています」
メイベルの話は、有り難いお言葉とはほど遠い内容だった。
「まず力学原理を発見した時の逸話が見事です。土木技師であったネロはアルテース地方の大都市サンルミネで、大聖堂の建設を任されました。その建設中のある日、ネロは酔っ払って建設中の建物の足場に登り、そこから足を踏み外して落ちる事故に遭います。それで1か月も入院する大ケガを負ったのですが、なんとネロは落ちる時に無重力を感じた体験から病院のベッドの中で力学理論を完成させたのです」
熱く語るメイベルの話に、聴衆の間から失笑が漏れた。
「この力学理論。彼が土木技師であったせいでしょうか。土木工学で材料の必要量を計算するために用いられる積分、それと建物の傾斜や丸みを計算するために用いられる微分という計算技術が使われています」
メイベルの話を聞きながら、ナバルは「またか」と思っていた。
メイベルにとって旅がうまくいっている時の落とし穴。それは毎朝毎晩の礼拝だった。
旅立つ前、メイベルは宮廷の厨房係をしていた。その係をする理由は、朝の礼拝の時間には朝食の準備があり、晩であれば後片づけがある。そのため礼拝に出なくて済むからだ。
しかし、今のメイベルには礼拝をサボる口実がない。それどころか中央教会の正修道女であり宮廷づきの高い役職にあるということで、勇者であるナバルを差し置いて率先して講話を求められるのだ。ところが、
「あの、勇者さま。あれはいったい?」
司教がメイベルを指差して、隣に座るナバルに何事かと尋ねてきた。あまりにも延々と科学講話が続くので、事情を知りたいという表情だ。
「あれはメイベルさんの悪いクセです。ストレスが強くなると、延々と解説を始めるクセがあるんですよ。それも脈絡もなく」
「クセ? ストレスって、いったい何が原因で……」
「礼拝です。メイベルさん、筋金入りの礼拝嫌いですから」
「礼拝嫌いって……。彼女は中央教会の正修道女でしょ。そんなバカな……」
ナバルから事情を聞いた司教が頭を抱えた。その間もメイベルは、
「力学理論の成功に気を良くしたネロは、次に電磁気学理論でも微積分を使って説明を試みました。その際、ネロは光が伝わる時の観測の遅れを考慮して、電磁気学理論は相対座標で説明しようと試みます」
と、唖然とする聴衆たちを無視して、礼拝とは関係ない話を続けている。
「そうして導かれた相対座標を使った理論によると、なんと観測対象が光の速さに近づくと、物の長さが進行方向に対して短くなるとか、時間が遅くなるとか、重くなるとかいうように見えると予測されたのです。このうち重くなるという予測が実験で確かめられました。まだ1つが当たっただけですが、これはわたしたちの常識を覆す大発見です」
「司教さん。今の時間はわかりますか?」
長々と話し続けるメイベルを余所に、ナバルが時間を尋ねた。
「じきに5時40分になりますが……」
「了解。時間切れだな」
時間を聞いたナバルが、そう言って指をポキポキと鳴らした。そして、熱弁を振るっているメイベルに近づいていく。
「このネロの理論による予測は、もう1つあります。力学と電磁気学の2つの理論を1つにまとめると、なんと質量がエネルギーに変わる式が導き出されます。これは直接ネロ自身が導いた理論ではありませんが、この式が太陽の……」
「いつまでも話してるんじゃねーよ!」
ナバルがメイベルの肩に手をかけ、強引に身体を横に向けた。
「あぅ、目がまわる……」
話の腰を折られたメイベルが、まるで貧血を起こしたように、その場でしゃがみ込んだ。身体の向きを変えられて、平衡感覚を奪われたようだ。
そのメイベルに代わって、
「朝の貴重な時間に、わざわざ教会まで足を運んでくれてありがとう。俺が救世の勇者に選ばれたナバル・フェオールだ。礼拝時間の最後に、俺にも少しだけ語らせてくれ」
と、聴衆に向かって話し始めた。
ようやくメイベルの難解な話から解放された喜びからか。それとも救世の勇者の声が聞けた喜びからなのか。聴衆たちが表情に複雑な笑みを浮かべている。
年配の女性たちの中には「勇者さま」「ありがたや〜」と拝み始める人もいた。
「まず、風のウワサででも、俺の使命は聞いてると思う。再び流行が心配されるドラゴン病を起こさないこと。それとドラゴン教徒との宗教対立を何とかすることだ」
この言葉に、聴衆の間から「おおぅ」とどよめきが起こった。だが、続いて語られた、
「正直言って、俺にはまだこれをどうやって解決すればいいのかわからねえ」
という言葉に、どよめきが戸惑いの声へと変わる。
「俺が勇者に選ばれる前、ほとんど同じ使命を受けて、学者たちの調査隊が編成された。たしか3千人規模の軍隊を伴った、大きな調査隊だったかな。だけど、こちらのウワサも聞いてるだろう。調査隊はドラゴンに襲われて全滅した。それほどの大人数ですら実現できなかった使命を、俺とメイベルさん、たった2人でどうすれば成し遂げることができるのか。今は何一つ足がかりがない。これがウソ偽りのない事実だ」
聴衆の間から、息遣いの音すら聞こえなくなった。
誰もが黙り込み、ナバルに心配そうな目を向けている。中には息を殺し、今にも絶望のあまり倒れそうな人もいるほどだ。その聴衆に向けて、
「という状態だが、俺は心配は何もないと思ってる」
ナバルが根拠も示さず、楽観的な言葉を放った。
この言葉に、聴衆たちが怪訝そうな表情を浮かべている。1度芽生えてしまった不安は、簡単には拭えないのだ。
それでもナバルは、
「考えてみてくれ。俺たちが旅立って、今日はまだ8日目だ。これで答えが見つかるぐらいなら、とうの昔に調査隊が見つけてるはずだ」
と、聴衆たちに話しかけた。
「それに俺たちは神の示した道に従って旅を続けてる。調査隊は西へ向かったが、俺たちに示された道は北だ。というか北西だな。神はウィート川に沿って下る道を示された。神の御心はわからない。だが、向かった方向の違いに意味が隠されているはずだ。俺は神を信じ、示される通りの道を進み続ける。そうすれば、やがて足がかりは見つかるだろう」
ナバルの言葉には迷いがない。そのまっすぐな言葉の響きに、聴衆たちの心が徐々に引き込まれていった。
「それがどんな足がかりか、俺にはまったく見当がつかない。俺には理解を超えるものかもしれん。だが、心配しないでくれ。俺は絶対に足がかりを摑むつもりだ」
強くこぶしを握って、ナバルが聴衆に訴えかけた。そのナバルに最前列に座るただ1人の、まだ顔に幼さの残る見習い修道女から、
「もしも、見落としたら……?」
という疑問が投げかけられる。それにナバルが、
「俺が足がかりを見落とす……か。俺には知識も頭脳もないから、その心配はある」
と、落ち着いた口調で答え始めた。そのナバルが、
「だが、安心してくれ。足がかりを見つけるのは、たぶん俺じゃなくてメイベルさんだ」
と言って、メイベルを示した。
メイベルはナバルの横でしゃがみ込んだままだった。そのメイベルが、急に自分に注目が集まったことに気づいて、慌てて立ち上がって愛想を振りまいている。
「さっきは小難しい話をしてたから感じただろう。メイベルさんは頭がいい。知識もたくさんある。それに何より、学者たちも見落としてたドラゴン病が流行するきざしに、逸早く気づいて警鐘を鳴らした張本人だ。メイベルさんはドラゴン病に関しては誰よりも詳しい、神が用意した知識の目だ。ちょっと抜けたところはあるが、俺が勇者として使命を果たすために、欠くことのできない従者であると同時に参謀役だ」
『おおっ!』
黙って聞いていた聴衆たちが、またどよめき出した。
メイベルが「抜けたところがあるなんて失礼だわ」と文句を言うが、その言葉は聴衆のどよめきに隠されてナバルの耳まで届かない。そのナバルが聴衆に向かって、
「俺は神を信じ、必ずや使命をまっとうする。絶対にドラゴン病は流行らせない。ドラゴン教徒との和平も実現する。だから、みんなは俺を……。いや、神が選んだ俺たちを信じてくれ。俺たちを信じてくれることは、そのまま神を信じることだと思う」
と、力強く言い放った。
直後、聴衆たちの間から『おおおぉ〜っ!!』っという声が湧き上がってくる。そして、パラパラと始まった拍手に応えながら、
「ありがとう。俺から伝えたいことは以上だ。あとは司教さんに礼拝の進行をお返ししたいと思う」
と、礼拝を司教に戻した。そして聴衆たちの拍手の中、メイベルの手を引いて最前列に用意された席に戻っていく。
先ほどまでナバルのいた場所では、司教がソルティスの教えを説いている。その言葉は短くまとめられ、全員で神に祈りを捧げた。それが終わると信者たちは席を立ち、職場へ、学校へ、そして家へと解散していくのだった。
さて、信者たちが帰っていなくなった礼拝堂では、
「あのさぁ、メイベルさん。少しは話す内容を考えろよ」
残ったナバルが、今日のことについてメイベルに文句を言っていた。一種の反省会だ。
周りでは教会の修道士と修道女たちが、軽く礼拝堂の掃除を行っている。
「だってだって、みんなの前に立ったら、何を話せば良いのかわからなくなるのよ」
「それは普段、礼拝をサボってたからだ」
「それはそうだけどさぁ……。もう頭の中が真っ白になって、それでも何か話さなくちゃいけないって思ったら……ねぇ……」
「それが、あの小難しい話か? よくもまあ毎日違う話題を話せるものだな」
「小難しいとか、毎日違うこと話してるとか言われても……。自分では何をしゃべったのか、さっぱり記憶になくて……。あはは……」
メイベルが言い訳をしながら、乾いた笑いを浮かべた。
そんなメイベルに、ナバルが「笑って誤魔化すな」と冷たい視線で訴えている。
掃除をしている修道士や修道女たちも、2人の会話が気になって手がお留守ぎみだ。
そんな中、教会で一番若い見習い修道女が、
「あのぅ、勇者さま。毎日違う話題というのは、どのような?」
と、興味本位に尋ねてくる。
その質問に先輩たちが、少女を「掃除を休むな」という顔で睨みつつも、耳は「よくぞ訊いてくれた」とばかりにナバルに向かっていた。
「昨日は新聞記事に使われる怪しい確率統計の話だったな。で、一昨日は金属で建物を造る話、その前は道や運河の発達と未来の乗り物の話だったか? まあ、初日に語った気候風土と食文化の話は、なかなか興味深い話だったが……」
「食文化って、何を食べてるのかってことですよね? それは聴きたいですねぇ」
少女の視線が、メイベルの袖章に向かった。
力学や建築学などは専門性が高いため、話を聞くのにちょっとためらいを感じる。だが、食べ物の話となれば身近なものが題材だ。しかもメイベルは位の高い宮廷料理人。これで興味を感じない人がいたら、相当な変わり者である。
「じゃあ、明日はその話題の続きを……」
「明日!?」
メイベルの言葉を、ナバルが冷たい言葉で遮った。それで頬を引き攣らせたメイベルが、
「……なんちゃ……って……。あはは……」
と、また乾いた笑いを浮かべる。
「おまえ、まさか今も頭の中は真っ白なのか?」
「あはは……。うん、もう真っ白。自分が何をしゃべってるのか、わからなぁ〜いって感じよ。こういう状態を心理学で解説するとね」
「解説するな!」
メイベルのいっぱいいっぱいぶりに、ナバルが頭を抱えた。
そのナバルに向かって、メイベルがもっと解説したいと目で訴えている。
「それにしても、朝から暑いわね」
メイベルがハンカチを出して、額に浮き出た汗をぬぐった。
「冷や汗か?」
「違うわ。ここは沙漠の入り口の町エトラよ。日の出と共に灼熱地獄が始まるのよ」
皮肉を言うナバルに、メイベルがそう言い返してきた。
「町の西側に広がる霧の沙漠は、帝国の中でもっとも暑い場所なのよ。暑さの原因になってるは、沙漠の向こう側にある岩の山脈ね。フェーン現象って知ってる? 風が山脈を越えると、風下が暑くなるって現象よ。岩の山脈は4,000m級だから、風下は風上より20度暑くなるの。風上のグレーシィ地方の今ごろの最高気温は、間違いなく30度を超えてるはずよ。となると風下の沙漠は50度を超える計算になるわね」
「やられた……」
まるでチャンスを狙っていたように、メイベルが解説を始めてしまった。それを止め損ねたナバルが、眉間にシワをよせて唸っている。
「となれば、沙漠に近いこの町も、朝から熱波に襲われて……」
「あのぅ。霧の沙漠は、今の季節は涼しいですよ」
「…………えっ!?」
見習い修道女の一言で、メイベルの解説が止まってしまった。
「地獄のような暑さになるのは、夏の今ごろよりも、むしろ春とか秋で……」
「……そうなの?」
少女はモップの柄に、両手を載せる恰好で立っている。その少女の話を聞いたメイベルが、呆けた顔でその他の教会の人たちにも確認を求めた。
30歳ぐらいの修道女が、首を静かに縦に動かす。それを見たメイベルの口から、
「……あ、そうなの……」
という、何とも気の抜けた声が漏れ出てきた。
「どうして夏になると涼しくなるの?」
「名前の通り、霧に覆われて涼しくなるからです」
「そうじゃなくて、どうして夏に霧ができるほど涼しくなるのか訊きたいんだけど……」
「さあ、それはどうしてでしょう?」
メイベルに尋ねられても、少女には答えられなかった。少女だけでなく他の教会の人たちも似たような感じだ。質問が自分に振られないようにと、せっせと掃除を続けている。
その人たちをしばらく見ていたメイベルが、
「あなたの目、ちょっと充血してるわね。それに頬も赤いし……。それから、そこの巻き毛の人、さっき乾いた咳してませんでした? それと……」
教会の人たちの何人かが、気になる症状をしてることに気づいた。
「あのぅ、どうかされました?」
そう質問の理由を尋ねてきたのは、目が充血してると言われた見習い修道女だ。
「デスペラン……、というかドラゴン病の初期症状に似てるのよ。それで……」
「ああ、これはサバクコムギの花粉症ですよ。それとあたしの頬が赤いのは昔からです」
少女が自分を指差して、またメイベルの言葉を遮って答える。
「サバクコムギ?」
「毎年夏になると大発生して、霧の沙漠を覆う草です。夏になるとけっこう大勢の人たちが花粉症に悩まされてて、わたしも去年、花粉症デビューしました」
「花粉症デビューって……」
説明の腰を折られたメイベルが、少女の言葉に呆れた表情を浮かべた。だが、
「そういえばサクラスの北の地方からは、デスペランが疑われる病気の報告は1件もなかったわね。まさか花粉症と症状が似てるから、見落とされてたんじゃ……」
どうして北の地方からの報告がなかったのか。その理由として考えられる可能性に気づいて、メイベルが表情を険しくする。
そこに、
「掃除は切りのいいとこで終わらせな。朝食の準備ができたよ」
と言って、赤い修道服を着た年配女性が入ってきた。教会の女性修道長だ。
「さあ、勇者さまと従者さまもどうぞ。さすがに宮廷料理人さまのお口に合うようなご馳走は、用意できなかったけどさ」
修道長は、どこか肝っ玉母さんのような印象がある。まあ実際、
「母さん。会社行ってくるよ」
「お母さん。あたしもお店の準備があるから、もう出かけるわね」
2人の成長した兄妹のいる母親であった。ソルティス教では聖職者の結婚は禁忌ではない。むしろ小さな町の教会は、司教夫妻に運営を任せることが多いのだ。
そして、修道士、修道女の夫妻が教会に住み込むことも珍しくない。この教会にいる修道士、修道女うち4組は夫妻なのだ。そのため、
「修道長のおばちゃん。バター、足りないよ」
「アニーがウィンナーつまみ喰いするから、数が合わないじゃないの。どうするのよ!」
「ぼく目玉焼きヤダよ。卵焼きにしてよ」
教会の奥にある食堂は、朝食を待つ何人もの子供たちでにぎやかだった。
しかも、今は夏休みである。
「ジェラルディーン。勉強道具を片づけなさい。それじゃ、食事ができないわ」
子供の中には親たちが礼拝している間、食堂で夏休みの宿題をしている子もいた。
そんな食堂に入ってきたメイベルを見つけた男の子が、
「従者のお姉ちゃん。席はこっちだよ」
と言って席へ案内する。ちょっとしたエスコート役気取りだ。
「バルトロマイン。案内するなら、勇者さまが先ですわ」
続いてナバルをエスコートしようとしてきたのは、ちょっとおしゃまな女の子だ。
ナバルが案内されたのは、上座に用意された席だった。長いテーブルの短い辺の席。俗に言うお誕生日席だ。ナバルの右側にはメイベルが座っている。
その2人をニコニコ見ながら、ナバルを案内した女の子も席に座る。
「アンナベリア。そこは司教さまの席よ!」
女の子の母親である正修道女が、叱りつける口調で注意してきた。女の子が座ったのは、ナバルにもっとも近い席だ。
「あんたの席は……」
「まあまあ、今日は特別な日です。大目に見てあげようではありませんか」
席を移るように言おうとした母親の修道女に、司教が融通を利かせようと言ってくる。
「ああ、バルトロマインまで……」
今度は別の修道女が呆れた声を上げた。メイベルを案内した男の子が、ちゃっかり女の子の向かい側にある席に腰を下ろしたからだ。そこはメイベルにもっとも近い席である。
「はっはっはっ。たまには席順など気にせず、好きな席で食事するのも良いでしょう」
司教が他の子供たちを見まわして、そんなことを言い出してきた。他の子供たちも、少しでもナバルとメイベルの近くに座りたそうな顔をしていたからだ。
「じゃあ、あたしはここ!」
「早い者勝ち!」
「ああ、みんな、早いんだな……」
たちまち子供たちが奪い合うように自分の席を決めていった。ただ1人、
「みなさん。お行儀が悪いです」
先ほどまで夏休みの宿題をしていた女の子だけは、いつも通りの席に座っている。
そしてそのあと、大人たちも適当に空いた席に腰を下ろしていった。
「それでは、食事を始めましょう」
司教による食事の前の祈りを終え、食事が始まった。メニューはライ麦パンと野菜とクリームのスープ。主菜は目玉焼きと2本ずつのウィンナーで、そこに茹でたブロッコリーとプチトマトが添えられている。ごくごく普通の朝食メニューである。
「ねえ、勇者さま。ドラゴン病って、どんな病気なの?」
ナバルがパンに手を伸ばすより早く、横に座った女の子が両腕で頬杖を突く恰好で尋ねてきた。続いて青い服を着た医療係の修道女が、
「そうね。わたしは杉1本の医師だから病気には詳しいつもりだけど、デスペランに関しては全身ヤケドに似た症状になる怖い病気という程度にしか知らないわ」
と、自分も病気についての詳しい話を聞きたいと求めてきた。
その質問にナバルが「知らん」と答えた。それで食卓を囲む者たちの表情が固まる。
「すみません。その質問はわたしが答えます」
チラッとナバルを見たメイベルが、軽く断ってから説明役を代わった。
「まず、専門名デスペラン、通称ドラゴン病が1世紀半前に人類の3分の2を殺した怖い病気ということと、病気に罹ると全身が赤く腫れ上がってただれ、見た目がドラゴンから灼熱の炎を浴びて大ヤケドを負ったようなところからドラゴン病とも呼ばれてることは、けっこう有名な話と思います」
語り始めたメイベルの話に、食卓を囲む者たちが食事の手を止めて耳を傾けている。ただ1人ナバルだけが、話を聞くよりも食事を優先させていた。
「それで、6年前にデスペランの病原菌が見つかったことでわかったことですが、デスペランにはA型とB型の2種類の病原菌があったんです。どちらも罹り初めには目の充血と乾いた咳、それと微熱で頬が赤くなる症状が出ます。それで2つの違いは、A型は洟水が多くて、B型は涙が多く出るところです」
「それで、その症状が出てから、どのくらいで病気が重くなるの?」
杉1本の修道女が、身を乗り出して肝心の部分を尋ねてくる。
「それで終わりです。症状が出るのは5日ぐらい。ちょっと風邪が長引いたような感じですし、たぶん同じ頃に花粉症を患ってたら気づかないかもしれません。それに感染力も弱いので、なおのこと見落としがちになるかと……」
「…………はぁ?? 感染力が弱い!?」
メイベルの説明に、杉1本の修道女が素っ頓狂な声を上げた。
「それがどうして1世紀半前の疫病禍を……?」
「まあまあ、それはデスペランの持つ特異な性質のせいです」
説明に疑いの目を向ける修道女を手で制して、メイベルが先を話そうとする。
「デスペランの研究が進んだのは、危険な病原菌ですけど、普段は感染力の弱い病気だとわかったからです。それに数は少ないですが、毎年十人ほどの犠牲者が出ています。炎の魔法による無差別殺人で殺されたとされる人がいるでしょう。実は、あれもデスペランの犠牲者でした」
「炎の魔法!? あれ、無差別殺人事件じゃなかったの?」
「はい。これまでは殺人事件として司法解剖されてましたけど、病死として検死した結果、共通の病原菌が見つかりました。それがデスペランの病原菌だったんです」
メイベルの話に、杉1本の修道女がゴクンと息を呑んだ。
「それでデスペランが発病する仕組みですけど、これはまだ仮説ですけど少し複雑です。最初にA型とB型があると説明しましたけど、どちらか一方だけでは軽い風邪や花粉症のような症状で終わります。ところが、その後もう一方の病原菌にも感染して発病すると、アナフィラキシーショックを起こすと考えられています。それも呼吸困難とか全身痙攣では済まなくて、激しい炎症を起こして全身がただれるほどの……」
「それがわたしたちの知ってるドラゴン病の症状……」
「その通りです」
メイベルが声音を落として、杉1本の修道女の言葉を肯定する。
食卓を囲む全員が、今の話に食事の手が止まっていた。ナバルも食事する気が失せたのか、手に持ったスプーンでスープをぐるぐると攪きまわしている。
「こりゃ、食事中にする話題じゃないね」
と言い出したのは、この教会の女性修道長だった。だが、杉1本の修道女は、
「もう少しだけ聞かせて。普段のデスペランの感染力は弱いのよね。それが爆発的流行を起こす原因は何なの?」
と質問を続けてくる。だが、
「原因はまだ何もわかってません。突然変異で感染力の強い菌が生まれるのか、もともと条件がそろうと感染力の強い変異種に変わる性質を持っているのか……」
メイベルは答えを持っていなかった。
「今わかっていることは、A型と思われる病気に流行の兆しがあることです。思われると言ったのは、あくまで一部の患者からしかA型の病原菌が検出されてないことと、感染を疑われる人が多く発生してるからであって、まだ流行が確認されたのではないからです。でも、これがA型の流行でB型も広がり始めたら、一気に爆発的流行が発生します」
「こりゃ、たまげた話だねぇ……」
メイベルの話に、大人たちが深刻な表情になっていた。修道長はお手上げと言いたそうに肩をすくめ、隣では司教が両手の指を組んで神に祈りを捧げている。
対照的なのは途中から話について来れず、話に興味を失った子供たちだ。
ナバルの隣に座る女の子は、つまらないという顔でパンに細切りのキュウリの耳をつけて遊んでいる。メイベルのすぐ横に座る男の子も、今は食べる方が忙しいようだ。千切ったパンをスープに浮かべて、それをスプーンですくって食べている。
その男の子が口から出したスプーンをジッと見詰めて、
「ねえ、従者のお姉ちゃん。教皇さまのお食事では、鉄のスプーンを使うって本当?」
と別の質問を振ってきた。
男の子の使っているスプーンやスープ皿は、共に木で作られたものだ。フォークやナイフ、目玉焼きを載せたお皿もすべて木で作られ、表面に撥水性のワニスが塗られている。
その質問で食堂を覆っていた空気が変わり、大人たちが再び食事を始めた。
「あれは鉄といえば鉄だけど……」
メイベルも質問に答えながら、食事の手を動かし始める。そのメイベルが、
「正しくは鉄とクロムとニッケルを混ぜ合わせて錆びないようにした耐腐食鋼という合金よ。宮廷で使ってるのは、鉄74%、クロム18%、ニッケル8%、他に炭素が0.1%使われてるわ」
と解説しながら、パンにジャムを塗っていく。
「ス、ステン……?」
男の子の表情が面喰らった顔になっていた。それに気づいたメイベルが「しまった」と思って小さく舌を出す。
「えっと、ごめんなさい。教皇さまのお食事で、鉄……というか、金属のスプーンが使われるのかって質問だったわね。それは使うこともあるけど、教皇さまがお使いになるのは、金属よりも陶磁器で作られたスプーンの方が多いわ」
「セラミックって……?」
「あぅ……」
また相手に通じない難しい言葉を使ってしまい、メイベルが説明に困った。
「粘土を焼いて作ったものなんだけど……。ここには……」
食堂の中を見まわしながら、メイベルがどうやって説明すれば良いか迷った。
この教会で使われている食器類は、どれも木製品だ。それを見ながら、
「陶磁器を焼くにはたくさんの木が必要になるけど、ここは沙漠に近い町だものねぇ。木は貴重品だから、そのまま使ってるのかしら? 教会はレンガ造りだけど……」
ぶつぶつとそんなことを考えている。
そのメイベルの目が壁に向かった。次に窓のガラスをジッと見詰める。
「陶磁器っていうのは、レンガやガラスみたいなものよ。何となくでも伝わるかしら?」
「レンガやガラスのスプーン……。何となく……」
男の子が、そう言って首を傾げた。どうもうまく伝わらなかったようだ。
「ねえ、ねえ、お姉ちゃん」
次にナバルの横に座る女の子が、好奇心に満ちた顔でメイベルに声をかけてきた。
「なあに?」
ジャムを塗ったパンを頬張ってから、メイベルが女の子の呼びかけに答える。
「あのね、お姉ちゃんたち、神さまの使命が終わったらさぁ」
女の子がそこで言葉を区切って、ニヤニヤした口許を握った両手で隠した。
「従者のお姉ちゃんと勇者のお兄ちゃん、結婚するの?」
女の子が尋ねた直後、その場にいた大人たちが、いっせいに口の中のものを噴いた。中には鼻に逆流し、苦しそうにむせてる修道士もいる。
「なっ……!?」
「だって、お姉ちゃんは正修道女だから、結婚してもいいんでしょ?」
仰け反るメイベルに、女の子がなおも回答を迫ってくる。
「そ、それだけどね。わたしはまだ16歳だから、結婚できないの。結婚は、男性18歳、女性17歳からよ」
メイベルが焦りながら、女の子に答えた。顔が見る間に真っ赤に染まっていく。
そんなメイベルの顔色の変化を、女の子がニヤニヤした顔で見ながら、
「16歳!? うわぁ〜、わっかぁ〜い! それでもう正修道女なの? 優秀だぁ〜」
などと驚きの声を上げてきた。
「あのね。あたしのお母さん。正修道女になったの、29歳だったの」
「アンナベリア! あんたって娘は!! このおませ☆」
血相を変えた母親が席を立って、女の子のところへ駆けてきた。そして背後から女の子の頬をつねり、ぎゅうっと横へ引っ張っている。
「えぇ、えぇ、あたしが正修道女になったのは29歳ですよ。どうしようもない落ちこぼれでしたよ。一生、見習い修道女のまま結婚できないんじゃないかと焦ってましたよ!」
「あぅ〜、ごめんなさひぃ〜……」
女の子が話題にしたのは、母親の触れてはいけない部分であったようだ。
「俺なんか、正修道士になれたの、32歳だもんなぁ〜」
女の子の父親も、見習いから昇格するのが遅かったようだ。そんな父親を、仲間の修道士が「まあまあ」と慰めている。
そんな騒ぎに我関せずなのは、ナバルと食事の前に宿題をしていた女の子だ。ナバルは黙々とウィンナーを頬張り、女の子は膝の上に宿題を隠して勉強を続けている。
「俺も17だから、結婚はまだだ」
ウィンナーを飲み込んだナバルが、ようやく会話に加わってきた。そのナバルが、
「それに、結婚相手は神さまが決めることだ。今回はたまたまメイベルさんと組んだだけで、結婚とは別の話だからな」
と言うと、今度は千切ったパンを口に入れた。
そんなナバルの言動に、大人たちが意外そうな表情で顔を見合わせていた。
「ありゃあ、相当な堅物だね。身体を鍛えすぎて、脳ミソまで筋肉で堅くなってるわね」
食事が終わり、今は後片づけだ。メイベルは教会の女性修道長と一緒に食器洗いをしている。
「礼拝嫌いの正修道女と、敬虔なソルティス教徒というより、くじびき絶対主義の剣士さまとは、またおかしな組み合わせだよ」
「はあ。でしょうねぇ……」
水道で洗剤を洗い流しながら、メイベルが抜けた声で返事をした。
流しには洗い桶が置かれ、そこには洗剤を溶かした水で充たされている。そこに汚れた食器を浸し、メイベルが魔法で複雑な水流を作り出していた。メイベルがすすいでいるのは、汚れの落ちた食器である。
「くじびきで相手を決めるなんて、あまりいい気分じゃないねぇ。あたしゃ、神さまには結婚を許すかどうか、それだけを教えてもらえば十分と思うんだけどねぇ」
メイベルからすすぎ終えた食器を受け取って、修道長がふきんで水気をぬぐっている。そして水気を切った食器は、乾燥用の棚に並べられていた。
「修道長さまは、ひょっとして司教さまと恋愛……?」
「いやぁ〜ねぇ〜! この娘ったらぁ〜♡」
いきなり修道長が、メイベルの背中を叩いてきた。それで一瞬呼吸が止まったメイベルが、流しの縁に手をかけてむせ返っている。
「んもぉ〜、あたしとダーリンは、何というかぁ〜♡」
「ダ、ダーリンって……」
修道長が年がいもなく、身体をもじもじくねくねさせていた。それを見たメイベルが、直感的に「のろけられる!」と警戒する。だが、
「悪いね。水洗いまで手伝ってもらって」
修道長が急に素に戻って、最後の食器を棚に収めた。
「いえ。一晩泊めていただいたのですから、当然です」
洗い物を終えたメイベルが、はずしたエプロンで手をぬぐっている。
修道長もエプロンをはずしてイスの背もたれにかけ、
「名残惜しいけど、これが終わったら旅立ちの神事だねぇ」
と残念そうに嘆息した。
「その神事ですけど……。やっぱり、やらなくちゃダメ……ですか?」
「はぁ?? ダメに決まってるじゃないの」
メイベルが言い出した質問を、修道長が呆れた顔で否定する。
「あんた、礼拝嫌いなだけじゃなくて、神さまも信じてないのかい?」
「えっと……、わたしは神さまを信じてないんじゃなくて、くじびきに振りまわされるのがイヤというか、くじびきが心的外傷になってるというか……」
「そういう考えが、神さまを信じてないって言うんだよ」
「で、でも……ですね。わたしたちに与えられた使命を考えると、行き先はずっと西にある竜の山脈ってわかってるのに、くじびきに振りまわされて北へ……」
「バカ言ってるんじゃないよ」
メイベルの言葉を遮って、修道長が一喝した。そして腰に手を当てて、
「あんた、けっこう頭がいいみたいだから、そこらの学者たちみたいに確率や統計の一面だけを見て、くじびきをただの偶然だなんて考えてないかい?」
と、強い口調で文句を言ってくる。
「あんたたちが旅に出てから、今日が8日目だったね。ということは、これまでに7回の旅立ちの神事をやってきたわけだ。なら、7回でエトラの町に来られる確率を計算してみな。エトラに来たのは偶然と言いたいなら、帝都から7日間、1度も寄り道せずまっすぐ旅を続ける確率を計算してみな。エトラは7回の神事で来られる、もっとも遠い場所の1つ。偶然で片づけられる確率になるのかい?」
「え、えっと、たしかに、まっすぐ進んでますね。単純に4つの方位で考えると、まっすぐ進む確率は4、16、64、256、1024だから、4096分の1ぐらい……」
「ほら、みなさい」
メイベルの計算に、修道長が荒い鼻息をフンと吐く。そんな修道長の顔を見ながら、
「あ、休みの日があるから、5、25、125、625、3125で、15625分の1だわ……」
と、メイベルが計算を訂正する。もっとも、休みの日は戻る選択の場合の代わりなので、最初の計算の方が実際に近いのであるが……。
「いいかい。偶然なんて考えは、思考停止した学者のたわ言だよ。ソルティスさまの教えにもあるだろう。『くじびきを疑う者よ。1度目は運にすぎず、2度目は偶然かもしれない。しかし3度続いたら、それは神の示した必然である』ってね」
「はあ……。それは、仰る通りで……」
メイベルは完全に返す言葉を失っていた。修道長の前で、ただ萎縮して突っ立っているだけである。そんなメイベルに軽く微笑んで、
「いいかい。確率とか統計ってものは、物事を客観的に見るにはいい考えだろうさ。だけどね、物事には必ず原因があるんだよ。それを安易に偶然で片づけてたら、大切なものは何も見えてこないよ」
と諭した。
「さて、神事の準備を始めようかねえ。と、その前に。必要な物があれば言っておくれ。教会にある物なら、急いで用意するからさ」
炊事場から出ていこうとした修道長が、ふと立ち止まって要り様の品物がないかと訊いてくる。その言葉を待っていたように、
「それなら……ですね。ちょっと、手に入れておきたい物が……」
と、メイベルが切り出してきた。
「えっと……。できましたら、下着を少し多めに……」
「下着!? そう言やぁ、昨日洗濯したあんたの下着、妙にすり切れてたねぇ」
下着と聞いた修道長が、そんなことを思い出した。
「あんなすり切れた服と下着、いったいどこの教会で渡されたんだい?」
「いえ、渡されたんじゃなくて、替えがなかったからずっと使ってたというか……。あ、でも、ずっと使ってたからって着っ放しじゃないです。ちゃんと洗濯はしてました」
「あたしゃ、何も訊いてないんだけど」
メイベルの話を聞いた修道長が、呆れた顔をして大きく肩を上下させる。
「まあ、だいたいの事情は想像がつくわ。あんた、ずっと中央の修道院にいたから、男だけの教会が多いなんて思ってもみなかったんでしょ。男連中が女物の下着まで用意してるわきゃあないわね。それよりも用意されてたら、なんか空恐ろしいよ。ひょっとして女物の修道服も着替えが用意されてなかったんじゃないかい?」
「はい。ご想像の通りです。修道服も最初のパリエスで着替えたのが最後で……」
腰に手を当てる修道長の前で、メイベルが顔を真っ赤にして萎縮する。
「だけど汚れたものを着続けるのは気持ち悪いので、夜中にこっそり魔法で洗濯してたんです。でも、魔法で洗濯すると、生地がすれちゃうというか……」
「魔法で洗濯!? あたしゃ、あんたが夜中に、どんな恰好で洗濯してたのか、そっちの方が気になるよ」
呆れた顔した修道長が、そう言って大きな溜め息を吐いた。言われた側のメイベルの方も、困った顔で頭の後ろを掻いている。
「まあ、ちょっと困っただろうけど、頭デッカチそうなあんたにはいい社会経験だぁね」
軽く苦笑した修道長が、メイベルに部屋を移動すると手で合図してきた。
「次の教会がまた男ばかりかもしれないから、下着は多めに持ってた方がいいわね」
2人が移動した先は衣装部屋だった。そこにある観音開きの物置きを開いて、修道長が数個の紙包みを取り出してくる。それらを部屋の真ん中にあるテーブルに置いて、
「ついでだからこれをあげるよ。ここに好きなだけ詰めて持っていきな」
修道長が子グマの絵がプリントされた可愛いポーチを手渡してきた。
「あ、これ、北極熊の……」
渡されたポーチの絵を見て、メイベルが笑みを浮かべている。そのメイベルをしげしげと見ながら修道長が、
「それにしても、あんた、化粧はしないのかい? 目鼻立ちはいいんだから、何も手入れしないのはもったいないねえ」
と言ってきた。
「身だしなみとして、髪は梳かしてるみたいだけど……」
「はあ……。顔に何かを塗るのは、気持ちが悪いと言うか……」
「あんた、自分が年頃だってことを忘れちゃいけないよ。今朝の礼拝の時には、すっぴんのまま信者さんたちの前に出ていったじゃないか。少しは自分を綺麗に見せようってぐらいの心遣いが欲しかったねぇ」
「そういうもの……ですか?」
「当然じゃないの。魅惑的な正修道女が有り難い言葉を語りかけてきたら、信者たちはそれだけで話に吸い込まれるんだよ。それで難解な科学講座を開かれても困るけどさ」
「うわぁ〜……」
大失態を掘り返されたメイベルが、真っ赤になった頬を手で隠した。そのメイベルに、
「あんたは悪い娘じゃないけど、ちょっと勉強ばかりしてきたせいか、周りへの心配りが足りないみたいだねぇ。大丈夫。あんたは頭がいいから、お化粧も、礼拝でする話題の選び方もすぐに覚えるわ」
と、修道長が優しく語りかけてくる。
「それにしても、あんたたち2人を見てると、神さまもまるで正反対の2人を選んだものだと思うねぇ」
包みを物置きに戻した修道長が、話を続けながら礼拝堂の方を指差した。そろそろ行こうかという合図だ。そして礼拝堂へ向かいながら、
「礼拝嫌いのあんたと、極端なほど信心深い勇者さま。それから協調性はあるけど心配りに欠けるあんたと、勇者さまは堅物で周りとの協調性はなさそうだけど、あれでけっこう周りに気を使ってるね。礼拝の時に感じたんだけど、時間の配分とか、信者たちがどんな言葉を聞きたがってるとか、それから支離滅裂な話をしたあんたへのフォローとか」
ついてくるメイベルに、そんな話を聞かせる。
礼拝堂には、すでに旅立ちの準備を負えたナバルが待っていた。
壁にある時計に目を向けると、まだ旅立ちの神事までは時間がある。司教や教会の人たちは、地図を見ながら神事に使うくじ札を作っているところだ。
メイベルも自分の荷物のところへ行き、持ってきたポーチをリュックサックに仕舞う。
「メイベルちゃん。これも持っていきな」
その時、修道長が、小さな布包みを渡してきた。
「これは?」
「携帯用の化粧道具一式よ。教会で死に化粧用に買い置きした物で悪いけど、それは新品だから安心していいわ。それと……」
続いて手のひらサイズの小冊子が渡される。
「これは礼拝で使う講話のアンチョコ集よ。これから先、何度も講話を求められるだろうからね。ちょっとは気の利いた話ができるようにしておきなよ」
「はい。ありがたくいただきます」
メイベルが布包みと小冊子を高く掲げて、大袈裟にお礼を述べた。お礼の気持ちと共に、もうお説教は十分ですという意思表示だ。そんなメイベルの反応に、修道長がにこにこと満足そうな表情を向けている。
「それでは、旅立ちの神事を始めましょう」
時間になり、司教が神事の開始を告げてきた。
その言葉を聞いて、メイベルは手早く荷物をまとめて、ナバルの隣に立った。
空にうっすらと雲が広がっている。その雲に弱められて、陽射しは優しく柔らかだ。
地上は砂に覆われた世界。見渡す限りの砂沙漠だ。風に舞い上った細かい砂が、地上近くを黄色く染めている。
とはいえ、今の砂沙漠は乾いた大地ではなかった。砂の大地に点々と水溜まりができている。しかも草地が囲んでいる様子から、水溜まりは昨日今日できたような新しいものではないことを物語っている。
そんな沙漠の中を、大きな川が横切っていた。水は濁り黄褐色に染まっている。
その川の流れに乗って、大きな船がゆっくりと下流に向かって進んでいた。
「ホントに沙漠の奥へ行くほど涼しくなるわね」
船のデッキにあるテーブルに座って、メイベルが外の景色を眺めていた。テーブルには日除け用のパラソルがあり、メイベルはその下で読書に勤しんでいたようだ。
メイベルが乗っているのは、大きめの貨客船だった。大きな煙突から白い煙を出して走る動力船である。
デッキにはいくつものパラソルつきのテーブルが置かれていた。メイベルの他にも数人の乗客が、テーブルで船旅を満喫している。
だが、デッキには燃料用の液化ガスのタンクが並び、他に船倉からはみ出した木箱が防水シートをかけただけで野積みされている。そのためデッキはあまり広い感じがしない。
「気温は24度、湿度68%。とても真夏の沙漠とは思えないわね」
メイベルは客室のある建物の、もっとも出入り口に近いテーブルに座っていた。
出入り口の横に、丸い温湿度計がかかっている。メイベルはその温湿度計を軽く見て、それからまた外の景色に目を向けた。そこへ、
「メイベルさん。お茶持ってきたけど、飲むかい?」
と言って、ナバルが両手に金属製のマグカップを持ってやってきた。
「あ、ありがとう。言ってくれれば、わたしが用意したのに……」
「気にするな。こういうことは先に気づいた方が動けばいいんだよ」
そう言って、ナバルがメイベルの前にマグカップを置いた。そしてもう1つのマグカップを持ったまま、
「読書か。せっかく個室を取ったんだから、部屋でゆっくり読んでたらどうだ?」
と言いながら、メイベルの向かい側に腰を下ろす。
「部屋にこもるより、風に当たってた方が気持ちがいいから」
「ふ〜ん。まあ、他人の好みにケチつけるのは野暮だよな」
そう言ったナバルが、メイベルの前に手を伸ばした。そこには数冊の本が置かれている。そのうちの1冊を手に取って、ナバルがぱらぱらとページをめくった。
「これ、船が出る前に買った本か? たしか6冊買ってたと思ったが」
「そうよ。これから3日間の船旅だから、1日に2冊ずつと思ってね。で、ナバルさんが持ってる本はね、この沙漠について書かれた本なの。この沙漠って、夏になると頻繁に霧が発生するから『霧の沙漠』って呼ばれるようになったそうなのよ」
質問に答えてきたメイベルが、そのまま解説を始めた。
「わたしは中緯度地方は常に西から風が吹いているから、この沙漠もあそこに見え……って、今は雲に掩われてて見えないけど、あそこにある岩の山脈の向こうから来る風の影響で、1年中暑く乾いてるんだと思ってたわ」
「メ、メイベルさん!?」
やや早口の解説を聞かされるナバルが、思わず身体を退いている。
「そう思ったのはね。フェーン現象っていう気象現象があるからなのよ。西から来る風が山脈を越えるでしょう。そういう時、山の西側で雨が降りやすいのよ。で、それで湿気の少なくなった風が山を越えてくるんだけどね。その時、空気が乾いているほど風が熱くなるのよ。それをフェーン現象っていうんだけどね。そのおかげで大きな山脈の東側には、大きな沙漠ができやすいのよ。ここもその沙漠の1つってわけなの」
「しまった。きっかけを与えちまったか……」
嘆息したナバルが、軽く愚痴ってからお茶に口をつけた。そのナバルに向かって、
「と・こ・ろ・が、この沙漠では夏の一時期、風向きが東からのものに変わるそうなのよね。と言うか、中緯度地方は夏になると東風になるの。わたしは赤道に近い熱帯地方が年中無風で、低緯度の亜熱帯地方が東風、中緯度の温帯地方は西風だと思い込んでたわ。だけど風向きの境目は、季節によって動くものなのね。夏に暑くなるというのは、暑い地方の気候になるという意味なのね」
メイベルが熱弁を振るい始める。
「それで、霧の沙漠の夏の話だけどね。このコーンヒル地方も夏の間は、東から風が吹くようになるのよ。東にある蒼の山脈の向こうには海があるでしょう。そこから湿った風が吹き込んでくるみたいね。もっとも山脈を越える時にフェーン現象を起こすから、コーンヒル地方の東側は夏になると晴天続きで、麦の生育に適した気候になるらしいの。それが麦の穀倉地帯になる理由なのね。
で、興味深いのはフェーン現象を起こしたとは言っても、けして乾いた風じゃないってところなのよ。蒼の山脈は岩の山脈ほど高くないから……。と言うか、半分の高さしかない2,000m級の山がほとんどだから、風は十分に湿気を残したまま越えてくるの。それがこの地域が山に囲まれているのに、水資源に恵まれている理由なのね。その風が次に岩の山脈を越えようとする時に再び雨雲になって、それがほら、岩の山脈を掩ってる雲というか霧になるのよ。で、冷えた空気って重いのよね。それが山の斜面を下って、この沙漠に吹き込んできてるのよ。湿った空気は断熱圧縮しても温度が上がらないから、冷えて霧と一緒に下まで来ちゃうのね。
まあ、普通は雲や霧ができる高さっていうのが決まってて、風が山を登る時に5合目付近で雲ができたら、風が冷えて戻ってきても同じ5合目で消えちゃうから、ふもとまで冷たい風が来ることはないの。だけど、沙漠から舞い上がった細かい砂粒が核になるから、なかなか雲や霧が消えないそうなのね。それが夏の間この沙漠を涼しくする原因で、霧が多く発生する理由になるらしいの。特に夏の朝は、滅多に霧の晴れる日はないそうよ」
長々と話したメイベルが、ようやく一休みしてお茶で喉を潤した。そして、
「そうそう。雨の多い年には、霧の沙漠が一面の草原地帯になるそうよ。だから厳密にはここは沙漠じゃなくて、半乾燥草原になるのね」
と言葉を加えて、満足そうな顔でマグカップに口をつける。
「と、この本に書かれてたのか?」
たっぷりと解説を聞かされたナバルが、不愉快そうな顔で本を返した。それに、
「そうよ。基本的な部分は知識として持ってたけど、やはり知識だけではどこかに見落としがあるのね。すっごく勉強になったわ」
と言って、メイベルが晴れ晴れとした表情を見せてくる。何か新しいことを理解して、心の目がまた1つ開いた時の表情だ。
「気候とか風土は博物学の1つとしてしか見てなかったけど、科学的に現象を考えてみるのも悪くないわね。もっといろいろ勉強してみたいわ」
「メイベルさんは、ホントに勉強好きだな」
そんなことを言いながら、ナバルが別の本を物色している。そして、
「そんなに勉強が好きなら、次はこれを勉強した方がいいな」
と言って、手のひらサイズの小冊子を一番上に置いた。
「ゔ……。それは……」
たちまちイヤそうな顔になったメイベルが、イスをずりずり滑らせながら離れていく。
ナバルが示した本には『聖典訓話選集』と書かれている。旅立ちの神事の前、メイベルが修道長から渡された講話のアンチョコ集。要するに礼拝の時に話す有り難いお言葉を集めたネタ本である。
「あのね。これから向かうテュラの町だけど、岩の山脈のふもとにある鉱山から出た鉄鉱石を運び出すためにできた港町だそうよ。それで今はウィート川を通る貨物船の中継地としても……」
「まあ、読め」
解説で現実逃避しようとするメイベルの前で、ナバルが小冊子を広げた。それで言葉の止まったメイベルがゴクンと息を呑んで、イヤな汗をかいている。
「出る時に修道長が『これから3日間の船旅になったのは、神さまがメイベルさんに勉強する時間を与えるためです』と言ってたよな」
虚ろな表情をするメイベルの頬を、冷や汗がつつつっと流れた。
「神さまはまだ聖典について勉強不足のメイベルさんのために、ウィート川を3日間船で下るという時間を与えてくださったわけだ。せっかくの時間は大切に使おうぜ」
「わたし、そういう考え方は嫌いだわ」
メイベルが笑顔で拒否してきた。もっとも、目だけは笑っていない。
「イヤなのか?」
「できれば読みたくないわね」
「じゃあ、読め」
ナバルは容赦なかった。
「わたしだけイヤな思いをするなんて不公平だと思わない?」
「おまえ、わがままだなあ」
メイベルの身勝手な意見に、ナバルが大きな溜め息を吐いた。
「俺たちが泊まった教会に、大勢の人たちが礼拝に来るのはなぜだと思う? 勇者と従者である俺たちの口から、役割に相応しい言葉を聞いて歴史の証人になりたいからだ。けしてメイベルさんの小難しい話を聞きたいんじゃねえ」
「あゔ。ナバルさんが正論言ってるし……」
メイベルがジトッとした目でナバルを睨んでいる。その目の前に小冊子を移して、
「ありがたいことに、メイベルさんは聖サクラス教会の若き正修道女だ。ここに書かれてるままを語っても、聞く人たちは有り難く感じるぜ」
ナバルが無理にでも読ませようとしてきた。
「ナバルさん。優しくない」
「メイベルさんの話は、礼拝に来た人たちに優しくないぞ」
すねて横を向いたメイベルに、ナバルが厳しいことを言う。その言葉がよほど耳に痛かったのか、メイベルの表情は不機嫌そうだ。
そのメイベルの前に、ナバルが広げた小冊子をトンと置く。
「神さまは3日間、メイベルさんに勉強する時間をくれたんだ。ありがたく使おうぜ」
「ゔ〜。神さまの意地悪ぅ……」
メイベルがぷぅっと頬を膨らませた。
そんなメイベルの膨れっ面を、ナバルが呆れた顔で見ている。
「仕方ねえなあ。じゃあ、俺も一緒に何か読んでるよ。それでいいだろ」
「ゔぅ〜〜〜〜〜〜〜〜……」
ナバルが適当に1冊選んで読み始めた。そのナバルを怨めしそうに睨んで、メイベルが唸り声をあげている。そのメイベルの脳裡に、
『勇者さまは堅物で周りとの協調性はなさそうだけど、あれでけっこう周りに気を使ってるね』
ふいに女性修道長の言葉がよみがえってきた。
その言葉を思い出したメイベルの視線が、自然とマグカップに落ちる。
(気を使って……。言われてみると、そう……かも……)
そう思いながら、メイベルの視線がナバルに向かう。
その視線に気づいたナバルが、顔をメイベルに向けてきた。
(うわっ! 目が合った!!)
ナバルとまともに目が合ってしまい、メイベルが息を呑んだ。だが、メイベルより先にナバルの視線が下に向かう。
「代わりのお茶を持ってくるか」
メイベルのマグカップがからっぽになっていた。それに気づいたナバルが、さっそく立ち上がってマグカップに手を伸ばしてくる。
「あ、今度はわたしが持って……」
「この時間は神がメイベルさんに与えた貴重な時間だ。おとなしく読書してろ」
腰を浮かせたメイベルに、ナバルが落ち着いた口調で言ってきた。
「でも、わたしはナバルさんの従者として来てるわけだから……」
「そんなものは、読み終わってから言え。今はおとなしく読んでろ!」
ナバルの口調が、一転して強い命令口調になった。それに面喰らったメイベルが、腰を半分浮かせたまま動きを止めてしまう。
「えっと……」
「船を降りたら、その次はどんな旅になるかわからないんだ。読める時に読んでおけ!」
ビシッと言い放つと、ナバルはそのままマグカップを持って行ってしまった。
「う〜ん。一応は気を使ってくれてるみたいだけど……」
腰を宙に浮かせたまま、メイベルが複雑な表情を浮かべている。そして、しばらく考えをめぐらせたあと、
「こうと決めたら強引で方針を曲げないあたりが、協調性ゼロ……よね」
メイベルの頭の中で、そんな結論に至った。
「あ〜、気が重いわぁ……」
イスに座り直したメイベルが、ページをイヤそうにめくりながら不満を零した。
「願望を金で買ってはいけない。努力が伴わないから、けして満足できない……ねぇ」
メイベルはすっかりやる気を失っていた。ぶつぶつと読んではいるが、言葉と一緒に内容が漏れ出ている。だが、
「……ん? 信仰に筋肉をつけてはいけない? なに、これ?」
ふとメイベルの目が気になる言葉を拾った。たちまち瞳を輝かせて、気になる言葉の意味を確かめようとする。
「信仰に筋肉って……? ああ、自分の考えを、暴力や武力を使って押しつけるなって意味なのね。面白い表現を使うわね」
急に興味が湧いたのか、メイベルが先を読み始めた。つい先ほどまで読むのを毛嫌いしてたのに、今はむさぼるように読んでいる。
その場に、マグカップを持ってナバルが戻ってきた。そのナバルが、
「お、ちゃんと読んでるな。感心、感心」
と言いながら、メイベルの前に新しいマグカップを置く。
「ありがとう、ナバルさ……」
顔を上げたメイベルが、お礼を言おうとした。ところが、
『ありゃあ、相当な堅物だね。身体を鍛えすぎて、脳ミソまで筋肉で堅くなってるわね』
ナバルの顔を見たメイベルの脳裡に、また女性修道長の言葉がよみがえってきた。
「……ぶっ! 信仰する……筋肉……」
「どうした?」
「ご、ごめんなさい。なんでも……、うぷぷっ……」
いきなり笑い出したメイベルが、お腹を抱えてテーブルに突っ伏した。
「おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫……。大丈夫……だけど、お腹が……痛い…………」
メイベルがひいひい言いながら苦しそうにもだえている。笑いすぎて過呼吸状態だ。
対して理由のわからないナバルは、妙に冷めた気分である。
「メイベルさん。まさかイヤな本を無理強いしたから、プッツンして気が触れたのか?」
「うくく……。そう……かも……。ぷっ、信仰が……筋肉つけて歩いてる……」
あまりのおかしさに、メイベルがテーブルからずり落ちて床に撃沈した。すっかりツボにはまったようだ。
デッキでくつろいでいた乗客たちが、何事かと顔を向けている。
「1人で楽しそうだな」
テーブルにマグカップを置いて、ナバルが開いたままの小冊子に手を伸ばした。
「そんなに面白いことが書かれてたのか?」
「うん。信仰する筋肉……。ぶぶぶっ!」
答えかけたところで、またメイベルが笑いで答えられなくなった。
「信仰する筋肉? じゃなくて、信仰に筋肉をつけて……だよな」
大きく溜め息を吐いたナバルが、小冊子に軽く目を通した。メイベルは立ち上がろうとしたものの足に力が入らないのか、今はイスに抱きつくようにもたれている。
そんなメイベルをしばらく見たナバルが、
「そっか、自分の読み間違いがツボにはまったのか」
と勝手に解釈して、小冊子をテーブルに戻した。そしてイスに座り、本の続きを読み始める。
「く、苦しかったわ……。あのまま窒息するかと思ったわ……」
少し遅れてメイベルもイスに座り直した。今も肩が激しく上下し、息絶え絶えの状態だ。そんな気持ちを落ち着けようと、マグカップに手を伸ばして飲み物を口に含んだ。
そして読みかけの小冊子を手に取り、先を読み進めようとする。
「でも、読んでみると意外と面白いことも書かれてるのね。わたしが礼拝を嫌いなのは、司教さまたちの退屈なお話が大嫌いだからよ。つまらないし、小難しいし、何よりも眠くなるのに我慢しなくちゃならないのが拷問みたいだもの。でも、これでよくわかったわ。それは司教さまたちが、話下手だったからよ」
「すごい解釈だな……」
メイベルの口にした極論に、ナバルが飽きれた顔をする。だが、
「ま、自主的に読む気になったのなら、もう付き合わなくても大丈夫そうだな」
と言って本を閉じると、それをテーブルに置いて席を立った。
「悪かったわね。付き合わせちゃって」
「気にするな」
軽くお礼を言うメイベルに、ナバルが短く答える。そして、
「にしても、毎日毎日乗り物での移動だからな。身体がなまってかなわねえよ」
などとぼやきながら、テーブルから少し離れた場所で体操を始めた。
初めは簡単なストレッチ体操で身体をほぐして。それから少しずつ運動を激しくしながら、剣術の型の練習へと移っていく。
その様子を見るメイベルの脳裡に、
「ぶっ! 信仰する筋肉……」
また、そんな単語が浮かんできた。
「きゃははははは……。ダメ、頭から離れない……」
自分で頭をポカポカと叩きながら、メイベルが1人で大爆笑している。
それを見たナバルが運動をやめ、
「あれが猫がくしゃみしても可笑しい年頃……なのか?」
呆れと心配の混ざった顔で、大きく肩をすくめた。
デッキにいた乗客たちが、また何事だろうとメイベルを見ている。そのメイベルはテーブルに突っ伏して、背中を小刻みに震わせていた。
そんなメイベルを乗せた貨客船は、白い煙と笑い声を撒き散らしながら、流れに乗ってゆっくりと川を下っていく。




