第4巻:第2章 聖女さまは薬剤師?
「メイベル。今ごろ、どこに泊まってるのでしょうか?」
修道院の窓から月明かりを見上げて、パセラが物思いにふけっていた。
そのパセラは、正修道女の青い服を着たままだ。そこに、
「パセラ。新しい部屋割りが決まるまで、しばらく厄介になるわよ」
と言って、レジーナが部屋のドアを開けてきた。
「レジーナぁ、どうしたのですか?」
「お邪魔なら出てくけど、あんた、メイベルがいなくて寂しいんじゃないかと思ってさ」
そう言いながら、携帯ランプを持ったレジーナが部屋に入ってきた。
それまでロウソクの明かりだけだった部屋が、パアッと明るくなった。そのレジーナが持ってきた手荷物を部屋の右側にあるベッドに置いてトンと腰を下ろす。
パセラのいる部屋は修道院の3階にある2人部屋だった。ルームメイトはメイベルだ。
修道女という性格上、それぞれが持つ私物は少ない。部屋の左側を使うパセラはその典型だ。支給された替えの衣類と少しばかりの雑貨があるぐらいである。
対して右半分を使っていたメイベルの私物は大量だった。と言っても、そのほとんどは机の横に積まれたノートの山だ。そして壁には数式の書かれたメモが貼られている。
そんな部屋にレジーナが持ち込んだのは、携帯用のランプと衣服を束ねた手荷物、それと大きなクマのぬいぐるみだった。
「はぁ、まあ、寂しいことは寂しいですけど……」
室内に顔を向けたパセラが、ジッとレジーナの顔を見詰める。そのパセラが次の言葉を口にするよりも先に、
「ところでメイベルのことだけどさ」
と話し始めたレジーナが、持ってきたランプをメイベルの机に置いた。
メイベルの机の上は綺麗に片づいていた。使わない時にはノートや本を机の上に残さない主義なのだろう。机の上にあるのは空きビンが数個だけだ。そのためランプを置いても周りに燃えやすいものはなく、火事の心配はなさそうである。
ちなみに空きビンの1つはペン立てとして使われていた。料理で使ったビン詰めのビンを洗って持ってきたのだろう。透明なビンにはペンや定規が挿さっている。他にも大きめの空きビンが数個、机の奥に小物入れとして置かれていた。それらはいずれもフタに可愛い絵が描かれている。どうやら気に入った絵の空きビンを選んで持ってきたのだろう。
それと同じ空きビンが2つ、パセラの机にも置かれている。
「2人はニセくじのおかげで、命が狙われてると思ってるのよね。それで大司教さま、消極策だけど2人が落ち着くまで、しばらく放っておくことにしたみたいよ」
「放っておく?」
「そう。可哀想だけど、放っておくのが一番じゃないかってさ」
パセラに状況を伝えるレジーナが、持ってきた大きなクマのぬいぐるみを膝に載せて抱きかかえながら、
「それで取り敢えず大司教さまに頼まれて、さっき帝都周辺にある教会あてに『特命を受けた聖修道女が、護衛の近衛中隊長を連れて旅をしている。見かけてもこちらからの無用な接触は避けるように』って電信を打ってきたわ。これで少しは2人を刺激しないで済むんじゃないかしら」
と説明を続ける。
「すごいウソの電信ですねぇ」
「うん。あたしもそう思うわ。すぐに『内部査察ですか?』って確認が返ってきた時には、もう何と答えればいいのか困ったもの」
その時のことを思い出したのか、レジーナがぬいぐるみを抱えて笑い出した。それを見るパセラの方は呆れた顔で「それは別の意味で問題があるのでは?」と零している。
「まあ、それはそれとして……」
ひとしきり笑ったレジーナが、急に笑いを止めてきた。そして、
「この修道院、空き部屋が増えて寂しくなったと思わない?」
と言って、ひざの上のぬいぐるみを強く抱きしめた。
「大勢、いなくなっちゃいましたからねぇ」
そう口にしたパセラが、再び目を窓の外へ向けた。
絶望病と恐れられた流行病デスペラン。それは歴史上2度も人類を襲い、そのたびに人口の3分の2を死に追いやってきた悪魔のごとき疫病だ。それが再び流行する兆しがあると懸念されたため、帝国議会は都合5度にわたって疫病の調査隊を派遣した。その調査隊には身のまわりの世話をする雑用係として、聖サクラス教会の修道院から大勢の修道者たちが同行していた。
だが、そのうち4度目までの調査隊は全滅する事態となり、同行した多くの仲間たちが犠牲となった。そのため修道院では数多くの空き部屋を抱えることになったのだ。
また帝国全土から優秀な者たちが集まるまで、今ある空き部屋が埋まることはない。
「実はあたしさ。部屋で1人でいるのが寂しくなったのよね。ルームメイトがいなくて」
ようやくレジーナが、部屋に来た理由を白状してきた。それにパセラが、
「あれ!? でもレジーナは元々、1人部屋だったのではないですかぁ?」
と、軽くレジーナに目を向けて気になったことを尋ねてくる。
「レジーナは東アルテースの王女さまですから、特別に6人部屋を改装した大きな部屋を独占してたのでは……?」
「そ、それは……そう……なんだけどさ……」
急に顔を赤くしたレジーナが、ぬいぐるみを抱える腕にギュッと力を込めた。クマのぬいぐるみの首が傾いて、今にももげてしまいそうな雰囲気だ。そのレジーナがパセラを上目遣いで見上げて、
「なんかさ。久々に戻った部屋がすっごく広くて、無性に心細くなったのよ」
と言ってきた。
「ああ、そういえば人が減って静かになっちゃいましたものねぇ。そっかぁ、メイベルがいないから……だけではなかったのですね」
いつもならばまだこの時間帯は、それぞれの部屋から漏れる話し声でにぎやかな頃だ。
だが、今の修道院は人が減ったためにその声がほとんど聞こえてこない。それが寂しい雰囲気を作り出していたのだ。
レジーナは1人部屋で気楽に生活していたが、それでも壁を通して誰かの話し声が耳に入っていた。だが、それが聞こえなくなったために、それまで感じなかった強い寂しさを感じたようだ。それで人の温もりを求めて、ここにやって来たようである。
「だから、しばらくの間でいいから、厄介させて! サンルミネの教会から一緒に来たよしみでさ!!」
「ああ、レジーナぁ。手を合わせないでくださいよぉ!」
手を合わせてお願いしてくるレジーナの姿に、パセラが焦った顔をする。そのパセラが、
「それでは新しい部屋割りが決まるまでの間、ご一緒しましょう」
と言って、レジーナの願いを聞き入れた。その言葉にレジーナがクマのぬいぐるみを抱きしめたまま、大きく肩を上下させて安堵した。
さて、その頃、メイベルたちは、
「さあ、明日は早いから、さっさと食事を済ませて寝ようじゃないか」
港の近くにある隊商宿で1泊することになっていた。
メイベルたちの泊まる隊商宿には8人部屋しか用意されていない。そこで隊商では部屋を3つ確保して、男部屋2つと女部屋1つに分けていた。
ちなみに男部屋の方では誰がどちらの部屋に泊まるかを、くじびきで決めていたようだが、メイベルはナバルがどちらの部屋に決まったのか知らないまま、女部屋へ入ってきている。
その女部屋では今、メルカトル夫人が部屋にある小さなテーブルにお皿を並べていた。
部屋にいるのはメイベルを含めて7人。メルカトル夫人と子供2人、もう1組の親子、それと若い売り子だ。
部屋にある灯りは、テーブルに置かれた大きなロウソクが1つだけ。その暗い明かりの中で、若い売り子が小さなナイフでパンとチーズを切り分けている。
「カメリエラ。手許に気をつけな」
「大丈夫ですわ。女将さん」
カメリエラと呼ばれた売り子が、チーズを薄く切っている。メニューは乾いたパンと堅くて穴のあいたチーズ、それともらってきたお湯で淹れた紅茶だけである。
「あのぅ。暗いところで刃物を使うのは危ないですよ」
メイベルが魔法で灯りを作って、それを空中に浮かべた。それが天井近くまで昇っていき、部屋の中を明るく照らしていく。
「ちょっと待って! いきなり明るくされたら、眩しいですわ!」
カメリエラが手を止めて、メイベルに文句を言ってきた。メイベルの魔法で目がくらみ、危うく指を切りそうになったのだ。
「ごめんなさい。つい……」
「ちょっと驚いたので、強く言いすぎましたわ。それにしても……」
謝るメイベルにそう返したカメリエラが、目を細めて天井を見上げた。天井では魔法の光が白く輝いている。
「これは明るいねぇ。お嬢ちゃん、灯りの魔法が使えたのかい?」
部屋が昼のように明るくなったことに、メルカトル夫人も驚いていた。そんな大人たちとは対照的に、
「うわぁ〜、あっかるぅ〜い……」
「すごい!! お姉ちゃん、魔法が使えるんだ!」
女の子2人は驚くよりも感動が先に立ち、瞳を輝かせてはしゃいでいた。
そして一番小さな女の子も天井を見上げて、
「明るい……の」
と小さな声で零した。その時、
「お嬢ちゃん。あんたの袖章……」
メルカトル夫人が、そう言ってメイベルの腕を指差してきた。部屋が明るくなったことで、袖章の図柄に今さらながら気づいたようだ。
「あんた、魔法の使える若い聖修道女ってだけじゃなくて、本職は宮廷料理人だったのかい。いったい、何者だい?」
「いやぁ〜、何者と問われても……ですねぇ……」
メルカトル夫人の質問に、メイベルが困った。そこにカメリエラが、
「それでは、こういう粗末な食事は失礼でしたでしょうか?」
と言ってくる。
「あ、そうそう。気になってたんですけど、この宿には食堂やお風呂はないのですか?」
「あ……」
突然、メイベルの口にした疑問に、メルカトル夫人が変な声を出した。その夫人が、
「ここは隊商宿だから、食堂も風呂もないんだよ。旅の商人が雨や夜風をしのぐだけの場所で、せいぜい洗い物をする水場が用意されているだけで……」
と、気まずそうな声で教えてくれる。それでメイベルは、
「ああ、それで自分たちで食事を……」
と、ようやく状況を合点した。
「これは悪いことをしたかねぇ……」
「いえ、そんなことはありませんよ」
頬に手を当てるメルカトル夫人に、メイベルが恐縮したように答えた。
そのメイベルの目が、一番下の女の子に向かった。その女の子は気怠そうにテーブルに伏せて、指でパンに載せたチーズを突っついている。
「……ん!?」
女の子の様子を見たメイベルが、何か違和感みたいなものを感じた。その女の子を見るメイベルの視線に気づいたメルカトル夫人が、
「こら、ルビノ。お行儀悪いじゃないか!」
と、焦ったように女の子に注意する。
「あの、お行儀が気になってるんじゃなくて……」
娘を叱る夫人を制して、メイベルが女の子をしげしげと観察する。そのメイベルの視線が気になるのか、女の子がゆっくりした動きで顔を上げてきた。
「失礼ですけど、この子、何かの病気では……?」
「病気って……」
メイベルの言葉に、メルカトル夫人が驚いた表情を浮かべた。その夫人の見ている前でメイベルが女の子の手を握って「冷たいわね」と零した。そして「ちょっとゴメンね」と女の子に断って、耳をそっと心臓のあたりに当てる。
「くちびるの色が悪いから心臓が悪いのかと思ったけど、正常ね。心臓の病気とは違うみたいだわ。でも、手の先が冷たいってことは血のめぐりが悪いってことだから……」
女の子から耳を離して、メイベルが別の理由を考える。そのメイベルの姿を、夫人たちが驚いた顔で見ていた。
「お、首筋に小さな炎症はっけ〜ん。……あ、いきなりすみません。心臓は医療係の先輩に詳しく手ほどきを受けたことがあるので……。えっと、心拍に問題はないみたいです」
「いや、それはいいんだけどねぇ」
メイベルはいつもの観察癖が出て、つい女の子の具合を確かめようとしたようだ。そんなメイベルをジッと見るメルカトル夫人が、
「あんた、ホントに何者なの?」
という疑問を放ってきた。
「おとなしいとか、ぐずでのろまな子と思う人はいても、あんたみたいにすぐに病気と気づいた人はいないよ」
「えっと、そういうもの……ですか?」
メイベルが天井を見上げて、何と答えれば良いのか迷っていた。そのメイベル自身も、
「う〜ん。これという理由はないですけど、なんか直感みたいな……」
本当に直感で病気と感じただけで、これという理由があって病気と思ったのではなかったようだ。
そんなメイベルのところに、女の子の姉が近づいてきた。だいたい7歳ぐらいだろうか。その子がメイベルの服を引っ張りながら、
「あのね。お医者さまが、ルビノの病気は治らないんだって。だから、お母さんは病院へ置いておくより、一緒にいることにしたの」
と話しかけてくる。
「病院に置いて……じゃなくて、一緒に?」
「サフィアちゃんの話は、肝心の部分が抜け落ちてますわ」
子供の話だけに、説明をつなぐ情報が足りなかった。それをカメリエラが、
「お医者さまが仰るには、ルビノちゃんの病気は今の医学では治せない難しいものだそうですの。それで女将さんはルビノちゃんを入院させても治らないのならと、一緒にいることを選んだのですわ。その結果、ルビノちゃんの死を早めるかもしれませんけど、病院で独り寂しい思いをさせるより、一緒にいる時間を増やす方を選択しましたの」
と補足を加えて説明し直した。
「それは……」
メイベルが触れてはいけない話を引き出してしまったと思い、みんなに悪いという気持ちになった。メルカトル夫人の方も、
「これは悪い話を聞かせちまったね。まあ、気にしないで食事にしようじゃないか」
と、重くなった空気を明るく戻そうと努めてくる。
「さあ、聖修道女のお姉ちゃん。食べましょう」
もう1人の夫人の娘が、そう言って食事を急かせてきた。この子の年は10歳ぐらい。男の子を含めた中で、もっとも年長らしい子だ。そのためか年の割にしっかりした雰囲気を持っている。今も場の空気を察して、心配りをしてきたのだろう。
「そうですね。食べましょうか」
そう答えたメイベルが席に座り直した。だが、ふとお皿に目を向けて、
「ところで、食事はいつもこんな感じなのですか?」
と気になったことを尋ねた。質問はメルカトル夫人に対してだ。だが、メイベルの視線はお皿から、病気の女の子ルビノに移っている。
「そうさ。今日はお茶だけど、これがスープや牛乳の日もあるぐらいかねぇ。まあ、食べる物なんて、お腹に入ればそれで十分ってものさ」
「それは、ちょっと違うと思いますけど……」
メルカトル夫人の大雑把な考えに、メイベルが何と説明すれば良いのか迷いつつも異を唱えてきた。
「やっぱり宮廷料理人としては、こういう粗末な食事では我慢できないかい?」
「いえ、わたしが宮廷料理人として我慢できないのは、ただ食べるだけの食事です」
そう言うと、メイベルがテーブルに向かって手を広げた。直後、テーブルの上が光に包まれ、お皿に載っていたパンやチーズが宙に浮かび上がっていく。
「まさか、魔法で料理を出すのかい?」
「いくら魔法でも、そんなことはできませんよ」
メルカトル夫人の言葉に、メイベルが苦笑しながら否定した。
「普段は魔法を使って料理はしませんし、使っても火の魔法ぐらいなのですが……」
魔法を解説するメイベルの手が上に動いた。直後、テーブルの上に雲が現れる。
「何をするんだい!? そんなことをしたら、パンが濡れるじゃないか」
「いえ、これでいいんです。ホントは霧吹きでパンを濡らすんですけど……」
夫人たちが見ている前で、パンが雲の中へ入っていった。
「宮廷料理人の役目は、使える材料が目の前に用意されたものだけでも、それが持つ味を最大限に引き出して、最高に美味しい料理に仕立てることです。たとえ材料がパンとチーズだけでも、美味しく仕立てることは可能です」
とメイベルが言い放った直後、雲が吹き飛ばされるように消えていった。
やがて宙に浮かぶパンから、ジュージューと音が聞こえてくる。
「トースト?」
パンを見上げるメルカトル夫人の口から、意外そうな声が漏れた。
やがて浮かぶパンから、香ばしい匂いが漂ってきた。焼き立てのパンと、チーズの焦げる香りだ。それに誘われるように、誰かのお腹がググゥ〜と鳴る。
「わっ! イヤですわ!!」
音を立てたのはカメリエラだった。
そのカメリエラの前に置かれたお皿に、トーストされたパンがゆっくりと降りてくる。
「さあ、できました。冷めないうちにお召し上がりください」
「はあ……」
目の前に降りてきたパンに目を落として、メルカトル夫人が呆気に取られた顔をしていた。そんな表情になる理由は、
「いくら宮廷料理人とはいえ、パンとチーズしかなくちゃ、トーストしか作れないわね」
ちょっと期待が大きすぎたのと、できたものがありきたりのトーストだったからだ。
「では、いただきます」
両手でパンを持ち上げた夫人が、口に運んでカリッとかじる。直後、
「…………これが……あの堅いパン…………だったのかい?」
口の中に広がった食感に、夫人が言葉を失っていた。メイベルの手にかかったパンは、夫人がトーストの味としてイメージしていたものを根底からぶち壊していた。
「すごいですわ。これがいつものパンとチーズだったもの……ですの?」
カメリエラも信じられない食感に、自分の舌を疑っている。
カメリエラがトーストをかじったところから白い湯気が昇っている。外は焦げてカリカリしている。だが、内側はふっくらと柔らかくなっていた。しかも口の中でパンが強い味わいを主張していたのだ。メイベルが雲に入れてパンを湿らせたのは、このふんわりした食感と小麦の持つ本来の味を引き出すためだった。
見た目はどこにでもあるトーストでも、味や食感はまったく別物に仕上がっている。しかも載せたチーズが溶けて広がり、トーストにほのかな塩味を与えていた。
「どう、ルビノちゃん。美味しいかな?」
「うん。美味しいの」
朴訥とした口調ではあるが、表情には笑みがあった。そんなルビノの頭をなでながら、
「女将さん。ルビノちゃんを病院で独りぼっちにさせたくなくて、連れてきた気持ちはわかります。でしたら、食べる物にも気を配ってあげませんか。せっかく病院で出される味気ない病院食を食べずに済むのに、外に出ても同じでは可哀想です」
と語り出した。
「人は食事を摂らないと生きていけません。生きるために必要な義務みたいなものです。だけどお腹を満たすだけの食事では、ホントに義務だけで食べてるような寂しい時間になってしまいます。食事は1日に3回もあるんです。必ずあるものだからこそ、もっと美味しく、もっと楽しく食べなくちゃ、人生、何か損したみたいじゃないですか」
「そう言われると……」
メルカトル夫人には、今の言葉は痛かった。
ルビノが美味しそうにトーストを食べている。その姿がすべてを証明していた。
ルビノを病院に置いて寂しい思いをさせたくない。その気持ちに偽りはない。だが、食べる物への配慮が欠けていたのは事実だ。ルビノへの気持ちが目先の自己満足と大差なかったことに気づかされたのだ。
「せっかくだから、ルビノちゃんには、もっといろいろなものを味わってもらいたいわね。明日の朝はちょっとお散歩に出て、食べられる野草を摘んでこようかしら」
トーストを半分食べたルビノが、メイベルに尊敬するような眼差しを送っている。そのルビノの視線には気づかず、メイベルは早くも明日のことを考えていた。今のメイベルの脳裡には、自分がどうしてこの場所にいるのか。という以前に自分の命が狙われてるかもしれないという気持ちが、スポ〜ンと抜け落ちていた。
翌朝、隊商はフルヴィ川を渡る船に乗っていた。馬車ごと貨物室へ乗り込めるフェリーのような船だ。20km近くもある川の両岸を約2時間半かけて結ぶ連絡船である。
この連絡船は鋼鉄製で、ナバルとメイベルが救世の旅でウィート川を下る時に乗った船と同じ動力船だ。ただし、この船は長時間走ることがないため、前に乗った時の船のように、デッキに燃料用の液化ガスのタンクは増設されていない。そのためデッキは広く、大勢の乗客がそこで短い船旅を楽しんでいた。時刻表によれば昼前には川の南岸にある港へ到着する予定になっている。
その船のデッキで隊商の仲間たちと風に当たっていた9歳ぐらいの男の子が、
「ずっる〜い! 女だけで美味しいもの食べてたのかよ」
悔しそうな顔をしながら広い客室に飛び込んできた。
「おや、アダモ。聞いちゃったのかい?」
と軽く流したのはメルカトル夫人だ。客室にはたくさんの長イスが置かれている。
夫人は外の見えるイスにルビノを寝かせて、船旅の景色を楽しんでいたのだ。
ちなみに今日は天気が良いため、客室にいる人は数えるほどしかいない。
「サフィアから聞いたよ。美味しいものって、何食べたんだよ!?」
「いつものパンとチーズだよ」
「ウソだ!! あの聖修道女のお姉ちゃんが魔法で、食べたこともない美味しいものにしたって言うじゃないか」
「たしかにあの味は食べたことがなかったわねぇ。いつものパンとチーズだけど……」
一番上の息子アダモの言葉に、夫人はどう説明すれば良いのか困っていた。
「パンとチーズだけじゃないだろ。朝はもっと違うものが出たって……」
「違うものといっても、道ばたに生えてた草だよ」
「ウソだ! ウソだ!! 道ばたの草が美味しいわけないじゃんか!」
「アダモ。何も泣くことないじゃないの……」
実の親であっても、食べ物の恨みは恐ろしいものだ。アダモの目は、まるで末代まで祟ってやると言わんばかりの形相で母親を睨んでいる。
さて、そんな騒ぎを生み出したとは露知らないメイベルは、
「これも違うなぁ〜……」
船尾のデッキにある日除け用のパラソル付きのテーブルに座って、持ってきた分厚い百科事典を広げて真剣な顔で調べ物をしていた。
「メイベルちゃん。何を調べてますの?」
そこに両手にマグカップを持ってカメリエラがやってきた。そしてメイベルの前に一方のカップを置いて、空いている席に腰を下ろした。
そのカメリエラの服装は、白いブラウスと茜色のスカート。襟元には黒いリボンが巻かれ、藍色で袖のない上着を羽織っている。メルカトル商会の売り子の制服姿だ。
「ルビノちゃんの病気です。あれと似た病気を、昔、見たことを思い出して……」
「見たことを?」
「ええ、宮廷に来た貴族のお坊ちゃんでした。その時もお医者さんは治せないとサジを投げてたのですけど……」
「なるほど。それですぐに病気と気づきましたのね」
カメリエラがなるほどと納得しながら、持ってきたマグカップを口に運ぶ。
「それで、その貴族のお坊ちゃんはどうなりましたの?」
「治っちゃいました」
「…………へ!?」
メイベルの答えに、カメリエラの口から間の抜けた声が出た。
「先輩の料理人が、料理で治しちゃったんです」
「料理で……ですの? お薬は?」
「使ってません。と言うか、その時に料理を作った先輩は、『食べ物は薬だ』が信条の人だったんですよ。それで、どの食べ物にどんな効用があるのか詳しくて……。で、わたしもその先輩から、お薬になる食べ物のことをいろいろ教わったんです」
メイベルが当時を懐かしみながら、思い出話を語って聞かせた。
「それでメイベルちゃんは、薬草にお詳しいのですね。朝の食事に使ったのは、滋養強壮に良い薬草だったかしら。さっそくルビノちゃんの病気を治そうと、骨を折ってくださいましたのね」
「えっと……、それが何と言うか……」
カメリエラの言葉に、メイベルが困ったような声を出してきた。
「実は食べ物について調べ始めたら、わたし、食べ物の背景にある博物学とか、薬草や毒草のことを調べる方が面白くなっちゃったんですよねぇ〜。それで先輩が教えてくれてた1つ1つの食べ物の効用のことが、後まわしになっちゃって……」
「はい!? 後まわし?」
メイベルの話に、カメリエラがぽかんとしたハニワのような顔になっている。
「あの時に先輩が、いったいどんな料理で治したのか、さっぱり思い出せなくて……」
「はぅ……。それは……」
カメリエラが心の中で「ダメじゃん」とツッコミを入れた。そんなカメリエラの前で、
「一番肝心な食材の効用を知らないままでいたなんて、これは大失敗だわ」
メイベルが自戒しながら頭を抱えている。そして、
「とにかく、いろいろな料理を出して、様子を見るしかないのかなぁ〜……」
と零した。そんなメイベルの呟きを聞いたカメリエラは、
(これはラッキーかも……ですわ)
と、内心ではメイベルのいろいろな料理が食べられると歓迎している。
「あら、中隊長さん。そんなところで寝てましたの?」
ふと顔をメイベルの後ろに向けたカメリエラが、そこにナバルの姿を見つけた。ナバルはメイベルに背中を向ける恰好で、テーブルに突っ伏していたのだ。
「ナバルは夜、よく眠れなかったみたいです。なんか、怪獣が軍楽隊を率いて行進するとか、よくわかんないイビキを聞かされたとか……」
「うふふ。それはきっと同じ部屋に、旦那さまと護衛隊長さんがいたのですね。お2人のイビキは強烈ですから、それは悲惨でしたわ」
口では悲惨と言いつつ、カメリエラの目は笑っていた。
もっとも、メイベルの方はそれがどんなイビキか想像できないようだ。
「なにかしらねぇ〜」
と零して、青い空を見上げた。
青空の下に船の煙突が見える。煙は出ていないが、熱で空の雲が揺れて見えていた。
さて、その頃、帝都では、
「まずい。まずい。まずい。ソロリエンスに昨日のニセくじのことがスッパ抜かれてるではないか。しかもとんでもないウソ記事で……」
朝刊を握りしめた執政幹部議員の1人が、血相を変えた顔で部屋に入ってきた。ここは帝国議会の議事堂にある時計塔の最上階だ。議事堂は聖サクラス教会の敷地内で、大きなドームのある大聖堂の西側に建てられている。
「おい、今朝の新聞に……」
「遅いではないか。もうほとんどの者が集まっておるぞ」
「みなも新聞を見て、慌てて駆けつけてきたのだ」
すでに部屋にある席の8割が埋まっていた。
「大司教とアキロキャバス卿は朝の礼拝ですかな?」
「今日の礼拝は定例行事なので、はずせないようですよ」
まとめ役の2人には別の大切な用があるため、部屋には来ていなかった。そのため集まった議員たちは自由討論の形式で情報交換を行っている。
「それで、話はどうなっておるのか?」
「記事に書かれたこと以外、まだわかってはおらぬ」
「問題は、誰がこんなウソ情報を垂れ流したかだが」
「『救世の勇者と聖女を亡き者にしようと、悪意で作ったくじを』とは……」
「いやはや、開いた口が塞がりませんな」
遅れてきた議員が、そう零しながら自分の席に腰を下ろした。
「ビーズマス卿が卑劣なニセくじを作って、2人を亡き者にしようとしたのは事実です。それを見て2人が逃げ出したことも……」
「まあ、それはそうなのだが、この記事では我々が悪意のくじを作ったことになるぞ」
「そこはいつものソロリエンス社のやり方ではないか。記事にあいまいな部分を残し、あとで文句を言われた時の逃げ道を作っておくという」
「というより憶測で適当なことを書いておるから、あいまいな書き方しかできないと思うのだが……」
議員たちが不機嫌な顔で意見を交わしている。
「それより気になるのが、このあとだ。『なお昨晩、逃走した2人に対して懸賞金付きの手配書が出された。逃走した2人はともに10代後半。近衛中隊長と聖修道女の恰好をしており、聖女は特徴的なピンクブロンドである』と……」
「2人の特徴が流れてしまったか」
1人が読み上げた記事を聞いて、周りの議員たちが大きな溜め息を吐いた。
「ピンクブロンドとは……。メイベルくんの髪は目立ちますからなぁ」
「そうそう。それで隣にジェイドブロンドの子が並んでいると、すぐにメイベルちゃんとパセラちゃんとわかりますからね」
「ピンクブロンドはストロベリーブロンドの中でもひときわ明るく目立ちますからね。たしか何千人に1人でしたか? ついでにパセラちゃんのジェイドブロンドの方が珍しくて、数万人に1人ですよ」
「あのジェイドブロンドは綺麗ですなぁ〜。……って、話が脱線しておるぞ」
幹部議員の1人が、そう言ってノリツッコミを入れてくる。それに、
「というか俺たち、手配書なんか作ったか? しかも懸賞金付きで……」
と、別の議員からもっともな疑問が出されてきた。
「大司教がまず2人を落ち着かせるのが先決とお決めになって、しばらく様子を見守ることにしたのではなかったか?」
「うん。それで念のために電信は打ったが、手配書は作ってないはず……」
「そうだな。それに電信では2人の身体的な特徴までは伝えてなかったと記憶してるが」
議員たちの間から疑問の声が上がった。
そして誰からともなく「う〜ん」という声が漏れてきていた。
帝都で幹部議員たちが新たな疑問に直面した頃、話題のメイベルと同行する隊商は、
「いらっしゃいませ。北のユーベラスから持ってきた今年の冬物ですわ」
「まだ陽気が良いからって、明日はもう10月だ。冬の準備を忘れちゃいけないよ。北の人は寒さを良く知ってるからね。こっちで買うコートよりも間違いなく暖かいよ」
無事にフルヴィ川を渡り終え、さっそく港の広場に店を開いて商売を始めていた。
この隊商は南へ向かって旅を続けている。そこで北で冬物を仕入れ、それを売り歩くのには良い季節だ。
とはいえ、北の土地向きの厚手の冬物は、暖かい土地では売れなくなってしまう。そのため少しでも南へ行く前に、早く売り払ってしまおうとしているのだ。
隊商を乗せてきた馬車は通行の邪魔にならないように、広場の片隅に駐まっている。店はその馬車の前で、広場中央側へ向かうように敷き物を広げ、それで行われていた。
店の横では警護の者たちが客たちを見ながら万引きに目を光らせている。
馬車を牽いてきた騾馬たちは、今も馬車に繋がれたままの恰好で飼い葉桶で昼食を摂っているところだ。
そして馬車の横では人の分の昼食を用意しようと、メルカトル氏が材料を準備している。
「いやぁ〜、2人が準備を手伝ってくれるなんて助かるねぇ。しかも宮廷料理人に手伝ってもらえるなんて畏れ多いよ」
「いえ、こちらもお世話になってる身ですから」
メイベルは調理器具の準備を手伝っていた。まずは大鍋や庖丁を水で洗い、清潔にするところからだ。
その横ではナバルが洗い終えたジャガイモの皮を、小さなナイフでむいている。当初は警護を手伝うはずだったが、近衛中隊長の服を着た者が店の横に立っていると市民たちが居すくんで寄ってこないとわかったために引っ込むことになったのだ。そこで仕方なく、ここでジャガイモの皮をむいているのである。
メイベルが洗い終えた大鍋を持って、簡易コンロの上に載せた。そのついでに、
「材料はお芋とタマネギですか。あと何を使うのですか?」
と、どんな材料を使うのか目で確かめつつ尋ねる。
「これだけだよ」
「…………へっ!?」
メルカトル氏のサラッとした答えに、メイベルが間の抜けた声を発した。
「それで、味つけは……?」
「ここに塩があるよ」
それだけだった。それを聞いたメイベルが眉間に指を押し当てて、しばしどうしたものかと考える。
「念のためにお尋ねしますけど、いつもこのような料理なのですか?」
「そうだよ。あ、干し肉とニンジンが切れたままだから、いい加減に仕入れないといかんなあ」
「それは……何と言うか…………」
今の言葉で、メイベルは隊商の食生活がどういうものか、十分に想像できた。
旅をしてまわるため、材料は保存の利くものばかりだ。ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、干し肉。そして昨晩の堅いパンも保存が最優先された結果だろう。そしてチーズも。
「材料はお芋とタマネギだけ……。調味料は塩だけって……。これではダメだわ」
これではいけないと思ったメイベルが、メルカトル氏が食材を入れて運んできた大きなザルを手にした。
「ちょっと待っててください。すぐに足りない材料を摘んできます!」
「摘んで!?」
メイベルの一言に、メルカトル氏の動きが止まった。そのメルカトル氏の見ている前で、ザルと魔法の杖を持ったメイベルがすたこらと川岸へ向かって歩いていく。
「父ちゃん。ぼく、お姉ちゃんを手伝ってくる!」
唖然とするメルカトル氏の横を、馬車から飛び降りたアダモが駆けていった。
「お兄ちゃん。お勉強は?」
「そんなの、あとあと!」
すぐ下の妹サフィアにそう言い返したアダモが、メイベルに追いついてザル持ちを手伝おうとする。アダモがメイベルが魔法で料理するところを見たくて、先ほどから勉強どころではなかったのだ。そんな時にメイベルがザルを持ってどこかへ出かけようとするのを見て、見逃して堪るかという気持ちから追いかけていったのだ。
「えっと……、摘むって……何を……?」
メイベルを目で追うメルカトル氏は、事態が呑めずに今も茫然としたままだった。その横で黙々とジャガイモの皮むきをしていたナバルが「いつものことだ」と零している。
それからしばらくして我に返ったメルカトル氏が、
「お嬢ちゃ〜ん。お手伝いはぁ〜!?」
思いっ切り情けない声を、メイベルの背中にぶつけるのだった。
さて、そのメイベルは、
「あ、ここにもあったわ。ここは草が元気に育ってるわね」
川岸の土手に来て、さっそく食材探しを始めていた。
ここは海から川を溯ってくる高潮を防ぐための堤防だ。対岸にある港町ほどではないにせよ、こちら側にも大勢の人たちが住んでいる。だが、さすがに野草を摘んで食べる人は少ないようだ。おかげで土手は野草に富み、苦もなくたくさんの材料が集められる。
「聖修道女のお姉ちゃん。ホントにこれ、食べられるの?」
大きなザルを抱えて、アダモが不安そうな顔をしている。
アダモはメイベルが魔法で料理するところを見逃すまいと思ってついてきた。だが、本当に母親が言った通りに道ばたの草を集めているため、不安を覚えているらしい。
「はい、これもお願いね」
メイベルがアダモの持つザルに集めてきた野草を放り込んだ。それで底の見えなくなったザルの中身に、
「ぼく、牛やウサギじゃないんだけどなぁ」
と、アダモが不満を漏らしてくる。
「わたしたちを入れて20人だから、もう少し集めた方が良さそうね」
「こんなにたくさんあるのに、明日の分まで集めるの?」
「それでお昼の分よ。こういう野草は、火を通すと小さくなるのよ。だから、もう少し集めておきたいわ」
「これで昼だけ? そういうものなの?」
話が納得できないのか。アダモは野草に目を落としてくちびるをとがらせていた。
その表情を見たメイベルの脳裡に、
「ところでアダモくん。いつもキャラバンの食事は、旦那さんが作ってるの?」
という疑問が湧き上がってきた。
「そうだよ。たまにカメリエラと、トリフォニーおばちゃんも手伝うけど」
「トリフォニーさんって、護衛隊長さんの奥さんね」
メイベルの確認に、アダモが首を縦に振って答えてくる。
「女将さんは作らないの?」
「母ちゃん、料理も洗濯もできないんだ。だから、ぜんぶ父ちゃんがやってんだよ」
「それは……。旦那さん、大変ね」
「そうでもないんじゃない?」
メイベルの思ったことを、アダモが間髪を容れずに否定してくる。
「父ちゃんは商売人に向いてないみたいでさ。お店の仕事は勘定合わせから何から、ぜ〜んぶ母ちゃんがやってんだ。爺ちゃんからキャラバンを引き継いだのも母ちゃんだよ。だから父ちゃんはお店以外の雑用を、ぜんぶ引き受けてんだ」
「あら、そうなの。だから女将さんがキャラバンの代表なのね」
アダモの今の説明で、これまで感じていた疑問がすべて納得できたようだ。
「でも、旦那さんも、あまり料理のことを知らないみたいだし……」
「そうなの? トリフォニーおばちゃんやカメリエラの作る料理より、ずっと美味しいと思うけどなぁ」
「このキャラバンの女性たちって、いったい……」
世の中には下には下がいるようだ。
「あ、ついでだからルビノちゃんのために、薬草も摘んでおきましょう」
ふとメイベルの目に、野原に生える薬草の姿が飛び込んできた。持っていた野草をザルに入れたメイベルが、薬草に向かって歩いていく。
「薬草!? お姉ちゃん、薬草なんてこんなところに生えてるものなの?」
ザルを持って追いかけるアダモが、そんなことを聞いてきた。アダモの考える薬草は、特別な場所に生えているようだ。
「どこにでもあるわ。ただし、それが目当ての薬草かどうかは別問題だけどね」
メイベルがすぐ近くに別の薬草が生えているのを見つけた。さっそくそれも摘み取ると、もっとないかと野原をゆっくりと見まわす。
「お姉ちゃん。それは何の薬になるの?」
「こっちは滋養強壮で、こっちは熱冷ましよ。……あ、ルビノちゃんは指先が冷えてたから、冷やす薬草じゃなくて、身体を温める薬草じゃないと意味がなかったわね」
そう言いつつも、メイベルは摘んだ薬草をザルの中に放り込んだ。
それで中身が、少しだけ山盛りになった。放り込まれた薬草から、小さな虫が這い出してくる。葉の裏に隠れていたのに、その草が摘まれたために慌てているようだ。
その様子をしばらく見ていたアダモが、顔を上げて薬草を摘むメイベルに目を向ける。
そこに、
「ああ、これは聖女さまではありませんか」
と言いながら、品の良さそうな女性がメイベルに近づいてきた。その女性が胸の前で両手を組み合わせ、
「聖女さまが雑草をお集めになられるなんて、なんと痛々しいお姿でしょう……」
神に祈るような仕種をしながら、メイベルを哀れむような顔で近寄ってくる。
「大変な陰謀に巻き込まれて、さぞかしお食事にもお困りなのでしょう。きっとサクラスから、着の身着のまま無一文で逃げ出されたのですね。でも、早くお逃げになりませんと、お命が危ないですわ」
「…………はいっ!?」
女性が何を言ってるのかわからず、思わずメイベルが首を傾げた。そんなメイベルの反応に女性が、
「ひょっとして聖女さま、懸賞金付きの手配書が出たことをご存じないのかしら?」
ということに気づいた。
「手配書!?」
「ええ、そうです。それも生死を問わずというものですの。早くお隠れになりませんと、賞金稼ぎたちに見つかって……」
そこまで言いかけた女性が、驚いた目でメイベルの後ろを見て固まった。その女性が次の言葉を口にするより前に、
「おい、女。おまえ、この手配書にある帝都から逃げた聖修道女だな?」
という声が、背後から投げかけられてくる。
「誰!?」
振り返ったメイベルの後ろに、2人の若者が立っていた。見るからに町のチンピラという感じを漂わせた、大男と小肥りの悪っぽい恰好をした男たちだ。
「おまえが手配書にあるメイベル・ヴァイスだな。金貨300枚の賞金首の」
「アニキ。こいつに間違いないっす。ピンクブロンドの聖修道女なんて、何人もいるわけないっすよ」
「ピンクブロンドなんて初めて見たぜ。ホントにピンクに見えるんだな。聖修道女の服だって黄色いとは聞いていたが、見たのは初めてだぜ」
アニキと呼ばれた大男がニヤニヤとそう言いながら、太いチェーンをジャラリと垂らした。それをゆらゆらと前後に揺らしながら、メイベルを威嚇しようとしてくる。
子分の方も左手に手配書を持ちながら、ポケットから小刀を出してきた。子分は刃を傾けて、反射した日光をメイベルの顔に当てる嫌がらせをしてくる。
それを見ていた女性が、巻き込まれては堪らないと2歩、3歩と後ずさりする。そして、
「せ、聖女さま。どうかご無事で……」
と言い残すと、慌ててその場から逃げていった。
「ピンクブロンドの聖修道女ねぇ。それは、わたし以外にいないでしょうね」
逃げていく女性をチラッと見たメイベルが、視線をすぐに男たちに戻した。手配者が自分とは別人である確率がどれだけ小さいか。メイベルはそれを理解してるだけに、否定するのもバカバカしいと開き直っている。そして不愉快そうな顔で魔法の杖を構えると、
「だけど、金貨300枚って……。高いのか安いのか、よくわからない金額だわ」
と零して、アダモを背中にかくまった。
金貨300枚という金額は、街の中に小さな家が買えるぐらいの金額だ。市民にとっては大変な金額であるが、それが賞金額となると微妙なところである。
「アニキ。もう1人のナバルってヤツがいないっす。どうしやすか?」
「おめえ、なんでガキを連れてんだ? ま、2人合わせりゃ金貨350枚だが、帝国の剣術大会で準優勝したやつがいないのなら好都合だ。女だけでも捕まえりゃ十分な賞金だぜ」
そう言うと、大男がジャランと音を立ててチェーンを振り回した。チェーンが風を切って、ビュンビュンと唸りを上げている。
「2人で金貨350枚って、じゃあナバルは50枚!? それは可哀想だわ……」
またメイベルがわざとらしく溜め息を吐いた。
「おい、女。どうせ、もう逃げられないんだ。痛い目に遭う前に、おとなしく捕まれ」
「いやよ」
大男の言葉を、メイベルが考える素振りもなく拒んだ。
メイベルの声は冷めていた。これが怯えた感情の混じった声でなかったことが、大男には意外だったのだろう。それが癇に障ったのか、それとも見下されたと感じたのか。男の顔が徐々に赤くなっていく。
「てめえ、いい度胸だ。覚悟しやがれ!」
ついに癇癪を起こした大男が、チェーンを大きくしならせてメイベルに突進してきた。その大男に杖を向けたメイベルが、
「雷よ!」
と、軽く術を放つ。
「うぎゃぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜……」
振り回されるチェーンに雷が落ち、男が悲鳴を上げた。衝撃でいくつもの輪が砕かれ、チェーンはメイベルに達することなく周りにばらまかれていた。
そのチェーンを持つ男を貫く電撃が、
「ぎょえぇぇぇ…………」
突然向きを変えて、横にいた子分を側撃する。
そして、一瞬のうちに黒焦げにされた男たちが、草むらに倒れて痙攣していた。
「お、お、女……。おまえ、魔法が使えたのか……?」
大男が草むらを這いながら、メイベルにそんなことを言ってきた。
「あのね。魔法の杖を持ってるんだから、普通わからない?」
「う、迂闊だったぜ……」
そこまで言って、大男ががっくりと倒れた。隣では仰向けに倒れた子分が、白目を剥いて泡を吹いている。
「うわぁ〜、お姉ちゃん、すっご〜い……」
一部始終を見ていたアダモが、メイベルに尊敬の眼差しを向けて拍手を送っていた。そのアダモの持っていたザルは、地面に落ちている。どうやら感動のあまり、落としたことに気づいてないようだ。
「さあ、早く野草を持って帰りましょう」
メイベルが落ちたザルと野草を手早く拾いながら、アダモにそう言ってきた。
「お姉ちゃん。どうしたの?」
「わたしの魔法じゃ、ちょっと気絶させるのが精いっぱいなのよ。だから、早くここから離れないと、すぐに追いかけてくるわよ」
そう事情を話すと、メイベルは集めた野草をアダモに渡した。
「そうだ。あの手配書……」
すぐに立ち去ろうとしたメイベルが、子分の持っていた手配書に目を向けた。その手配書は先ほどの電撃で少し焦げてはいたが、幸い燃えてはいない。
メイベルはその手配書を拾い上げると、そのまま隊商の待つ広場へ逃げていくのだった。
隊商に戻ったメイベルは、摘んできた野草を手早く調理して食卓に並べていた。調理したのは2品目。野草の油炒めと、パンに塗るための野草ペーストだ。
食卓には、それ以外にもスープが並んでいる。メイベルがいない間に、メルカトル氏が作っていたメニュー。塩茹でしたジャガイモとタマネギを潰しただけのスープだ。
「あ、ホントに美味しい……」
メイベルがそのスープを口に運んで、そんな感想を漏らした。
スープは素朴ながらも、塩加減が利いて美味しく仕上がっている。あまり材料にこだわらないために質素な見た目だが、けして適当な料理ではなかった。どうやら隊商の女性たちが料理できないのではなく、メルカトル氏の料理の腕が良いために、相対的に美味しくないと言われてるのだろう。
実際にそれを物語るように、アダモがいつものようにパンをちぎってスープに放り込んだ方が美味しいか、それとも野草ペーストを塗った方が美味しいかで迷っている。
もっとも、
「お兄ちゃん。このパン、焼き立てで美味しいよ☆」
妹のサフィアはパンに野草ペーストを塗って、美味しそうに頬張っている。
食事の前にメイベルが、また昨晩と同じように魔法でパンを焼き直したのだ。それを見たアダモがごくんと生つばを飲み、
「ああ〜、ホントだ。これ、いつものパンだよな!?」
と、一口食べて驚いた顔をしている。それを食卓の横で見ていたメルカトル氏も、
「そうか、パンは焼き直すと美味しくなるのか。それは知らなかったなぁ」
焼き直したパンを1枚失敬して、感心した表情を浮かべた。
「お待たせ。おやおや、今日は豪華だねぇ」
少し遅れて、食卓にメルカトル夫人がやってきた。
先に食卓を囲んで食べているのは子供たちとナバル、メイベルだけ。他の隊商の人たちは、このあと交替で食べるのだ。メルカトル氏は食卓の横にいるが、彼は料理番として最後に食べることになっている。
そんな食卓の空いている席にメルカトル夫人が腰を下ろした。隣ではルビノが気怠そうに突っ伏しながら、もごもごと口だけを動かしている。メイベルはそのルビノを挟んで、反対側の席に座っていた。
「ところで、メイベルちゃん。さっきアダモから聞いたけど、変な男らに襲われかけたんだって? 大変だったみたいだね」
と言って、メルカトル夫人が持ってきた新聞を食卓に置いた。
その言葉を聞いたナバルが食事の手を止め、静かに目を閉じたまま動かなくなる。
「すみません。なんか、手配書が出まわってたみたいで……」
「みたいね。あたしもさっき、街で見かけてびっくりしたよ」
そう言ったメルカトル夫人が、一度置いた新聞を持ち上げた。
「それで、さっき料理を作りながらナバルと話してたんですけど、女将さんたちにご迷惑がかかる前にお別れした方が良いかと……」
「こらこら、あんたらも気が早いね」
メルカトル夫人が、丸めた新聞でビシッとメイベルを制してきた。
別れると聞いて心配になったのだろう。ルビノも気怠そうなままながらも、そうっと手を伸ばしてメイベルの袖を摑んでくる。
そのルビノとメイベルの間に、
「手配書について街でウワサを聞いてさ。それで、さっき新聞を買ってきたんだよ」
と言いながら、メルカトル夫人が丸めていた新聞を広げ直して置いてきた。
「あたしゃ、あんまりソロリエンスの新聞は信用しないんだけどさ。その前にちょっと聞きたいんだけど、あんたら、まさか『救世の勇者と聖女』だったのかい?」
「えっ!? はぁ……、まあ、そうですけど……」
夫人の口から出た思わぬ言葉に、メイベルがナバルと目を合わせながら答えた。それにバンとテーブルを叩いたメルカトル夫人が、
「やっぱり、そうかい。じゃあ、あたしらには世界を救ってくれた大恩人じゃないか」
と、興奮ぎみな声で言ってくる。だが、すぐに真剣な顔に戻ると、
「それが、どういう事情で帝都から逃げ出すことになったんだい? ここには命が狙われてるみたいなことが書かれてるけど……」
と言いながら、メイベルに新聞を渡してきた。向けているのは1面のトップ記事だ。そこには『政治的陰謀か!? 救世の恩を仇で返す仕打ち』と大きく見出しが打たれ、その下に『亡き者にされかけた救世の勇者と聖女、帝都から世紀の大脱出』と躍るような文字で小さい見出しが入れられている。そして、その下には事件を伝える大きな挿し絵が描かれているのだが、そこに描かれているのは角刈りの近衛中隊長と髪を頭の上でお団子に束ねた修道女だ。その絵はとてもナバルとメイベルには見えない。しかも手前に描かれた2人の奥には、トゲ付きの金棒を持った高僧風の男と、先がラッパのようになった銃を構える大貴族風の男が描かれている。これは大司教とアキロキャバス卿のつもりだろうか。
その新聞を受け取ったメイベルの目が、不愉快そうな表情に変わっていく。
「うわぁ〜、ムチャクチャ脚色が入ってるけど、間違いなく昨日のことだわ」
「そうか。俺は100人の追っ手をなぎ倒したのか。すっかり忘れてたな」
メイベルの持つ新聞を横から覗き込んで、ナバルがぼそっと口にした。その呟きを聞いたメルカトル夫人が、「やっぱ、ソロリエンスだわ」とぼやく。その夫人が、
「それで、1つだけ確認させておくれ。あんたら、殺されかけたのは事実かい?」
と、険しい表情になって尋ねてきた。
「う〜ん。それは何と答えればいいのかしら?」
メイベルが答え方に困った。直接、襲われたわけではない。だが、くじの中身がどれも処刑だったのは間違いない。殺されかけたと言えば殺されかけたのだが、ここは答えに困るところだ。それを代弁するように、
「ここに書かれてる『悪意のあるくじ』を引かされそうになったのは間違いない。だが、俺たちは引く前に気づいて逃げ出した。ここに書かれてある通りだ」
と、ナバル簡単にこれまでの経緯を話した。
「なるほど。これは政治的に何かありそうだねぇ」
メルカトル夫人が首を大きく縦に振って、何かを納得したようだ。そして、やにわに立ち上がると拳を胸の高さでギュッと握りしめ、
「使命を果たした英雄が、為政者らの恩を仇で返す陰謀で命を狙われる。くぅ〜っ!! これは最高に燃える状況じゃないか。目の前にその英雄がいるのに、かくまわずして何が善良な市民だい。メイベルちゃん。あたしゃ、俄然、燃えてきたよ!」
天を見上げてブルッと身体を震わせた。
「お、女将さん!?」
「聖修道女のお姉ちゃん。気にしないで。母ちゃん、そういう話が好きなだけだから」
何が起こったのかと思うメイベルに、アダモが食事を続けながらサラッと言ってくる。
メルカトル夫人はこの世にある隠された陰謀や秘密めいた話が大好きだった。アダモはそんな母親の姿に、うんざりしたと言いたそうな顔で食事を続けている。
「ところでさ」
イスに座り直したメルカトル夫人が、メイベルに顔を向けて話を続けてきた。
「別れる別れないは、最終的にあんたらが決めるとして……。せめて、その目立つ恰好だけは何とかしないといけないわね」
「そうなんですよ。それが大きな問題……なんですよねぇ」
夫人の意見に、メイベルが大きく溜め息を吐いた。
世界中にソルティス教の聖職者はごまんといる。サクラス帝国では聖職者は同時に帝国の公務員でもあるため、人口の1割近くが聖職者なのだ。だが、そんな中にあっても聖修道女は数えるほどしかいない。それだけでも目立つのに、聖修道女の修道服は存在を誇示するような黄色だ。これでは目立たないようにする方が難しいだろう。
「そこで提案だけどさ。あんたらがあたしらと一緒に旅をする間、キャラバンで仮の服を用意してあげようじゃないか」
「服を……ですか?」
メルカトル夫人の提案に、メイベルが思わず身を乗り出した。
「悪い話じゃないだろ? 隊長さんには警護の男らと似たような服がいいね。それでメイベルちゃんには町娘っぽい服が……」
「それなら、是非、カメリエラさんみたいな可愛い服を!!」
今度はメイベルが立ち上がる番だった。しかも拳を握るところまで夫人と同じ恰好になって、希望の服装を力強く訴えてきた。
「メイベル。何を熱くなってんだ?」
「わたしだって女の子よ。可愛い服が着られるなら、そっちの方が良いに決まってるわ」
ナバルの一言にメイベルが拳を目の高さまであげて、キッパリと強調してきた。
「わたしは修道女である以上、普段は修道服しか着るものがないのよ。しかも、階級によって服の色まで決まってるから、毎日毎日同じ服しか着られないの。そんなわたしでも他の服を着られる機会が与えられたのよ。だったら、普段着られないような可愛い服を着てみたいに決まってるじゃないの!」
「可愛い服が着てみたいって、おまえなぁ……」
メイベルの気持ちが理解できないのか、ナバルがうんざりしたような顔をする。
「今の聖修道女の服だって十分に可愛いじゃないか」
「えっ!? 可愛い?」
ナバルの何気ない一言に、メイベルの顔がボンと赤くなった。
「これでも可愛い? そうなの♪ あのさ、もう一回言って♡」
「あほ!」
メイベルのお願いを、ナバルが冷たい言葉で断った。
「あはは。やっぱダメなのね。もぉ、ナバルのケチぃ〜♪」
イスに腰を落としたメイベルが、苦笑しながら明るく不満を訴えている。
そんな2人のやり取りを見たルビノが、怠そうな動きながらも、
「お姉ちゃん、壊れた……の?」
と心配そうに母親に聞いてきた。その質問に首を振ったメルカトル夫人が、
「これは青春だよ」
と答えて、ニコニコと微笑むのだった。
さて、メイベルたちが遅い昼食を摂っている頃の帝都では、
「クラウさぁん。ニセの手配書が出まわってるって、ホントですかぁ!?」
そう言いながら、パセラが集配施設に入ってきた。そこではカウンターを挟んで、クラウとレジーナがパセラの到着を待っていた。
「これですよ。ポルタウから戻ってきた伝令兵が持ち帰りました」
「帝都周辺の街に出まわってるらしいわ。問い合わせも、けっこう来てるのよ」
近づいてくるパセラに、2人がカウンターに置かれた紙を指差した。その紙を手に取ったパセラが、
「うわぁ〜、賞金が金貨350枚ですかぁ!?」
と言って目を丸くする。
「この賞金、誰が払うのですかぁ?」
「友人Aくん。問題はそこではないでしょう」
パセラの疑問に、クラウが軽くツッコミを入れる。それで口許を押さえたパセラが、
「ところでレジーナぁ。メイベルたちの目撃情報は、届いてませんかぁ?」
と、気になることを聞いてきた。それに、
「たぶん、届いてると思うけど……」
と答えたレジーナが、困った表情を浮かべる。その理由は
「あれを見てよ。電信室の前。電信はすぐに伝わるから便利と言えば便利だけど……」
電信室の前に紙テープの山が2つできていた。電信は信号で活字を拾い、紙テープに打ち出すようになっているのだ。それで出てきた紙テープが箱に山盛りされ、それを3人の仕分け係が必死に宛て先や報告内容ごとに分けている。
「日に日に出てくる紙テープの量が増えてるのよ。しかも手紙と違って夜中にも送られてくるでしょ。それで今日から仕分けの担当を3人に増やしたんだけど、そのうちあたしたち全員で仕分けしても間に合わなくなりそうだわ」
「ふわぁ〜。大きな山ですぅ」
パセラが紙テープの山を見て目を丸くする。
その見てる前で、電信室から赤い修道服を着た男性修道長が出てきた。彼は電信技師なのだろう。その修道長が箱いっぱいになった紙テープの山を、仕分け中の箱の隣に並べた。それで増えた山を見て、一瞬、仕分け係たちの手が止まる。そして、まるでそろえたように同時に溜め息を吐くと、再び仕分け作業を始めるのだった。
「あの中から目撃情報を探し出すのは、かなり骨が折れそうだわ」
「ですねぇ」
レジーナの言葉に、パセラが呆れたように零す。
そこにまた電信室から修道長が出てきて、紙テープの山を1つ追加した。直後、仕分け係の1人が「いやぁ〜!」と悲鳴を上げた。そして他の2人の制止も聞かず、泣きながら集配施設から飛び出していった。
そんな1日が、また終わろうとしていた。
港町を出発した隊商は、そこから少し南にある草原にいた。そこで今、焚き火を囲んで6台の馬車が円を描くように駐まっている。
すでに夕食を終え、今夜はこのままここで野宿する予定だ。
「メイベルちゃん。薬草の陰干しですの?」
馬車の陰から出てきたカメリエラが、メイベルに気づいて声をかけてきた。
そのメイベルは円を描く馬車の外側にいた。もっとも西側にある馬車の幌にロープを張って、洗った薬草を吊るしているところだ。
「はい。何かあった時のために、お薬はそろえておいた方がいいと思いまして」
そう答えるメイベルは、ひらひらの多い売り子の服を着ていた。
すでに空は暗いが、メイベルの頭上には手許を照らすための魔法の灯りが浮かんでいる。その光に照らされて、メルカトル商会の売り子の制服を着たメイベルの姿が浮かび上がっていた。もっとも、制服とはいえメイベルとカメリエラの服装は少し違っている。メルカトル商会では茜色のスカート、白いブラウス、そして袖のない藍色の上着という基本ルールを決めているだけで、服の形や柄、それからスカーフやリボン、髪飾りなどの小物については何も決められていない。つまり、その部分は売り子が自由にアレンジして良いだけに、各自のセンスが試される制服なのだ。
もっとも、いきなりアレンジするのは、メイベルには難しかったようだ。なので数種類用意されていた基本セットから、取り敢えずサイズの合うものを選んで着ている。
「いろいろ採ってきましたのね」
「右から痛み止め、熱冷まし、腹下し、それから胃腸の具合が悪い時用です。で、一番左側は乾かしたあとで油を搾り取れば、痛み止めの軟膏になるんです。これに今日は採れませんでしたけど、止血用と殺菌用の薬草の汁を加えれば、特製の傷薬が作れるんですよ」
「メイベルちゃん。メチャクチャ詳しいですわ」
メイベルの持つ薬草の知識に、カメリエラが驚いて口を手で押さえる。
「それだけお薬に詳しいのでしたら、薬草を集めて薬問屋に持ち込むとよろしいですわ。お薬はかなりよいお金になりますのよ」
「え!? 薬問屋に持ち込む?」
薬草を干す手を止めて、メイベルが顔をカメリエラに向けた。
「買ってくれるところがあるんですか?」
「ありますわ。しかもお薬は必要な人が多いですから、いつも品薄らしいですの。なので、良い物でしたら高値で引き取ってもらえますわ」
「へぇ〜。高値で……」
メイベルの目が、カメリエラから薬草へ移っていった。
「こんな道ばたに生えてるものを摘むだけで、高く買い取ってもらえるんですか?」
「1本、2本では引き取ってもらえませんけど、数をそろえればお金になりますのよ。よろしかったら明日、立ち寄る街で持ち込んでみますか? ご案内しますわ」
「それじゃ、お願いします。物は試しで、売ってみようかしら……」
いったいいくらになるのだろうと思いながら、メイベルがロープに吊られた薬草を見詰めている。そして思い出したように残りの薬草を、陰干しするためにロープに吊るしていくのだった。
その頃、ナバルは隊商の馬車から少し離れた草むらに転がって、夜空を見ていた。
その夜空は少し白んでいた。馬車のところからメイベルの作る魔法の光が漏れてきているからだ。おかげで暗くて小さな星が見えなくなっている。
その魔法の光が、突然スッと消えてなくなった。と同時に、空が更に黒くなり、頭上に満天の星が広がったような感じを覚えた。
馬車のところからは魔法の光の他にも、焚き火の明かりが漏れている。だが、焚き火は丸く駐まった馬車に囲まれた内側で灯されているため、ナバルのところからは馬車に隠されて見えないのだ。
そんなところで夜空を見上げるナバルの上を、す〜っと星が流れていく。しかし、ナバルは流れ星には気づかなかったのか、何か考え事をしてるようにブツブツと呟いていた。
「ナバル。こんなところで寝たら風邪をひくわよ」
そこにやってきたメイベルが、そう言ってナバルの顔を覗き込んできた。
メイベルが売り子の服に着替えたように、ナバルも警護の人たちと同じような服に着替えている。
「星を見てるの?」
「ああ。綺麗だぞ」
メイベルの問いかけに、ナバルがぶっきらぼうな口調で答えた。相変わらずの態度に、メイベルが肩をすくめる。そのメイベルが空を見上げると、
「ホントだわ。すっごくキラキラしてる」
夜空にちりばめられた無数の星の輝きが目に飛び込んできた。
「わたしも横になっちゃお♡」
そう言うと、メイベルも草むらに横になった。上から見ると、ナバルとは上下逆さまになる恰好だ。しかも、あと少しで頭をぶつけそうなところに寝転んでいる。
「そういえば2か月も一緒に旅したのに、こうやって星を見たことがなかったわね」
「そりゃ、旅の間はほとんど教会に泊まれたからな。屋根の下じゃ星なんか見ないよ」
「それもそうね」
そう話している2人の上を、また流れ星が通りすぎた。
「今、真上に見えてるのはイヌワシ座だわ。天の川を挟んで反対側にあるのがネコ座よ」
「星座か。そういや小さい時、お袋から星の神話をたくさん聞かされたなぁ。天まで逃げたネズミが星座になって、追いかけたネコまで星座になったんだっけ?」
「それで毎晩、夜空を追い駆けっこしてるのよね」
ナバルの話に、メイベルがくすっと笑みを漏らした。そのメイベルが、
「ところでナバル。旅の間のお金、なんとか工面できそうよ」
と、いきなり別の話題を振ってきた。
「工面できる?」
「カメリエラさんから聞いたんだけどね。薬草を薬問屋に持ち込むと、高く買い取ってもらえるそうなの。うまくいけば、お金の心配はいらなくなるかもしれないわ。それどころか、帝国の外へ出てもどうにかやっていけそうよ」
「そっか……。メイベルは薬草のことに詳しいから……」
そう言うと、ナバルが黙り込んでしまった。だが、メイベルはそんなことに気づかず、
「お金に余裕ができたら、まずは馬車が欲しいわね。自分たちの馬車があったら自由に動けるし、荷物運びも楽になるもの。馬はレンタルで済ませるのも1つの手だけど、それだと大きな街の間しか移動できないから、やっぱり自前よね。それに……」
と、お金が入ったあとのことを考え始めた。馬車があれば逃げるのも楽になる。メイベルはそれが最高の名案のように思ったのだ。だが、
「……ナバル。聞いてる?」
ふとナバルから反応がないのに気づいて、メイベルが不安そうに呼びかけた。
「うん。聞いてる」
一応、答えは返ってきた。しかし、まるで気のない返事だ。
「それで……ね」
話を続けようとするメイベルだったが、何となくナバルの雰囲気に気まずさを感じていた。これまでにナバルから感じたことのない重苦しさだ。自分が何か気に障ることを言ったのだろうかという不安が襲ってくる。
「あ、そうそう。星を見てて思い出したわ!」
急にメイベルの口から、そんな言葉が飛び出してきた。
「あのね、空に見える星だけど、遠くにある星ほどわたしたちから遠ざかっているように見えるらしいの。それで、宇宙が膨脹し続けてるって考えてる学者がいるのよ」
「はぁ!?」
いきなりメイベルが語り出した脈絡のない話に、ナバルが調子のはずれた声を上げた。しかし、メイベルの語りは止まらず、
「どうして遠くの星が遠ざかっていくのがわかったのかっていうと、望遠鏡で星を見ると、遠くの星ほど赤く見える現象が発見されたからなの。これには最初、青い光は遠くまで届かないからって別の仮説が出たんだけどね。星の光を詳しく分析すると、光全体が青から赤に向かってズレてることがわかったの。どうしてわかったのか……は、あ〜、忘れちゃったけど、まあとにかく、赤くなる赤方偏移という現象が間違いなくあるのよ」
と一方的に話し続ける。
「そこで問題になるのが、どうして赤方偏移が観測されるのか。その原因なの。それで、20年ぐらい前に最初に赤方偏移を見つけたシャルル・ノアという学者が、宇宙は膨脹しているという論文を書いたの。膨脹してるということは、はるか大昔に始まりがあったってことになるの。それによれば大きな宇宙の始まりが小さな点だったというのよ。
もちろん、それにはすぐに反論が出たわ。で、現在、有力視されているのが、光が長い距離を伝わってくる間に、光のエネルギーが弱くなって赤く見えるという説なの。遠くにある光は暗く見えるけど、これは光の量が減るからよ。でも、もっと遠くにある光は、量だけじゃなくて光のエネルギーも失われていくという説なの。光は色によってエネルギーが違ってね、赤い光よりも青い光の方が強いのよ。
それで、この2つのどちらが正しいのか。それを決めるための観測が始まっているの。赤方偏移を単純にわたしから遠ざかる速さの影響とした場合、2つが正比例してたら、光のエネルギーの減衰が原因となるわ。それで遠くの星ほど正比例より速度が落ちているように見えたら、宇宙が膨脹している可能性が出てくるの。遠くの星ほど速度が落ちるのは、重力の影響よ。それで遅くなる割合から宇宙にある物質のおおよその量が計れるんじゃないかって期待してる学者もいるの。
で、オマケだけど、観測の結果、遠くの星ほど加速して遠ざかるように見えるかもしれないわ。その時は宇宙が3次元ではなくて、4次元空間である可能性があると見る学者がいるの。トンデモ説に思えるかもしれないけど、昔は平らだと思われてた大地が、実は3次元の球体だったのと似たようなものね。地上で遠くにある物は、見てる人から離れるほど頭が遠くの方へ傾くでしょ。これと似た理屈で、もしも遠くにある星ほど加速して遠ざかるように見えたら、宇宙は4次元空間と考えられるそうなの。ということで……」
そこでようやくメイベルの言葉が止まった。それを待っていたように、
「メイベル。少しは落ち着いたか?」
と、ナバルが声をかけてきた。それに、
「えっと……。ありがとう。少し落ち着いたみたい」
と答えたメイベルが、大きく息をして静かに夜空を見上げる。
メイベルはナバルから感じた重い雰囲気に負けて、つい気持ちがいっぱいいっぱいになっていたようだ。それでいつもの取り留めのない解説グセをやらかしたようである。
だが、そんなメイベルを責めもせず、
「メイベル。星とか宇宙に興味あるのか?」
と、ナバルが聞いてきた。
「興味はあるけど……、自分で積極的に調べようって気にはならないわね」
「意外だな。メイベルなら何でも調べようとするものだと思ってたが」
「ものによるわ。星に興味なんか持ったら、一晩中天体観測して寝不足でお肌が荒れちゃうじゃない。星は美容の大敵なのよ。だから……」
「なんだ。魔法と同じ理屈か」
珍しくくすっと笑ったナバルが身体を起こした。
どうやらメイベルの思考パターンの1つが、また理解できたようだ。
そんなナバルの背中を、メイベルが寝転んだまま見上げている。
「だったら、早く寝た方がいいぞ」
「え!? もう帰っちゃうの?」
立ち上がって馬車へ帰っていくナバルに、メイベルが残念そうに声をかけた。それにナバルが振り返らないまま片手を上げ、バイバイとばかり手を振っている。
「もうちょっと一緒にいたかったなぁ……」
相変わらず寝転がったまま、メイベルがナバルの背中を追っていた。そのメイベルが、
「あ〜、きっと星の話なんかしたから、逃げちゃったのかも……。わたしのバカバカ!」
横に丸まるような恰好になって、悶々と1人反省会を始めている。
さて、先に今日の寝床になる馬車へ戻ってきたナバルは、
「女将さん。何をしてんです?」
隣の馬車でメルカトル夫人が何かをしているのを見て、ちょっと覗きに来ていた。
「おや、隊長さんかい。これは帳簿の管理さ」
夫人が小さな机で事務仕事をしていた。机にはいくつもの帳簿が置かれ、他には無数のカードを束ねたものもある。
「帳簿って、何の?」
「あたしらは商売人だからね。商品の仕入れと売り上げ。それを品物ごとに仕分けて集計してるのさ」
そう教えてくれる夫人の手は、説明の間も止まることはなかった。左手には計算卓が握られ、親指で各桁ごとの数字を入れている。この計算卓は各桁にボタンがあって、それを1回押すと1つずつ加算される簡単な仕組みだ。そして桁上がりがあれば上の桁が1つ加算される足し算専用の機械である。
「集計っていっても、ただ計算してるだけじゃないんだよ。これは複式の帳簿といってね、あたしら商売人にとっては計算間違いは命取りだからさ、間違いがあればすぐにわかるような特別な計算方法で集計してんだよ」
「いくつも書いてんだな」
「今書いてるのは、仕訳帳さ。で、元になるのがこっちの基礎伝票だよ」
メルカトル夫人がカードのような伝票の中身を、項目ごとに分けて仕訳帳に書き写している。それに伴い、計算卓がカチカチと激しく音を立てていた。
「大変そうだな」
「そりゃあ大変さ。でもね、どんぶり勘定で商売なんかしてたら、すぐに赤字になっちまうんだ。出入りする金が多くなると、入ってくる金の多さに金銭感覚を狂わされて、出ていく金も多いことを忘れちまうからね。あっという間に赤字転落の借金地獄さ。そうならないためにも、こういうことはキッチリしておかないとね」
メルカトル夫人が集計した値を書き込んで、今の計算は終わったようだ。そして、次に別の帳簿を広げると、
「それに毎日の取り引きを記録しておけば、あとでどこでどう商売すればもっと儲かるかなんて調べることができるだろう。管理は大変だけど、やるだけの価値はあるんだよ」
と説明しながら、集計作業を続けていった。
「へぇ〜。そういうものなのか……」
ナバルはその作業を興味深そうに見ていた。そのナバルをチラッと見て、
「そういや、メイベルちゃん。明日、集めた薬草を薬問屋に持ち込んでみるみたいだね」
とメルカトル夫人が話を振ってくる。ナバルの少し曇った表情が気になるようだ。
「みたいだな。あいつ、愚痴は多いけど生活力はあるよ。野草のことに詳しいから喰う物には困らないし、魔法が使えるからどこでも火を使った料理ができるし、その料理の腕は宮廷料理人を務めてたほどの超一流だし……」
「ホント、あの子の料理は美味しいねぇ。それにどこでも食べられる野草を見つけてくるから、料理が華やかになったねぇ。しかもルビノが体力を付けるためにって、滋養強壮にいい野草を入れてくれてるだろ。まったく、至れり尽くせりじゃないか」
そう話したメルカトル夫人が、集計する手を少し止めた。そしてナバルに顔を向け、
「そう言うあんたは、何か特技はないのかい? 新聞には昨年の帝国剣術大会で準優勝と書かれてたけど、それ以外にさ」
と尋ねてきた。
「剣術以外の特技? 俺は剣のことしか知らない」
夫人の質問に、ナバルがいつものぶっきらぼうな口調で答えた。だが、その声音はやや沈んでいるように感じる。それをすぐに察したメルカトル夫人が、
「それじゃあ、どこかで用心棒するしかないかねぇ」
と言って大きな溜め息を吐き、視線をナバルの腰に落とした。
「追われる身じゃなけりゃ、剣術大会の準優勝者だ。どこの街でも警護隊員として雇ってくれるだろうけど、今は実績を出したら素性がバレちまうものねぇ」
「そうなんだよ。前、メイベルに『お荷物になるな』って言ったことがあるんだが、今のままじゃ俺の方がお荷物みたいで……」
「おやおや、さっきから妙に物思いにふけってるような顔してたのは、やっぱりそういうことだったのかい」
メルカトル夫人が軽く嘆息して、小さく肩を上下させる。そして、
「男のプライドとしては、女に養われたくはないだろうねぇ。特にあんたみたいに剣術大会で準優勝したぐらいの腕を持ってりゃ、男の甲斐性にこだわりたいだろうさ」
と言いながら、また集計作業に戻った。
「それに剣士もいいけどさ。それができるのは若いうちだけだよ。歳を取って体力が落ちてきたら、剣術以外の何かを持ってないと……」
そこまで言いかけたところで、再び夫人の手が止まる。
「そういや、あんた。さっきから熱心に見てるね。帳簿に興味があるのかい?」
「えっ!? 俺、そんなに熱心に見てたか?」
ナバルには自覚がなかったようだ。そんなナバルに、
「少し覚えてみるかい?」
と、夫人がイタズラっぽい声で尋ねてくる。
「こういうことは、メイベルが好きそうというか、あいつの分野のように思うが……」
「メイベルちゃん? ああ、それはないわ」
ナバルの言葉を、メルカトル夫人が手を振って否定してきた。
「メイベルちゃんなら、さっき薬草を干し終えたあとに来て帳簿を見てたけどさ。興味はあるけど自分には必要ないって感じだったわよ。ああいう子は気をつけな。あの子は頭がいいし、自分なりに稼ぐ方法に気づいたみたいだけどさ。それで、いつでも稼げると思って、ついつい無駄遣いするかもしれないねぇ。いつも一緒にいる誰かが、ちゃんと見ててあげないとさ」
「一緒にいる誰かって……、俺か」
夫人の言葉に、ナバルがそう自分を指差して苦笑した。そのナバルに、
「で、帳簿を覚えてみる気はあるかい?」
と、夫人が繰り返し尋ねてくる。
「そうだな。ちょっとやってみたいような……。いや、教えてください」
いきなり気をつけをしたナバルが、夫人に向かって深々と頭を下げた。そして、再び上がってきたナバルの顔を見た夫人が、
「ほう。いい顔になったじゃないか」
と言って、口許をゆるませる。
「それじゃ、そこにあるイスを出して腰かけな。みっちり教えてやるよ」
「はい。お願いします」
体育会系のノリで、ナバルが元気よく返事をしてイスに座る。
そんなナバルに、夫人は帳簿について基礎から教え始めるのだった。




