第4巻:第5章 奇跡なんて大嫌い
クラウとパセラが帝都に戻ってから、10日ほどの時が流れていた。
この日は10月の終わり近く。帝都では例年より少し気の早い寒波に襲われていた。
帝都の背後にそびえる蒼の山脈。その高い場所がうっすらと雪化粧している。帝都のふもとに見えるポルタウの街も、今は厚い霧に覆われて見えなくなっていた。
そんな寒空の下で白い息を吐きながら、クラウが集配施設のある建物に入ってきた。
「うわぁ〜。ここは中も寒いじゃないですか!」
「あ、クラウ。いきなり寒くなったから、空調の準備が間に合わなかったそうなのよ」
建物の中ではレジーナたちが、厚手のコートを着たまま仕事をしていた。
もっとも事務仕事のため、職員たちは寒いとはいえど手袋をするわけにはいかない。そのため指が冷えて動かなくなる前に温めるためだろうか。ほとんどの職員の机には、大きなマグカップが置かれている。魔法による暖房は失敗するとヤケドするが、下手な魔法でもお湯を温めるぐらいなら被害は少ない。そのための湯タンポみたいなものだ。どのマグカップも高めに温められてるため、そこから昇る湯気は寒さもあってなかなか消えずに天井近くまで伸びている。まあ、中には中身を沸騰させてしまい、カップに触れなくなってる職員もいるようであるが……。
「それで今、空調管理の係が、大急ぎでガスの具合を確かめているそうよ。だから遅くても昼までには暖房が使えるようになると思うわ」
レジーナはコートに加えてマフラーもしていた。時々手をポケットに入れるのは、やはり指先を温めるためだろう。そして少し温まったところで手を出して、目の前に集められた郵便物を、行き先ごとにヒモで束ねていく。
「そんなことより、レジーナちゃん。今日の朝刊は読みましたか?」
「今日の朝刊?」
さっそくクラウの切り出してきた話に、レジーナが仕事する手を休めた。そのレジーナの前にあるカウンターに、クラウが持ってきた新聞をバサッと広げて置く。
「ソロリエンスの記事なんですけどね。『昨日10月25日夜。メルキアの教会に突如、聖女メイベルが現れ、夕べの礼拝に集まっていた市民らがありがたいお言葉を賜わった』とあるのですが……」
「ああ、その記事ね」
新聞をチラッと見たレジーナが、軽く目をつむってわざとらしく深い溜め息を吐く。
「その件なら朝から何件も問い合わせが来たから、メルキア教会に確認を取ったわ」
「それで、回答は?」
「『そんな事実はない』だってさ。もう、毎度毎度……。ソロリエンスのウソ記事にはうんざりだわ!」
問い合わせた時の不快さを思い出したのだろう。心の中が怒りで煮えくり返ってるとわかるほど、レジーナの顔が真っ赤になった赤鬼状態になっている。
そんなレジーナの気持ちを紛らせようと思ったのか、
「ところで、この下にある西アルテースのデモ隊大虐殺の記事はどうなのでしょう?」
と、別の記事に注意を向けてきた。
「『ビーズマス卿の失政を訴えるデモ隊に警官隊が発砲。デモに参加した市民に30万人の死傷者が出た模様』となってますが……」
「それもソロリエンスのウソ記事でしょ。どうすれば人口が6万人しかいない小都市のデモで、30万人もの死傷者が出るって言うのよ。それに何より記事の書き方が、歴史で習ったサンクヮッドの時とまるで同じだわ。ったく、バカバカしくて相手にしてられないわ」
そう不満を漏らしたレジーナが、近くに置かれていたマグカップに手を伸ばした。指を温める意味もあるため、取っ手を持つのではなくカップを手で包むような持ち方だ。それで2口、3口と中のお茶をお腹に入れる。
「あ、そういえばパセラ。大丈夫なの?」
「……えっ!?」
突然、顔を上げたレジーナの視線が、クラウの後ろに向かった。それで振り返ったクラウの目に、パセラの姿が飛び込んでくる。パセラは壁ぎわに置かれた長イスに座って、身体を小さく丸めていたのだ。
「パセラちゃん。そこにずっといたのですか!? ちっとも気づきませんでした……」
「うぅ〜。クラウさん、寒いですぅ〜」
泣き言を零したパセラは、今もまだ青い正修道女の服を着ていた。服はもちろん冬服だが、パセラは寒いのにコートを羽織っていない。修道服だけの恰好で震えているのだ。
「パセラちゃん。厚着をするのは文明人じゃないって思想の持ち主ですか?」
「違うわ。パセラ、コートを持ってないのよ」
そう言ったレジーナが、郵便物を束ねる仕事に戻った。
「コートを持ってないって、きみたちのコートは支給品でしょう?」
「そうよ。支給品には間違いないんだけどね」
クラウにそう言葉を返したところで、レジーナが苦笑した顔でまた手を止める。
「今朝みたい急に冷え込むと、まだ支給を受けてない人たちが、衣装係のところに殺到するのよ。でも、衣装係の方では時季的に早いと思ってたのか、まだ人数分が足りてなかったみたいなのよねぇ。で、急遽くじびき大会が始まって、この有り様というか……」
軽く嘆息したレジーナが、パセラを見たあと、建物の奥にも目を向けた。
コートを羽織ってない人はパセラだけではなかった。何人もの人たちがコートなしの姿で震えていたのだ。電信室の前で紙テープの山を仕分けている職員は、指が思うように動かなくて仕分けどころではなさそうだ。郵便物を仕分けているところでも、うまく郵便物を摑めなくて仕事がはかどらず、かなり業務に支障が出ているらしい。
「パセラ。だから、早めにコートを用意した方が良いって言ったのよ。それなのに支給されるコートを見習い修道女のもので受けるか、正修道女のもので受けるかを迷ってぐずぐずしてるから」
「はぅ〜……」
レジーナの冷たい言葉に、パセラが涙目で唸った。
「迷ってるなら取り敢えず正修道女用で受けといて、見習い修道女用は降格が決まってから改めて受ければ良いって言ったのに……」
「はぅゎぅ〜……」
追い討ちをかけるレジーナの言葉に、パセラは返す言葉がなく唸るしかないようだ。
その時、部屋の奥から「ひょわわわわぁ〜!」と、変な悲鳴が聞こえてきた。そこではコートを着てない女性職員が、慌てて立ち上がっている。
それにいったい何があったのだろうかと、部屋にいた者たちがいっせいに目を向けた。
その理由はすぐにわかった。空調の吹き出し口から、冷たい風が出てきたようだ。先ほどの女性職員は、その風をまともに浴びたというわけだ。
もっとも、これは暖房が始まったことの合図でもある。冷たい空気が押し出されれば、そのあとに出てくるのは暖められた空気だ。
もう少し辛抱すれば、室内ではコートは要らなくなるだろう。もっとも、
「あぅ〜。寒いですぅ〜……」
パセラのように、それまで我慢できそうもない人もいるようであるが……。
さて、帝都が季節先取りの寒波に襲われている頃、
「それにしても……。メルカトルの女将さんが、大商人のご令嬢だったとは驚いたわ」
大きなお風呂に浸かりながら、メイベルは割と近い年代の修道女たちに囲まれていた。
「メルカトル家はメルキアでは有数の大商人ですのよ。聖女さまがリディアお嬢さまのキャラバンとご一緒に旅をされたのは、きっと天の用意された巡り合わせですわ」
ここは南アルテースにある商業都市メルキア。そこの教会の隣にある大浴場だ。
メイベルはメルカトル商会の馬車に乗って、1か月近く旅をしてきた。そして昨日の午後、ついに東フォルティアース大陸南岸にある大都市に到着したのである。
この商業都市メルキアは、イストム地峡という陸地のくびれた場所の南側にある。この地峡から東側は、長さが3000kmを超える大きなリダス半島だ。その半島によって大陸の東側にあるラトゥース大洋と南側にあるサナーレ南洋が隔てられている。大陸のラトゥース大洋沿いには大都市が発展し、サナーレ南洋沿いには大きな都市は少ないものの南大陸や西大陸と交易するには大切な中継地だ。そのためメルキアは古くから商業都市として大きく発展してきたのである。
そのメルキアにある教会で、朝の礼拝が終わってから2時間ほどが経っていた。メイベルの入っている大浴場はその教会が運営するものの1つで、朝晩の礼拝が終わったあとの時間帯は、教会関係者の貸し切りである。
とはいえ、多くの修道者たちは係の仕事や勉強があるため、湯船には浸からずシャワーのみで済ませている。そのためメイベルと一緒にお湯に浸かっているのは、今日がたまたま休みの日に当たった修道女たちだ。
「それにしても聖女さま。ルビノさまのご病気を奇跡の力で治されるなんてすごいよ!」
「本当に素晴らしいと思いますわ。リディアお嬢さまの次女ルビノさまのご病気は、メルキアでは有名な話ですもの。さすが聖女さまに選ばれるお方ですわ」
「あのぅ、いきなり奇跡と言われてもねぇ……」
修道女たちの言葉に、メイベルがどう説明したものかと困った顔をする。
「わたしは奇跡を起こしたつもりはないし、それにルビノちゃんの病気が治ったかどうかも、昨日、病院に検査入院して、今、お医者さまに詳しく診てもらってるところでしょ。まだ治ったと言い切るのは気が早いわ」
「え!? そうなのですか? あたしはもう治ったと聞いていたのですが……」
「治ったかどうかわからないけど、今のルビノちゃんは間違いなく元気よ。最初に会った時のぐったりした感じが、ウソだったみたいに思えるもの」
「あのぅ、聖女さま。それが奇跡だと思うんですけどぉ」
「うん。それが奇跡じゃなかったら、何が奇跡になるのか……」
奇跡を否定するメイベルに、修道女たちが言いにくそうにツッコミを入れてくる。
「まあ、それはそうと、大商人のお嬢さまが、どうしてキャラバンを率いて旅をしてたんだろうね?」
「それは家督を継ぐための伝統ですわ」
ふと漏らしたメイベルの疑問に、ふんわりした印象のある修道女が答えてきた。
「家督を継ぐため?」
「はい。メルキア商人の伝統ですのよ。商人としての目を養うため、それと時代の変化を肌で感じるための修業の旅ですの。旅には何人かの幹部候補を連れていくそうですわ」
「へぇ〜、修業の旅かぁ。なんかカッコイイわね」
修道女の説明に、メイベルが興味を持ったように身を乗り出している。だが、修道女たちは家督や修業の話を続けるよりも、
「それよりも聖女さま、今朝のお言葉には、大変に感銘を受けましたわ」
「ホント、考えさせられたわ。身体と心に栄養をって……」
と、朝の礼拝の時にメイベルが語ったお言葉についておしゃべりしたいようだ。
「最初の食べ物の話は、わかりやすかったよね。同じものばかり食べてたら、栄養が偏ってしまう。だから、たまには違うものを食べないとってさ」
「嫌いな食べ物は、耳に痛い話と同じ。どちらもあなたにとって足りないものですって、まさにその通りと思いましたわ」
「そうそう。そこから信仰のお話に持っていって、同じ話ばかり聞いてたら信仰が偏ってしまうって……。そのお言葉が出た時の司教さまのお顔ったら……。うふふ……」
「あはは、司教さまってさ、同じ話を数日おきに繰り返すだけだもんね」
朝の礼拝の時に語ったメイベルのお言葉は、修道女たちには大変に好評だったようだ。
「夕べのお言葉もすごかったよね。人間の文化とドラゴンの文化の話。あたし、夜は興奮して寝られなかったよ」
短い髪の修道女が、昨晩の話を思い出して瞳を輝かせている。今も興奮が冷めていないようだ。
「ドラゴンというのは、本当に愉快な方たちでしたの? わたしは怖いというイメージしか持っていないのですが……」
「もしも戦うことになったら、大きいしメチャクチャ強いから人間に勝ち目はないわ。その部分だけを見たら怖いと思うのは間違いないと思うの。でも……」
「ドラゴンは強いから心に余裕がある。だから、毎日を楽しめる……だよね」
メイベルの答えを、髪の短い修道女が横取りしてきた。その修道女が、
「ドラゴンは破壊力という強さで心の余裕を持ったけど、強さは力だけじゃない。知識、経験、信頼できる仲間の数、他人に負けない何かがあれば、それが心の余裕になる。夕べのこの締めの言葉が、もう思い出すたびに感動して涙が出てくるよ」
拳を握って瞳をうるませている。彼女にとってはその話が、よほど心の琴線に触れていたようだ。
「聖女さまはお若くていらっしゃるのに、お話がお上手でいらっしゃるのですね。失礼ですが、今、おいくつですの?」
「16ですよ」
「げげっ!? あたしの1コ下だ……。負けてる……。あたし、人として負けてるよ……」
メイベルの答えに、髪の短い修道女が一転して落ち込んだ。そのまま気持ちを表すように、お湯の中へブクブクと沈んでいく。
「聖女さまは救世の旅に出られたり、帝都から追われたりと人生経験が豊富ですものね。やはり経験の豊かさがお言葉の素晴らしさに表れるのかしら?」
「あ、それはすごい買いかぶりですよ」
ふんわりした印象のある修道女の言葉を、メイベルが手を横に振りながら否定する。
「実はね。お言葉には『聖典訓話選集』っていうアンチョコ集があるのよ。救世の旅で立ち寄った教会で、いつもお言葉を求められて困ってね。そんな時にアンチョコ本があると教えてもらったの。で、これは便利だから他にもないかと図書館で探してみたら、これがまた何十種類もあったの。こういう本がたくさん書かれてるってことは、それだけ朝晩の礼拝で話すネタに困ってる司教さまが多いんだなぁ〜と……」
「うふふ。そういうものがございましたの」
メイベルの話に修道女が口許を手で押さえながら笑う。そこに別の修道女が、
「でも、アンチョコを見ただけで、あんなに感動できるお言葉は話せないでしょ?」
と会話に加わってきた。
「いや〜、あれはハッタリだから」
『ハッタリ?』
メイベルの言葉を、修道女たちが一様に意外そうな表情を浮かべて聞き返してくる。
「みんなはわたしを聖女と思ってるでしょ。それで聖女なら、こういう話をするはずだって期待があるでしょ。そこで、わたしは最初に、その期待を裏切る話題で話し始めるの。そうすると、みなさん、何事だと思って話に耳を傾けてくれるのよ。で、そこにアンチョコにある聖典から引用した言葉を織り交ぜると、けっこう興味を感じてくれるし、やはり聖女の言葉だと安心するみたいなの。そうなったら、あとは好き勝手に話しても大丈夫みたいでね。それで最後に強引にでも教訓めいたお言葉を引っ張り出せば、みなさん、勝手に感動してくれるというか……」
「こらこらこら。あんたはそういう話術を使って、あたしらを錯覚させてたの?」
湯船に沈んでいた短い髪の修道女が、メイベルの背後から顔を出してきた。
「錯覚じゃないわ。勝手な思い込みよ。心理学で言うところの後光効果ね。わたしはそれをありがたく利用して、気持ちよぉ〜く解説ができて楽しいわ♪」
軽く後ろを向いたメイベルが、心から満足そうな顔で微笑む。その笑顔を、
「うっうっうっ……」
と唸りながら、お湯に鼻まで沈んだ修道女が睨んでいた。だが、少ししてその修道女の表情が「やられたなぁ」というものに変わった。そして、
「このぉ〜、あのお言葉がハッタリとは何だ! あたしの感動を返せ!! あの眠れなくなるほどの心の高まりを返せぇ〜っ」
と笑いながら、メイベルに後ろからじゃれついてきた。
「聖女さまと聞いて、どれほどの聖者さまかと想像してましたのに。わたしたちと同じ女の子なのですね」
「こういうのって親しみが湧くというか。なんかうれしいよね」
「え〜いっ! やっちゃえ、やっちゃえ♡」
周りにいた修道女たちも、ここぞとばかりに悪乗りに加わってきた。
「やめやめ! くすぐるのはやめてぇ〜!!」
みんなにイタズラされるメイベルが、お湯の中で暴れながら悲鳴を上げる。その騒ぎに、浴場がたちまち大きな笑いに包まれていった。
それと同じ頃、ルビノの方はというと、
「リディアさま。サンルミネの医師の見立て通りです」
必要なすべての検査が終わり、医師から結果説明を受けていた。
ルビノはメルキアに戻ったその日のうちに検査入院して、担当医師たちによって詳しく診察されていたのだ。その結果は、
「ルビノさまのご病気の兆候は、跡形もなく綺麗に消えてます」
「消えてる……のですか?」
「はい。担当させていただいた医師の心情からは、信じられないほど完璧に……」
メルカトル夫人の確認に、医師が頬を引き攣らせながら答えてくる。
「それでは、ルビノは……?」
「今は間違いなく健康そのものです。失礼を承知で本音を言わせてもらえば、『おかしい、健康すぎる』……と……」
医師が大マジメな顔で放言してきた。その医師と母親の顔を、ルビノがきょとんとした表情で見上げている。
「ルビノさまが健康になられたのは悦ばしいことなのですが、医者としては納得できる理由が欲しいのです。ルビノさまを不治の病としたのは、医者として重大な誤診だったのか。それとも我々医者の知らない治し方があり、実は不治の病ではなかったのか……。同じような病気の患者はいるのですから、治せるのであれば治し方を知りたいのです」
「先生のお気持ちは察しますけど……」
そう言って深く溜め息を吐いた夫人が、ふと笑みを浮かべてルビノの頭をなでる。
「一緒に旅をした聖女さまの起こした……、奇跡……かねぇ」
「奇跡ですか? 医者としましては、そういうものは認めたくないのですが……」
メルカトル夫人の言葉に、複雑な表情を浮かべた医師が困ったように零した。
そんな医師の顔を見上げていたルビノが、にこっと明るく微笑んだ。その笑顔を見た医師もつられて微笑むと、
「奇跡……ねぇ……」
と呟きながら、診察記録に『聖女の奇跡』と書き込むのだった。
その奇跡を起こしたとされた聖女メイベルは、
「聖女さま。ご機嫌麗しゅうございます」
「聖女さま。こんにちは」
大浴場を出たあと街中へ出ていた。メイベルは聖修道女の着る黄色い修道服をまとっている。そのため多くの人たちの目に留まり、そのうちの何人かが気軽にあいさつしてきたのだ。それに「あ、どうも。あ、こんにちは」と、メイベルもあいさつを返している。
「ん〜。手配書の件がすっごく心配だったけど、教会も街の人も、ホントに南方教会の人たちは中央の手配書なんか気にしないで、わたしたちを受け入れてくれるのね」
明るく愛想を振りまきながら、メイベルは心の平穏を満喫していた。
昨日は教会の夕べの礼拝に顔を出したものの、やはり心配があるので教会には泊まらず、メルカトル家に泊めてもらっていた。だが、その警戒が杞憂と感じるほど、街の人たちは温かくメイベルたちを迎えてくれている。
そのメイベルが向かったのは、
「うわぁ〜。やっぱり大きいわ……」
メルカトル商会の本店である巨大な百貨店だった。建物があるのは教会前広場から伸びる中央通り沿い。建物は5階建てで、明かり取りのために窓が大きく作られている。
その建物の2階から、
「あ、メイベルちゃん。いらっしゃ〜い!」
と言って、カメリエラが手を振ってきた。建物は表から3階まで広い外階段で登れるようになっている。カメリエラはその階段を通って、メイベルの前まで駆け降りてきた。
「カメリエラさん。ここはすっごく活気がありますね」
「もちろん街の中心地ですもの。お店には自然と人が集まってくるのですわ」
そう言ったカメリエラが、お店を振り返った。お店ではカメリエラと似た衣装を着た売り子たちが、大勢の買い物客たちを相手にしている。それを見るカメリエラの胸には、『リデル衣装販売部本部長見習い』と書かれた金バッジが輝いていた。
そのカメリエラが、
「ナバルくんに会いに来たのでしょう。事務所の方へ案内しますわ」
と言って、メイベルを通りの奥へ向かう小路へ案内した。
小路に入ると、通りの雑踏がウソのように静かになった。建物の裏へまわると、そこはメルキアの豪商たちの暮らす高級住宅街なのだ。
メルカトル家の住宅は、百貨店の後ろに広がっていた。そこはとても大都市の中とは思えないほど、大きな庭園のある邸宅になっている。その庭にはメイベルが乗ってきた馬車が駐められ、今、数人の馬車大工たちによって保守点検されているところだ。その馬車を牽いてきた騾馬たちは、小さめの馬場で放し飼いにされている。
「ナバルは、今、事務所ですか?」
「ええ、経理処理を手伝ってくださってますわ。経理仕事のできる人が少なかったので、経理部長さんが大変に喜んでますの。あ、こちらですわ」
邸宅の一部は、事務所になっていた。メイベルは先に入っていくカメリエラのあとについて、事務所に入っていく。
「うわぁ〜、ホントにナバルが事務仕事してるわ。頭脳労働するナバルの姿って、あまり想像できないんだけど……」
「メイベルちゃん。それはナバルくんに失礼ですわ」
メイベルの言葉に、カメリエラが口許を隠して笑った。
その2人の見てる前で、ナバルがソロバンの珠をパチパチと弾いている。それで1冊片づけたところで、ナバルがメイベルが来ていたことに気づいた。
そのナバルに近づいていったメイベルが、
「ナバルが頭脳労働するなんて、まだ信じられないわ」
と、ちょっと皮肉混じりに意外な一面を誉めようとする。ところが、
「頭脳労働? 俺は頭なんか使ってるつもりはないぞ」
と答えてきたナバルが、またパチパチとソロバンの珠を弾き始めた。
「頭を使ってるつもりはないって……。立派に計算してるじゃないの」
「ん!? 計算は頭を使うのか? 使わないだろ」
メイベルの言葉を、ナバルがそう言って否定してきた。
「計算っていうのは、剣術でいうところの『型』だよな。とにかく反復すれば身体が自然と覚えるんだから、同じものだと思うんだ。頭なんか使わないだろ」
「えっと……。それはそうなの……かな?」
ナバルの言葉に、メイベルが答えに困った。どうやらナバルの頭には『計算筋』があって、今はそれを鍛えているところらしい。ナバルはつくづく脳ミソ筋肉な男であった。
そこに、
「今、帰ったよ」
と言って、メルカトル夫人が事務所に顔を出してきた。その夫人が、
「あ、メイベルちゃん。ちょうど良かった」
メイベルの姿を見つけて手を取ってくる。
「女将さん。どうしたのですか?」
「ルビノの病気がね、すっかり治ってたんだよ」
メルカトル夫人がメイベルの手をしっかりと握って、うれしそうな顔で言ってきた。
「それは、良かったですね」
「そうなんだよ。やっぱり、これは聖女さまの奇跡かねぇ」
「………………それは違います」
夫人の思った理由を、メイベルが少し間をあけてキッパリと否定した。だが、
「お医者さまも理由がわからないらしくてねぇ。やっぱり奇跡じゃないのかい?」
「わたしは奇跡じゃないと思いますけど……」
夫人の表情を見てると、メイベルは否定しづらくなってきた。そのメイベルに、
「お姉ちゃん。ただいまなの」
と言って、ルビノが抱きついて甘えてくる。
そのルビノの頭を優しくなでた夫人が、
「ところでカメリエラ。キャラバンの出発の準備はできてるかい?」
と、また次の旅をほのめかしてきた。
「今、馬車の点検をお願いしてますわ。何も問題がなければ明日にでも出られます」
「そうかい。それじゃあ問題がなかったら、明日にも出ようかねぇ」
カメリエラの答えに、夫人が次の出発の日取りを即決した。
「女将さん。また旅に出るのですか?」
「ああ、今度はリダス半島の先の方まで行くのさ。次にここに戻ってくるのは、冬が終わって春になる頃かねぇ」
そうメイベルに答えた夫人が、事務所の壁に掛かっている地図に目を向けた。
リダス半島はメルキアから東へ長く伸びる半島だ。
「メイベルちゃんらは、どうする? 一緒に行くかい?」
「わたしたちですか?」
一緒に旅をするかどうか尋ねられたメイベルが、視線をナバルに向けた。
「決定はメイベルに任せる。好きなようにしろ」
「ええ。また!?」
またナバルに任されて、メイベルが困った顔をする。
「お姉ちゃん。一緒に来るの?」
甘えているルビノが、そう言ってメイベルを見上げていた。しばらくそのルビノに視線を落としていたメイベルが、次にメルカトル夫人に視線を向ける。
「女将さん。南方教会の中心は、何教会かご存じですか?」
「南方教会!? なるほど、メイベルちゃんらにとっては、あたしらと旅をするより、そっちを目指した方が良さそうだね」
メイベルの質問に、夫人がここでの別れを理解する。
「南方教会の中心は、聖ラクス教会さ。あたしらが行く方向とは逆の、西へ行くんだよ」
その言葉を聞いたルビノが、メイベルに強く抱きついてきた。
「お姉ちゃん。また会えるの?」
メイベルの身体に顔をうずめて、ルビノがそんなことをきいてきた。
「もちろん旅をしてれば、いつか、また……」
「うん。わかったの」
メイベルの言葉に、ルビノが健気にそう返してきた。だが、ルビノはまだメイベルに顔をうずめたままだ。もう少し甘えていたいらしい。
そのルビノの髪をそうっとなでて、
「ルビノちゃん。今日は思いっきり遊びましょうか」
とメイベルが提案した。その言葉にがばっと顔を上げたルビノが、
「うん。遊ぶの!」
と、明るい声で答えてきた。
そして、翌日、
「これでまた半年、メルキアの街も見納めだねぇ」
メルカトル商会の隊商が、東へ向かう街道を走っていた。
先頭の馬車の荷台では子供たちが、
「ソプラノ姉ちゃん。通分ってどうやるんだっけ?」
「ちょっと待って。この単語のつづりが思い出せなくて……」
さっそく通信教育の課題に励んでいる。
だが、まだ義務教育の年齢に届いていないルビノは、母親と一緒に馭台にいた。
「ルビノ。何読んでるんだい?」
「お姉ちゃんからもらった本なの」
そう答えるルビノが広げているのは『栄養学大事典』だった。細かい文字の意味はわからなくても、ルビノにとってはカラーの絵が食べ物図鑑のように楽しめるものだ。
「そういや、あんた。出掛けにメイベルちゃんから、何かもらってなかったかい?」
「もらったよ。ちょっとしたメモ書きだけどな」
ふと投げかけられた夫人からの質問に、メルカトル氏が手綱を操りながら答える。
「何のメモだい?」
「料理の心得だ。と言っても、書かれてたのは2つだけ。毎日の料理には必ず葉物野菜を使うこと。それと、たまには魚料理やフルーツを出せとさ」
「葉物野菜に魚とフルーツ? 何か意味があるのかい?」
「これを守れば、ルビノがまた病気になることはないとか言ってたぞ」
「また病気に?」
メルカトル氏の答えに、夫人が少し考えるような仕種をした。そして、
「あの子、やっぱり病気について、何か理由に気づいてたんじゃないかねぇ」
と零して、大きく肩をすくめる。
「まあ、何にせよ、ルビノの病気が治ったんだ。これは聖女さまの奇跡だよな」
「聖女さまの奇跡……ねぇ」
そう呟いた夫人が、静かに空を見上げた。
「あの子、これから、もっとすごい伝説を創るような予感がするよ。聖女さまって器じゃ収まらないねぇ。もっと大きな……、奇跡を起こす女神さまだったのかもしれないねぇ」
メルカトル夫人が、綿雲を見ながらそんなことを言い出した。それを聞いたルビノも、
「うん。お姉ちゃんは女神さまだったの」
と言って、母親を真似て青空を見上げた。
一方、ナバルとメイベルは、隊商とは反対の西へ向かって旅立っていた。
その2人は今、メルキアを東西に分断するように流れるフレキ川の前にいた。西へ向かう道の先には、大きな2本の塔が印象的なメルキア橋が架かっている。その2つの塔の間には吊り上げ橋があり、今、まさに大型船を通すために吊り上げられているところだ。
「すっご〜い。こんな立派な橋なんて、見たことないわ」
吊り上げ橋が上がって通行止めになってる間、メイベルは橋の河口側に張り出した小さな展望公園へ行って、橋を横から見る景観を楽しんでいた。その目の前で川の上流に作られた港を出た真っ白な貨客船が、橋に近づいてきている。
「この観光ガイドによると、このメルキア橋は全長320m。2つある塔の高さは50mで、塔の間の約70mが上下する巨大な吊り上げ橋なのね」
「観光ガイドって……。いつの間に手に入れたんだ?」
「出る時に教会でもらったの」
メイベルの答えに、ナバルが呆れた顔で黙り込んだ。
その2人の見ている前で、貨客船が橋の間に入ってきた。そして船首が橋にかかった時、大きな音でボーッと汽笛が鳴らされる。
「そう言えば、メイベル。みんな、ルビノちゃんの病気が治ったことを、聖女さまの奇跡って言ってたな」
船を見ていたナバルが、思い出したようにそんな話を切り出してきた。それにメイベルも船の動きを目で追いながら、
「奇跡ねぇ……。あれは奇跡じゃないわ。ちゃんとした理由のある科学よ」
と、奇跡という言葉を否定してくる。
「理由って、病気のか?」
「そうよ。ルビノちゃんはね、ただの栄養不足だったの。そうね、初めの頃の食べ物から考えて、葉物野菜の不足かしら。それで病気になってたのよ」
そう語るメイベルの目は、船の立てる波に向かっていた。その波が横に広がり、岸辺で船遊びしてる人のボートを激しく揺さぶっている。
「栄養不足? っていうか、栄養ってなんだ?」
「生きていくために必要なものよ。わたしたちはそれを食べ物から得てるんだけど、大ざっぱに言うとね、お肉を食べれば身体ができて、パンやご飯、お芋を食べれば運動ができて、野菜を食べれば風邪をひいたり病気になったりを減らせるって感じかしら」
と話しているうちに、船が橋を抜けた。そして、またボーッと汽笛を鳴らして、船が外洋へと旅立っていく。
「それじゃ、メイベルはルビノちゃんの症状を診て、必要な料理を作ってたのか?」
「それがさ、そういうわけでもないのよ」
船が通りすぎたので、ふたたび橋が動き始めた。カンカンと鐘の音を鳴らしながら、吊り上げられていた橋がゆっくりと下がっていく。その光景をジッと見詰めながら、
「実は栄養の研究って、ほとんど進んでないのよね。だから、この前買った栄養学の本には『栄養はバランス良く摂ることが大切』とは書かれてるけど、肝心のバランスには何も触れてないの。まあ、何もわかってないんだから、触れられるわけがないんだけどね」
と言って、肩をすくめた。
「それで、よくルビノちゃんの病気を治せたな」
「まあ、そこはそれ。バランスがわからないのなら、料理の種類を増して毎日違うものを食べてれば、少しは栄養の偏りが小さくなるのかなぁ〜って……」
「それは、かなり乱暴な考えだと思うが」
そう苦笑したナバルが、橋に向かって歩き始めた。吊り上げられていた橋が下まで降り、通行止めが解除されたからだ。
「それなら、他の子供たちだって同じ病気にならないか? 同じものを食べてただろ?」
「こういうことには個人差があるわ。でも……」
そこまで言いかけて、メイベルがくすっと微笑む。
「他の子供たちは、街でよく買い食いしてたでしょ。それで本能的に足りない栄養を補ってたのかもしれないわね」
「本能ねぇ……」
ふたたび橋を渡り始めた人たちが橋の真ん中ですれ違った。その光景を見ながら、ナバルがもうこれ以上の質問はやめようと思った。だが、一度始まったメイベルの解説は、そうそう簡単には止まらない。
「そうそう。ルビノちゃんが入院しても治らなかった理由だけど、それって、病院で出された食事が原因じゃないかしら」
と、聞いてもいないのに、次の話題に移っていた。
「病院は病気を治すところだけど、患者の食べ物にはあまり気を使わないものでしょう。それで入院しても栄養が足りないままだったから、いつまでも治らなかったと思うのよ」
などと話してる間に、2人は橋を渡り始めていた。そこで塔を見上げながら、
「だからね、物事にはちゃんと理由があるのよ。それを奇跡なんて安っぽい言葉で片づけないで欲しいわ」
と言ったところで、メイベルが立ち止まった。
それに気づいたナバルが、少し先で止まってメイベルを振り返る。
「ということで……」
ナバルににっこりと微笑んだメイベルが、川の下流を向いて手すりを摑む。そして、
「わたし、奇跡なんて言葉は大っキラぁ〜〜〜〜〜〜〜〜イっ!!」
と、目の前に広がる海に向かって大声で叫んだ。
「おいおい。それは聖女さまの言う言葉か?」
呆れたナバルが、苦笑した顔で空を見上げる。
そして2人は、聖ラクス教会を目指して旅を続けるのだった。




