第4巻:第3章 自分にできること
まだ日中は暖かいが、街を行き交う人たちの装いはすっかり秋物に替わっていた。
レンガ畳の広い通りに出された屋台には、季節の果物が並んでいる。リンゴ、ブドウ、ナシ、早熟のミカンにベリー類。すでに季節のすぎたモモはビン詰めされたものが置かれ、プルーンは乾燥物が積まれている。
そんな通りへ今、聖サクラス教会から1台の黒い馬車が走り出していった。
「おや、今の馬車は?」
「これはクラウ隊長。午前の見まわり、お疲れさまでした」
馬車と入れ替わるように、白馬に乗った近衛兵が教会に戻ってきた。帝都を守る近衛隊で、騎兵隊長を任されているクラウだ。
そのクラウを、守衛が敬礼して出迎えてくる。その守衛に、
「きみ、今の馬車にビーズマス卿が乗っていたようですが」
と声をかけながら、クラウが馬から下りた。そして通りに目を向けるクラウに、
「ああ、あれですか」
と言って、守衛も同じ方へ顔を向ける。
「西アルテースが政情不安定になってるとかで、いつまでも国家元首が帝都に留まってられないと、急いで帰られるそうですよ」
「政情不安ですか。自業自得とは言え、50万もの軍を失ったのですから……」
守衛の言葉に、クラウがそう言って嘆息した。そして、
「独断専行や大軍をこっそり持っていたことも問題ですけど……。今は西アルテースの国民たちが50万もの軍を失った事件を知って、すっかりヒステリー状態ですからねぇ。はたしてビーズマス卿の帰国で、どんなことになるのか……」
と零したクラウが、馬を引いて馬小屋へ向かおうとする。
「クラウ隊長。今日もこのあと、レジーナさまのところへ行かれるのですか?」
「そのつもりです。ニセくじ事件から今日で10日目。メイベルちゃんの足取りが気になりますからね」
守衛に声をかけられたクラウが、軽く立ち止まって振り返る。
「ニセくじと手配書の犯人は、やっぱりあの人ですか?」
「本人は否定してますが、他に考えられませんからねぇ。まあ、肯定したとしても、公爵さまには貴族特権と議員特権があるためにお咎めなしですから、メイベルちゃん、とんでもない人から逆怨みされたものですよ」
そう答えたクラウが、馬を引いて歩き始めた。そのクラウを見送る守衛が、
「まったく難儀なことで」
と呟いて大げさに肩をすくめる。そして軽く通りを眺めてから、門の横にある守衛所へと入っていった。
さて、帝都で小さな動きがあった頃、メイベルは、
「これは痛み止めになります。それと、こっちはお通じにいい薬草で……」
大量に集めた薬草を、立ち寄った街にある薬問屋を兼ねた薬屋に持ち込んでいるところだった。
メイベルを店に案内したカメリエラは、化粧品売り場で薬剤師の女性と楽しそうに世間話している。どうやらここは馴染みの店なのだろう。
この薬問屋の売り場では薬品だけではなく、片手間で化粧品も扱っている。薬品の一部が化粧品としても使われるため、このような組み合わせができたようだ。
雑談するカメリエラを店先に残して、メイベルは奥の部屋で薬草を売り込んでいた。
「ふむ。これはよく集めてきましたね。しかも、きちんと乾燥させてあるようだ」
商談相手は薬問屋の若旦那だった。若旦那は長身で物腰の柔らかそうな印象のある人物だ。その若旦那が身体以上に大きく見える手で、薬草に触れて品定めしている。
「しっかり乾燥させないと、重量を容赦なく2掛けされちゃうんですよね。だから、ちゃんと乾かしてきたんですけど、薬草の成分が壊れないように夜中に陰干しするから、水気が抜けるまで5日もかかりましたよ」
「はっはっはっ。5日で乾けば早い方ですよ。まあ、今の季節は空気が乾いてますから、きちんと風に当ててやれば早く乾くものですけど」
そう言いながら若旦那が茎を指でなぞったり、葉の裏をめくったりしながら品質に問題がないかをじっくりと調べている。
「間違いなく陰干しされてますね。この薬草は日に当てて乾かすと、茎のところに白い斑点が出てくるのです。なので少しでも日に当たれば一目瞭然ですよ」
「へぇ〜、そうなんですか。でも斑点って、変質するのですか?」
「まさにその通りです。この草は日に当たると茎から汁を出す性質があるのですよ。その汁が薬になるのですけど、それが日に当たると白く変質して壊れてしまうのです。なので、斑点があったら、もう薬としての価値はないのです」
そんな話をしながら、若旦那が薬草を1本ずつ確かめている。
「カメリエラ嬢の紹介ですから、少し査定を甘くしようと思ったのですが……。あなた、薬草の扱い方を良く心得てますね。なかなか良いものを取りそろえてますよ」
査定を終えた若旦那の口から、そんなお誉めの言葉が出てきた。
「痛み止めは品薄でしたので助かります。それから咳止めはこれから寒くなるにつれて需要が増しますから、これらは高く買い取りましょう。そうですね……。こんなところでいかがですか?」
若旦那が紙に数字を並べ、そして合計額をメイベルに見せてきた。
「やった、それでいいわ。ホントに咳止めは、いいお金になるんですね」
「それはもちろん欲しい人は多いのに、入ってくる数が少ないのですから当然です。それにしても、あなた。よくこんなに集めてきましたね。この咳止めの薬草は、なかなか見つからないと聞いてますよ」
「えへへ。だいたい生えそうな場所の目星は付きますから……」
そう言ってペロッと舌を出したメイベルの前に、薬草の代金が置かれた。その数をかぞえたメイベルが、
「それで、こっちに分けた薬草は?」
と、まだ取り引き楽の決まってない薬草を指差す。
「すみません。そちらはわたしの知らない薬草です。わたしの勉強不足で大変に申し訳ないのですが、お引き取りできないのです」
「知らないって、これが炎症のお薬になって、こっちは胃腸のお薬になるのですが……」
「そう説明されましても、薬は人の健康に関わるものですから、店としては保証できるものだけを扱いたいのですよ。商売は信用が第一ですからね。あなた、お店の人が『知らない薬だけど効くらしい』と出してくれた薬を飲めますか?」
「それは……、遠慮したいですね」
若旦那の説明を納得して、メイベルが苦笑いする。そこにカメリエラが、
「メイベルちゃん。そろそろ終わった頃かしら?」
と言って、部屋を覗きにやって来た。
「大変に良い買い物をさせていただきましたよ」
先に答えたのは若旦那だった。若旦那は買い上げた薬草を大きな紙に包んでいる。
「そういえば……」
薬草をまとめた若旦那の手が止まり、視線がメイベルに向かった。その若旦那が、
「あなた、見事なピンクブロンドをしてますね」
と、メイベルに言ってくる。
「ピンクブロンドで何かあったような記憶があるのですが……。何でしたかねぇ?」
「えっ!?」
若旦那の言葉に、メイベルが一瞬慌てた。だが、
「う〜ん。思い出せないってことは、そんなに重要なことではないのでしょう」
と零して、若旦那が自己完結させてしまった。それにメイベルがホッと安堵している。
その前で若旦那が紙包みを抱えて立ち上がり、
「そうそう。せっかくですから、2人に良い物をあげましょう。少し待っててください」
と言ってきた。その若旦那が紙包みを持って売り場へ出ていった。そこで薬剤師の女性に紙包みを渡し、奥の部屋から顔を出してきた2人に、
「これは試供品ですが、よかったら使ってください」
と言って、紙に巻かれた棒状のものを手渡してきた。
「これは何ですの?」
「リップクリームですよ。普通は軟膏をくちびるに塗るのですが、子供のお絵描きに使うクレヨンにヒントを得ましてね。固めて棒状にしてみたのです。このあたりでは秋の今ごろは乾燥しますからね。くちびるの乾燥が気になる女性に売れると思うのですが」
試供品を物珍しそうに見るカメリエラに、若旦那が自慢するように説明する。
「それで、これはどうやって使いますの?」
「紙を少し破って、むき出たところをくちびるに塗ってください」
「紙を破って……。あ、これは便利ですわ。指が汚れませんもの」
さっそく言われたように使ってみたカメリエラが、その便利さに歓喜の声を上げた。
軟膏だと指で薬を伸ばすために指先が汚れるが、これにはそれがないのだ。
「先が減ったら、また紙を少し破れば使えます。便利でしょう」
「本当に便利ですわ。こういう口紅も欲しいですわね」
「おおっ! カメリエラ嬢、その案、いただきますっ!!」
カメリエラの何げない一言に、若旦那が声を弾ませた。
「若さま。どちらへ?」
「開発に決まってるじゃありませんか。新製品ですよ。新製品!」
アイデアを得た若旦那が、すぐさま売り場の隣にある調剤室に飛び込んでいった。そこで新製品を開発するのだろう。新製品のアイデアが、商売人の魂に火をつけたようである。
「すみません。若さまはアイデアが出ると、もう寝食まで忘れてしまうもので……」
売り場に残された薬剤師が、そう言って放置された2人に謝ってきた。
もっとも、メイベルの方は開発に興味があるのか、ガラス越しに見える調剤室を熱心に覗き込んでいる。だが、
「メイベルちゃん。あまり長居するのも失礼ですから、帰りましょう」
とカメリエラにうながされると、渋々店をあとにするのだった。
「あ、思い出しました。ピンクブロンドって……」
2人が店から出てすぐ、若旦那が調剤室から顔を出してきた。
「あれ!? カメリエラ嬢と、もう1人のお嬢ちゃんは?」
「もう帰りましたけど」
店内を見まわす若旦那の疑問に、薬剤師の女性が首を傾げながら答える。
「若さま。どうかされたのですか?」
「さっきのピンクブロンドのお嬢ちゃんですよ。ほら、そこにある手配書にある、救世の旅をした聖女さまですよ。カメリエラ嬢も『メイベルちゃん』って呼んでいたでしょう」
「あ、まったく気づきませんでした」
店のすみにある掲示板に、手配書が貼られていた。それはメイベルとナバルを賞金首とする手配書だった。
「通報しますか?」
「それは、やめておきましょう」
薬剤師の確認に、若旦那が首を振って答える。
「何があったのかは知りませんけど、あのお嬢ちゃんはドラゴン病から帝国を救ったのでしょう。恩を仇で返すわけにはいきませんよ」
そう言って、若旦那が軽く息を吐いた。そして、
「失敗しましたね。あの薬草は、逃げるための路銀稼ぎでしょう。もっと早く気づいていたら、もっと高く買い取ってあげられたのに……」
と残念そうに零しながら、また開発に戻るのだった。
そのメイベルたちであるが、
「今日中にアテル川手前のリバポットの港まで行くよ。そうすりゃ明日には川を渡って、東アルテースの王都サンルミネに入れるからね」
立ち寄った街を出た隊商は、そこから海岸に沿って南に向かう街道を驀進していた。
「リディア。このぐらいの速さなら、次の街まで騾馬が保つと思うか?」
「このぐらいなら、なんとかなるんじゃないかい」
馬車は速足ぐらいの速度で進んでいた。
「ルビノちゃん。ラトゥース大洋は大きいわね」
「あは、広いの……」
馭台の後ろに座るメイベルとルビノが、幌から顔を出して外を見ていた。
石畳を敷き詰めた街道は丘陵の上を通っている。そこから左に見える海に向かう斜面には草地が広がり、やがて草が切れて真っ白な砂浜へと続いていた。
「ルビノちゃん、反対側を見て。松林が切れたわ。こっちの水田も広いわね」
「わぁ、青いの……」
街道の反対側は松林だった。時々林が切れると、その先には一面青々とした水田が広がっている。このあたりの水田では2期作が行われているため、まだ2期目の刈り入れまで1か月以上あるのだ。
「それにしても、このあたりではこの時季は空気が乾いてるって本当なのね」
「そこの草むらに降りて横になるんだったら、今の季節は空気が乾いてて気持ちいいよ。でも、馬車に乗って風を受けるのは、ちょっと身体に悪いかねぇ。ほら、ルビノ。ちょっとお茶飲んどきな」
そう言ったメルカトル夫人が保温ポットから小さなカップにお茶を注いで、それをルビノに渡した。
「すぐそこに大きな海があって、反対側には広い水田……というか、帝国の中でも最大のアルテース大湿地帯。これだけ水に関係するものに囲まれてるのに、どうして空気が乾くのでしょうね?」
「あっはっはっ。あたしに聞いても答えなんか出やしないさ」
メイベルの疑問を、メルカトル夫人が豪快に笑って吹き飛ばしてきた。その後ろでは両手でカップを持ったルビノが、ちびちびとお茶を飲んでいる。
メイベルとルビノのいる馭台の後ろは、子供たちの勉強部屋になっていた。そこに置かれる机は4つ。隊商と一緒に旅をする子供たちは5人だが、ルビノを除く4人が就学年齢のため、ここで勉強しているのだ。
メイベルは移動の間、ここで子供たちに勉強を教えている。だが、今は休み時間。机に突っ伏して寝てる子もいれば、荷台の奥でクッションの上に寝転んでいる子もいる。
後ろを振り返ってそんな子供たちを見たメルカトル夫人が、
「みんな、明日にはサンルミネだよ。課題は間に合うのかい?」
と声をかけてきた。それに休んでいる子供たちから、
「大丈夫だよ。聖修道女のお姉ちゃん、教えるの上手だから……」
「あたしも大丈夫。あと社会が5ページだもの。今日中に終わるわ……」
「わたしも、たぶん終わります。メイベルさんの説明が脱線して、面白い話を延々と続けなければ……ですけど」
という言葉が返ってくる。
子供たちは隊商と一緒に旅をしてるため、通信教育で義務教育を受けていた。この通信教育はソルティス教会が運営するもので、学校へ通わない子供たちは教会を窓口として、そこで教科書と課題を受け取り、そして仕上げた課題を期日内に提出して添削指導を受ける仕組みができているのだ。
もちろん、この通信教育は、親と一緒に旅をして暮らす子供たちでも利用できる。その場合、子供たちは課題を提出する際に添削指導されたものをどこの教会で受け取るのか、それを指定できるのだ。
余談ながらこの隊商の子供たちは、帝都サクラスに寄った時に前の課題を提出していた。その添削指導は、次に寄るサンルミネで受け取るように手配していたのだ。
「メイベルちゃん。子供らの勉強見てもらって、助かるよ」
視線を子供たちからメイベルに移して、メルカトル夫人がお礼を言ってきた。
「あたしらじゃ、せいぜい語学と計算、それと社会しか教えられないからね。図形や理科を教えてもらえるのは本当に助かるよ」
「いえ、こちらも一緒に旅をさせてもらってますので」
メルカトル夫人の言葉に恐縮したメイベルが、かしこまった態度でそう答えてくる。
「子供らの勉強もそうだけど、一番お礼を言いたいのはルビノのことかねぇ」
「ルビノちゃんの?」
夫人の言葉を、メイベルがきょとんとした顔で聞き返した。
「なんか最近、調子良さそうじゃないかい。カメリエラから聞いたけどさ、あんた、ルビノの病気を料理で治そうとしてくれてるんだって?」
「ああ、そのことですか……」
夫人が何を言おうとしてきたのか。メイベルがようやく理解した。
「えっと……。もし、何か期待させてたようでしたら……すみません。以前、宮廷料理人の先輩が、ルビノちゃんの症状に似た病気を料理で治したという事実はあるのですけど、その時に先輩がどのような料理で治したのか、今もまださっぱり思い出せなくて……」
「あらあら……」
メルカトル夫人が、メイベルの言葉にそんな声を漏らした。
「なので、思い出すまでの間、お詫びの気持ちも兼ねてルビノちゃんにはできるだけ美味しく料理を食べてもらおうとしてるだけで……。取り敢えず指先が冷たかったので体温を上げる薬草と、体力を付けてもらおうと滋養強壮の薬草の2つを使ってますけど……」
「あっはっはっ、メイベルちゃん。あんまり気にしなくていいよ」
軽く笑い飛ばした夫人が、ふうっと息を吐いた。
「ルビノの病気は、一流のお医者さまもサジを投げたんだ。勝手に期待して裏切られたからって、それで恨むなんて筋違いさ。それに、あたしゃ、ルビノが楽しそうに笑ってるのを見てるだけで幸せだよ。あんたらと一緒に旅をするまではあきらめてたことだからさ」
そう言って、夫人がルビノの頭を優しくなでる。そこに手綱を握ってるメルカトル氏が、
「これはやっぱ、聖女さまの奇跡なんじゃねえのかな?」
と、会話に加わってきた。その言葉にメイベルが「奇跡って……」と、意外そうな表情を浮かべる。だが、そんなメイベルの気持ちには構わず、
「メイベルちゃんは聖修道女なんだろ。となりゃ当然、奇跡を起こす力を持ってるんじゃないか?」
と、メルカトル氏が手綱で騾馬を馭しながら言ってきた。
多くの人が聖女と聞いて思い浮かべるのは、神に選ばれて奇跡を起こす人物像だ。メルカトル氏はメイベルが聖女であることから、そういう力を期待したようである。
「わたしに奇跡を起こす力はないと思いますよ。不幸に巻き込まれることでしたら、自信がありますけど」
「不幸に巻き込まれるって……。イヤな聖女さまだな……」
メイベルの一言に、メルカトル氏が苦笑した。そのメルカトル氏が、
「奇跡じゃないってことは、美味い料理は人を元気にさせるってことなのかね?」
と言いながら騾馬の速度をゆるめる。道がゆるやかな下り坂になったため、安全のために速度を落としたのだ。
「俺の料理じゃルビノを元気にできなかったが、メイベルちゃんほどの料理の腕ならルビノを元気にできるってことか。こりゃ、もっと腕を磨かにゃいかんな」
「あのぅ、そんな解釈をされても困るんですけどぉ……」
メイベルが返す言葉に困った。謙遜の気持ちで困っているのではなく、メイベルとしては科学的に間違った解釈をされることの方が困るようだ。
そのメイベルの顔を、ルビノがジッと見上げている。ルビノの小さな手が持っているカップには、まだお茶が半分残っていた。
「そう言えば……」
そう零したメイベルの顔が、荷台の後ろの方へ向かった。
そこではナバルが荷台の囲い板に背中をもたれて、熱心に本を読んでいる。しかも投げ出した足の上には、尺の短いそろばんが置かれていた。
「女将さん。ナバル……」
「ああ、隊長さんかい。ただいま帳簿の猛勉強中さ」
後ろを指差すメイベルに、メルカトル夫人が笑顔でそう答えてきた。
「それは知ってますけど、ナバルが帳簿の勉強って、あまり似合わないような……」
「そうかい? あたしゃ、あの隊長さんには性格的に合ってると思うよ」
そう答えたメルカトル夫人が、ルビノから空になったカップを受け取った。
「ナバルの性格に合ってる? 生マジメな堅物だからですか?」
「あっはっはっ。実直で自分の役目に忠実で、その上で根気があると言ってやんなよ」
メイベルの言葉に、メルカトル夫人が苦笑を浮かべて訂正する。そして、
「昨日から帳簿付けを手伝ってもらってるんだけどさ。呑み込みが早くて教えがいがあるから、あたしも楽しませてもらってるよ」
「へぇ〜、ナバルが……」
そう零したメイベルの視線に気づいたのだろう。ナバルが少し顔を上げて、メイベルをチラッと見てくる。
それで目が合ったメイベルが、立ち上がってナバルに近づいていく。
「ナバル。帳簿のお勉強、ガンバってるんだって?」
「うん」
メイベルの質問に、ナバルが空返事した。そのナバルの横にメイベルが身体を向けて、ちょこんと座る。
「それって、面白い?」
「わかってくると、わりと……」
そう答えたナバルが、ぱらっとページをめくった。それから本に出てくる問題を解いているのだろう。ひざに載せた短いそろばんの珠を、指でパチパチと弾いている。
「そろばんを使うの? 女将さんは計算卓だったけど……」
「俺にはこっちの方が合ってる」
「えっと……」
会話の取っかかりが摑めなくて、メイベルが困った顔をしている。そのメイベルが、
「わたしも本、読もうかなぁ」
と零して、紙袋から分厚い本を出してきた。ナバルとメイベルの荷物は、荷台の後ろに置いていたのだ。メイベルが子供たちに勉強を教えている間も、ナバルはここで荷物番をしていたのである。
その荷物から出てきた本が気になったのか、ナバルがメイベルに顔を向けてきた。
「メイベル。その本……、まさか、さっきの街で買ったのか?」
「うん。そうよ」
そう答えたメイベルがニコッと微笑んで、表紙をナバルに向けるように持ち直した。
「『栄養学大事典』よ。ちょっと高かったんだけどね。今日、薬草がけっこう高く売れたから、奮発して買っちゃったの。前から読みたかったのよね、これ」
「おいおい……」
メイベルの話を聞いたナバルが、嘆くように言って額に手を当てる。
「女将さんの予想、大当たりだ」
「女将さんの予想!? それ、何なの?」
「メイベルは頭がいいから、知恵を使ってお金を稼ぐことができる。だけど、それでいつでも稼げると思って、ついつい無駄遣いするってさ。それで下手すりゃ借金地獄だ」
「ゔ……。借金地獄になるほど、わたしは無節操じゃないと思うけど……」
そう言いかけたメイベルが、頬を膨らませて気まずそうな顔に変わっていく。そんなメイベルの表情の変化に、ナバルが怪訝そうな顔をした。
「メイベル。1つ質問するぞ。今日買った本の値段と、薬草売って手に入った金。どっちが大きい?」
「あぅ……。それは……」
ナバルの質問に、メイベルはすぐに答えられなかった。ナバルからはずれた視線が本に向かい、次に不自然に宙を游ぎ始める。
「なるほど、本の方が高いか」
「でもさ、今日はたまたまそうだけど、これまでに売った薬草の分で考えたら……」
ナバルの一言に、メイベルが慌てて自己弁護を始めた。それに、
「ホントに女将さんの予想通り、無節操な無駄遣いしやがって」
と、ナバルが呆れた声で零した。それに顔を真っ赤にしたメイベルが、
「む、無節操じゃないもん。ちゃんと手持ちのお金ぐらいはわかってるもん」
と言って、すねて更に大きく頬を膨らませる。
とはいえ、メイベルはあまりお金の使い方には慣れてなかった。宮廷料理人として材料の買い出しへ出かけることはあっても、修道院暮らしのために自分の自由になるお金を持った経験がほとんどなかったからだ。
「ったく、女将さんが言った通り、いつも一緒にいる誰かが金の出入りを見てないと、そのうちホントに金に困ることになるぞ」
「いつも、一緒にいる誰か?」
ナバルのぼやきを聞いたメイベルの表情がコロッと変わった。
「あ、ひょっとしてナバル、それで帳簿のお勉強を始めたの? わたしのために!」
「興味が湧いたから覚えてみようと思っただけだ。っつか、最後の『わたしのため』は、どこから出てきた台詞だ!?」
急に瞳を輝かせてきたメイベルに、ナバルがツッコみ返した。それで余計なことを口走ったと気づいたメイベルが、「あはは」と笑って誤魔化そうとする。そんなメイベルの顔をジ〜ッと見詰めるナバルが、
「こりゃ、今日にでも俺たちの帳簿を付け始めた方がいいかもな」
と、帳簿管理の必要性を強く痛感した。
「あはは。笑ったら、くちびるのかさかさが気になってきたわ」
ようやく乾いた笑いをやめたメイベルが、指で下くちびるをなぞった。その指に乾いてざらざらした感触が伝わってくる。そのくちびるを手入れしようと、メイベルがポケットから棒状のリップクリームを出してきた。
「メイベル。それは何だ?」
くちびるにクリームを塗るメイベルを見たナバルが、少し好奇心混じりに聞いてきた。
「リップクリームよ」
「まさか、それも買ったのか?」
「試供品よ、試供品。さっきの街で薬問屋さんにもらったの。軟膏みたいに指で伸ばさないで、くちびるに直接塗れるのが便利なのよ」
「ふ〜ん。そういうものなのか?」
リップクリームを塗るメイベルを、ナバルが興味深そうに見ている。そのナバルに、
「ナバルも使う? くちびる、荒れてるわよ」
と言って、メイベルがニコッと微笑んだ。
「そうか? 俺は気にしないけどな」
「わたしは気になるわ。塗ってあげましょうか?」
イタズラっぽく言ったメイベルが、ナバルの口にリップクリームを塗ろうとする。
「いいよ。顔に何か塗るなんて、男がするもんじゃないだろ」
「これは化粧じゃないわ。ただの身だしなみじゃないの」
「そういうもの……なのか?」
リップクリームを押しつけようとするメイベルに、ナバルが考えながら聞いてみる。
「だから、塗りましょ♪」
「おい。メイベル……」
ナバルがうっとうしそうな目をリップクリームに向ける。だが、
「わかった。わかった」
と言って、メイベルの主張に押し負けてしまった。
「わかったけど、自分で塗るから貸せ!つ」
溜め息を吐いたナバルが、メイベルの手からリップクリームを取った。
「こうやって塗ればいいのか?」
「そうそう。くちびる全体に伸ばすようにね。それで、最後に上と下のくちびるをすり合わせるようにするの」
ちょっと残念そうな顔をしながら、メイベルが塗り方を教える。それで教えられた通りにクリームを塗ったナバルが、くちびるの上と下を合わせてクリームを伸ばそうとした。その時のナバルの表情を見て、メイベルが噴き出しそうになる。
「なんか、変な感じだな」
「男の人は塗り慣れてないからよ。すぐに慣れ……」
そこまで言いかけたメイベルの表情が、急に硬くなった。
「なんか気持ち悪いな。やっぱ男の塗るもんじゃないよ」
くちびるから感じる違和感に、ナバルが不快そうな顔をしている。そのナバルを見ているメイベルの頬が、少しずつ赤く染まっていった。そのメイベルの手に、
「ほれ、返す。ありがとよ」
と言って、ナバルがリップクリームを返してきた。
(こ、これって……)
リップクリームを手にするメイベルは、相変わらず固まっていた。その理由は、
(うわぁ〜……。これ、間接キス……よね……)
という状況に気づいたからだ。このことをメイベルは、渡す時には素で何も気づいてなかったのだ。
(ナバルは気づいて……ないのかしら?)
クリームを塗ったナバルは、帳簿の勉強に戻っていた。広げた本を見ながら、パチパチとそろばんの珠を弾いている。そんなナバルを見るメイベルが、
(ああ〜。ムショーに腹が立つというか悔しいというか残念というか……)
1人悶々として懊悩し始めた。だが、
(でも……)
リップクリームの先を見るメイベルの顔が、思わずほころんでくる。
「あっと……」
その時、突然馬車が跳ねた。どうやら道にあった小石に乗り上げたのだろう。
その弾みで、メイベルの手からリップクリームが飛び出してしまった。
「あっ! ちょっと待って!! ダ、ダメ☆」
空中に放り出されたクリームを摑もうと、メイベルがわたわたする。だが、ここは足場の不安定な馬車の荷台だ。摑んだつもりが指先で弾いて、クリームを思わぬ方向へ飛ばしている。そして、
「あああ〜〜〜〜〜〜〜〜っ☆」
クリームを追ったメイベルが、荷台の外へ手を伸ばした。しかし、クリームはあと数cm届かないまま、石畳の路面に落ちてしまった。それを後続の馬車を牽く騾馬が踏みつけ、グシャッと潰してしまう。
「どうした、メイベル?」
「リ、リップクリーム……。落としちゃった……」
何事かと尋ねてきたナバルに、メイベルが涙目で訴えてきた。
「拾ってくるか?」
「もういいわ。騾馬に踏まれて、潰れちゃったから……」
がっくりと肩を落としたメイベルが、項垂れたまま首を左右に振った。そのメイベルが少しだけ顔を上げて、
「ところでナバル、さっきクリームを塗った時……」
と、ナバルに何かを尋ねようとする。
「やっぱり、いいわ」
ナバルの答えを聞かず、メイベルが荷台の隅で丸くなった。
ナバルの表情を見れば一目瞭然。まだ間接キスのことには気づいてないようだ。たぶん、このまま気づかないままだろう。そんなナバルを見てると、メイベルは自分だけが意識してるのをバカバカしく思えてきた。
「ふぇ〜ん。わたしのヴァカぁ〜……」
メイベルの口から、泣き言なのか怒りなのか、どちらともつかない声が漏れた。
ナバルは少し心配そうな顔をしたが、1人にさせておこうと思ったのだろう。軽く嘆息すると、また帳簿の勉強に戻った。そのナバルをチラッと見たメイベルが、怨めしそうな顔ですねてしまう。
「お母さん。お姉ちゃん、どうしたの?」
馭台のところで2人のやり取りを見ていたルビノが、母親に説明を求めた。それに、
「青春してるのよ」
と答えると、メルカトル夫人は「うふふ」と優しい笑みを零すのだった。
「あ〜、夜までに着かなかったねぇ。さすが秋の日は、つるべ落としで短くなるわ」
そう零したメルカトル夫人が、馭台から南に小さく見える街の明かりを見ていた。
隊商は街道を走る途中で、夜の闇に呑まれてしまった。隊商が立ち往生したのは、街に通じる最後の丘を越えるあたりだ。そこから街道の先に、小さな街明かりが見えている。アテル川沿いに作られた港町の明かりだ。
とはいえ街道には街灯が1本もない。このまま闇の中を走り続けるのは大変に危険だ。そのため隊商は街道の端に馬車を寄せて、このまま夜を明かすことにしたのである。
「リディア。今日の夜食に腸詰めの大ビン、2つ使うよ」
夜食の準備をするメルカトル氏が、夫人に料理に使うビンを見せてきた。
「これは春、サンルミネで仕入れたものだね。まだ残ってたのかい」
「みたいだな。早く在庫処分せにゃな」
夫人がビンをメモに取り、使用に許可を出した。それを見て、メルカトル氏がビンを持っていく。それを見たナバルが、
「材料を料理に使うだけで、許可が必要なのか?」
と夫人に尋ねた。それに、
「元は売り物として仕入れたものだからね。ということで隊長さん。帳簿に書くよ」
と言って、夫人が帳簿の準備を始める。
「あれも帳簿に書くのか?」
「そうさ。隊長さん、最初は基礎伝票だよ」
机に帳簿が広げられた。夫人はその机の横に立ち、イスにはナバルが腰を下ろした。
「基礎伝票は、お金の出入りがあったら書くんじゃなかったか?」
「お金の出入りってのは、実際にお金が動くことだけじゃないよ。売り買いの他にも、売り物にならなくなった商品を処分するとか、さっきのビン詰めみたいに自分らで使うとか、そういうこともぜんぶ書くのさ」
「ぜんぶと言われてもなあ。何がぜんぶなのかさっぱりなんだが……」
「まあ、そういうことはおいおい覚えていけばいいさ」
そんな話をしてる間に、ナバルはカードのような伝票を用意した。そこにある金額欄に、夫人がメモした数字を書き、摘要欄には『ビン詰め2コ』と書いている。
「これは売り上げじゃないよな。処分になるのか?」
「自分らで使うのは『自家消費』と書くのさ。それと伝票の票番号は忘れずに振っておきなよ。連番でも何でもいいけど、あとで探す時に必要になるからね」
「わかった。ここは最初に書く癖をつけた方がいいな」
夫人に指導されながら、ナバルがマジメに帳簿管理を進めていく。
その馬車の外では、
「ルビノちゃん。野草集めを手伝ってくれるの?」
「うん。お姉ちゃんと一緒がいいの」
ザルを持って野草探しに出たメイベルの後ろを、ルビノがちょこまかとついてきていた。
メイベルの上には魔法の光が浮かび、周りを明るく照らしている。そこでメイベルは草むらを掻き分けて、料理に使えそうな野草を集めていたのだ。そのメイベルを見ながら、
「これ、食べられる?」
と、ルビノも野草探しを真似ていた。メイベルが集めた野草の葉っぱを見て、同じ形の葉っぱを頼りに探してたのだ。もっとも、
「これは毒があるから食べられないわ。茎が紫色になってるのは採らないでね」
葉っぱの形だけではなく、野草には茎にも違いがある。他に葉脈の形や茎からの生え方など、種類ごとの違いはいろいろあるのだ。
メイベルに間違いを教えてもらったルビノが、
「じゃあ、これ」
と、小さな野草を持ってきた。それをまだ育ってないと思いながらも、メイベルは「ありがとう」と言って受け取る。その言葉に、ルビノがニコッとうれしそうに笑った。
「お姉ちゃん。この虫さん、お食事中なの」
次の野草を探そうとするルビノが、大きなカマキリを見つけた。そのカマキリは暗闇の中でも獲物を仕留めていたのだろう。細長い葉っぱの上で、バッタを頭からムシャムシャと食べている。
そのカマキリをジッと見詰めるルビノが、指で突こうと思ったのかそっと手を伸ばした。
「ルビノちゃん。手を出しちゃダメよ」
メイベルに注意されて、ルビノの動きが一瞬止まった。そこにカマキリが大きなカマを振って威嚇してくる。
「わあ……」
驚いたルビノが、指を引っ込めて尻もちを突いた。
「ルビノちゃん、大丈夫? ケガしなかった?」
「んっと……、だいじょぶなの。あはっ☆」
尻もちを突いたままのルビノが、顔をメイベルに向けて楽しそうに笑い始めた。
その笑顔を見るメイベルが、目でケガがないことを確かめて安堵する。
「さあ、帰りしょうか」
ザルを抱え直したメイベルが、そう言って身体を馬車へ向けた。それに、
「うん。帰るの」
と言って立ち上がったルビノが、メイベルに追いついて背中に抱きついてくる。
「ルビノちゃん。びっくりしたじゃないの」
「あは。一緒なの」
メイベルはすっかりルビノに気に入られたようだ。
その様子を馬車から顔を出して見ていたメルカトル夫人が、
「おやおや、ルビノが笑ってるよ」
メイベルに手を引かれて楽しそうに戻ってくる我が子の姿に、驚きの色を隠せないでいる。その夫人が、
「おや、また数字の喰い違いが出たようだね」
ナバルが計算に困ってることに気づいて、顔を馬車の中に戻した。そして、
「どこかで計算を間違えたのかい?」
「いや、3度検算したが計算は間違えてない。基礎伝票からも写し間違えてない」
「そうかい? でも、何か間違ってなきゃ、数字は必ず同じになるはずだけどねぇ」
そう零しながら、メルカトル夫人がナバルの付けた帳簿をパラパラとめくる。
「おや? 隊長さん、さっきの『自家消費』、こっちに仕訳されてないじゃないか」
「お、それがあったか!」
見落としに気づいたナバルが、手早く帳簿を直していく。
「うむ。間違いの差額とピッタリだ。ホントに2つの数字が違ってると、どこかに間違いがあるんだな」
「そりゃそうさ。帳簿の計算法は、間違いを早く見つけるために考えられたものだからね。ついでに言うと、この計算法を覚えておくとね、誰かがこっそりとお金を使い込んでいると、どこかで計算が合わなくなるから隠し事ができないのさ」
「なるほど。しかし、この計算方法を知ってる者なら、使い込んでも何か適当に誤魔化せると思うのだが……」
「帳尻合わせのことかい? それはあるかもしれないけどさ」
ナバルの意見に、夫人がくすっと笑みを漏らした。
「そんなことをしても、この計算法を知ってる人が帳簿を見たら、不自然な数字が出てくれば一目瞭然じゃないか。違うかい?」
「おおっ! つまり、これは正義のための計算なのか」
多少の勘違いはあるようだが、ナバルが帳簿管理に強い使命を感じてきたようだ。そのナバルに、
「それが終わったら、あとは日締め集計だね。帳簿には日誌のように、その日の天候や場所も書いておくんだよ。できれば気温もあった方がいいね。そういう記録を残しておくとね、あとで何かの役に立つのさ。天気と売れ行きの関係とか、流行の変化とかさ」
と、夫人は最後の帳簿まで任せようとしている。
「そうか。それはメイベルの植物標本と同じだな。とにかく何でもいいから記録を残しておけば、いつか使う日が来るかもしれないと」
「あはは、そんなもんさ」
メルカトル夫人はメイベルの標本採集のことは知らない。だが、取り敢えず言ってることに間違いはなさそうなので、そのまま受け流した。そこに、
『お姉ちゃん。お芋、洗ったの』
という明るい声が聞こえてきた。野草集めから戻ったルビノが、今度は料理を手伝っているようだ。馬車からチラッと顔を出して外を見たメルカトル夫人が、
「こりゃ本当に、聖女さまの奇跡が起きてるのかねぇ」
と、ルビノの明るい表情を目にして笑みを漏らした。
焚き火には大きな鍋がかけられ、そこでスープが作られている。そのスープを攪き混ぜているのはメルカトル氏だ。
メイベルはルビノの洗った芋を手早く小さな角切りにして、スープに放り込んでいた。ルビノはそのスープ作りを手伝っているつもりだろう。ふいごを持って風を送っている。
もっともルビノは風を火へではなく、鍋の腹に向けて送っている。そんな子供らしい勘違いに微笑みながら、メルカトル夫人が再び馬車の中へ視線を戻した。
机では今もナバルがパチパチとソロバンの珠を弾いている。その姿を見た夫人が、
「本当に隊長さんは生マジメで根気がありそうだから、メイベルちゃんよりも帳簿管理には向いてるのかしらね」
と零して荷台の囲い板に腰を落とした。
そして、その日の夜は特に何事もなく過ぎていくのだったが……。
翌朝、東アルテースの王都サンルミネにある教会では、
「以上で朝の礼拝を終わります。みなさま、本日も佳き1日をおすごしください」
いつもの礼拝が終わり、壇上にいる赤い修道服を着た老修道女が、帰っていく市民たちを見送りつつ、手を合わせて今日も平和な1日であることを祈っていた。そこに、
「修道長アンシャン」
と呼びかけて、数人の市民が壇の前まで歩み寄ってくる。
「また新しい手配書が貼られてましたよ。それで回収してきたのですが……」
「あら、これはピリポ都議。お手数をおかけしました」
集まってきた者たちは、いずれも手に手配書を持っていた。それはメイベルとナバルに賞金をかけた手配書だ。
「しかし解せませんな。帝国が出した手配書を教会が回収するとは」
「あら、帝国は出しておりませんわ。だって、帝国が手配書を出したのでしたら、それを貼り出すのは教会の役目ですもの。帝国名義になっているのに教会が与り知らぬ手配書は、あってはならないのです」
「ふむ。たしかに言われてみれば、おかしな話ですな。誰が貼ってるのでしょうか?」
老修道女に手配書を渡した都議が、そう言って眉をひそめる。
「さて、今日はどこが貼ったのでしょう。治安警察とテルル公王の近衛警備隊、それから都庁の広報部には帝都から手配書が送られてきても、けっして貼り出さないようにとお願いしてるのですが……」
「送られてきて? それはまるで怪文書ですな。この賞金を目当てに、賞金稼ぎたちが無関係な市民を襲う事件が起きてますし。いい迷惑ですな」
老修道女の言葉に、都議が怪訝そうな表情を浮かべた。
「ところで、この手配書にある聖修道女と近衛隊長が救世の聖女と勇者というのは、本当なのですか? この事件を伝えてるのがソロリエンス新聞だけなので、他紙はこの事件と手配書をソロリエンスの自作自演と報じておるのですが。なんとも判断し難い」
「その質問には、何と答えれば良いのか。隠すつもりはないのですが、難しいですわ」
そう言いながら、老修道女がゆっくりと足許を確かめながら壇から降りる。
「実はわたくしたちにも、事情がよくわかりませんの。そこで帝都にいるレジーナさまに確認を求めたところ、いくつか回答をいただいたのですが……」
「レジーナさま!? そっか、レジーナ王女は今、サクラス教会においででしたな」
老修道女の話をさえぎって、都議がそんなことを零した。その都議が話の腰を折ったことに気づいて、続けてくださいと催促するように老修道女に手で合図する。
「何者かが救世の勇者と聖女を、亡き者にしようとしてるのは間違いないようですわ。それで命の危険を知ったお2人は帝都を逃れ、現在は消息不明になっているそうです」
「2人を亡き者にとは……。いったい誰が何のために?」
「さあ、そこは犯人が捕まってないとかで、なんとも……」
都議の疑問に、老修道女がゆっくりと頭を左右に振って答える。
「ただレジーナさまからいただいた話によると、帝都から逃れた翌日、聖女さまがピスキの町で目撃されているそうですわ。ピスキの町はフルヴィ川を渡ったところにある町ですから、そのまま南へ向かって逃げているのかもしれません」
「帝都から南へ向かって……ですか。するとサンルミネに来るかもしれませんな」
そう零した都議が、顔を礼拝堂の外に向けた。
礼拝堂の窓から見える街は、朝のにぎわいを見せていた。通勤や通学のために、大勢の市民たちが通りを行き交っている。
「お2人が帝都から逃れたのが9月29日で、今日は10月9日ですから11日目ですか。運河を使って逃げているとしたら、もう通りすぎているのではありませんか? 帝都からここまで、3日もあれば来られますから」
「その可能性はありますが、帝都からここまではおよそ700kmです。歩きで早ければ20日、馬車を乗り継いでいたらそろそろでしょうか」
「騾馬の牽く馬車ならば8日もあれば来られますが、まあ、それはないでしょう」
都議と一緒にいる男たちが、そんな言葉を交わした。
騾馬は馬よりも少し小さいが、体力があるために馬よりも遠くまで動くことができる。だが、男が騾馬の可能性を否定したのは、騾馬は非常に高価なため、あまり使われていないためだ。騾馬が高価になる理由は雌馬と雄ロバの交配種で、生殖能力を持たない一代限りの生き物のために数が少ないからである。
まあ、そんな話題は横に措いて都議が、
「それで、修道長アンシャン。もしもお2人がサンルミネに立ち寄ったら、教会はどうするおつもりですか?」
という疑問を老修道女に投げかける。
「こちらから何かをするつもりはありませんわ」
そう答えた老修道女が、先ほどと同じようにゆっくりと頭を左右に振った。そして、
「ただ教会の誰かが、こっそりと支援するかもしれませんけど……」
と微笑んで、暗に支援を黙認するようなことを言う。
「もしもお2人が教会に保護を求めてきたら?」
「さあ、その時は……」
老修道女は都議の質問に、言葉を濁して答えなかった。だが、
「でも、逃げている聖女さまは、レジーナさまとパセラの大親友と聞きました。わたくしにとって、2人は孫のようなものですもの。悲しませることはしたくありませんわ」
と話して、それを答えとした。
その老修道女に孫のようなと言われた2人は、
「それにしてもビーズマス卿は、つくづく悪知恵の働く人だわ。教会ではなく地方の役人に手配書を送るなんてね」
「帝国議会の名義で手配書がまわってきたら、お仕事ですから貼ってしまいますものね」
「それが問題なのよ。帝国議会名義で配られる書類は、本来は教会が、あたしたち宮廷付属の情報局が預かって、ここから帝国全土へと伝えられるのよ。それなのに、どこから来たのかも確かめないで受け取ったらそのまま貼り出すなんて。少しは疑問に思いなさいよ!」
「意外と疑問に思わないのですよ。きっと……」
などと言い合いながら、紙テープの山と格闘していた。
2人は今、集配施設にある電信室の前で、数人の職員たち紙テープの仕分けを手伝っていた。ここには電信を介して帝国中から情報が集まってきている。それで出てきた紙テープの中から、必要な情報を探すついでに仕分けを手伝っているのだ。
他に郵便物も集まってくるため、ここにいると多くの情報が得られるのである。
そこで紙テープに目を通しているパセラは、今もまだ青い修道服を着ていた。しかも寒い季節に向かっているため、服は夏物から冬物に替わっている。
「それにしてもメイベルの情報、さっぱりありませんねぇ」
「ソロリエンス新聞も完全に2人を見失ってるみたいね。それで手配書の適当な記事でお茶を濁してるけど、案外、他の新聞社が書いてるみたいに、一部自作自演だったりして」
「レジーナぁ。それは失礼ですよぉ」
情報整理する手を少し休めて、パセラが苦笑した顔で注意する。
その時レジーナの目が、
「ん!? ミラ教会の正修道女が、薬問屋に薬草を持ち込んだピンクブロンドの少女を見かけたと報告してきてるわ」
という電信報告を見つけた。
「薬草を持ち込むピンクブロンドの少女ですかぁ? そんなことをするピンクブロンドの少女って、メイベル以外にいないんじゃ……」
レジーナの読む紙テープを、パセラが横から覗き込もうとする。だが、
「一緒に旅商人がいるみたいだけど、これって……」
「えっと、ちょっと待ってください。たしかピスキで目撃された時も……」
紙テープから目を離したパセラが、棚からファイルボックスを出した。ファイルボックスの中には仕切りになるフォルダが入っていて、そこに整理前の報告書類が大雑把な区分けで挟み込まれている。
「レジーナぁ。ピスキの目撃情報は、9月30日でしたっけ?」
「えっと、日付で聞かないでよ。ニセくじ事件の翌日だから……、あ、9月30日だわ」
そう答えるレジーナも仕分けの手を止めていた。そのレジーナの見ている前で、
「ありましたぁ。やっぱりこの時も、どこかの旅商人さんと一緒にいたみたいですぅ」
報告された紙テープを見つけたパセラが、それを貼ったファイルを持って戻ってきた。
「ということはメイベルと勇者くんは、旅商人と一緒に南へ向かってるのかしら?」
「そういうことになり……ますかねぇ? そういえば他にも……」
見つかった紙テープを貼ったファイルを並べて、2人がこの情報を推理する。そこに、
「レジーナちゃん。何か新しい情報は届きましたか?」
などと言いながら、クラウが集配施設に入ってきた。
「あ、クラウ。ちょうどいいところに来たわ」
レジーナが見つかった紙テープとファイルを持って、いつものカウンターのあるところへ移動した。そして、
「新しい目撃情報よ。昨日、ミラで旅商人と一緒にいたらしいわ」
と言いながら、クラウに紙テープとファイルを見せた。
そこに遅れてきたパセラが、地図を広げてクラウに向ける。
「ミラ教会の正修道女が、昨日、薬問屋に薬草を持ち込んだピンクブロンドの少女がいたと報告してきたわ。その時に、旅商人が一緒だったらしいの」
「薬問屋に薬草ですか。それはメイベルちゃんらしいですね」
クラウが紙テープを手に取って、報告文を2度3度と読み返した。
「でも、聖修道女とは書かれてませんね。人違いでは?」
「その可能性はあるけど、聖修道女の服は目立つでしょ。どこかで着替えたと考える方が自然じゃない? 一緒にいる旅商人から服を借りてるとか……」
「ああ、なるほど」
レジーナの意見に、クラウが納得したような顔をする。
「他に目撃情報はないのですか?」
「今日、見つかったのは、今のところそれだけよ。それで、これまでに届けられた情報を並べてみると……」
「えっとですねぇ、先月30日にピスキで目撃されたのが最初です。それから今月3日には、アルバシェアで旅商人の売り子にピンクブロンドの目立つ娘がいたって……」
と、パセラが関係のありそうな情報を並べる。
「3日にアルバシェアですか? それはかなり有力な目撃情報ですね」
そう言ったクラウが、地図に印と日付を書き込んだ。ピスキ、アルバシェア、ミラ。この3つは1つの街道沿いにある町だ。
「この情報が正しければ、メイベルちゃんとナバルは南へ向かってるのでしょうか?」
「その可能性は高いわね」
地図に2人の行動が描かれた。だが、
「先月30日にピスキ。今月に入って3日にアルバシェア。昨日8日にミラ。けっこう移動が速いですね。馬車を乗り継いでるのでしょうか?」
という疑問をクラウが口にする。
「クラウ。そんなに速いの?」
「ええ、運河を使ってるのなら話は別ですが、歩きや馬車で動いてるとしたら。これはかなりの速さですよ」
そう説明しながら、クラウが海岸沿いを走る街道を指でたどった。
「この街道に並行して走る運河はありません。水上バスや水上貨物を使えば時間的に不可能ではないのですが、いちいち街道に戻る意味があるのかどうか」
「旅商人と一緒だから、市を開くために戻ってきてるじゃないの?」
「だったら、街道沿いよりも運河沿いの大きな街で目撃されると思うのですが」
「あ……。あれ!?」
クラウの言葉に、レジーナが首を斜めにした。
「それはともかく、昨日、ミラで目撃されたとなると、この速さなら今日はアテル川の北岸にあるリバポットに着いて1泊。川を渡るのは明日。で、サンルミネに入るのは明日の夜になるか、明後日になるか。どのみち旅商人なら……」
そこまで言ったところで、クラウが口を真一文字に結んだ。
「確認のために、今すぐサンルミネへ向かいましょう」
「これからサンルミネへ行くの?」
突然持ち出されたクラウの提案に、レジーナが目を丸くした。
「運河を使えば、今から出ても明後日の夜ないし翌朝にはサンルミネの教会に着きます」
「それだと1日遅いんじゃない?」
「いえ、旅の商人なら、これほどの大都市で商売しないはずがありません。となれば、これは2人に追いつく絶好の機会じゃないですか。絶対に見逃せませんよ」
力説するクラウの言葉に、レジーナとパセラが顔を合わせる。
「2人に追いついて、連れ戻すの?」
「僕は連れ戻すために行くのではありません。2人にニセくじのことを伝え、誤解を解きたいのです。それで戻るかどうかは、2人の判断に任せます。とにかく2人は自分の命がかかってますからね」
「そうね。これは2人に事情を伝える最初で最後の機会かも……」
考えを理解したレジーナが、目をパセラに向ける。
「パセラ。ここはあんたが行くべきと思うわ」
「ええっ!? わたしですかぁ?」
レジーナの言葉に、パセラが目を丸くした。
「クラウの説得では今1つ信用に欠けるし、あたしも2人を信用させる自信がないわ」
「レジーナちゃん。僕の説得では信用に欠けるって、どういう……」
レジーナの言葉にクラウが不満を言ってくる。だが、レジーナはそれを無視して、
「だけど、パセラならメイベルも信用してくれるわ。パセラは絶対に腹芸ができないって、あたしたちは知ってるものね」
「はぁ、腹芸……ですかぁ」
レジーナの言葉に、今度はパセラが不服そうな表情を浮かべている。
「それに降格の手続きが遅れてるから、今のパセラはまだ正修道女でしょ。見習い修道女のあたしよりも外出への制約は少ないわ。ということだから、パセラが一番の適任でしょ。それでクラウ、あんたにはパセラの護衛を任せたいんだけど」
「その役目は僕以外にありませんよ。いつでも出られるように準備はできてます」
レジーナの提案を、クラウがそう言って引き受けた。
「それで、あたしは2人が出かけたあとの後始末を引き受けるわ。クラウのことを近衛隊に伝えるのと、大司教さまにもこのことを伝えておかないとね。事後報告になるから、大司教さまから待ったがかかるかもしれないけど、その連絡は途中に寄りそうな教会へ伝えておくわ。それと途中の教会へは、必要になりそうな情報もね。あとは……」
レジーナが必要なことを考えながら指を折っていた。そのレジーナが、
「それにしても、勇者くんの情報がまったくないわね」
いきなりそんなことを言い出した。それに、
「それだけメイベルちゃんの美しさが人目を惹くのですよ」
と、クラウが笑顔で言う。
「あとはないわ。そっちは任せていいかしら?」
途中まで折りかけた指を止めて、レジーナがやることを頭の中で整理し終えたようだ。
それを受けて、
「では、行きましょう。友人Aくん!」
と言って、クラウが建物の外でパセラを待った。
「早く行きなさい」
「わかりました。レジーナぁ、あとのことはよろしくお願いします」
レジーナにうながされたパセラが、そう言って深く頭を下げる。そして、
「クラウさん。お待たせしましたぁ」
クラウのあとについて、サンルミネへ出かけていくのだった。
さて、その頃、メイベルたちと一緒に旅するメルカトル商会の隊商は、
「なかなか熱が下がらないねぇ」
朝、ルビノが高熱を出していたため、街道の脇に馬車を駐めたまま立ち往生していた。
もっとも、道端に駐まっている馬車は5台だけ。いつも最後尾を走る馬車だけがどこかへ出かけている。
隊商の先頭に駐まるメルカトル夫妻の馬車では荷台にある子供部屋に、小さなベッドが用意されている。ルビノはそこに布団を敷いて寝かされているのだ。
「女将さん。薬草を摘んできました。すぐに熱冷ましを作ります」
「すまないねぇ、メイベルちゃん。こういう時に、あんたみたいな子がいると助かるよ」
戻ってきたメイベルに、メルカトル夫人がお礼を言う。それに、
「いえ、こちらもお世話になってますから」
と返して、メイベルが手荷物からフライパンなどの調理道具を用意する。
「ところで、馬車が1台いないようでしたけど……」
「リデルの馬車かい。リデル父娘は町へお医者さんを迎えに行ってるんだよ」
「カメリエラさん、町へ行ってるんだ……」
まな板で薬草を切り刻みながら、メイベルがそんなことを零した。そのメイベルが、
「って、父娘!? あの執事さんとカメリエラさんって、父娘だったの?」
と、驚いた顔を夫人に向けてくる。
「あらあら、気づいてなかったのかい。あんな年頃の女の子が、1人でキャラバンにいるなんて考えられないだろ。まあ、よほどの訳ありなら別だけどさ」
「はぁ、まあ、そう言われてみれば」
夫人の言葉に、メイベルが庖丁で口許を隠すような仕種をする。それをチラッと見た夫人が、ルビノの頭に載せていたタオルを取って、洗面器で濡らし直した。
「それで、お医者さんは、いつ頃来られるのでしょう?」
「そうさねぇ。早ければ1時間じゃないかい」
「1時間……ですか」
言葉を繰り返しながら、メイベルが薬草の下ごしらえに戻った。といっても集めてきた薬草の根の部分だけを千切り、フライパンへ放り込んでるだけなのだが……。
「それだけ早いのでしたら、薬は使わない方が良いかもしれませんね」
「そういうものかい?」
夫人がルビノの頭に濡れタオルを載せて、メイベルに顔を向けてくる。
「お医者さんが良い薬を持ってくるかもしれません。その前に違う薬を飲んでたら、飲み合わせによる副作用が怖いんですよ。それに薬で熱を下げたおかげで、診察を間違えるかもしれませんし……。2時間かかるのなら、飲ませるところですけど」
「へぇ、そんなことがあるのかい。1時間といっても決まってるわけじゃないからねぇ。飲ませるべきか判断が難しいねぇ」
そんな話をする2人を、ルビノが薄目を開けて見ていた。それに気づいた夫人が、そのルビノに微笑みかけて優しく頭をなでる。そこに、
「リディア。リデルの馬車が戻ってきたぞ」
と、メルカトル氏が伝えてきた。
「えっ!? 意外と早かったねぇ」
「一緒に乗ってるの、町医者じゃないか?」
隊商が駐まっているのは、丘から街を見下ろす場所だった。そこに向かって2頭の騾馬に牽かれた馬車が坂を登ってきている。その馭台では執事服を着たリデル氏が手綱を握り、その隣には大きな黒カバンを抱えた初老の男が座っていた。その馭台の後ろには、カメリエラの姿も見える。
「女将さん。お医者さまをお連れしましたわ」
戻ってきた馬車がメルカトル夫妻の馬車に並ぶように停まった。それで位置を合わされた馭台から馭台へと初老の医師が乗り移ってくる。
「失礼しますぞ。子供が熱を出したと聞きましたが……」
「先生、お願いします。この子です」
出迎えるメルカトル夫人が、そう言って医師をルビノの横へ招いた。
「ふむ。顔が真っ赤ですな」
ベッドの横に置かれたイスに腰かけ、医師がさっそく容態を診始めた。
まず顔色を診て、次に下まぶたを引っ張って目の色を診る。それから舌の色を確かめてから、指を頚動脈に当てて軽く触診する。
「それでは、服の前を開けてもらいましょうか」
そう言うと、医師が大きな黒カバンから聴診器を出してきた。その間にメルカトル夫人が、掛け布団をはいでルビノの服のボタンをはずしていく。
「ちょっとの我慢だよ。はい、大きく息を吸って」
医師に言われるように、ルビノが口を少し開けて息を吸った。それで肩が上がった頃、
「次はゆっくり吐いて」
と、医師が次の指示を出す。
「もう十分です。あまり布団で温かくしないでください。それと汗で濡れた服は小まめに替えるように……」
耳から聴診器をはずして、医師がそれをカバンに仕舞った。その間に、夫人は手早くルビノの服の前を閉じている。
「あの、ルビノの様子は?」
「診たところ、軽い脱水か疲れではないかと思うのですが……」
そう言いかけた医師が、夫人が怪訝そうな顔をしてるのに気づいた。それで、
「お母さん。この子に病歴はありますかな?」
と、既往歴を尋ねてくる。
「それでしたら、こちらにこの子の診察簿があります」
いつでも見せられるように用意してたのだろう。夫人がベッドの横から診察記録を出してきた。それを医師に渡しながら、
「この子は前々から病弱で、入退院を繰り返してました。今の医学では治せない難しい病気と聞きましたので、少しでも一緒にいようと病院から連れ出して……」
と、必死の思いで訴える。
「難しい病気!? はて……」
記録を読む医師が、眉間にしわを寄せて小さく唸った。
「最近、元気になったように思ったのですが、そろそろ限界なのでしょうか?」
「限界も何も……。わしにはとても判断は……というか、そのようには……」
夫人の質問に、今度は重い声でう〜んと唸る。
「……ん? この匂いは……」
その時、医師がフライパンで何かを熱しているのに気づいた。メイベルは荷台の隅で、薬の下ごしらえを続けていたのだ。
「きみ、そこで作ってるのは熱冷ましかね?」
「あ、はい。念のために作ってたんですけど、この薬は使わない方が良いですか?」
メイベルが草の根の煎じ具合に注意しながら、医師にそう尋ねた。
「ほう、これはゴモリの根っこではないか。わしの持ってきた薬では、あの子には効き目が強すぎる。このくらいの薬の方が良いだろう」
「そうですか? それは良かった……」
医師の言葉に、メイベルがそう返して下ごしらえを続ける。そのメイベルに、
「根っこは湿気を飛ばしたら、それ以上は熱を加えぬようにな。それを薄めに淹れた薬湯を小まめに飲ませれば良いだろう。それでしばらくはしのげるはずです」
と、医師が簡単な注意を加える。
「さて、お母さん」
再びメルカトル夫人に顔を向けた医師が、そう呼びかけて診察記録を返してきた。
「このキャラバンは、これからどちらへ向かう予定ですかな?」
「予定では今日中にアテル川を渡って、夜までにサンルミネに入るつもりでした」
「ほう、サンルミネですか」
話を聞きながら、医師がカバンから新しい診察簿と筆記具を出してくる。そして、それに走り書きしながら、
「それでしたら、サンルミネにあるできるだけ大きい病院へ行かれるのが良いでしょう」
と提案してきた。
「この子の容態は、そんなに悪いのですか?」
「それは、わしには判断できません。なので紹介状を書きますから、大きな病院で精密検査を受けさせてください」
医師が書き上げた書類を封筒に入れて、心配する夫人に手渡した。医師が書いていたのは紹介状であった。
「精密検査……ですか? リバポットにある病院ではダメなのですか?」
「残念ながらリバポットには、精密検査のできる病院がありません。それではどこで診察しても、わしと同じ診断になると思います」
そう言って、医師がルビノの頭にそうっと手を触れた。
「この場で見た限りでは、熱はあるものの病気とは思えませんでしたからな。精密検査のできるちゃんとした施設で診てもらった方が良いでしょう」
「そう……ですか。では、そのようにします」
紹介状に目を落とした夫人が、下くちびるをギュッと噛んだ。
その後ろでは薬の準備を終えたメイベルが、それを薬湯にしてルビノに飲ませている。
「みんな。すぐに出発するよ。できるだけ早い船で川を渡って、今日中にサンルミネに入るんだ!」
馬車から顔を出した夫人が、外にいる商人たちに大きな声で出発を呼びかけた。馬車から降りた商人たちは出発の合図が来るまで、街道脇の草むらで身体を休めていたのだ。
「よし、出発だ!」
「忘れ物をするな。急いで積み込め!」
草むらにはシートが広げられ、そこでお茶をしてくつろいでいた商人たちもいる。その商人たちが手早くシートを丸め、馬車へ投げるように積み込んでいった。
「それじゃ、お医者さんは、来た時の馬車で送り届けさせてもらいます。診察料は馬車の者から受け取ってください。それでいいかね、リデルさん?」
「はい。お任せください、女将さん」
リデル親子の馬車は、来た時のままメルカトル夫妻の馬車に横付けされていた。その馭台で手綱を握っているリデル氏が、片手を挙げて呼びかけに答えてくる。
「それじゃ、出発するよ! リデルさん。もし船に乗り遅れたら、その時はサンルミネの教会前広場で合流だ。いいね」
医師がリデル親子の馬車に乗り移ったのを見たメルカトル夫人が、そう言い残して出発の合図を出した。と同時に、5台の馬車がいっせいに動き出していく。
「さあ、お父さま。わたしたちもお医者さまをお届けしたら、急いで川を渡りましょう」
「わかってます。馬車の向きを変えますので、お気をつけを」
そう言うと、リデル親子の馬車は一度反対方向へ動き出した。それから騾馬たちが大きな弧を描きながら馬車を反転させる。そして他の馬車たちからかなり遅れて、街道を港のある町へ向かって下っていくのだった。
「次の船には、馬車を載せる余裕が2台分しかない? なら、その2台分もらったよ。残りの3台は次の船へ載せとくれ」
港に着いた隊商は、さっそく切符売り場で連絡船の乗船手続きをしていた。だが、すぐに出る船には、馬車を載せられる余裕が2台分しか残されてなかった。
それで乗船切符を買って戻ってきたメルカトル夫人が、
「ちょいと聞いとくれ。ここでキャラバンを更に2つに分けるよ。最初の船に載せられる馬車は2台だけだ。なのであたしらとトリフォニーの馬車を載せるよ。残りは次の船を使っとくれ」
1人1人に乗船切符を配りながら、移動方針を隊商の商人たちに伝えてくる。
「それから、乗客の方には十分にお余裕があるらしいから、子供らを先に行かせるよ。メイベルちゃんと隊長さんも、あたしらと一緒に先に行こうじゃないか」
「はい、わかりました」
夫人の決めた方針で、メイベルも動くことにする。まあ、荷物をメルカトル夫妻の馬車に載せているのだからメイベルからすれば当然といえば当然なのだが、夫人にとっては薬の心配があるからだろう。
メイベルと並んでいるナバルも、片手を挙げて了解したと意思表示している。
「それで川を渡ったら、あたしらの馬車は病院へ向かう。で、子供らはトリフォニーの馬車に乗ってサンルミネ教会へ向かっておくれ。それで次の教材を受け取って来な」
「えええ〜!?」
夫人の指示に、一番上の男の子アダモが不満の声を上げた。
「母ちゃん。まだ課題、終わってないよ」
「だったら、今のうちに終わらせな。というか、昨日大丈夫って言ったのは誰だい?」
「あれれ!? そんなこと言ったっけ?」
追及してくる夫人から、アダモが素っとぼけた顔で離れていく。
そんな隊商を、少し離れた場所から見てる男たちがいた。数は8人。全員が腰に剣を下げた、荒くれ者の印象のある男たちだ。
「おい、あの売り子と隣の用心棒。手配書にあった賞金首じゃないか?」
まるでライオンのようなヒゲ面の男が、仲間たちに意見を求めてきた。
「ただのキャラバンの売り子と用心棒だろ?」
「よく見ろ。売り子が魔法の杖なんか持つか? 普通……」
「ああ、そう言われると変だな」
2人を遠巻きに見ながら、男たちがひそひそと意見を交わしている。
その男たちのいる場所の近くに、町の広報用の掲示板が立っていた。そこに貼られた手配書をライオン男がはぎ取って、
「聖女の方はピンクブロンドの魔導師だ。当たりじゃないか?」
と、手配書に書かれている特徴を読み上げる。
「剣士の方は帝国の剣術大会で準優勝した腕前か。2人合わせて金貨400枚は破格だな」
2人に懸けられた賞金額は、いつの間にか吊り上げられていた。
「おい、やつら、これから船に乗るようだぞ」
「こりゃ、都合がいい。俺たちと同じ船か」
「沖に出れば逃げ場はないからな。仕掛けるか?」
「当然だ。しかしやつらの持ってる杖と剣、かなり立派そうなやつだぞ。そうとう手強いんじゃないか?」
男たちがそんなことを話しながら、乗船客の列に並ぶ。
「武器の価値に何の意味もない。気にするな」
「その通り、問題は腕前だ。それに、こっちは8人で、あっちは2人。楽勝だろ」
「それもそうだ。いいか、見失うんじゃねえぞ」
そう言いながら、ライオン男が検札係に切符を見せた。それを見た検札係が切符に切れ込みを入れる。
そことは別の乗船口からは、馬車が船に乗り込んでいた。その馬車の馭台に立って、
「それじゃ、あたしらは先に行くよ。あとで教会前の広場で会おうじゃないか」
メルカトル夫人が次の船を待つ商人たちに別れを告げていた。
やがて馬車の乗り込みが終わると銅鑼の音と共に跳ね橋が上げられていく。そして岸壁に船をつなぎ止めていたロープがすべてほどかれると、警笛と派手な銅鑼の連打を合図に船が岸から離れていった。




