第4巻:第4章 流されるままに
王国連合帝国の中核となっている聖サクラス教会。その北西側には立派な宮廷が造られていた。そこに設けられた大司教の政務室で、
「ほう、クラウとパセラくんが、メイベルくんたちに事実を伝えに出かけましたか」
アキロキャバス卿がレジーナからの事後報告を聞いていた。
ここは大司教に限らず、帝国の政治を動かす最高権力者たちの集まる部屋でもある。
この部屋の主である大司教は大きな事務机に座って、急ぎの書類に目を通しているところだ。その大司教が少し手を休めて、
「それで、2人の行き先は?」
と尋ねてくる。
「サンルミネです。片道に3日ほどかかりますけど」
「サンルミネですか。そこにメイベルがいるのですか?」
「いるという確証はないのですが、各地から届けられた情報から、たぶんそこで追いつくのではないかと……」
「なるほど。まあ、急いで出かけたということは、かなり有力な情報なのでしょう」
そう解釈した大司教が、やりかけの事務仕事に戻って書類を片づけ始める。
「それで報告が遅れましたことと、クラウが行ったことで、近衛騎兵隊の隊長が不在となりましたことを……」
「ああ、それは気にする必要はありません」
大司教が仕事を続けながら、レジーナの言葉をさえぎってきた。そして顔を上げて、
「きみたちが必要と思うのなら、後悔のないように動きなさい」
と、一言加えてくる。
「はあ、まあ……」
大司教の言葉に、レジーナが拍子抜けしたような表情を浮かべる。許可が下りたとしても一言注意があると思っていただけに、放任されたような反応は意外だったようだ。
「えっと、それでちょっと気になってるのが、パセラのことで……」
「パセラの……ですか?」
上目遣いになっているレジーナの顔を、大司教がジッと見詰めた。そこではレジーナが、両手の指を合わせるような仕種でゆっくりと深呼吸している。
「あのぅ、今、パセラの降格の手続きに、手間取ってるじゃないですか。それで、今は取り敢えずでも正修道女なので、勝手に出かけることに問題はない……とは言えませんけど、ある程度許容されてるじゃないですか。だけど、出かけてる間に降格の手続きが済んだら、ちょっと困るかなって言うか、パセラがそれで咎められたら可哀想って言うか……」
「ああ、降格の手続きのことですか」
レジーナの訴えを聞いていた大司教が、にこりと優しい笑顔を浮かべてくる。
「手間取ってるというのは方便です」
「……方便!? ……って、ウソってことですか!?」
大司教が打ち明けてきた言葉に、レジーナの動きが止まった。
「手続きにはわたしと神官長、それと修道院院長のサインが必要なだけで、やる気があるなら小一時間とかからずに済みます」
「はぁ……。えっと……、それは何で?」
話を聞くレジーナの口から、疑問の声が漏れた。
「もしもメイベルたちの居場所がわかって事情を説明するとなれば、その役目を任せられる一番の適任者はパセラです。きみたちも同じ結論に至ったのでしょう?」
「はい。それは仰る通りで……」
大司教の確認に、レジーナが惚けた声で答える。だが、大司教はそれに構わず、
「ですが、そのパセラが見習い修道女では小廻りが利きませんからね。正修道女としておいた方が動きやすいというわけです」
と話を続けた。
「えっと、それはどういうことでしょう? ひょっとしてあたしたち、躍らされてた?」
大司教の言葉に、レジーナの頬がピクッと動いた。
「ちょっと背中を押して、邪魔になる規則から解放してあげただけですよ」
そう言って、また大司教が優しく微笑む。そして机の上で指を組み、
「きみたちのことですから、大親友が大変な目に遭ってるとなれば、誰に言われるでもなく自分たちで何とかしようとするでしょう。実際、レジーナは情報の集まる集配係の立場を利用して、情報収集に努めてるではありませんか。クラウもいつでも動けるように、緊急出動用の携行装備品の準備には余念がないようですし」
と静かに話し始めた。
「ですがメイベルと一番の仲良しだったパセラは給仕係ですから、見習い修道女のままでは自分で何かをしたいと思っても、立場と規則が邪魔をしてできることは限られます。それでは可哀想ですからパセラは正修道女にしておく必要があったのです。まあ、これを躍らされたなどと受け取らず、ちょっと背中を押してもらったと受け取ってください」
「これを言い出したのは、クリプトン卿ですよ。あいつはこういうことになると智慧がまわりますからな」
大司教の言葉を受けて、アキロキャバス卿がそんな言葉を加えた。それに、
「クリプトンおじさまが!? それは、らしいですわね」
と呟いたレジーナが、視線を無意識のまま横に向ける。そのレジーナに、
「まあ、わたしたち大人がやるべきことは、やる気になっている若者の邪魔をしないこと。それと障害をできる範囲で取り除いてやること。その役割に従っただけですよ」
と言ってきた大司教が、1枚の書類をレジーナに向けてきた。
「パセラとクラウの特命指令書です。有効期限を8日間としておきました」
「大司教さま……」
事務机の前まで進んだレジーナが、大司教から書類を受け取った。
「特命なので中身は書いてありません。これを立ち寄りそうな教会へ電文で送っておきなさい。2人の便宜になるでしょう」
「あ、ありがとうございます!」
書類に目を通したレジーナが、大司教に深く頭を下げた。そしてすぐに、
「それでは、お忙しいところを失礼しました」
と言い残して部屋から飛び出していく。それを見送ったアキロキャバス卿が、
「仲間のために必死ですな。若い者は損得勘定抜きで必死になれるからうらやましい」
と零した。
「で、大司教殿。この原因を作ったビーズマス卿の扱いですが、何とかなりませんか?」
「貴族特権、議員特権による不逮捕特権。仮に帝国貴族議員からの除名処分とした場合でも、連合国間の相互不干渉に警察権不介入がありますから、何ともならんでしょう」
大司教が書類仕事を進めながら、アキロキャバス卿の訴えにそう返した。
「それに何より、ビーズマス卿は西アルテース公国の国王ですから、彼を除名処分にするのは、同時に連合帝国から3番目に大きな大国西アルテースをはずすという意味になりますので難しいでしょう。連合憲章には連合参加国家の国王による犯罪については触れていませんので、何とかするためには、ここを見直さなくては……」
「ふむ。貴族の誇りと良心に頼りすぎましたか。ニセくじと手配書。ビーズマス卿の悪知恵には目に余るものがありますが、憲章のことも承知でやってるのでしょうかねぇ?」
そう言ったアキロキャバス卿が、チラッと窓の外に目を向けた。その先では書類を持ったレジーナが、電信のある集配施設へ向かって駆けていくところだ。
「ビーズマス卿の悪知恵は、今に始まったことではありません。それに彼にとって決まり事は単なる努力目標です。それに加えて昔から被害妄想が強かったでしょう。それで時おり短絡的な行動を起こすために、いつまでも執政幹部になれないのです」
そんなことを言った大司教が、めくっていた書類を元の山に返す。そして顔を上げ、
「もしも被害妄想に囚われれずに冷静に行動する男でしたら、今、わたしが話している相手はアキロキャバス殿ではなく、ビーズマス卿であったかもしれませんよ」
と言ってきた。その言葉に、
「ははは、そうかもしれませんな。いや、大司教殿の仰る通りです」
と、アキロキャバス卿が笑う。そして、
「しかし、あの男は切れ者だが、時おり思考までプッツリ切れますからなあ。しかも大貴族で国王の1人です。扱いに困るのが難点ですな」
と言って、静かに青い空を見上げた。
その青空のはるか先、帝都から遠く離れた南の地では、
「アテル川って大きいわねぇ。そろそろ後ろの岸が見えなくなりそうなのに、まだ対岸が見えてこないわ。これじゃ、まるで海よねぇ」
大河を渡る連絡船のデッキで景色を見ながら、メイベルがそんなことを呟いていた。
隊商の人たちは今、客室にいる。そこで薬を飲んだルビノが落ち着いたのを確認してから、メイベルは風に当たるためにデッキに出てきたのだ。
もっとも、その中に隊商の子供たちはいない。今日中に通信教育の課題を提出するかもしれないということで、もう終わってる子も終わってない子も、今は必死に最後の追い込みに励んでいるからだ。
そのため、今、メイベルと一緒にいるのはナバル1人である。
「ここの川幅は50kmだっけ? そのぐらいなら見えなかったか?」
「ここは山じゃないのよ。平らなところで50kmも離れたら、高さが100mあっても見えないわ」
そう言ったメイベルが、手すりに頬杖を突いて軽く嘆息する。そして、
「たしか1km離れるとだいたい8cmで、それが距離の2乗で見える高さが大きくなるから、10kmで8m、20km離れたら30mってところかしら。川沿いに高い木が生い茂ってても、15kmぐらい離れるとほとんど見えなくなるって言うものね。ここは船の上だから、その分遠くまで見えるけど、それでも20kmが限度かしら」
などと話しながら、視線を波打つ水面に落とした。
「アテル川の水って、上から見ると真っ黒に見えるのね。だから黒い川なんだけど……」
水の色を見たメイベルが、そんな言葉を零した。その声を聞いて目を向けたナバルも、
「ホントに真っ黒だな」
と、感想を漏らす。
2人の見てる川の色は少し緑がかっているものの、ほとんど黒に近い色をしていた。その水面に船の航跡が、白い泡となって長く伸びている。
「この黒って、田んぼの泥で濁ってるからか?」
「それは違うわ」
ナバルの言葉に、メイベルがくすっと笑った。
「じゃあ、何で真っ黒なんだ? そういえば沙漠の……ウィート川だったっけ? あそこもすごく濁ってたけど、どっちが濁ってるんだろ?」
「ナバルぅ。それ、すっごい勘違いよ」
メイベルがお腹を抱えて、楽しそうに笑う。
「あのね、ナバル。アテル川はすごく澄んだ川なのよ。だから日の光が届かないような川の底まで見えるから、黒く見えるってわけなのよ」
「澄んでるから? 澄んでたら緑色になるんじゃないのか? 水緑って色があるし」
メイベルの説明にナバルが納得できないような顔をしている。だが、当のメイベルは、
「あれ!? アテル川が黒く見えるのは、水の底が田んぼの泥と同じ粘土質の黒で、それが見えてるから……だったかしら?」
などということを考えていた。
その時、船が大きな汽笛を鳴らした。それから少し遅れて、遠くから別の汽笛の音が返ってくる。水上ですれ違う船があいさつを交わしたのだ。
連絡船が幅50kmの川を渡るのに、だいたい6時間かかる。それを5隻の船で、ほぼ2時間半の間隔で運行しているのだ。
「そろそろ川の真ん中かしらね?」
すれ違った船を見送りながら、メイベルがおおよその位置を考える。
すでにどこを見ても陸地が見えなくなっている。デッキから見えるのは水平線まで続く広い水の平原と青い空。そこに浮かぶ白い雲。そして、遠くにぽつんぽつんと見える小さな漁船ぐらいだ。目測だけでは位置を把握できなくなっている。
そんな風景を見ながら、
「船乗りたちはこういう時に、どうやって自分の居場所を知るのかしら? まさか、船の速さと方向だけで、大雑把に決めてるなんてこと……」
などとメイベルが考えをめぐらそうとした時、
「おい、そこの2人」
と、まるでライオンのようなヒゲ面の男が声をかけてきた。
男の周りには、いかにも賞金稼ぎと一目でわかる風貌の男たちが取り巻いていた。数はライオン男を含めて8人だ。腰に剣を下げ、うち3人が捕縛用のロープを持っている。
それを見た周りの乗客たちが、騒ぎに巻き込まれまいと男たちから離れていく。
「何か用ですか?」
手すりに手をかけたまま、メイベルが振り返って尋ねた。そのメイベルを中心とするように、男たちが横に広がって大きな弧を描く。2人が逃げないように包囲してきたのだ。そして、メイベルの真正面にいるライオン男が手配書を向けて、
「おまえら、この手配書にあるメイベル・ヴァイスとナバル・フェオールだな?」
と聞いてきた。
「違うわ。わたしはエミー・プエラよ」
「俺はオクトー・アグディカニスだ」
手配書をチラッと見た2人が、すぐさまそんな答えを返す。
「…………おい……」
一瞬の沈黙をおいて、ライオン男が冷たい声でツッコんできた。それから少し遅れて、メイベルが不愉快そうな表情になって頭の後ろをポリポリと掻く。
「ちょっとぉ、ナバルぅ。もう少しまともな名前を考えてよぉ」
軽くナバルを睨んで、メイベルが不満を漏らした。
「『忠犬ハチ』って、いったいどこから出てきたのよ?」
「そう言うメイベルだって、『少女M』をもじっただけじゃないか」
「ちゃんと名前っぽくもじったじゃないの。何のひねりもないナバルとは違うわ」
「そっか。じゃあ、次からはオットー・アグディカニーにするよ」
「おいおいおい!」
すっかり無視されたライオン男が、真っ赤な顔で2人の会話に割り込んでくる。
「おまえら、俺たちをバカにしてるのか?」
「相手にしたくないだけよ」
ライオン男の文句に、メイベルがきっぱりと答えた。その隣では腕を組んだナバルが、口を結んだまま黙って首を縦に振っている。
「こいつら、余裕かましやがって……」
メイベルは認めたくないだろうが、2人は救世の旅と今の逃亡生活で、こういう状況に慣れっこになっていた。そんな2人の態度を見たライオン男が、奥歯をギリッと噛みしめた。そしてライオン男が腰の剣を抜き放つのを見て、仲間の男たちも次々に剣を抜いて構えてくる。
「あんたたち、周りの迷惑ぐらい考えなさいよ」
「考えてるさ。だから、おまえらが2人になるのを待ってやったんじゃないか」
メイベルの言葉に、男が勝手な言い分を返してきた。
その背後で成り行きを気にしている乗客たちが、更に男たちから離れていく。
「メイベル。強い魔法で関係ない人まで巻き込むなよ」
魔法の杖を構えたメイベルが、杖の先でゆっくりと円を描いていた。そのメイベルに、ナバルがハッキリした声で注意を投げる。
「それは保証できないわ!」
杖の動きを止めたメイベルが、大きな声で答えた。その言葉を聞いた途端、乗客たちが大慌てでデッキから逃げ出していく。残るのは、野次馬根性の強い数人だけだ。
ナバルが剣を抜き、手すりからゆっくりと離れていく。その背中にピタッと着いて、メイベルも手すりからすり足で移動を始めた。
「メイベル。うまく人払いできたな」
「ホ〜ント、ナバルはこういうことには気配りが利くのよね」
2人が他人には聞こえないような小声で言葉を交わす。先ほどのやり取りは、人払いするための腹芸だったのだ。
それで人の少なくなったデッキの中央まで2人が移動した。男たちはその2人と一定の距離をあけたまま包囲を続けている。
「おりゃあああぁぁぁ〜!!」
2人の足が止まったと同時に、ライオン男の反対側にいる男が大声をあげた。その声にメイベルの視線が向かってしまう。
「わざとらしいんだよ!」
ナバルが声を上げた男とは反対側に動いた。そこではロープを横に張った男たちが迫ってきていたのだ。2人を一気に縛ってしまおうと狙っての作戦だ。だが、
「させるか!」
ナバルがロープを断ち切った。更に返す刀で別の場所も断ち切る。
「ちっ。このロープはダメだ」
男が短く切られて使い物にならなくなったロープを捨てた。その隣にいる男がナバルと斬り合いをしている。そこに、
「突風よ!」
メイベルが風の魔法を仕掛けてきた。ロープを捨てた男とナバルと斬り合っている男の2人が、風の餌食になって吹き飛ばされていく。
「ナガン!!」
ライオン顔の男が叫んだ。吹き飛ばされた1人はデッキに転がっているが、もう1人は船の外まで飛ばされていた。
「この魔女め!」
逆上したライオン男がメイベルに剣を突き立ててくる。周りにいる男たちも、魔法を使う厄介なメイベルから始末しようと狙ってきた。それで標的にされたメイベルは、
「浮け!」
咄嗟に魔法で宙に逃れた。そのメイベルの下で、男たちが激突し合っている。
「飛べる……だと?」
仲間から頭突きを喰らったライオン男が、鼻を押さえて空を見た。
男たちには魔法は使えなくても、魔法の知識ぐらいはある。とはいえ、多くの魔導師の使う魔法は遠距離攻撃用か防御用のものだ。そのため想定していた動きは平面上のもの。空を飛ぶとは、まったく思いもしなかったようである。
「さすがは金貨320枚の賞金首だ」
そう呟く男の見る前で、メイベルが優雅に空を舞っていた。そのメイベルが大きくスカートを広げながら、片足で静かに舞い降りてくる。その様子を、男はまるで天使が舞い降りてきたように感じた。
もっとも、メイベルの方は、
「危なかったわね。もう少しで船から落ちるところだったわ……」
船上で飛び上がることの怖さを痛感していた。
男は優雅に舞い降りてきたように見ていたが、当のメイベルには危なっかしい着地だった。着地が片足になったのも、上空の風でバランスを崩していたからだ。
ちらっと後ろを見たメイベルは、デッキの残りが自分の身長分しかなかったことを知った。
ここは川の中央付近。船がもっとも速度を上げている頃だ。そのため風をまともに受けてしまい、船の後ろへ流されてたのだ。
「メイベル。場所を考えろ。船の上は狭いんだぞ!」
戦っていた相手を振り切ったナバルが、メイベルに駆け寄ってきた。
床に転がっている男は2人。まだ5人が残っている。
「注意したつもりだったけど、この服が思ってた以上に風を受けちゃって……」
メイベルが片手で魔法の杖を構えつつ、もう一方の手で服をつまんだ。売り子の衣装は、メイベルが思っていた以上に風を受ける面積が大きかったようだ。
「メイベル。炎の魔法は使えるか?」
メイベルの前で剣を構え直したナバルが、そんなことを聞いてきた。
「それはダメよ。こっちは風下だから、風で火が戻ってくるわ」
「それじゃ、雷は?」
「それもダメ。風で雲が飛んでかないもの」
口には出さないが、風下にいては風の魔法も逆風で威力が半減だ。こんな不利な状況に追い込まれたのは、またしても一瞬の判断ミスだった。
「どうすれば……」
メイベルが悔しそうな顔を浮かべつつ、魔法の杖を構えた。
男たちが慎重に構えながら、2人との距離を一歩ずつ詰めてきている。それを見ていたメイベルの脳裡に、ふと妙案が浮かんだ。
「そうだわ! 冷却せよ!!」
メイベルが床に向けて凍結魔法を放った。たちまちデッキに白い霜が降り、それが拡がって氷の面へと変わっていく。
「うわっ!?」
迂闊にもその上に乗ってしまった男が、焦りの声を上げた。背後から風を受けているため、まるで凍った坂道で滑ったようになったのだ。
「だ、誰か、止めてくれ!」
男の身体がどんどん加速して後ろに流れていく。そして、
「うわぁぁぁ〜〜〜〜〜……」
という悲鳴を残して、男は船の外へ放り出されてしまった。
「よし! 作戦成功だわ」
思い通りの結果に、メイベルが小さく拳を握る。だが、
「おい。俺たちの逃げ場をなくしてどうする?」
と、ナバルが文句を言ってきた。
「逃げ場って……。あ……」
ナバルに言われて、メイベルが自分のしでかした大きな間違いに気づいた。
「身動きが取れない……わね」
デッキを凍らせて男たちが近寄れないようにした。そこまでは成功している。しかし、そのために2人はデッキの一番後ろから、前に動くこともできなくなっていた。
「おまえなあ。少しは先のことを考えて行動しろよ」
「あぅ……。またやっちゃった……」
後悔先に立たず。メイベルはまた判断ミスで自分を追い込んでしまった。
「こうなったら、このまま持久戦よ」
メイベルが開き直った。
「港に入れば、きっと水上警察が乗り込んでくるわ。そうなったら、あの人たちは乱闘罪で連行されるわ」
「俺たちも一緒に連行されるけどな。俺たちは警察ではなく、教会に……だが」
「あぅ……」
ナバルの一言に、メイベルの目が虚ろになった。
一瞬考えた希望的な予想は、実は絶望的な予想だった。そこに、
「おまえら、やめないか!」
と叫びながら、船員が駆けつけてきた。
「川に落ちたらどうするつもりだ。ここからもっとも近い岸まで20km。今ごろの川の温度では、落ちたら半日以内に岸までたどり着くか助けられないと、身体が冷えて溺れ死んじまうぞ」
「え〜いっ。やかましい!!」
止めに入ってきた船員を、男たちの1人が剣の柄で殴りつけた。それで「がっ」と声を放ったまま白目をむいた船員が、そのままばたんとデッキに倒れる。
「おい、手すりを伝って追い込むぞ!」
男たちは手すりを伝って、左右両側からメイベルたちを挟み込んできた。メイベルの考えた持久戦の予測は、またしても大ハズレだ。しかも凍結を解除して逃げることを見越して、1人が氷の先で待ち構えている。
「こりゃ、最悪だな……」
「ごめん……」
ナバルの零した言葉に、メイベルが心底すまなそうに謝った。この状況から逃れられる方法が思いつかない。こうなったら破れかぶれで攻撃魔法を使うしかないかもしれない。そうメイベルが覚悟を決めかけた時、
「あっ……!?」
船が横波を受けて、大きく川下側に傾いた。
「うをっ!?」
川上側から手すりを伝って迫っていたライオン男が、その揺れで放り出された。その男の身体が凍った床に落ち、勢いよくメイベルたちに向かって滑ってくる。
「うわっ!?」
「きゃあ!!」
逃げる余裕はなかった。男にぶつかられた2人は次の瞬間、そのまま男もろとも船から放り出されていたのだ。
「メイベル!!」
宙を飛ぶナバルが、メイベルに手を伸ばしてくる。だが、その手はあと少しのところで届かなかった。虚しく手を伸ばすメイベルの目に、離れていくナバルが太陽の光の中に溶けていく光景が映った。そのナバルを見上げたまま、メイベルが川に落ちていく。
その直後、船の横に3本の水柱が上がった。
「メイベル! 無事か!?」
逸早く水面に浮かんできたナバルが、必死にメイベルの姿を求めた。
『このやろう! これで逃げられたと思うなよ!!』
ライオン面の男は、ナバルからかなり離れた場所に浮かんでいた。ナバルのいる場所とは流れの速さが違うのだろう。男の姿はどんどんと川下へ流されて遠ざかっていく。
「けほっ、けほっ」
男とは反対の方向から、メイベルの咳き込む声が聞こえてきた。そのメイベルが水面から顔を出して、あたりを見まわしている。
「メイベル!」
「あ、ナバル。落ちちゃったわね」
ナバルの姿を見つけて少し落ち着いたのだろう。ほっと安堵したメイベルが笑顔で呼びかけに答えてくる。
「メイベル。泳げるか?」
「それは何とか。昔、臨海学校へ行った時にね、約3kmの遠泳をさせられたことがあったの。それを無事に泳ぎ切るぐらいには泳げるわよ」
心配するナバルに、メイベルがゆっくりと泳ぎながら近づいてくる。それにナバルが、
「ここは川の真ん中だから、25kmはあるかもしれんぞ。あ、さっき止めにきた船員が、20kmとか言ってたっけ……」
と、困ったように言ってきた。
「あぁ〜あ、船がどんどん離れてくわ」
2人を乗せていた船は、今も港へ向かって進んでいた。その船から信号弾が打ち上げられた。船で何か事件が起こったことを報せるものだ。それに応じるように、港のある対岸からも信号弾が打ち上げられた。もっとも川幅が広いため、水面にいるメイベルたちからは港は水平線のはるか彼方である。
「それにしても、服を着てると動きづらいのね」
と気づいたメイベルが、水の中で一番邪魔になるスカートを脱いだ。はしたないと思いつつも、この状況では気にしてる場合ではない。とは言え、水が澄んでいるおかげで足が黒い川底を背景に輝いて見えているのは、ちょっと気恥ずかしい状況だ。
「メイベル。杖が流れてきたぞ」
船を見ていたメイベルに、ナバルが拾い上げた杖を見せてきた。その声を聞いて振り返ったメイベルが、
「よかったわ。なくしたのかと諦めてたんだけど……」
と、杖も無事と知って安心する。そしてナバルから杖を受け取ると、メイベルはそこに脱いだスカートを巻きつけて、空気を入れて膨らませた。
「メイベル。何やってるんだ?」
「こうやって浮きにするのよ」
そう答えたメイベルが、スカートを巻きつけた杖に左腕を載せる恰好で摑まった。それからゆっくりとナバルに近づきながら、
「何か浮きになるものがあれば、体力の消耗は抑えられるわ。こうすれば途中で体力が尽きて、溺れる心配は小さくなると思うの」
と言ってくる。それでやって来た杖に、ナバルも左腕を載せるようにして摑まった。
「メイベル。魔法で岸まで行くことはできないのか?」
「魔法で? それは難しい話ね」
ナバルの思いつきに、メイベルが困った顔で答える。
「あたし、水の中では魔法が使えないのよ。まったく使えないわけじゃないけど、水の中と外では魔法を起こす感覚がまったく違うのよね。お風呂で練習したことはあるけど、あの時はお湯が暴れて溺れそうになったわ。お湯の深さはたった60cmぐらいしかないのに、魔法を使った途端、暴れたお湯に一瞬で呑み込まれたのよ」
「そういうものなのか?」
「そうなのよ」
ナバルの問いかけに、メイベルがそう答えて溜め息を吐く。
「でね、練習してみてわかったことだけど、立って足だけ水に浸けた状態でも、ひざよりも深くなると水が激しく暴れて足をすくわれるの。人間にとってもっとも大きな筋肉は太ももだから、そこが水に浸かってるかどうかが大きく影響してるのかしらね?」
「ふむ……。じゃあ、魔法は使わない方がいいな」
右手でゆっくりと水を掻いたナバルが、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「そうなのよ。お役に立てなくて、ごめんね」
「気にするな。浮きを作る知恵は立派に役立ってる」
そう言ったナバルも、脱いだズボンに空気を入れて膨らませて杖に巻きつけてきた。
それを見たメイベルが顔を赤くして、ナバルから視線をはずしてしまう。
「どんどん流されてるわね。岸に着く頃には、どこまで川下に流されてるかしら?」
川はゆっくりした流れだが、それでも間違いなく動いている。遠ざかっていく船との位置関係から、かなり流されていると感じられるほどだ。
「さあな。それより少しでも早く岸に着かないと、どこまでも下に流されるぞ」
ナバルが杖を押すような感じで泳ぎ始めた。それに、
「わかってるわ。水はそんなに冷たく感じないけど、さっきの船員さんが半日で冷えて溺れ死ぬって言ってたでしょ。とにかく時間切れになる前に岸まで泳ぎ着かないと……」
と答えたメイベルも、静かに泳ぎ始めた。
2人のいる場所から岸はまったく見えない。2人が頼りにできるのは、空で輝く太陽だけだ。今は昼の少し前だから、太陽の少し右に向かって泳げば岸に近づけるはずだ。
無事に岸にたどり着けるか。そんな不安を感じながら、2人は川を泳ぎ続けるのだった。
さて、そんな事故のあった1日も終わりに近づいていた。空は薄暗くなって星が3つ、4つと輝いているのが見える。だが、西の空に目を向けると、そこにはまだ沈んだ太陽の名残として朱色の空が残っていた。
川に落ちた2人が行くはずだったサンルミネ教会前の広場には、今、メルカトル商会の馬車が1台だけ駐まっている。教会で子供たちの教材を受け取りに来た、隊商護衛隊長のトリフォニー夫妻の乗る馬車だ。
広場にはいくつものガス灯が並び、薄暗い光で周りを照らしている。そんな中でアダモが馭台に座って、足を揺らしながら広場に続く通りを見ていた。
「あ、母ちゃんの馬車だ!」
アダモの見ていた通りから、1台の馬車が広場に入ってきた。ルビノを連れてサンルミネにある大病院へ行っていた、メルカトル夫人たちを乗せた馬車である。
それを見たアダモが馭台で立ち上がり、
「お〜い。母ちゃ〜ん!」
と、両手を振って呼びかけた。その声に、
「だいぶ待たせたかねぇ」
と言って、メルカトル夫人が応えてきた。
その声に気づいたサフィアやトリフォニー夫妻たちが、次々と馬車から顔を出してくる。
「母ちゃん。ルビノは?」
「安心をし。今は疲れて寝てるだけだよ」
そう話してる間に、メルカトル夫妻の馬車がトリフォニー夫妻の馬車に並んだ。そして、馬車が止まったところを見計らって、アダモがぴょんと馭台から馭台へ飛び移ってくる。
「母ちゃん。ルビノの病気は、どうだったの?」
「それがさあ、不思議な話なのよ」
アダモが荷台を覗いて、ルビノの寝顔を窺う。そのアダモの質問に、夫人が頬に手を当てて何と答えれば良いか悩んだ。
「お医者さんが言うにはさ、ルビノに病気はないって……」
「どういうこと?」
夫人の言葉に、アダモが首を傾げてくる。それに夫人は、
「なんか知らないけど、綺麗さっぱり病気の様子がないって言うんだよ」
と、同じ説明を繰り返すだけだった。
「お医者さまも不思議がっててさ。ルビノの熱は疲れによるものだって言うんだ。それに、この診察簿が間違ってないかって言ってたけど……」
そう言いながら持っていた診察記録に目を落としたメルカトル夫人に、
「やっぱり聖修道女のお姉ちゃんの奇跡かな?」
と、アダモが言ってきた。
「メイベルちゃんの?」
「だってさ、聖女さまには奇跡を起こす力があるんだろ?」
「奇跡かい……。そうかもしれないねぇ」
そんなことを言いながら、メルカトル夫人が診察記録をルビノの枕元に置いた。
「ところで、そのメイベルちゃんたちは、どうしたい?」
「それが、さっぱりわからないよ」
夫人からの質問に、アダモが首を横に振ってきた。
「賞金稼ぎに襲われて船から落ちちまったとは……。無事でいてくれると良いがねぇ」
夫人たちはメイベルたちの巻き込まれた事故を、船の中で知ることになった。とはいえ、それ以降の情報はまったく入ってこなかった。
ルビノを病院へ連れていくため、メルカトル夫妻の馬車は先に港からサンルミネへ向かっていた。残ったトリフォニー夫妻の馬車が情報収集の任に当たったが、港にいても情報が思うように入ってこない。そのため日暮れ前に広場まで来られるギリギリの時間まで待った上で港をあとにしてきたのだ。
ちなみに次の船で川を渡ってくる馬車たちは、まだ事件のことを知らない。日暮れ前までに広場まで来られなかったのだ。なので今ごろは途中のどこかで宿を取っているだろう。
「ええっ!? メイベルちゃんたちが、船から落ちましたの?」
翌日、ようやく昼前になって、後続の馬車が広場に到着した。そこで事件を知ったカメリエラが、目を丸く見開いて口を両手で隠している。
「今、トリフォニーの馬車に港へ戻ってもらってるよ。今日1日は、トリフォニーに情報を集めてもらおうと思ってね。意外と、2人が港に現れるかもしれないし……」
そう伝えているメルカトル夫人は、新聞を広げていた。手に入るだけの新聞を集めて、2人に関する情報を集めようとしているのだ。その夫人が、
「さすがのソロリエンスでも、2人の安否はわからないみたいだねぇ」
いったいどこで嗅ぎつけたのだろうか。ソロリエンスの新聞には、昨日の事件のことが載っていた。もっとも、いつもの脚色された大捕り物が書かれているだけで、船から落ちたあとの2人の行方に関しては何も触れられていない。
「女将さん。わたしも港で待っていいでしょうか?」
「カメリエラ。気持ちはわかるけどさ、今日のところは騾馬を休ませてあげな」
カメリエラの申し出を、夫人が優しい声で取り下げる。
「でも……」
「闇雲に動いてちゃ、なんにもならないよ」
「でも……」
夫人の言葉に、カメリエラが食い下がってくる。
「メイベルちゃんは魔法が使えるんだ。だから、きっと無事だよ。だから、あたしらはここで2人の無事を祈りながら、何日でも待とうじゃないか」
夫人が努めて冷静さを保ちながら、カメリエラにそう言ってきた。
「あの2人だって、何かあったらここに集まろうってことは知ってるはずだよ」
そう言った夫人が、新聞から目を上げて荷台の子供部屋に向けた。そこでは今もベッドで横になっているルビノが、心配そうに顔を向けてきている。
「それに、あの子にとってメイベルちゃんは命の恩人だよ。とにかく、あたしらはここで待つんだ。じゃなきゃ、いつかバチが当たっちまうよ」
「命の恩人? 女将さん、ルビノちゃんの病気は?」
夫人の言葉に、カメリエラが気持ちを落ち着かせようとしながら尋ねた。
「昨日、お医者さまに診てもらったんだけどさ。ルビノの熱、あれはちょっと疲れたからだって言うんだよ。そういや一昨日、ルビノはメイベルちゃんのあとについて、ちょこまかと走りまわってたものね。その時の疲れで熱を出したらしいんだよ」
顔をカメリエラに戻してきた夫人が、その様子を思い出して小さく微笑んだ。
「それで、その時の先生がルビノの病気を詳しく診てくれたんだけどさ。診察簿に書かれてるような病気は何もないって、太鼓判を捺してくれたよ」
「病気が、なくなりましたの? あの、不治の病と言われてた……」
「そういうことだろうねぇ」
そう零した夫人が、静かに空を見上げた。
「メイベルちゃん。先輩がやったという病気の治し方を思い出したのかしら?」
「それはまだないみたいだよ。あの子が治し方に気づいたら、まず間違いなく楽しそうな顔で教えてくれると思わないかい? こうやれば治る。こうやれば二度と病気にはならないってさ」
「それは……そうかもしれませんわ」
危うく「解説魔」と出そうになった言葉を呑み込んで、カメリエラがそう返した。
「だからさ。これはメイベルちゃんの起こした奇跡なんだよ。そんな奇跡を起こした聖女さまを、神さまが放っておくわけないだろう」
メイベルが聖女だから。魔法使いだから。まったく根拠はないが、メルカトル夫人はそんな理由から、2人は絶対に生きていると信じようとしていた。とはいえ、
「女将さん……」
周りを見て、カメリエラが言葉を呑んだ。
東アルテースの首都サンルミネにある教会前広場。そこは昼間には大勢の市民たちが集まる、商売人にとって恰好の売り場だ。
だが、メルカトル夫人は冷静さを装っていたが、ここで店を開くことを忘れるほど、心の中では激しく動揺していたようである。
そして、更に1日の時が流れた。
その日の夕方近く、サンルミネの街を2人乗りの白馬が入ってきた。
「うわぁ〜、懐かしいですぅ」
白馬に乗っているのは、クラウとパセラだった。パセラは街に入った途端、懐かしい街並みに目を奪われてきょろきょろと激しく顔を動かしていた。
帝都サクラスとこのサンルミネの大きな違いは、街の中を縦横に走っている水道橋だ。
帝都サクラスは斜面に造られた街のため、動力用の水道が地下を流れている。だが、平地にあるサンルミネでは、水の流れを作る斜面がない。そのため水道を高い場所に流すことによって、水車をまわす落差を作っているのだ。
「思ったよりも早く到着できましたね」
小さな水道橋をくぐったクラウが、サクラスとは違った街の雰囲気に別の土地へ来たと実感していた。一方でパセラは、
「うわぁ〜。あのお菓子屋さん、よく出入りしてましたぁ」
住んでいた子供のころを懐かしんで、目がキラキラと輝いている。
「ポルタウから3日に1便しかないサンルミネ直通の外洋船に乗れたのは幸運でした」
「あれ!? あそこの建物が変わってますよぉ」
2人の会話は微妙に噛み合ってなかった。
「お、友人Aくん。教会の塔が見えてきましたよ」
「本当ですぅ。見えてきましたぁ」
大きな水道橋をくぐったところで、前方に教会の尖塔が見えてきた。
大きな石造りの教会だ。その尖塔が少し赤茶けた灰色で天に伸びている。塔の上に載る円錐形の屋根は見事な銅錆色で、教会の重厚な存在感を演出していた。
また1つ水道橋をくぐると、尖塔の半分の高さの鐘楼と教会の屋根が見えてきた。2人は教会を左斜め後ろから眺めるような位置関係にいる。
「修道院が見えてきましたぁ。わたしとレジーナは、あの2階で暮らしてたんです」
大きな礼拝堂の背後に、修道者の暮らす修道院が建てられていた。3階建てで、礼拝堂より少しだけ小さな建物だ。通りには生け垣沿いが続いている。その生け垣を指差して、
「ここの抜け穴、まだ塞がれてませんよぉ。今もみんな、使ってるのでしょうか」
とパセラが明るく言う。あまりの懐かしさに、パセラはすっかり舞い上がっていた。
その2人が最後の水道橋をくぐった。これは教会に水を運ぶための水路だ。そこを通りすぎた途端、空が一気に広くなった。
2人は教会前の広場に出た。広場の上には水道橋が通っていないため、空をさえぎるものが何もないからだ。
その広場の中央には、人目を楽しませる噴水と小さな滝のある池が造られていた。どうやらここだけは水道が地下を通っているようである。
「さて、教会の人にあいさつをしなくては」
教会の正面まで馬を進ませたクラウが、そこで馬を止めてつなぐ場所を探す。そこに、
「あら、その見事なジェイドブロンドは、ひょっとしてパセラですか?」
と言って、赤い修道服を着た老女が礼拝堂から外に出てきた。
「修道長アンシャン。お久しぶりですぅ!」
「あらあら、やっぱりパセラでしたのね。お久しぶりね。すっかり綺麗になって……」
馬に乗ったままのパセラを見上げて、老修道女が優しそうに目を細めた。そして目を馬を操るクラウに向けて、
「あらまあ、一緒にいるのはどこのお坊ちゃまかと思ったら、アキロキャバス卿のクラウお坊ちゃまではありませんか。パセラが来るとは聞いてましたが、ご一緒にクラウお坊ちゃまも来られたとは……。大変に珍しい組み合わせですわ」
と声をかけてくる。そこですかさず馬を降りたクラウが、
「修道長アンシャン。大変にお久しゅうございます。前にお目にかかったのは、たしかテルル卿第2ご息女の、結婚の儀以来ではなかったかと……」
と、片手で馬の手綱を握ったまま、略式であいさつを返した。
「さあ、お2人とも、長旅で疲れたでしょう。馬はそこにつないでください。あとで係の者が馬小屋へお連れしますわ」
「はい、それではさっそくお言葉に甘えさせていただきます」
そう言いながら、クラウはパセラの手を取って馬から降ろした。教会から出てきた修道士が手綱を取り、2人の乗ってきた馬を教会にある馬小屋へと連れていく。
「パセラ。レジーナさまは元気にしてるかしら? 仲良くできてますか?」
2人を礼拝堂へと案内しながら、老修道女がそんな話題を振ってきた。
「レジーナとは仲良しですよぉ」
「そうですか。それがけっこう気がかりでしたのよ」
そう言って振り返った老修道女が、礼拝堂の奥にある扉を開けた。そこは教会の応接室だった。部屋には大きなテーブルが置かれ、左右に4人掛けのソファが置かれている。
「お茶と、それからわたしの事務机から、昨日の新聞と資料を持ってきてくださいな」
2人を中に入れた老修道女が、応接室にもう1つある扉を開けて、隣の部屋にいた修道女に指示を与えた。それを聞いた修道女が深くお辞儀を返して、頼まれた準備を始める。
「修道長。さっそくですが、この2人について……」
老修道女が席に座るのを待っていたクラウが、さっそく本題を切り出してきた。クラウが見せてきたのは、サクラス教会の絵画係の描いた2人の簡単な肖像画だった。それは勇者帰還の式典の時に描かれた、近衛中隊長姿のナバルと聖修道女姿のメイベルだ。
その絵に軽く目を落とした老修道女が、
「あらあら、クラウお坊ちゃまは仕事熱心ですわね」
と微笑みながら、出された絵を手に取った。
「いえ、これは仕事だからではありません!」
クラウが握った拳を目の高さまで上げて、真剣な顔で言ってくる。
「僕にとって大切な人の……」
「このナバルさんはクラウさんの大親友で、隣のメイベルはわたしの大親友なんですぅ」
クラウの言葉を無視するように、パセラが絵を指差しながら2人との関係を伝えた。それで話の腰を折られたクラウが、
「あのぅ〜、メイベルちゃんの友人Aくん。僕の話を取らないで欲しいんですけど……」
と、不満たらたらな顔をパセラに向けてくる。燃え上がった心に水を差されて、プスプスとくすぶってるようだ。
そこにお茶を持った修道女が入ってきた。その修道女が3人の前にティーカップを置き、テーブルの真ん中にはクッキーやスコーンなどを載せた菓子盆を置く。それで隣の部屋に戻っていく修道女と入れ替えに、今度は新聞や資料を持った修道女が入ってきた。
「お2人が探している2人について、わたくしたちも詳しいことはわかりません。ただ、昨日の新聞に気になることが載ってました。これを報じているのがソロリエンス新聞なので真偽のほどはわからないのですが……」
そう言って老修道女が、修道女の持ってきた新聞を2人に見せる。
「アテル川で船から落ちて流された!? 賞金稼ぎたちと船上で戦ってって……」
新聞を広げて持つクラウの肩が震えた。
新聞にはスクープ記事として載せられている。そして読者の興味を誘う新聞イラストに描かれているのは、近衛中隊長と聖修道女姿に描かれた男女だ。もっとも、それはイラスト絵師のイメージ画のため、ナバルとメイベルに似ているはずがない。イラストには四角い顔の美形剣士が船上で戦い、その上では天使のような翼を広げた聖女が魔法の杖を持って援護する光景が描かれている。聖女の髪は腰までの長さに描かれ、更に後光まで描かれている。これでは聖女というよりも、女神か天使という感じだ。
「じゃあ、2人は川に流されて……?」
「それはどうでしょう? 教会独自の情報網で調べたところ、船から人が落ちたという事故はあったようですが、落ちたのは乱闘騒ぎを起こしたゴロツキと、巻き込まれた旅商人の売り子という話です」
そう言って老修道女が見せてきたのは、港が発行した水難事故報告書だった。
「この売り子の特徴が書かれてませんけど……」
報告書に目を通したクラウが、もっとも気になることを尋ねてきた。
「それがどうかしましたか?」
「僕たちはたびたび目撃されたピンクブロンドの売り子が、メイベルちゃん……と、これは聖修道女メイベルのことなのですが、彼女ではないかと確かめるためにサンルミネに来たのです。帝都で事件のあった時に、たまたまピンクブロンドの売り子が近くを通りかかっただけかもしれません。ただ、彼女がその後の目撃情報から一昨日頃に川を渡り、昨日あたりにサンルミネに入ったと予想されるので、急いでやってきた次第で……」
「なるほど。そういう事情で、お2人が来られたのですか」
クラウの話に、老修道女がだいたいの事情を察した。
「とにかく僕たちはそのピンクブロンドの売り子に会って、その人がメイベルちゃんなのか別人なのかを確かめたいのです。ピンクブロンドは何千人に1人しかいない珍しい髪の色ですから、同世代の女性となれば何万人に1人の割合でしょう。それがほぼ同じ時と場所で2人が目撃される確率は何億分の一です。となれば2人が別人である確率は……」
「クラウお坊ちゃま。考え方を間違えてますわ」
力説するクラウの説明に、老修道女がボソッと横槍を入れる。
「聖女さまがピンクブロンドなのは確定してるのですから、売り子だけで確率を考えるべきですわ。それで事件の起きた頃、帝都の周りにいた旅の売り子が何人いるか考えてごらんなさい。サクラスにある市場に来る旅の売り子は何人かしら。何百人、何千人といるでしょう。サクラスの周りには大きな街がいくつもあるのですから、その中にいるピンクブロンドの若い売り子も1人や2人では済まないと思いませんか?」
「…………あれれ?」
老修道女の話に、クラウが首を横倒しにした。
ピンクブロンドは珍しい髪の色という先入観があったため、同じ頃に目撃されたピンクブロンドの売り子がメイベルである可能性が高いと思い込んでいた。でも、老修道女に言われたように冷静に考えれば、帝都には旅商人の集まる市がいくつもあって、その1つだけでも何千という商人がいる。それを帝都の周りにある市まで広げてみると、同じ頃にいるであろうピンクブロンドの若い売り子は、確率的に1人や2人では済まない。その中の1人をメイベルと思い込んで、ついつい追いかけてしまったようだ。
「これは勇み足……でしたかね?」
「うふふ。若い時には、いろいろと失敗を積み重ねるものですわ」
虚ろな顔になったクラウの言葉に、老修道女が微笑みながら優しい言葉を返す。
「なんか、失敗しちゃいましたねぇ」
パセラも拍子抜けしたみたいだ。天井を見上げて、背中を深くソファに預けている。
「せっかくですから、ここにある以外に、2人の目撃情報はないものでしょうか?」
「わたくしも気になって、聖女さまのことは調べてますわ。パセラとレジーナさまにとって大切なお友だちですもの。でも、ここにお見せした以上の情報は得られてませんの」
クラウの求めに、老修道女が優しい口調で首を横に振る。
「メイベル、今ごろはどこにいるのでしょうか?」
「帝都で事件のあった翌日、聖女さまはピスキの町で目撃されているそうですから、南へ向かっている可能性は高いですわ。事件から今日で13日ですから、このサンルミネに着くのは、まだまだ先でしょう」
「ですねぇ」
老修道女の言葉に、パセラがふうっと嘆息する。そのパセラが立ち上がり、
「修道長アンシャン。少し修道院を見てきてもいいでしょうか? 久しぶりに来ましたので、みんなにもあいさつしたいですし……」
と言ってきた。
「是非、そうなさい。こういう機会でもないと、なかなか来られませんもの」
「はい」
パセラが微笑んで、部屋から出ていこうとする。そのパセラを、
「そう言えばあなた、もう正修道女になってたのですね」
と、老修道女が呼び止めた。
「パセラはここにいた時から優秀でしたから……」
「あ、これにはちょっと事情がありまして、本当はまだ見習い修道女なんです」
老修道女の言葉をさえぎって、パセラがはにかんだ顔で微笑む。
「事情? ああ、外に出かけるための配慮ですのね」
パセラの答えに、老修道女がすぐに事情を察した。だが、パセラは「配慮?」と、首を傾げている。どうやら昇格と降格という口実に気を取られて、大人たちの心配りに気づいていないようだ。
そのパセラが行ってしまった頃合いを見計らって、
「ところでクラウお坊ちゃま。パセラとはどのような関係なのでしょうか?」
と、老修道女が気になることを尋ねてきた。それにクラウが、
「保護者です!」
と、ハッキリとした声で答える。
「保護者……ですか?」
「はい。僕にとって一番愛しい女性の大親友です。なので、愛しの人がいない間、彼女に代わって友人Aくんの安全を守るのが、今の僕にとって一番の使命なのです!!」
「友人Aって……」
1人で燃え上がるクラウに、老修道女が冷たい視線を向けた。
「それではクラウお坊ちゃま、もう1つお尋ねしたいことがあります。パセラとレジーナさまの仲は、本当のところはどうなっているのでしょうか? パセラは仲良しと言ってましたが……」
と、老修道女が別の心配事を尋ねてきた。
「2人の仲……ですか? けっこう良い方だと思いますけど……」
「そうですか。それなら良いのです」
そう零した修道女が、心配そうな顔で頬に手を当てる。
「何か心配なことでも?」
「実はここにいた頃、お2人はあまり仲が良くなかったもので……。と言っても、正しくはレジーナさまが事あるごとにパセラに突っかかってただけですけど……」
「レジーナちゃんが!? それは想像できませんねぇ。レジーナちゃんは口は悪いですけど、けっこう仲間思いですし、面倒見も良いと思いますけど……。本当に突っかかってたのですか?」
意外そうな顔をしたクラウが、ティーカップに手を伸ばした。そのクラウの疑問に、
「うふふ、たしかにレジーナさまは面倒見は良いですけど、パセラには何かと突っかかってましたわ。必死に勉強してもパセラに勝てないので、かなりライバル視してましたもの」
と笑いながら、老修道女が優しく答える。
「レジーナさまは、帝都でも口が悪いのですか。でも、それは小さなお気を誤魔化すための虚勢ですわ。周りは王女さまという色眼鏡でしかレジーナさまを見てませんでしたもの。あの子にとって王女という生まれは重荷でしかないのです。だけど、パセラだけは違いました。突っかかってもふわふわと流してましたし、それに元々物怖じしない性格でしたから、レジーナさまが王女であっても気にならないのでしょう。レジーナさまは突っかかりながら、パセラの性格に助けられていたと思います。それがあるからでしょうか……」
そう言いかけたところで、老修道女もティーカップに手を伸ばした。そして、お茶を軽く口に含んで喉の渇きを癒してから、
「レジーナさま、パセラがエセ修道女と陰口を叩かれると、それはもうすごい剣幕で怒ってましたわ。いつもはパセラに突っかかっていくのに、その時だけは……」
と、その時の光景を思い出すように静かに目を閉じる。
「エセ修道女……ですか?」
「ええ、パセラはくじびきで修道女になったのではなく、身寄りを亡くしたので教会に預けられて修道女になったのです。ですから、心無い人には……」
「彼女には身寄りがいないのですか!?」
クラウがカップをテーブルにおいて、思わず身を乗り出していた。
「あら、ご存じありませんでしたの? まあ、あまり人に話すことではありませんから」
そこまで話して、老修道女がまたカップを口に運んだ。そして、
「でも、クラウお坊ちゃまのお耳には、入れておいた方が良いでしょう。あの子が7歳の時に、このサンルミネの西に作られていた町が、大雨で流されるという災害がありました。あの子はその時の数少ない生き残りです。あれから、そろそろ10年ですわ」
ということを教えてくる。
「そんな大きな災害があったのですか? 雨で町が流れたって……」
「大規模な土砂崩れでした。山崩れと言うべきかしら。より強い水力を求めて急な斜面に町を作ったことが、あの災害を招いたのです」
水力で町を動かす社会が持つ負の側面だった。
老修道女の話を聞くクラウは、完全に言葉を失っていた。そんなことには委細構わず、
「パセラには何かあった時に頼れる肉親がいないので、見た目はふわふわしてますけど、陰では必死に努力してましたの。たぶん、今も必死に努力してると思います。なので、何かあった時にポキッと折れてしまわないように、あの子には心の支えが必要なのですわ。それが今のあの子には、大親友の聖女さまなのかしら?」
と、老修道女が零した。
その呟きを聞きながら、クラウは黙ってティーカップの中に目を落としている。
さて、また夜が訪れ、朝が来た。
「ん……。ここは……?」
ゆっくりと目を開けたメイベルが、ぼうっと天井を眺めていた。
メイベルがいるのは小さな部屋だ。部屋は正方形で、天井は白っぽい色をしている。
耳を澄ませると、かすかに波の音が聞こえてきた。それに混じって、ジュジュジュという何かを油で炒めている音が聞こえてくる。
「あ、ナバル……」
顔を横に向けたメイベルが、ナバルの姿を見つけた。
ナバルは窓辺でイスに座ったまま、腕を組む恰好で寝ている。
「ナバル。どうして近衛隊長の服を……?」
まだ頭がハッキリ動いてないが、メイベルはナバルの服装に疑問を持った。
メイベルの記憶の中では、ナバルは用心棒の恰好をしているはずだった。だが、今のナバルは近衛隊長の服を着ている。それも救世の旅をしていた時に見慣れた、近衛小隊長の服だ。そのナバルの着ていた用心棒の服は、壁にあるハンガーに掛かっていた。その隣に並んで掛けられているのは、メイベルが着ていたはずの売り子の衣装だ。
「これは夢……かしら?」
まだぼうっとする頭で、メイベルは今の状況を考えようとする。
メイベルはベッドに寝ていた。窓辺ではナバルがイスで眠っている。
そのナバルが寝るはずだったと思われるベッドは、部屋の入り口の前に立っていた。そのまま倒せば、ドアを塞ぐ位置にある。
「……って、ここはどこよ!?」
急にハッキリと目覚めたメイベルが、ガバッと起き上がった。すぐに掛け布団をはいで自分の恰好を見ると寝巻き姿だ。だが、着替えた記憶はない。
ベッドから出たメイベルが、ナバルのいる窓に駆け寄った。
水平線が見えた。今日は青空で、白い綿雲が点々と浮かんでいる。視線を近くへ移すと、そこには白い砂浜が見えた。右側には岬があり、左には漁港がある。
砂浜の手前に高潮を防ぐための石造りの堤防が見える。と言っても高さは1mぐらいだ。堤防に肘を突いて世間話をしている人が見える。その堤防の内側には道があり、そして建物が並んでいる。メイベルのいる建物からはそんな光景を見下ろしているので、建物は高台にあると思われる。
「あ、メイベル。やっと目覚めたか」
イスに座っていたナバルがうっすらと目を開け、大きなあくびをする。そのナバルの肩をがっしりと摑んで、
「ここはどこなの? って言うか、わたしたち、あれからどうなったの?」
と、メイベルが真剣な顔で聞いてきた。そこに、
「おはようございます。あ、聖女さま、お目覚めになりましたのね」
と言って、青い修道服を着た女性が1人分の食事を持って部屋に入ってきた。
「うわぁ〜っ!! ナバル、これ、どういうことなの!?」
修道服を見たメイベルが、たちまちパニックを起こした。ナバルにしがみつき、必死に目を閉じて修道服を見ないようにしている。いつの間にか教会に捕まり、軟禁状態にあると思ったのだ。
「落ち着け、メイベル。今のところ何かされるとは思えん」
ナバルが優しくメイベルの背中を叩いてきた。そんな2人を見ながら、
「そうですわ。もうしばらくゆっくりとご静養ください」
と言いながら、修道女が部屋にある小さなテーブルに、持ってきた食事を置く。
その女性がメイベルに身体を向け、その場で静かにひざまずいた。そして胸の前で軽く両手を握り合わせて、
「聖女さま。わたしはミュコス教会の正修道女、カミーラと申します」
と話しかけてきた。そして、
「聖女さまたちは先々日の朝、浜辺で倒れているところを漁師に発見されました。何があったのかは存じませんが、一大事と思い、当教会で保護した次第でございます」
と、これまでの経緯を手短に伝えてくる。
「浜辺で倒れて? 打ち上げられたの?」
「岸まではたどり着いたよ。メイベルは泳いでる途中で気を失っちまったけどな」
しがみついているメイベルを引きはがして、ナバルが疑問に答えた。
「だけど、着いたのは夜中で暗かったし、メイベルを担いで砂の乾いたところまで上がったあたりまでは覚えているんだが……。どうもそこで俺も、不覚にも気を失ったようだ」
「お医者さまのお話では、水に体温を奪われて、意識を失われたそうですわ。今の季節は水は冷たくなくても、半日も保たずに意識を失うそうです」
「で、メイベルはそのまま、丸々2日も寝てたんだぞ」
「ふ、2日も!?」
2人の話に、メイベルが茫然とした顔で固まった。そのメイベルが、
「ところで、ミュコスって聞いたことのない名前だけど、どのあたりなの?」
と、質問を続ける。
「はい、聖女さま。ここはアテル川の河口にある、小さな漁村でございます。東アルテースの首都サンルミネから、川を16kmほど下ったところですわ」
「16km!? わたしたち、そんなに流されてきたんだ……」
流された距離を聞いて、メイベルが更に茫然とした顔になった。
「あ、そんなことより……」
いきなりぶんぶんと首を振ったメイベルが、警戒した顔で目の前の修道女を睨む。
「わたしたちのこと、もう帝都に報告したの?」
メイベルがもっとも気がかりなことを尋ねた。それに修道女が、
「いえ、どこにも報告しておりません、それにお医者さまやお2人を見つけた漁師、それから教会まで運んでくださった村の人たちにも、このことの口止めをお願いしてます」
と、落ち着いた声で答えてくる。
「口止め!? どうして?」
「聖女さまが帝都を追われ、手配書がまわっていることも存じております。ですが、それは中央教会がしていることで、わたしたち南方教会では与り知らぬことでございます」
「南方って……。あ……」
不意にメイベルの身体から緊張が抜けた。
「メイベル。どういうことだ?」
「ソルティス教会ってね。帝国をまとめる1つの宗教とは言われてるけど、実際には聖サクラス教会を中核とする中央教会の他に、北方教会、南方教会、西方教会の4つの宗派があるのよ。で、その中でも南方教会が、もっとも独立心が強いんだけど……」
そこまで説明したところで、メイベルが言葉を止める。それに代わるように、
「どのような理由で聖女さま方が追われてるのかは存じませんが、南方教会では聖女さまに危害を加える意思はございません。聖女さま方は帝国をドラゴン病の危機から救ってくださった大恩人ですもの。全力で支援させていただきます」
と、修道女が話してきた。
「なあ、メイベル。その話は信じてもいいのか? っていうか、この人は味方なのか?」
話を聞いていたナバルが、メイベルに判断を求めてきた。その言葉に、
「あ、そういうことね……」
メイベルはドアの前に、どうしてベッドが立っているのか、その理由がわかった。
ナバルは修道女の言葉の真偽を判断できず、何かあった時のための準備をしていたようだ。ドアの前のベッドは、踏み込まれた時の足留めのため。窓ぎわでナバルが座っていたイスは、窓から逃げる時の踏み台のためだ。
「信じていいと思うわ。もしも報告してたら、わたしが寝ている間に誰かが捕まえに来てるはずだもの。2日も寝てたわけだから……」
「ふむ。言われてみれば、そうだな」
メイベルの言葉に、ナバルが納得したようだ。
ドアの前に立てていたベッドを元の場所に戻し、メイベルはまったく気づかなかったのだが、ドアの横に仕掛けたトラップを解除している。それに修道女が、
「あのぅ、勇者さま。お食事にホコリがかぶってしまいましたけど……」
と、困った顔で持ってきた食事に手を伸ばした。その修道女に、
「あのさ。すっごく気になることを聞きたいんだけど……」
と、真剣な顔になったメイベルが小声で話しかけてくる。
「わたしたち、見つかった時、どんな恰好してたのかな? というか……」
そこまで言いかけて、メイベルがごくんと喉を鳴らした。
「まさか、すっごく恥ずかしい恰好だったんじゃ……」
「それは命が助かったんですもの、忘れられた方が良いと思いますわ」
修道女は肯定も否定もせず、メイベルの疑問をサラッと流した。
メイベルが気にかけているのは、漁師に見つかった時の恰好だ。川を泳いでいる時、メイベルとナバルは浮きにするために脱いだスカートとズボンを空気で膨らませて魔法の杖に巻きつけていた。その恰好のまま浜に倒れていたのだろうか。2人して下半身下着だけの姿で……。それを漁師が見つけたのは朝だから、当然、空は明るい。で、そのあと村の人たちに運ばれて……。
そう考えたメイベルが、恥ずかしさから顔を真っ赤にして固まってしまった。そのメイベルの様子を微笑みながら見ていた修道女が、
「それでは、こちらは一度お下げして、聖女さまの分と合わせてお持ちし直しますわ」
と断って、下げた食事を持って部屋から出ていくのだった。
それからしばらく間を置いて、ようやくメイベルが我に返った。そのメイベルが、
「ナバル。わたしたちが南へ逃げたのは、これから冬になるためだったけど、別の意味でも正解だったみたいね」
と、気分を誤魔化すように、部屋を元通りに直しているナバルに話しかけた。
「でもさ、わたしたちが勇者と聖女って、あの人、どうやって気づいたのかしら? 服だってナバルが用心棒で、わたしが売り子でしょ。ナバル、あの人に教えたの?」
「そんなわけないだろ」
少し斜めになっていたベッドの角度を直しながら、ナバルが否定してきた。
「俺の剣とメイベルの杖だよ。旅立ちの儀の時、紋章が身分証になるって言われただろ。紋章の下に小さく名前が刻まれてたから、すぐにわかったんだよ」
「……えっ!? そう……だったの?」
目を真ん丸にしたメイベルが、壁に掛けられた売り子の服に目を向けた。そして、その下に立て掛けられた魔法の杖を手に取って、紋章のところをジッと見詰める。
「ゔ……。本当だわ……」
「おいおい。気づいてなかったのかよ」
苦笑したナバルが、位置を整えたベッドに腰かけた。
一方でメイベルは、いまだ真ん丸になった目で紋章を見詰めている。その紋章の下の方に、小さな装飾文字で『メイベル・ヴァイス』とフルネームが刻まれていた。
「お待たせしました。お食事をお持ちしました」
そこに先ほどの修道女が、新しい食事を持って戻ってきた。用意されたのはパンとスープと簡単な野菜炒めである。そして一緒に部屋に入ってきた黒い服の見習い修道女が、
「聖女さま。お召し替えの服と背負いカバンでございます」
と言って、青い修道服とショートブーツ、それと布カバンを持ってきた。
「正修道女の服!?」
「はい。聖女さまには失礼と思いましたが、正修道女の服をご用意いたしました」
そう答えてきたのは、食事を持ってきた青い服の修道女だ。
「この服はどこかの教会に寄らなければ手に入りません。それに正修道女が旅をしているのは珍しくありませんから、手配書の特徴に似ていると思われても、かなりの目隠しになると思います」
「いただいても良いのですか?」
「どうぞ、お受け取りください。全力で支援するとは言いましたけど、わたしたちにできる支援というと、このぐらいしか……」
「いえ、これは心強いわ。ありがたくちょうだいします」
修道服を両手で持ったメイベルが、それを高く上げてお礼を言う。
「ナバル。食事を摂ったら、早くサンルミネへ行きましょう。女将さんたち、ひょっとしたら待っててくれてるかもしれないわ」
服をベッドに置き直して、メイベルが食事に手を伸ばした。その言葉に、
「え? もう出られるのですか? もう少し休まれた方が……」
と、青い服の修道女が驚きの声を上げる。
「わたしたちの逃走を手助けして、ここまで一緒に旅をしてくれた人たちがいるんです。その人たち、わたしたちが急にいなくなったので、きっと心配してくれてると思うんですよ。だから、早く追いかけたいんです」
「なるほど。そういう方がいらっしゃったのですか」
メイベルの答えに、修道女が軽く微笑んだ。
「わかりました。それでは、あとで路銀をお持ちしますわ。数日分の宿泊費にしかなりませんが、是非ともお納めください」
「いろいろとお世話になります」
修道女にお礼を述べて、メイベルがほっと息を吐く。そのメイベルに微笑みかけながら、
「でも、少し残念ですわ。もう少し早くお目覚めになられてたら、今日はサンルミネに買い出しへ行く馬車がありましたので、お乗りになれましたのに」
と修道女が言ってきた。その言葉に、メイベルが「あらら」と苦笑いする。
「過ぎたことは今さら言っても仕方ないわ。早く食べて出かけましょう」
そう言ったメイベルが、スープをゆっくりと口に運ぶ。
「俺は先に礼拝堂で待ってるぞ」
すでにナバルは食事を終え、布カバンに用心棒の服と売り子の服を詰め込んでいた。そしてその布カバンを左肩に担ぐと、さっさと部屋から出ていってしまった。
「勇者さまはせっかちでいらっしゃるのかしら?」
「気難しそうな人でしたねぇ」
見送る修道女たちが、そんなことを言いながら肩をすくめている。それにメイベルが、
「わたしが着替えるからですよ」
と断ると、2人そろって納得したように手をポンと叩いた。
その2人の前で、メイベルはパンを口いっぱいに頬張っていた。
それと同じ頃、サンルミネの教会では、
「パセラ。せっかくですから、もう1日ぐらい泊まってはいかがですか。特命の有効期間は8日間でしょう?」
帝都へ戻ろうとするクラウとパセラを、赤い服を着た老修道女が見送りに出ていた。
すでに2人の乗ってきた白馬が用意され、クラウがその馬の首を優しくなでている。
「修道長アンシャン。お気持ちはうれしいのですけど、わたしは早く帰って、次の有力な情報を見つけたいんですぅ」
「そうですか。それでは仕方ありません。気をつけて帰りなさい」
「はい。修道長アンシャンもお元気でいてください」
2人が両手で手を取り合い、出発前のお別れをする。
「さあ、パセラちゃん。帰りますよ」
先に馬に乗っていたクラウが、そう言ってパセラを引き上げた。
「それでは修道長アンシャン。お元気で」
「パセラも病気をしないように気をつけるのですよ」
歩き出す馬の上で、パセラが大きく手を振る。そのパセラを見送る老修道女も、しばらく手を振り返したあと、静かに教会の中へ入っていった。
「パセラちゃん。名残惜しいですか?」
「そうですねぇ。それはもちろんです」
老修道女が教会の中へ消えたのを見て、パセラが視線を前に戻す。
「それにしても、たくさんのお店が出てますねぇ」
もう少しサンルミネの余韻に浸りたいのか、パセラが教会前広場を大きく見まわした。
広場にはたくさんの出店が並び、品物を運んできた馬車がそこら中に駐まっている。
「……あれ!?」
パセラがお店を見まわしていた時、いきなりクラウが馬を止めてきた。
「クラウさん。どうしたのですかぁ?」
「右前方、1時の方向。騾馬のキャラバンがありますよ」
そう言ったクラウが、パセラに気になる隊商を指で示した。
「目撃されたピンクブロンドの売り子って、あのキャラバンの売り子だったのではないでしょうか。騾馬のキャラバンなら、移動が異常に速い理由を説明できますから」
「騾馬のキャラバンだと、移動が速いのですか? わたしはお馬さんの方が速いと思ってましたけど」
クラウの話が納得できないのか、パセラが不思議そうな顔で首を傾げた。
「パセラちゃん。それは走る速さですよ。たしかに走る速さなら馬の方が速いのですが、馬は長い時間走り続けられません。1日に移動できる距離で比べると、騾馬の方が遠くまで行けるのですよ。馬は……まあ条件によりますけど1日に3〜4時間しか走れませんが、騾馬は6時間でも平気で走りますからね」
「ああ、なるほど。そういうことですかぁ」
意味を理解したパセラは、知識の光を見たような爽快感を味わっていた。そのパセラを乗せた馬が、向きを変えて隊商のある方向へ歩き始める。
「騾馬はずんぐりして見栄えが悪いので、僕たち近衛騎兵が乗ることはありません。ですが正規軍の騎兵隊では実益を優先しますからね。馬よりも騾馬に乗りたがる騎兵の方が多いのですよ。まあ、騾馬は高価ですから、将軍にでもならないと乗れないのですけど」
そんなことを話しているうちに、馬は騾馬の牽く隊商に近づいていた。その荷台を覆う幌に書かれた文字を見て、
「メルカトル商会。南にあるメルキアの商人さんですか……」
と、パセラが小さな声で呟いた。
その幌の前で、メルカトル夫人が商品を並べていた。すでに数人の客が品物を見ているが、今はまだ開店前の準備中という感じだ。
「すみません、馬上から失礼します。こちらのキャラバンに、ピンクブロンドの売り子さんはいらっしゃいますでしょうか?」
馬を止めたクラウが、商品を並べるメルカトル夫人に声をかけた。
「おや、近衛騎兵隊の隊長さんかい。後ろにいるのは正修道女のお嬢ちゃんだね」
顔を上げた夫人が、まず2人の服装を確認する。
「帝都の近衛隊長さんがサンルミネまで来るなんて。誰か人捜しかい?」
「はい。ピンクブロンドの売り子を捜してます。その人が僕たちの捜してる相手か、顔を見て確かめるために来ました」
「おやおや。それはご苦労さんだねぇ」
2人を見上げる夫人が、まるで何事もないような顔でそんなことを言う。
「それで、こちらにピンクブロンドの売り子さんは?」
「申し訳ないが、うちのキャラバンには、そういう娘はいないよ」
クラウの問いかけに、夫人がハッキリした口調で答えた。それを聞いたクラウが、無言のまま並んでいる馬車を見渡す。
「こちらのキャラバンは、ここにある5台ですか?」
「今、もう1台が港へ行ってるよ。それがどうしたい?」
「いえ、特に意味は……。お仕事の途中、高いところから失礼しました」
そう断りを入れたクラウが、夫人に会釈した。それに倣って、パセラも黙ったまま夫人に会釈する。
「それでは行きますよ。パセラちゃん」
そう声をかけて、クラウが馬を進ませた。それで立ち去っていく2人を、メルカトル夫人が神妙な顔で見送っている。
「母ちゃん。今の?」
「ああ。たぶん、メイベルちゃんと隊長さんの追っ手……だろうね」
荷台から顔を出してきたアダモに、夫人が不愉快そうな表情で言葉を返した。
「帝都を守る近衛騎兵隊の隊長さんが、わざわざこんなところまで追ってくるとは……。これはよほど深い事情がありそうだねぇ」
ジッと2人の背中を見ながら、夫人がそんな言葉を零した。その夫人がパセラの左腕にある袖章に金縁があるのに気づく。
「ほう。一緒にいた若い正修道女さん、何をする人かまではわからないけど、あの金縁の袖章は宮廷に仕える人だよ。こりゃあ、相当な訳ありだねぇ」
夫人が裏事情を推理して、口許をニヤリとゆるませた。
「う〜ん。あたしゃ、この状況に俄然燃えてきたよ。2人を亡き者にしようとする政治的な陰謀。命じられて2人を追いかける若きエリートたち。燃える。これは最高に燃える舞台設定じゃないか!!」
「か、母ちゃん……」
夫人が勝手に想像を膨らませて、1人で盛り上がっている。そんな母親の姿に、アダモが「またか」という顔でポリポリと頬のあたりを指で掻いていた。
「だから、メイベルちゃん。無事でいるんだよ」
意味もなく青空に向かって両手を上げ、夫人は自分の世界に浸っていた。どこかにいるメイベルに呼びかけているつもりらしい。
「お兄ちゃん。お母さん、あっちの世界に行っちゃったね」
遅れて顔を出してきた妹のサフィアも、母親の姿に呆れ顔だ。そんな子供たちに気づかないまま、夫人はしばらくの間「燃える〜」を繰り返していた。
一方で、メルカトル商会の隊商をあとにした2人は、
「今のキャラバン。見たところ、子供が4人とあとは大人が男女合わせて10人か11人。その中にメイベルちゃんやナバルどころか、売り子らしい人物もいませんでしたね」
「クラウさん。あの短い時間に、よく見てたんですねぇ」
パセラが細かく観察していたクラウに、感心した顔をしている。
「あのね、パセラちゃん。きみは何も観察しなかったのですか? メイベルちゃんを捜そうと思ったら、真剣に手がかりを求めようと……ですね」
「はぁ、すみません。1台だけ幌の横にロープが架かってたのが気になってまして。あれだと洗濯物は干せませんから、何を吊るしてたのかと……」
「きみは面白いところを見てたんですね。まあ、何も観察してなかったわけではないので、それでも良しとしましょう」
そんなことを話してるうちに、2人は最初の水道橋をくぐって広場から出ていった。
「あれ!? そういえばクラウさん。わたしを呼ぶ時、いつもの友人Aくんではなかったですね。急にどうしたのですか?」
「いや〜、なんとなく……ですよ」
唐突にパセラが気にしたことに、クラウが口ごもった。その態度に、パセラがどうしたのだろうと首を傾げている。そのパセラに、
「あまり気にしないでください」
と言ってきたクラウが、少しだけ馬を速足にした。
「パセラちゃん。水上貨物バスの切符が取れましたよ。出発は10分後です」
その日の昼すぎ、クラウとパセラはサンルミネに近い港で、帰りの船を待っていた。
来る時は海に出て沿岸を航行する外洋船だったが、帰りは内陸にある運河を通る水上貨物バスを使うようだ。
「クラウさん。あの馬車……」
馬のところに戻ってきたクラウに、パセラがそう言って離れた場所に駐まっている馬車を指差した。それは、
「メルカトル商会!? 教会前の広場で会った馬車の6台目ですか。そういえば1台だけ港へ行ってると言ってましたね。あれが……」
クラウが騾馬の牽く馬車を見て、朝のことを思い出していた。
馬車の馭台には執事風の衣装を着た年配の商人が座っている。そして若い売り子と幼い女の子が、馬車の横に降りて誰かを待つように港の建物を見ていた。
「誰かを待ってるのでしょうか?」
「さあ、どうなのでしょうね? それよりも荷物を待ってるのかも……」
パセラの疑問に、クラウがそんな言葉を返した。そのクラウが、
「とはいえ、6台の馬車すべてを2頭ずつの騾馬に牽かせるとは……。とてもただの旅商人とは思えませんね。あれはかなり豊かな商人ですよ」
と、隊商の特異な部分に気づいて興味を抱いている。だが、
「おっと、こんなことを考えてる余裕はありません。パセラちゃん、急いで船に乗りますよ。もう乗船手続きが始まってますからね」
クラウが大慌てで馬を引いて上流側の桟橋へ向かった。出発時間は船が港から離れる時間だ。それまでに馬を乗せ、クラウたちも席に着いていなくてはならない。
そのクラウを追って、パセラも桟橋へと急いだ。
やがて2人を乗せた水上貨物バスが、大型の水棲ドラゴン──ヒッポスドラゴンに牽かれて港から離れていった。その水上貨物バスは沖合いで船首をアテル川の上流へ向け、そのまま水平線に向かって小さくなっていく。
その2人が旅立った港では、今もルビノが乗客たちが出入りする建物を見詰めていた。
「聖修道女のお姉ちゃん。遅いの」
ルビノが小さな声でポツンと零した。ルビノは2人がどこかの船に拾われて、港に来るのをずっと待っているのだ。
「ねえ、カメリエラお姉ちゃん。あのお船に乗ってるかな?」
ルビノが下流から川を上ってくる大きな船を見つけた。煙突から白い煙を吐いている、船体を緑色に塗った貨物船だ。その船に目を向けたカメリエラが、
「乗ってなくても、せめて何か情報ぐらい……」
そう言いかけたところで、目を丸くした。
カメリエラの目は沖の船から、川沿いを伸びる道に移っていた。
「ルビノちゃん。あれ……」
そこまで言いかけたところで、カメリエラは言葉を続けられなかった。
川沿いの道を、誰かが歩いている。青い服を着た2人だ。
「お姉ちゃん。どうしたの?」
カメリエラが急に黙り込んだため、ルビノが不思議に思って顔を見上げた。
カメリエラは川沿いの道を中途半端に指差したまま固まっていた。よほど驚きが大きかったのか、口が半分開いた状態だ。
その様子に何があったのだろうとルビノが首を傾げる。だが、カメリエラの視線を追ったルビノの顔が、すぐに笑顔へと変わっていく。
その2人の視線の先にいたのは、
「ナバル。港が見えてきたわ。あれ、サンルミネの港かしら?」
「さあな。まあ、着いてみりゃわかるだろ」
ミュコスからずっと川沿いを歩いてきたメイベルとナバルの姿だった。
2人は正修道女と近衛小隊長の服を着ていた。救世の旅をした頃の見慣れた恰好だ。あの当時と違うのは、背中に大荷物を背負っていないこと。メイベルは魔法の杖を持っているだけで、荷物らしい荷物はナバルが左肩に掛けている布カバンだけだ。その中身は着替える前の2人の服と路銀である。
「たしかミュコスから16km上流よね。だから、そろそろ……」
「メイベル。あそこに駐まってる馬車……」
メイベルの言葉をさえぎって、ナバルが港前の広場を指差した。そこには何台もの馬車が駐められている。その中に、
「メルカトル商会って、女将さんたちの馬車だわ」
2人は見知った幌のある馬車を見つけた。
「誰か、駆けてくるぞ」
「ルビノちゃんだわ!」
たどたどしい足取りでルビノが駆けてくる。その姿を見つけた途端、メイベルも港に向かって駆け出していた。
「メイベルちゃん!? 無事でしたの?」
ルビノの後ろをカメリエラも駆けてきていた。そして、
「お姉ちゃん! やっと会えたぁ〜!!」
と言って、ルビノが涙を流しながら抱きついてきた。
「ルビノちゃん。走って大丈夫なの?」
「お姉ちゃん。黙っていなくなっちゃ、ヤなの!」
ルビノは問いかけには答えず、メイベルの腕を力いっぱい握ってきた。そのルビノに代わって、
「ルビノちゃん、すっかり元気になりましたわ。お医者さまが仰るには、もう病気のあとはないそうですの」
と、カメリエラが息を弾ませながら答えてくる。
「じゃあ、ルビノちゃん!? 元気になったの?」
優しくルビノを抱きかかえながら、メイベルが確かめるように聞き返してきた。
「ですから、ここに来てるのですわ。でなかったら女将さん、心配で目の届かないところに行かせてくれませんわ」
「あぁ……。そう言われてみれば、そうですね」
ようやくメイベルの表情に笑みが浮かんだ。
そこにゆっくりと歩いてきたナバルが追いついてくる。
「ナバルくんも、よくご無事でいらっしゃいましたわ」
「ずっと下まで流されたから、戻ってくるまで2日もかかちまったよ」
「2日って……、どこまで流されてましたの?」
ナバルの言葉に、カメリエラが一瞬考えてしまった。だが、それが冗談と気づくと、
「メイベルちゃん。その服、どうされましたの?」
気になっていた2人の服装について尋ねた。
「下流の教会でいただいたんですよ」
「教会で? あれ!? お2人は教会に追われてたんじゃ……?」
メイベルの答えに、カメリエラが知識の衝突を起こした。
「教会の中には、わたしたちの味方になってくれるところがあるそうです。さすがに、どの教会が味方なのかわかりませんけど、南方教会が味方と知れたのは心強いですよ」
「まあ、そうでしたか。南方教会が味方になるのでしたら……」
メイベルの話に、カメリエラが途中まで何かを言いかけた。だが、その先を呑み込むと、
「それよりも、早く教会前の広場へ急ぎましょう。女将さんたちも心配して、ずっと待ってますのよ」
と言って、2人の背中を押してきた。
「そうですね。ルビノちゃん。帰ろうか」
急かされるメイベルが、抱きついているルビノに手を差し伸べた。その手を両手で握り返してきたルビノが、
「うん。帰るの」
と、目に涙を浮かべながら明るく微笑み返してきた。




