第4巻:第1章 とにかく南へ
フォルティアース大陸の東で南北に伸びる蒼の山脈。その南にある緩やかな斜面に大きな都が築かれていた。
都の建物は3階から5階建てのレンガ造りが多く、通りもレンガで舗装されている。しかも赤いレンガ、褐色のレンガ、黄色いレンガ、青白いレンガに灰色のレンガと、様々な色のレンガが使われているため、街には豊かな彩りがあふれている。それでいながら華やかさを抑えて落ち着いた雰囲気を保っているのは、都市計画が働いているからだろう。
ここは宗教都市サクラス。大陸最大の宗教ソルティス教の中心地であり、宗教によって80以上の王国が集まる王国連合帝国の帝都でもある。
その街中を大きな荷物を背負った若い男女が駆けていた。近衛中隊長ナバル・フェオールと、ソルティス教の聖修道女メイベル・ヴァイスだ。
ナバルは腰に大きな剣を差した剣士。メイベルは柑橘系を思わせる色の修道服をまとい、手に魔法の杖を握った聖修道女だ。しかもメイベルの背負うリュックサックの外側には、フライパンやまな板、お玉などの調理器具がぶら下がっている。
そんな2人が聖サクラス教会のある方から、まっすぐ南へ延びる坂を駆け下っていた。
「メイベル。追っ手が動き始める前に都を出るぞ!」
ナバルは魔法の杖を握るメイベルの腕を摑んでいた。それで引っ張られるメイベルが、
「あ〜、もう。わたしの運勢絶悪だわ」
とぼやいて、袖で浮かんできた涙をぬぐう。
「ナバル。逃げるあてはあるの?」
「そんなもの考えてない。今はとにかく……。メイベル。あれに乗るぞ!」
ナバルが通りを走る水力列車を見つけた。水力列車は2輌編成で、1輌あたり8mほどの長さだ。列車の外側にはステップと摑まるための手すりが付いていて、そこに大勢の市民が群がっている。外は危険だが、タダで乗れる場所なのだ。そんな列車が2人の走る前をゆっくり速度を落としながら、停車駅に入ろうとしていた。
「ちょうどいいわ。中に入りましょう」
水力列車は各車輌の前と後ろに、ドアのない開けっ放しの乗り口が設けられている。今度はメイベルがナバルの腕を引っ張るようにして、停車した列車に後ろから乗り込んだ。
「ふぅ。どうにか乗り込めたわね」
2人が駆け込んだ直後、水力列車がすべるように走り始めた。そんな2人に、
「お客さん。駆け込み乗車は危ないですよ」
と、車掌が注意してきた。
「ごめんなさい。ちょっと急いでいたもので」
「おやおや、これは若い聖修道女さんとこちらも若い近衛中隊長殿ではありませんか」
2人の恰好を見た車掌が、そう零して眉をぴくっと動かした。その車掌が、
「何か特命ですか? できれば……ですが、今後は気をつけるように願いますよ」
と謝るメイベルに注意して、2人より先に乗った客のところへ歩いていった。
「あれ!? あの車掌、俺たちから乗車賃は取らないのか?」
車掌が乗客から硬貨を受け取り、換わりに切符を渡している。その光景を見たナバルが、そんな疑問をメイベルに尋ねた。それに、
「ああ、それはわたしが宗教関係者、ナバルは近衛隊長だから公職者ってことで、この水力列車の乗車賃はタダなのよ」
と、メイベルが息を整えながら答える。
「タダって……なんで?」
「この水力列車は、教会が運営してるからなの。だから貴族と公職者、それと宗教関係者はタダで乗れるのよ」
「へぇ〜、そういうことか……」
理由を聞いたナバルが、別に自分が無賃乗車してるわけではないと知って安心する。
「でも、これから先、タダで乗れる乗り物ばかりじゃないし、追われてるとなると教会に寝泊まりするわけにもいかないわ。運賃、宿泊費、食費……。何かとお金がかかるわね」
メイベルが空いた席に腰を下ろして、お金の心配を始めた。
そのメイベルが背負っていたリュックサックを開けて革袋を出した。路銀を入れてある袋だ。それが中身が詰まってパンパンに膨らんでいる。救世の旅の間に、たくさんのお金を路銀として渡されたおかげだ。
窓越しに革袋を見た市民たちが、袋に詰め込まれた大量の金貨や銀貨などの硬貨を見て目を血走らせている。それも当然。市民感覚では2〜3年は遊んで暮らせそうな大金だ。しかし、これからの逃亡生活を考えると、路銀はこれだけあっても心配が残る。その他にも、このお金がどこまで通用するのか。そういう面での心配もある。
「メイベル。今はお金のことなんか忘れて、逃げることだけを考えようぜ」
メイベルの隣に腰を下ろして、ナバルが少し落ち着いた口調で言ってきた。
「とにかく今は逃げることが最優先だろ。捕まったらお金の心配なんて意味ないだろ? むしろ、それだけあればお金の心配をせずに逃げられる。そう考えようぜ」
「それもそう……かもね」
ナバルにそう諭されたメイベルが、静かに袋の口を閉じた。
とはいえ、メイベルは先々のことが心配だった。リュックサックに革袋を押し込めたところで、また溜め息が口を衝いて出てしまう。
そんなメイベルたちを窓越しに目を血走らせて見ていた市民たちも、ふと空を見上げて深い溜め息を漏らすのだった。
その頃、帝都の中央にある聖サクラス教会にある一室では、
「いつの間にニセくじにすり替えられたのやら……」
ソルティス教の大司教が、幹部議員たちを集めて緊急会議を開いていた。
大司教は帝国をまとめる皇帝を兼任している。もっとも、大司教は教皇としての地位を与えられてはいるが巨大な権限は存在しない。帝国を支配するのは連合に所属する王国の代表者たちによって構成される帝国議会であり、その中心となるのは更に選抜された執政幹部議員たちである。
「どれもこれも処刑するものばかりとは、なんと卑劣な真似をする犯人だ」
「しかも筆跡で身元がバレないように活字を使ってますか。なんと悪知恵の働くことか」
「この活字は、最近出てきたタイプライターとかいう機械の文字ですかな?」
「タイプライターですか。そんな高価なものを使える人となると、かなり絞られますね」
「それに悪知恵を働かせて活字を使った割に、打ち間違いを手書きで直してますよ」
「この特徴のあるクセ字は、やはり犯人はあの方でしょうか?」
「最後の詰めの甘さは、あの方以外にないと思いますが……」
集まった幹部議員たちがニセモノのくじを見ながら、口々に意見を交わしている。
そんな幹部議員たちに、
「まあまあ諸君。犯人が誰なのかも大事であるが、その前に今回の事件の状況整理から始めようではないか」
と、カイゼル髭の男がうながしてきた。帝国一の実力者であるアキロキャバス卿だ。
次に左隣に座る立派な僧服を着た大司教が、
「今回の事件を要約すると、ビ……、いやいや、決めつけはよくありませんな、何者かが式典で使う褒賞のくじをニセモノにすり替えたことに端を発してます」
と、事件のあらましを語り始める。
「犯人の目論見はわかりませんが、ニセモノのくじの内容から、2人の功労者を亡き者にしようとしたことが汲み取れます」
「うむ。もしも2人がすり替えられたくじを引いていたらと思うと、ゾッとしますな」
大司教の言葉に、アキロキャバス卿が険しい表情でそんな感想を漏らした。
幹部議員たちの間からも、
「どれを引いても処刑のくじばかり。2人にとっては悲劇じゃからのう」
「くじは神聖なものである以上、書かれている通りに実行しなくてはなりませんからな」
「理由は何であれ、帝国にとっての功労者を処刑したとなると威信が地に墮ちますぞ」
「いやはや、まさに危機一髪でしたな」
という声が漏れ出てくる。その言葉に、
「もしも2人が引いていたとしたら、その時はくじを無効にするべきところです」
と、大司教が意見を加えてきた。
「くじを無効とすれば、聖サクラス教会ならび帝国の威信は落ちるでしょう。だからと言って、功労者をくじで決まった通りに処刑したとしても威信は地に墮ちます。どちらに転んでも威信に傷がつくのならば、くじを無効として2人の処刑を避け、卑劣な犯人を捕まえることで威信を回復するべきところです。その時は腹を据えねばなりませんが……」
「ほほう。たしかに大司教の仰る通りですな」
「なかなかのご英断だ。それこそ大司教に選ばれるだけある、ご聡明な意見です」
大司教の話を聞いていた幹部議員たちが、肝の据わった考えに感心している。
「とはいえ、犯行はあと少しというところで露見しました。見習い修道女パセラのちょっとしたドジではありますが、あそこで転んでくれたことは大変な幸運でした」
と話を続けた大司教が、視線を部屋のすみで壁を背に座っている少女に向けた。
少女はやや丸みのある顔でメガネをかけていた。見習い修道女のパセラ・アヴィシスだ。パセラが着ているのは明るい灰色をした半袖の修道服。見習い修道女の着る夏服である。その服の左袖には金色に縁取られた袖章が付けられている。1枚のお皿と、その上で交差させた1組のナイフとフォークが図柄として描かれた袖章だ。
「ではあるが、神聖なる式典での失敗です」
大司教がパセラを厳しい目で見ながら言ってきた。そこに他の幹部議員たちも、
「本来であれば厳罰モノの大失態であると思うのですが……」
「ちゃんと罰は与えておかないと、それもまた威信の失墜になりかねません」
と零しながら、パセラに顔を向けている。
そんな幹部議員たちの視線が痛いのか、パセラが大きく呼吸しながら緊張した顔で背筋を伸ばしていた。パセラが部屋に呼ばれたのは、この罰の件があったからだ。
その状況を少し離れた壁ぎわで見ていた見習い修道女が、
「パセラも災難ねぇ」
と零した。金髪で赤い瞳のレジーナ・テルルだ。レジーナは幹部議員ではないが、パセラの付き添いとして会議の傍聴を許されたのである。その隣では近衛騎兵隊の小隊長であるロード・クラウ・アスピス(以下略)も、一緒に会議を聴いている。
「まあ、そんなこともあり式典の主役である2人の功労者は、命の危険を感じて逃げてしまった……というところですか。さて、2人をどうやって呼び戻しましょうか?」
「大司教。2人を追おうとした近衛隊を止めたのは、どのようなお考えからですか?」
1人の幹部議員が手を挙げて、事の真意を尋ねてきた。
「それは危険と感じたからですよ。逃げる2人は命の危険を感じてますから、捕まりそうになれば必死に抵抗するでしょう。それに追う近衛兵は2人が逃げる事情を知らないでしょうから、任務に忠実になるあまり手荒い手段を使ってでも捕まえようとするでしょう。となれば双方に無意味なケガ人が出ることは避けられません」
「なるほど。言われてみればその通りです」
質問した議員が、大司教の回答に感動したように感心している。
「大司教はそれを一瞬の判断でなさったのですか?」
「いえ、あれは直感です。あの時はわたしには何が起こっているのかわかりませんでした。ただ逃げる2人の様子がおかしかったので、反射的に止めたと言いますか……」
「理由はともかく、あれは賢明な指示でしたな」
返事に困っている大司教に、アキロキャバス卿がそんな助け船を出した。そのアキロキャバス卿が、
「取り敢えずだいたいの事情がわかったところで、1つずつ案件を片づけましょう。まずはパセラくんの罰から決めましょう。緊張したまま待たせるのは可哀想ですからね」
と、会議を進めていく。
「さて、どうしたものか……」
幹部議員たちが重い空気を漂わせながら黙り込んでしまった。その議員たちに視線を注がれるパセラが、居心地悪そうにそわそわしている。
「大切な式典での失態は、かなり重い罰則になりますからなぁ」
そんな議員の零す言葉が、パセラの不安を煽っている。
「これまでに、どんな処罰が行われたかのう?」
たっぷりと肥え太った議員が、そんな疑問を隣に座る議員に尋ねた。サンクヮッド事変の英雄。そして先に行われた調査隊では全権大使を務めたクリプトン卿である。
「僻地の教会に左遷とか、階級の降格が多いんじゃないか?」
「ふむ。降格のう……。お、それなら……」
クリプトン卿の脳裡に、ふと名案が浮かんだようだ。さっそく手を挙げて、
「大司教。その件に関して、少々提案があるのだが、よろしいかのう?」
と指名を求めてきた。
「クリプトン卿。何か名案でもあるのかな?」
「名案かどうかは知らぬが、耳打ちさせてもらってよろしいかのう?」
そう言ったクリプトン卿が、他人の3倍はある身体で立ち上がった。そして、大司教とアキロキャバス卿のところへ歩いていき、ゴニョゴニョと提案を語って聞かせる。
「それは、なかなかの妙案ではありませんか」
「たしかに、それはかなり重い罰ですな。表向きは……」
提案を聞いた大司教とアキロキャバス卿が、感心したとばかりに笑顔になった。その一方で「重い罰」と聞いたパセラが、びくっと背筋を伸ばして表情をこわばらせている。
「それでは、パセラ。罰を与える前に、きみを正修道女へ昇格させようと思います」
「…………はい??」
大司教の思わぬ言葉に、不意に緊張の解けたパセラが間の抜けた声を出した。
「あのぅ、大司教さま。わたしの正修道女昇格って……?」
「パセラは修道女の中でも、特に優秀な者のうちの1人であると感じています。メイベルが一足先に昇格しましたけど、きみも機会があれば昇格させても良い頃合いであると思ってました。今日はその機会が来たと思ってください」
「はい。それはありがとう……ございます……」
何か腑に落ちないのか。パセラが上目遣いで大司教を見ながらお礼の言葉を述べる。
その昇格を決めた大司教は、
「ということでパセラ。まずは正修道女の服に着替えてきなさい。この昇格証書を渡しますので、これを衣装係に見せれば新しい服を手配してくれます」
「はい……。それでは着替えてきます……」
席を立ったパセラが、しきりに首を傾げながら部屋から出ていった。そんなパセラを目で追うレジーナが、
「クリプトンおじさま、いったい何を思いついたのかしらね?」
と、少し心配そうにしている。
「さて、パセラが戻るのを待つ間、我々は別の案件を進めましょう」
大司教が軽く呼吸を調えてから、会議を次の議題へと変えた。
「次の案件は逃げた2人をどうやって呼び戻すか……でしょうかね?」
「う〜む。それも大切ですが……」
アキロキャバス卿の問いかけに、大司教が少し考えながら答える。
「逃げる2人を放っておくのは可哀想ですが、2人の件はあとで考えましょう。それよりも、ここは犯人の扱いをどうすべきか。その決定を優先するべきでしょう」
「犯人の扱い……ですか。それは難しい問題ですね」
大司教の方針に、アキロキャバス卿がそんな言葉をかけてくる。そのアキロキャバス卿がニセくじをひらひらさせて、
「それにしてもビーズマス卿は、なんのつもりでこんな真似をしたのやら……」
という問題点を口にした。
「アキロキャバス殿。あまり犯人を決めつけるというのは……」
「大司教殿はこれほどの証拠があるのに、慎重ですな」
「これはややこしい国際問題だからです」
大司教がテーブルにひじを突き、ふうと大きな溜め息を吐く。
「素行に問題があるとは言え、ビーズマス卿は西アルテース公国の公王です。そのような人物を安易に犯人と決めつけるのは……」
「良いではありませんか。証拠は十分にそろっているのですから。ただ、わたしは貴族特権と議員特権の2つがあるために、ただちに逮捕できないのが残念ですよ。懸念されていた帝国の連合憲章にある穴を突かれた事件です。ここは早急に見直さなくては……」
今度はそう言ったアキロキャバス卿が、天井を仰いで溜め息を吐いた。
「アキロキャバス殿。証拠と言っても筆跡だけではありませんか。他にビーズマス卿の犯行を裏づける証拠はないのですぞ」
「大司教さま。タイプライターの文字も、十分な証拠になると思います」
難色を示す大司教に、レジーナがそんなことを言ってきた。
「レジーナ。それはどういう意味ですか?」
「あたしは郵便物の集配を担当している関係で、タイプライターの文字をよく目にするのですが、大文字のタイプライターで書かれた手紙は西アルテースの、それもビーズマス卿さまに近しいところからしか出てきませんわ」
「大文字のタイプライター? それはどういうことですか?」
レジーナの話に、大司教が険しい表情になる。
「タイプライターを使われる方は少しずつ増えてきているのですが、ほとんどが小文字しか打てないもので、大文字の打てるタイプライターは……」
「あ、そういうことですか」
レジーナの言葉に、アキロキャバス卿が大事なことに気づいたようだ。
「アキロキャバス殿。どうされました?」
「いや、タイプライターは我がユーベラスで発明されたもの。そのために市場に出まわってる機械には小文字と言いますか、ユーベラス文字のみがセットされています。それが大文字、つまりアルテース文字になってるということは、使われたタイプライターは特注品ということになるでしょう。大司教殿。これで証拠は固まりましたな」
「うむ。そうかもしれませんな。それはそれで頭が痛い……」
そう零した大司教が目を閉じて、先ほどよりも深い溜め息を吐いた。その一方で、
「レジーナくん。さすがは宮廷の書記係だ。見事な助言だったよ」
と感心したアキロキャバス卿が手を叩いた。そのアキロキャバス卿に、
「ありがとうございます」
とお辞儀で返すレジーナの左腕には、事務などを受け持つ書記係の袖章が付いていた。書記係を示す図柄は羊皮紙の絵だ。レジーナの袖章にはそこに宮廷付きである金の縁取りと、階級を表す羽ペンが1つ羊皮紙に重ねて描かれている。
そこに「着替えてまいりましたぁ」と言いながら、パセラが戻ってきた。パセラの衣装は正修道女用の青い夏服に替わっている。
その声に、大司教が静かに目を開けてパセラに顔を向けた。
「パセラ、戻りましたか。その服を着た感想はいかがですかな?」
「すっごくうれしいですぅ」
大司教の言葉に、パセラがうれしそうに軽くポーズを取りながら答える。そのパセラの服に触れるレジーナが、
「メイベルに先を越されるのは覚悟してたけど、パセラにまで先を越されるとは思わなかったわね」
と、うらやましそうに零している。そんな2人を大司教が優しい目で見ながら、
「ふむ。なかなか似合ってますな」
と感心したように微笑んだ。その大司教が、
「それでは、次に罰を与えましょう」
と言って、浮かれているパセラを現実に引き戻した。
その言葉にパセラの動きが止まり、その恰好のままで次の言葉を待っている。
「正修道女パセラ。式典で失態を演じた罰として、見習い修道女への降格を命じます」
「…………ええぇ〜〜〜〜〜〜〜……!?」
一瞬の間を置いて、パセラが間の抜けた声を出した。
「うわぁ〜、降格はきついわ」
とはレジーナの感想だ。
「レジーナちゃん。降格は、ただ見習い修道女に戻るだけではないのですか?」
「何を言ってるのよ、クラウ。降格はただ戻るだけじゃないわ。降格したら原則として、このあと3年間は昇格できなくなるのよ」
疑問を口にするクラウに、レジーナが厳しい口調でそう教える。
「パセラはもうすぐ17歳なのに、18歳を過ぎても見習い修道女のままでいなくちゃならないのよ。これは何も知らない人から落ちこぼれの烙印を捺されるようなものだわ」
「そういうもの……ですか……」
話を聞いたクラウが、そう零して肩をすくめた。
もっとも、レジーナの話には一部間違いがある。レジーナは優秀な者を集めた聖サクラス教会の修道院にいるため、18歳前後で正修道女に昇格するのを当たり前のように思っている。だが、一般的な正修道女への昇格は、ほとんどが20歳を過ぎてからなのだ。
「また、着替えてきますぅ……」
正修道女への昇格はぬか喜びだった。しょんぼりと肩を落としたパセラが、更衣室へ戻って元の服に着替え直そうとする。そのパセラを、
「少し待ちなさい。まだ伝えておくことがあります」
と、大司教が呼び止めてきた。
「降格は処罰の都合上、少々煩雑な手続きが必要となります。なので手続きが終わるまで時間がかかりますので、それまでの間はその服を着ていなさい」
「はぁ……」
大司教の言葉に、パセラが気の抜けた声を返した。
「それともう1つ」
「まだ、何かあるのですかぁ?」
思わずパセラの口を衝いて、そんな言葉が飛び出てしまった。それに慌てたパセラが、口を両手で押さえて「あわわ」と焦っている。
だが、大司教はそんなパセラを何もとがめず、優しく微笑みながら、
「パセラにはニセくじ発覚の功績に免じて、降格に伴う昇格制限免除の特赦を与えます」
という補足事項を伝えた。
「と言うことですから、パセラ。手続きが済んで見習い修道女に戻っても、今着ている服は大切に取っておきなさい。またすぐに着る機会が来るとも限りませんからね」
「はぁ〜……。ありがとうございます……と言うか……」
ニコニコしている大司教にお礼を言いながらも、パセラは何が起こってるのか理解できずに小首を傾げていた。
「へぇ〜、クリプトンおじさま。なかなか考えましたわね」
一方で事情を悟ったレジーナは、人情味あふれる裁定にくすっと笑みを漏らしていた。
大切な式典で大きな失態を仕出かした以上、重い処罰は避けられない。だが、結果的にはその失態のおかげで最悪の事態が避けられたのだ。そこで重い罰を与えつつも特赦などにより差し引きゼロとすることで、処罰があったという実績だけを残したのである。
「あのぅ、わたしはどういう扱いになるのでしょうか?」
訳知り顔のレジーナに、パセラが説明して欲しそうな顔向けてきた。
「簡単に要約するとね。今日からしばらく正修道女のコスプレをするのが、パセラに与えられた罰なのよ。わかった?」
パセラの肩に手を置いて、レジーナが笑顔で答える。かなり乱暴な解釈ではあるが、間違いではない。
そんな解釈を聞かされたパセラが、困った顔で言葉を失っている。それを見る幹部議員たちの間からは、声を殺した失笑が漏れていた。
「さて、パセラに与える罰の件は、これで決定としましょう。他に案件がなければ……ですが、これから時間をかけて、ニセくじ事件で露呈した連合憲章の不備を考えましょう」
真顔に戻った大司教が、いよいよ最大の問題に取りかかろうとする。
その言葉を聞いた幹部議員たちも、厳しい表情に変わって会議に戻っていった。
会議でニセくじ事件のことが話し始められた頃、教会から逃げ出した2人は、
「メイベル。これからどっちへ逃げたらいいと思う?」
「そんなことを聞かれても……」
何事もなくサクラスの南門をくぐり、帝都から旅立っていくところだった。
「ポルタウから川の向こうへ渡って、それから考えるか? それなら……」
「ナバル。ポルタウは帝国最大の大都市だけあって、サクラスから毎日大勢の人たちが出かけてるわ。途中で知り合いとばったり会って、足がつくなんて事態は避けたいの」
「ばったり……か……。それは避けたいな」
門の外で立ち止まって、2人は行き先を決めかねていた。
南門からふもとのポルタウに向かって、太い坂道がまっすぐ続いていた。急勾配ではないが、長く続く坂道は上り下りが大変そうである。その苦労を避けたい市民が、南門の前にある駅で長い行列を作っていた。下りのケーブルカーを待つ市民たちの列である。
その市民たちの待つケーブルカーが駅に入ってきた。ケーブルカーはまさに通勤電車とでもいうような満員ぶりで、車輌から降りた市民たちは、足早に南門へと向かっている。自宅をふもとのポルタウに持ち、そこからサクラスにある職場へ通っている人たちだ。
帝都サクラスは大都市ではあるが、山の斜面に作られた都であるために市街化できる場所には限りがある。およそ380mの標高差のある斜面に向かって、縦に約8km、横に12kmという狭さだ。その中に帝国の主要行政施設や有力な貴族たちの別邸が集まり、その周りで60万を超える人たちが暮らすという人口過密都市なのである。
人口の多さではふもとのポルタウの方が200万都市で帝国一の規模を誇るのだが、その実態はサクラスが小さいために中に家を持てず、ふもとから通ってくる人たちが少なくないからだ。もちろんポルタウに限らずサクラスの周りの斜面には、そういう人たちの住む集落がいくつも作られている。
そうやって通って来る人たちが、南門からサクラスへ入っていく。その門の外では6人の衛兵が立っていて、不審者が入ってこないか目を光らせていた。
その衛兵たちには、まだ2人のことが伝わってないのだろう。若い近衛中隊長と聖修道女という珍しい組み合わせに興味を感じつつも、ジッと市民たちに目を向けて職責をまっとうしている。
「あ〜ん、もう。考えても仕方ないわ!」
答えに行き詰まったメイベルが、大きく万歳して息を吐いた。そのメイベルが、
「取り敢えず、今は東に向かいましょう」
と、門を背にして左の方向を指差した。そして、もう決定したとばかりに街を囲む城壁に沿って歩き始める。
「東!? どうして東だ?」
「意味なんかないわ。ただ何となくよ」
理由を尋ねるナバルに、メイベルがそう答えて頭の後ろをポリポリと掻いた。
「でもさ、南のポルタウは知ってる人にばったり会う可能性があるから避けたって言ったでしょ。で、西は山と川に挟まれた狭い地域が続くから、逃げられる場所が少ないわ。だから東へ行くのは消去法で考えて悪くないわ」
「消去法ねぇ……」
なんとか理由を探そうとするメイベルの考えに、ナバルが呆れて嘆息する。だが、
「あ、でもフルヴィ川の河口まで行けば北には大きな平野が広がってるでしょ。それに河口の港町ザンドゥからはたくさんの船が出てるから、向かう先の選択肢が広がるわ。最初は直感だったけど、我ながらけっこう妥当な考えだったかも」
考えを検証するメイベルの頭の中で、少しずつ考えの妥当性が見えてきた。
もっとも、考えに納得してるのはメイベルだけだ。ナバルの方はというと、
「メイベル。やっぱり、くじびきで決めないか?」
たとえ筋の通った理由が与えられたとしても、神頼みの方が安心できるようである。
さて、それとまさに同じ頃、聖サクラス教会の隣に建つ議事堂にある一室では、
「あの勇者の若造と従者の小娘が、帝都から逃げた……だと?」
帝国で3番目の有力貴族であるビーズマス卿が、部下からそんな報告を受けていた。
ここはビーズマス卿に与えられた議員控え室だ。部屋には長く大きなテーブルが置かれ、ビーズマス卿の息のかかった貴族議員たちが集まってテーブルを囲んでいる。
「どうして逃がしたのだ? と言う以前に、式はどうなったのだ?」
「わかりません。それで執政幹部たちが集まって、何やら話し合ってるみたいで……」
「話し合ってるだと!? またこのわたしを差し置いて、何を話しておるのだ?」
部下の話に、ビーズマス卿が癇癪を起こした。
その様子をテーブルに座っている貴族議員たちが、
「公王さま、また怒ってますな」
「執政幹部に選ばれなかったことを、よほど根に持っておられるのでしょう」
「選ばれたかどうか以前に、今は勝手に大軍を送った件で謹慎中の身だ。執政幹部であったとしても呼ばれるわけはなかろう」
と、呆れた顔で零している。その中の1人が、
「ところで前から気になっていたのだが、よくまあ公王さまは50万もの大軍を竜の山脈へ送れたものであるな。それも10日とかからない短い期間でだ。それに通り道にされたシルヴ侯国は、なぜいまだ黙っておるのだ? 同じ帝国の一員とはいえ、領地を他国の軍に荒らされたのだぞ」
という疑問を口にした。
「ああ、それは簡単な理由ですよ。軍隊が通る前に、通り道となる町に大量の金がばらまかれたからだそうです」
「金だと!? 買収したのか?」
「まあ、似たようなものです」
理由を答えた議員が、くすっと笑みを漏らした。
「軍隊の移動に必要な食料とトイレ、それからベッドや風呂などを用意させるためですよ。通り道付近にいる住民たちにね」
「用意!? どういうことだ?」
質問した議員が説明の意味がわからず、眉間にしわを寄せて問い返す。
「つまり、金を渡して住民たちに食料や野営の用意を任せれば、軍隊はわざわざ野営の準備をせずに済むので移動に専念できるでしょう。それに通り道にされたシルヴ侯国にしても領地を踏み荒らされたとはいえ、街がそれ以上の特需景気に沸いたとなれば文句も言えないわけです。建前でも文句を言ってしまえば、住民たちの歓迎ぶりに水を差して敵にまわしかねません。なんせ公王さまがばらまいたのは、相場の5倍もの金ですから」
「5倍って……」
話を聞いた議員が、口を開けたまま固まっていた。そして、やおら大きく息をすると、
「いやはや公王さまは、時たま素晴らしい悪知恵を思いつくものだな」
呆れた顔で天井を見上げるのだった。その横で質問に答えた議員も、
「ホント、もっと正しい方向へ頭を使われていれば、執政幹部としてご活躍できたというのにねぇ。と言っても公王さまのお考えは、どこか詰めが甘いのですが……。まあ、そのおかげで逃げ帰る兵たちは無事に国へ戻れたわけですし、負傷兵も通り道の住民たちに手厚く手当てしてもらえたわけですが……」
と嘆いて、長い息を漏らすのだった。
それから3時間の時が流れた。
南門を出て東へ向かっていた2人は、山を下る長い坂道にいる。
とはいえ街道の周りにはほとんど木が生えてないため、あまりにも見晴らしが良すぎる。そのまま大きな街道を進み続けるのを危険と感じた2人は、街道の南側にある細い道に入っていた。ここは大きな街道が造られる前に使われていた旧道だ。街道側とは違い、道を挟んで古くからある小さな集落ができている。2人にとってそこにある建物は、姿を隠すための格好の遮蔽物というわけだ。
2人がその集落に着いた頃は、ちょうどお昼時だった。集落にはいくつかの食堂があり、他にサンドイッチやホットドッグなどの軽食を売るファストフード店も並んでいる。
そんなファストフード店から、紙袋を持ったメイベルが出てきた。
「ナバルはカツサンドセットで良かったのよね?」
「ん。すまんな」
外で荷物番をしていたナバルが、そう言ってメイベルから紙包みを受け取る。
「どう? 追っ手は来た?」
「今のところ来てないな。見落としただけかもしれないけど……」
ナバルは鋭い視線を坂道の上に向けていた。帝都からの追っ手を警戒してるのだ。
「追っ手が来ないというのは、何か不気味ね」
「そうだな。何か事情があるのかもな」
ナバルが湿った紙タオルで手を拭きながら、そんなことを言い出した。
「事情って?」
「くじびきで追いかける方向を決めたら、こっち方面のくじが出なかった……かな?」
「それはありそうね」
ナバルの口にした適当な理由を、メイベルがなんとなくではあるが納得する。
帝国の骨格となるソルティス教は、くじびきを神聖なものとする宗教だ。その思想で考えると、あながち有り得ない話ではない。
「さあ、先を急ぎましょう。今は少しでも帝都から離れたいわ」
メイベルがサンドイッチを頬張りながら、坂道を下に向かって歩き始めた。メイベルが頬張っているのはハムサラダサンドである。
やがて集落が終わり、旧道は草むらの中を進んでいた。その先がやがて大きな街道と交わり、そのまま街道の反対側へ延びている。
「メイベル。ちょっと待て!」
いきなりナバルがメイベルの腕を摑み、草むらの中へ引き込んだ。
「どうしたの?」
「大通りの方。馬が駆けてくる」
草むらから顔を出したナバルが、そう言って大通りを指差した。
ナバルが大通りと呼んだ街道は、旧道よりも少し高い場所を通っていた。これは旧道が坂が緩やかになるように等高線に沿って作られているのに対し、新しい街道はほぼ一直線に坂を下っているためである。そして、その坂道の先には、大きな平野が広がっていた。
「軍服を着てるけど、どこの所属かしら? 近衛騎兵隊でないことだけは確かだわ」
ナバルの隣で様子を窺うメイベルが、そんな言葉を漏らした。
「あれは伝令兵だ。近衛隊の伝令兵とは服が違うけど、たぶん間違いない」
「伝令? じゃあ、追っ手とは違うのかしら?」
「それはどうだろう?」
メイベルの疑問に、ナバルがどう答えれば良いのか悩んだ。
2人が潜む草むらの前を、伝令兵を乗せた馬が一気に坂を駆け下っていく。それを見送ったナバルが草むらから顔を出し、
「あの伝令兵が俺たちのことを伝えに行ってるとしたら……。たぶんこの先にある街で待ち伏せだな」
「待ち伏せ……」
ナバルの言葉に、メイベルが困った表情を浮かべる。
「それじゃ、ノトスの街へは入れないのかしら?」
「かもしれん」
メイベルの疑問に、ナバルが短く答えた。
「わたし、着替えの服が欲しいわ。聖修道女の服って目立つんだもの。こんな恰好で歩いてたら、わたしはここにいますって看板を背負ってるようなものだわ」
メイベルが服をつまんで、一番の心配事を口にした。
「たしかに目立つよなあ。俺の服もさ」
それはナバルにとっても同じだった。2人の服は目立つ上に、何よりも2人がまだ若いことが周囲の関心を誘ってしまうのだ。これが救世の旅の時のように近衛小隊長と正修道女の服であれば、2人が若くてもそれほど珍しくない組み合わせだ。となれば周囲は2人に強い関心を寄せることはない。
「これは困ったな。これから街に入れそうもないとなると、ずっと野宿生活か……」
「野宿!? これから寒くなるのに? それも問題ね」
そう零したメイベルが、食べかけのサンドイッチを頬張った。
「さて、これからどうする? 伝令兵とは言っても、俺たちのことが伝わったと決まったわけじゃないけどさ」
ナバルもサンドイッチを頬張り、メイベルに善後策を尋ねた。それにメイベルが、
「可能性があるのなら、これからはあまり街に入らない方が良さそうね」
とぼやきながら、紙袋から次のサンドイッチを取り出す。次のサンドイッチはタマゴサンドだ。
「ナバル。この坂を下ったところで南へ向かいましょう」
サンドイッチの角をパクついたメイベルが、そんな提案を出してきた。
「南? 何かあるのか?」
「何もないわ。ただ、これから野宿が続くのなら、暖かい南へ向かった方が得策でしょ」
「なるほど。言われてみれば、その通りだ」
メイベルの考えに納得したナバルが、食べかけのサンドイッチを一気に口へ放り込んだ。
それもそのはず。秋分の日も過ぎ、今日は9月29日。これから秋に向かう頃だ。今は昼だから半袖姿でも問題はないが、日が落ちれば長袖が欲しくなる季節である。
「街に入れないとなると、一番の問題は食べ物か……」
「あら、食べるものの心配ならいらないわ」
メイベルが残りのサンドイッチを食べながら、ナバルの心配に答えた。
「食べるものなら、そこら中にあるじゃないの」
「そこら中って……」
草むらを示すメイベルの言葉に、ナバルが一瞬考える。だが、
「そういうことか」
ナバルはすぐ、救世の旅のことを思い出した。ナバルにとってはただの草でも、野草に詳しいメイベルの目には食べ物の宝庫だ。しかもメイベルは宮廷料理人の1人。それを示すように袖章は金色に縁取られ、大鍋を背景に3つのタマネギが描かれている。最高の腕前を持つ料理人である証だ。そんなメイベルにとっては草むらさえあれば、いつでもどこでも材料を集めて最高の料理が作れるのである。
「そうと決まったら、南へ行きましょう!」
「ったく、メイベルはたくましいなあ」
先に立って歩き始めるメイベルのあとを、ナバルが苦笑しながらついていく。
メイベルは不満があると散々ぼやくのだが、すぐに状況に合わせて適応できる強さがある。その生活力の高さには、ナバルも呆れるしかないらしい。
同時刻、昼食が終わったあとの聖サクラス教会の一室では、
「それなら、やはり近衛隊で追いかけて、ちゃんと説明を……」
「ですから、ニセのくじを見てしまった以上、2人は我々に対して強い不信感を抱いたと思われるのです。となれば、追いかけた近衛隊員が説明しても耳を傾けないと……」
「いつまでこの堂々巡りを続ける気だ?」
執政幹部議員たちの話し合いは2人にどうやって事実を伝えるかに変わり、そしてどうやって呼び戻すかで頭を悩ませていた。
そんな1日も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。日がだいぶ傾き、少しずつ日没が近づいてきている。
街道を下ってきた2人の前を、何台もの馬車を連ねた荷馬車隊が横切っていた。荷馬車隊は街道と交差する旧道を進んでいる。その荷馬車隊が通りすぎると、再び街道の先にある城壁に囲まれた大きな街が見えてきた。
「あの街には入らない方がいいわね」
ゆっくりと坂を下りながら、メイベルがぽつんと零した。
街道の先に見える大きな街は、帝都サクラスの東側に位置し、蒼の山脈のふもとに造られた水力都市ノトスだ。街にはいくつもの水路が向かっていて、左側に見える斜面には無数の水車が並んだ工場団地まで見て取れる。
だが、2人はノトスへは向かわず、先ほど荷馬車隊の通った旧道へと入っていった。
2人の前を荷馬車隊が進んでいる。旧道は街道ほど広くはない。とはいえ、大きめの荷馬車でも十分にすれ違えるほどの広さはある。それに街道ほど勾配は急ではないため、今でも大荷物を運ぶ馬車は旧道を使うことが多いのだ。
その旧道はゆるやかに下りながら、帝都周辺では珍しくなった雑木林に向かっていた。
「問題は、フルヴィ川をどうやって渡るか……よね」
雑木林よりはるか先には、大きな水の平原が広がっていた。フォルティアース大陸東部を横断するように流れる大河──フルヴィ川の水面だ。このあたりは河口から60kmほど上流にあるのに、対岸まで20km近くもある巨大な川である。
「船に乗れば渡れるだろ?」
「すんなり乗れればいいんだけどね」
ナバルの言葉に、メイベルがそんな不安を重ねてきた。
「もしも、昼に見た騎兵が伝令だったら、街での待ち伏せが心配されるわ。それと同じように、港でも待ち伏せされてる可能性があると思うのよ」
「港で? そういうものか?」
「そういうものじゃないかしら。たぶん……だけど……」
メイベルが言葉をよどませながら、ナバルに注意をうながしてくる。それに、
「理由はともかく、今は警戒が必要ってことか」
と、ナバルがだいたいの心配事を汲み取った。
今の2人には何が起こっているのかがわからない。わかっているのは、捕まったら処刑される危険が大きいということ。となれば疑心暗鬼だろうと被害妄想だろうと、とにかく最悪の場合を想定しながら行動するしかない。
「でもさ。俺たちが見た伝令は1人だけで、港へ向かう伝令は見なかったよな」
「別の道を使ったから見なかったとも考えられ……る……。あれ!?」
突然メイベルが、何かに気づいた。
「ナバル。わたしたち、とんでもないことを見落としてるわ」
と言ったメイベルが、立ち止まってナバルに身体を向ける。
「伝令!? そんなものは必要ないわ。今は電信があるんだもの。それを使えば近くの街どころか、帝国中にだって情報が伝わるわ」
「電信!? なんだっけ、それ?」
メイベルの指摘に、ナバルが首を傾げた。
「電信よ。電信。竜の山脈へ行った時、ヴァレーの町で帝都に急ぎの報せを送ってもらったじゃないの。憶えてない?」
「憶えてないなあ。ヴァレーの町では正座させられた記憶ぐらいしか……」
「そういえば、あの時、ナバルは外で暴れてたんだっけ……」
当時のことを思い出して、メイベルが大きな溜め息を吐いた。メイベルがヴァレー教会から電信で帝都あてに報せを打ってもらおうとしてた時、ナバルは教会の外でドラゴン教のデモ隊を相手に暴れていたのだった。
「それに電信を使わなくても、伝書鳩で報せる方法もあるものね。鳩のことはまったく気にしてなかったから、そっちはどうなってるか……」
状況整理に努めながら、メイベルが再び歩き始める。と、その時、
「メイベル。前の馬車、何か様子がおかしくないか?」
と言って、ナバルが坂の先を指差した。その言葉を聞いたメイベルが、
「様子……?」
考えを止めて顔を前に向ける。
2人の進む旧道は少し先で雑木林に入っていた。雑木林の長さは300mぐらいだろうか。その先には緑色に染まった麦畑が広がり、その畑の中で道が南と東へ分かれている。
だが、前を進む荷馬車隊は麦畑に入るより手前、雑木林の真ん中あたりで立ち往生していた。距離があるのと木の枝が邪魔になって正確にかぞえられないが、荷馬車は少なくとも4台はあるようだ。
「林の中に誰かいるわ」
「あいつら、野盗じゃないのか?」
雑木林の中から、何人もの男たちが姿を現してきた。その男たちが2人のいる場所からでもハッキリとわかるような武器を持ち、馬車に乗っている人たちを威嚇している。
「すぐ近くに帝都があるのに、こんなところにも野盗はいるんだな」
ナバルが腰に下げていた剣に手をかけた。メイベルも、
「帝都の周りは治安がいいはずなんだけどねぇ。雑木林を根城にしてるのかしら?」
と零しながら、持っていた魔法の杖を構える。そのメイベルが、
「そういえば救世の旅の時には、一度も野盗に会わなかったわね」
などということを思い出した。それに、
「そりゃ、くじびきで行き先を決めてたからだろ!」
と答えたナバルが、鞘から剣を抜いて坂を駆け下っていく。遅れて、
「嫌いだわ。そういう理由」
とぼやいたメイベルも「跳べ!」と魔法を放って、雑木林の上から救援に向かった。
ここで荷馬車隊が野盗たちに囲まれる、少し前へ時間を戻す。
昼すぎに帝都を出発した荷馬車隊は、もっとも坂のゆるやかな東へ向かう旧道を使って山を下っていた。馬車は下り坂での事故が多いため、安全を最優先した選択だ。
荷馬車隊を構成する馬車は六台。それぞれ2頭ずつの騾馬に牽かれ、荷台を囲う幌には『メルカトル商会』と文字が書かれている。ちなみに騾馬は雌馬と雄ロバの交配種で、馬よりも少し体格は小さいが、丈夫で体力があるのだ。
この荷馬車隊は各地を転々と渡り歩いて売りまわる商人の一団──隊商だ。そのため馬車の荷台には、これでもかと言うほどの荷物が積まれている。ある馬車の荷台にはコンテナ代わりの木樽が並べられ、別の馬車の荷台には4列の棚が作られて箱が押し込まれていた。しかも棚の間には衣装掛けが入れられ、そこには老若男女物を問わず様々な服がかかっている。これほどの大荷物を牽くのであるから、馬ではなく騾馬を使うのも当然である。
そんな隊商が街道と交差する場所でナバルとメイベルの前を横切り、坂のゆるやかな旧道をゆっくりと下っていた。
先頭を進む馬車の馭台には、この隊商の持ち主であるメルカトル夫妻が乗っていた。手綱を引くのは筋肉質のメルカトル氏だ。その隣ではメルカトル夫人が寝ている4歳ぐらいの娘を優しく抱いて、馬車の揺れに合わせるように子守歌を口ずさんでいる。
「お母さん。ここがわからないよぉ」
馭台のすぐ後ろでは、4人の子供たちが馬車に揺られながら勉強していた。うち2人はメルカトル夫妻の子供で、あとの2人は一緒に旅をする別の夫妻の子供である。
「お兄ちゃんには聞かなかったのかい?」
「聞いたけど、わかんないよぉ」
質問してきたのは女の子だった。頭に大きなリボンを載せ、フリルの多いピンクのワンピースを着た女の子だ。その後ろでは不貞腐れた顔の男の子が、机に頬杖を突いて背中を向けている。
「どれがわかんないんだい?」
「これ。クジラはお魚の仲間よね?」
女の子が教科書を開いてメルカトル夫人に尋ねた。
「クジラは哺乳動物の仲間よ。お魚とは違うわ」
「どうして? 毛がないし、水の中を泳いでるわ」
「クジラは人や犬と同じように赤ちゃんを生むのよ。だから哺乳動物なの」
そう答えるメルカトル夫人の頬に木の影が落ちてきた。旧道が雑木林に入り、あたりが薄暗くなってくる。そんな陽射しをさえぎる木立を見上げた女の子が、
「そうなの? じゃあ、サメも哺乳動物の仲間なの? この前行った水族館の人が、サメはタマゴを産まないって……」
などという別の質問をぶつけてきた。
「サメは……お魚だけど……。それは……」
娘の質問に、メルカトル夫人が答えに困った。
雑木林も真ん中まで来ると、木漏れ日がほとんど届かなくなっている。その薄暗さは、まるで今のメルカトル夫人の心情を表しているようだ。
その時、
「止まれ〜!!」
と叫んだ男が、馬車の前へ飛び出してきた。
「な、何だ!?」
驚いた騾馬が前脚を跳ね上げて暴れた。それをメルカトル氏が、手綱を引いて馭そうとする。急に馬車が止まったためにメルカトル夫人が馭台から落ちそうになり、抱かれていた女の子が目を覚ました。
「よう。責任者を出しな」
次に雑木林から出てきた男が、そんなことを言いながら馬車に近づいてきた。男は手に短剣を握り、薄ら笑いを浮かべている。その男に続くように、薄汚い恰好をした男たちがぞろぞろと雑木林から姿を現してきた。
「リディア。囲まれたぞ」
手綱を握るメルカトル氏が、妻に震えた声で言ってきた。
道の反対側にある雑木林からも、手に武器を持った男たちが出てきている。そのため、隊商はすっかり取り囲まれることになっていた。
それぞれの馬車に乗る男たちが、武器を構えて野盗たちの襲撃に備えた。とはいえ、隊商の男たちはわずか10人だ。しかもその中には、最後尾の馬車で執事風の服で身を固めた、初老の商人も含まれている。はたしてこの中に、武器の扱いに慣れた者が何人いるだろうか。剣の構え方がぎこちない者もいる。
それに対して雑木林から出てきた男たちは20人以上だ。しかも、それなりに武器は使い慣れているのだろう。武器の構えに不自然さはない。
「キャラバンの責任者はあたしだよ。これは何の真似だい?」
馭台で立ち上がったメルカトル夫人が、そう言いながら武器を構える商人たちに動かないようにと目で合図を送った。その夫人に抱かれる女の子が、怯えるような顔で夫人の腕を強く握ってくる。
「ほう。このキャラバンは女が主人かよ」
短剣を握る男が小馬鹿にするような口調で嗤いながら、馬車に近づいてきた。そして、
「なぁに、話は簡単さ。ここを通るなら通行料を払え。それだけだ」
と、理不尽な要求を突きつけてきた。この男が野盗たちの頭のようだ。
「何を払えだって?」
「おめえ、耳が遠いのか? 通行料だ。3度目は言わないぜ」
メルカトル夫人を睨みながら、男がそう言ってアゴをしゃくる。それを見たメルカトル夫人が息を吐き、すとんと馭台に座り直した。
「で、おいくらだい?」
「そうそう。素直になってくれりゃあ、手間はかけさせねえぜ」
夫人の言葉にニヤリと笑った男が、短剣をペロリとなめた。
「馬車6台か。なら金貨30枚だ。安いもんだろ」
「バカ言うんじゃないよ!」
男の要求に、夫人の声が裏返った。
「通行料が金貨30枚だって!? 家でも建てる気かい?」
「30枚ぽっちじゃあ、家は建たねえなぁ」
夫人の文句に、男がわざとらしく肩をすくめてツッコミを入れる。
「それじゃ、金貨25枚にまけてやろうか。出血大サービスだ」
「女将さん。払っちゃダメだ!」
2台目の馬車にいる若い商人が、勇ましい声で夫人に訴えかけてきた。
若い商人は長剣を構え、男たちと戦う気でいるようだ。もっとも、こういう場面には慣れていないのだろう。顔は青白くなり、メルカトル夫人の目からも若者の構える剣が小刻みに震えてるのがわかる。
「おやおや、勇ましい若造だな。だがな、気持ちだけじゃ世の中は渡っていけねえぞ」
「うるさい!」
盗っ人猛々しく説教してくる男に、若者が顔を真っ赤にして怒鳴り返した。その態度が気に障ったのだろう。男が不機嫌な表情になって、短剣を強く握りしめる。そして、
「おとなしくしてりゃ、通行料だけで見逃してやろうと思ってたものを」
と言い放つや、威嚇するように短剣で幌を切り刻んだ。
「何をするんだい!」
「構わねえ。金目の物はぜんぶ奪い取っちまえ!」
夫人の言葉を無視して、男が手下たちに命令を下した。と同時に、野盗と隊商の男たちの戦いが始まった。
「来るな! 来るな!! 来るなぁ〜〜〜〜〜……」
若者が剣をメチャクチャ振りまわして、野盗たちを馬車に近づけないようにする。だが若者の反対側から乗り込んできた男が、剣を持つ馭者を馬車から引きずり落とした。
「お母さん!」
「バカ! 出てくるんじゃないよ」
先頭の馬車では、メルカトル夫人が小さな女の子を抱いたまま、他の子供たちを馬車の奥へ押し込んだ。自分を盾にして、子供たちをかばおうとしてるのだ。
メルカトル氏は馭台から引きずり落とされ、野盗たち踏みつけられている。
そして馭台によじ登ってきた野盗が荷台に踏み込もうとしたまさにその時、
「雷よ暴れろ!!」
低空を滑るように飛んできた黒雲が、周囲に雷を撒き散らしてきた。
「うぎゃあぁぁぁ〜〜〜〜〜……」
雷に打たれた野盗が、身体から蒸気を出しながら馭台から落ちた。更に雷は周りにいる男たちにも降り|注《そそ
》ぎ、次々と動きを封じていく。
「な、なんだ……」
手下たちに命じていた男が、眉をひそめて空を見上げる。その男の前に、オレンジ色のスカートをひるがえしてメイベルが降り立ってきた。
「フライパン!?」
まず最初に男の目に飛び込んだのは、リュックサックに下げられた鉄の塊だった。その男に背中を向けたままのメイベルが、
「灼熱の炎よ!」
と叫んで、馬車の周りで武器を持つ野盗たちを焼き払おうとする。
「邪魔するんじゃねえ!」
男が持っていた短剣を振り上げて、メイベルを背後から襲おうとしてきた。
「あんた、後ろ!」
「え!?」
メルカトル夫人に言われて、メイベルが振り返った。その弾みで、
「うごっぷ☆」
遠心力で跳ね上がったまな板が、男の側頭部を見事にとらえた。
頭を痛打された男は、それで平衡感覚を奪われたようだ。身体が不安定になり、ふらふらと今にも倒れそうである。その男の足が、
「うわぁっ」
馭台を踏みはずした。そのまま踏みとどまることもできず、無様に地面に落ちて転がるハメになっている。
「お頭!?」
今の事態で、野盗たちの動きが一瞬にぶった。そこに、
「ちっ!! 出遅れちまった!」
ようやく駆けつけてきたナバルが、黄金色に輝く剣を振りまわして野盗たちに戦いを挑んでくる。
「黄金の剣……だと!?」
頭を起こした野党頭の目に、ナバルの構える勇者の剣の姿が飛び込んできた。その男の視線が剣を持つナバルに向かい、
「あいつ、近衛隊の中隊長じゃねえか!」
服装を見るなり、瞬時に表情を蒼くした。
「それに、こっちは聖魔導師!? ウソ……だろ……」
次に馭台に立つメイベルを見て、男の身体が震え始めた。
「お頭。大丈夫ですか?」
「に、逃げろ……」
助け起こしにきた男に、野党頭が震える声でそう言った。だが、助けにきた男はその意味がわからず、とにかく野党頭を起こそうとしている。その目の前で、
「全員、今すぐ逃げろ! 野盗狩りだ!!」
と大声を出した野党頭が、立ち上がると一目散に雑木林の奥へ逃げていった。
「野盗狩り!? まさか……」
荷台から木箱を持ち出そうとしていた男が、その言葉に耳を疑った。
助けに入ってきたのは近衛兵の服を着た若造と、魔法の杖を持った小娘だ。だが、
「近衛中隊長と聖魔導師!? 冗談じゃねえ!」
2人の恰好に気づいた途端、木箱を投げ捨てて馬車から飛び降りた。
野盗たちには2つの思い込みがあった。近衛隊の中隊長には、100人規模の部下がいる。血気盛んな中隊長の中には先陣を切って敵陣に踏み込む者がいるが、その後ろには必ず100人規模の部下たちが来ているという思い込みだ。
しかも魔法を使える聖修道女が一緒に来たとなると、背後にはソルティス教会、ひいては帝国議会が控えている。すなわち帝国が本腰を入れて野盗狩りを始めた。そういう思い込みである。
「捕まったらタダでは済まないぞ! 極刑だ。拷問されてさらし首だ」
「まずい。とにかく遠くへ逃げるんだ」
「お頭ぁ〜! 待ってくださいよぉ〜」
野盗たちの逃げ足は速かった。自分たちがこれまでしてきたことを考えると、どんな罰を受けるのか想像できないだけに恐怖が心を支配していく。
野盗たちは後ろを振り返らず、必死に下の雑木林の中へと逃げていった。そのため自分たちの思い込みに気づく者はいない。ただ、
「あいつら、薄情だ……」
ケガやヤケドを負って動けなくなり、置き去りにされた者を除いて……。
「あんた。追い払って……くれたのかい?」
荷台で子供たちをかばっていたメルカトル夫人が、メイベルに声をかけてきた。
「追い払ったというか、勝手に逃げたというか……」
尋ねられたメイベルが、何と答えれば良いのか困っている。助けに入った途端、野盗たちが勝手に逃げてしまったのだ。そのため呆気に取られていて、今はまだ頭の中で理解が追いつかないようである。
「メイベル。ケガはしてないか?」
馬車の下にいるナバルが、今も剣を構えたままの恰好で様子を尋ねてきた。それに、
「無事よ。念のために、あの人たちが戻ってこられないようにしなきゃ」
と答えたメイベルが、野盗たちの逃げた方向に「霧の目隠しよ!」と呪文を放った。
たちまち雑木林の中が霧で満たされた。それも自ら光を放つ霧のため、中に入ったらたちまち方向感覚を奪われそうである。
「おっさん、大丈夫か?」
馬車から落とされたメルカトル氏を、ナバルが助け起こした。そのナバルに、
「ありがとう。きみらはいったい?」
と、メルカトル氏がお礼ついでに尋ねてくる。
「俺たちか? 通りすがりの旅の者だ」
そう答えたナバルが、抜いたままだった剣を鞘に納めた。馬車の上でも、
「ありがとうよ、お嬢ちゃん。あんた聖修道女かい? 聖修道女なんて初めて見たよ」
ようやく安堵したメルカトル夫人が、助けに来たメイベルにお礼を言う。その夫人の背後から顔を出した子供たちも、「ありがとう、お姉ちゃん」とお礼を言ってきた。
「ところで、あの人たち、何をしてるんですか?」
お礼に答えるのもそこそこに、メイベルの興味は馬車から降りた商人たちに向かっていた。そこでは道ばたに落ちてる物を拾って、何やら品定めをしているようだ。
「ああ、あれかい。あれは賊が残した物を拾ってるんだよ」
馬車から顔を出したメルカトル夫人が、メイベルが何に興味を持ったのかに気づいて答えた。
「何のために拾うんですか?」
「商売のためさ。良い物なら手入れすれば街で売れるし、ダメな物でも鉄くずや材料として売れるからね」
「盗賊の物を奪うって、何と言うか……」
「おや、これはあたしら商人の権利さ。盗っ人はあたしらから金目の物を奪おうとする。ならば、反対に奪い取られても文句は言えないだろ。目には目をさ」
「それはまた……、商魂たくましい……ですね」
メルカトル夫人の言葉に、メイベルが呆れた顔で二の句が継げなくなっている。
そのメイベルをしげしげと見るメルカトル夫人が、
「そう言えば、あんたら旅って……。何か特別な旅なのかい?」
と、関心があるような顔で聞いてきた。
「見たところ、あんた聖修道女にしては、すごく若いわね。あっちの近衛隊長さんも、あの服は中隊長だったかねぇ。にしては、すごく若く見えるけど」
メルカトル夫人がまるで値踏みするような目でメイベルと、そしてナバルの人となりを読み取ろうとしてくる。そのメルカトル夫人が、
「その若さで聖修道女と中隊長ってことは、あんたら、そうとう優秀なんだろうねぇ。そんな2人がそろって旅支度してるなんて、これはかなり重要度の高い特命を受けたんじゃないかい?」
瞳を輝かせながら推理を楽しんでいる。だが、
「おっと。これは命の恩人さんに、いきなり失礼だったね。いやぁ、商売人は常に最新の情報を仕入れておくのが鉄則だからね。つい商売人の悪いクセが出ちまったよ。気に障ったらゴメンよ」
と笑いながら、今の質問をなかったことにしようとする。もっとも舌の根も乾かないうちに、
「まさかとは思うけど、特命じゃなくて駆け落ち……なんてことは……?」
と、メイベルの耳許でささやいた。
その一言に、メイベルの顔が真っ赤になって鼻息が荒くなっている。
「か、駆け落ちって……、わたしたちはそんなつもりじゃ……」
「あはははは。冗談さ」
慌てて否定しようとするメイベルを、夫人が豪快に笑い飛ばした。その夫人が荷台から外に視線を落として、
「隊長さん。あんたら、これからどこへ向かうんだい?」
と、今度は馬車の横にいるナバルに尋ねた。
「南だ。それ以外は、まだ決めてない」
「決めてない?」
ナバルの気になる答えに、メルカトル夫人が首を傾げた。だが、
「ふむ。これは何かありそうだねぇ」
と零して、2人の顔をニヤニヤとした表情で交互に見詰める。その顔を見たメイベルが、思わず一歩後退っていた。
「そうだ。ものは相談だけどさ」
ふと何かを思いついたように、メルカトル夫人がそんなことを言い出してきた。
「南へ行くなら、あたしらと同じだね。それなら、もし良かったらだけどさ。あたしらと一緒に旅をしないかい? 一緒に行けるところまでで良いからさ」
「一緒に?」
道ばたから荷台を見上げるナバルが、夫人の提案に怪訝そうな表情を浮かべる。
「旅の間の費用はこちら持ち。あんたらは腕が立ちそうだから、あたしらには用心棒が増えて助かるってもんさ。どうだい。悪い話ではないだろう」
「用心棒……ねぇ……」
夫人の持ちかけた提案に、メイベルがどうしたものかと考える。そこに最後尾の馬車にいた初老の商人が、
「女将さん。その提案はお2人に迷惑でございますよ」
と言いながら近づいてきた。
「お2人は見たところ、ソルティス教会の全面的な支援で旅をなさるのではありませんかな。となれば寝泊まりも交通手段も、すべて教会の支援を受けて何不自由ない旅ができるはずでございます。それを最新式とはいえ、このような幌馬車での旅を持ちかけるなど、失礼というものでございますよ」
「ああ、言われてみれば、その通りだねぇ……」
初老の商人に注意されたメルカトル夫人が、頬に手を当てて溜め息を漏らした。そしてメイベルに顔を向けて、
「それなら、せめて助けていただいたお礼に、今日お泊まりする教会までお送りしましょうかねぇ」
と持ちかけてくる。
「すみません。お気持ちは嬉しいのですが、わたしたち、ちょっと事情があって教会には泊まれないんです」
「泊まれない? 事情があって?」
メイベルから返ってきた意外な答えに、メルカトル夫人の瞳がキラリと光った。
「つまり何かい。教会に泊まれない事情があるってことは、何か教会の人らに知られてはいけない特命を受けてて、その間、こっそりと旅をしなくてはならないのかい?」
「……はい!?」
いきなりまくし立てるようにしゃべり出した夫人の言葉に、メイベルが目を丸くした。
「それよりも、こういう理由じゃないのかい? あんたら、若いけど聖修道女と近衛中隊長じゃないか。そのために何か知ってはいけない機密情報に触れてしまって、命を狙われてるんじゃないのかい? それで今日、2人で帝都を脱出したということではないのかねぇ? おお〜、これは有り得る話だわ。しかも最高に燃える状況じゃあないか!!」
「あ、あのぅ、いったい……?」
夫人が勝手に想像して勝手に盛り上がっている。それで置いてきぼりを喰らったメイベルが、かける言葉を失って困っていた。
馬車の下でも、
「どうしたんです?」
「申し訳ございません。女将さんは幼少の頃から政治的な陰謀や裏社会の秘密めいた話がお好きでございまして、いやはや何と申しますか……」
ナバルに尋ねられた初老の商人が、白いハンカチで頬を伝う冷や汗をぬぐっている。
そんな商人の大先輩の焦りなど気にも留めず、
「と言うことなら、2人の逃走に、あたしらは全面的に協力するよ。どうだい?」
と、メルカトル夫人が何かを期待するような眼差しで申し出てきた。
「どうだいって言われても……」
何か楽しそうな展開を待っているような夫人の雰囲気に呑まれて、メイベルが返事に困った。そのメイベルの視線が、求めるように馬車の横にいるナバルへと向かう。
「メイベル。一緒に行くかどうか、判断は任せる」
「え!? わたしが決めるの?」
ナバルに言われて、メイベルがどうしようかと思った。そのメイベルの視線が、再びメルカトル夫人へと移る。
「あのぅ、この馬車は南へ行くと仰られてましたけど、フルヴィ川を渡るのは、いつ頃の予定でしょうか」
「明日の午前の船便を使う予定さ。ひょっとして、ホントに命を狙われてるから、今日中に川を渡ってしまいたいって気持ちなのかい?」
メイベルの質問に、メルカトル夫人が瞳を輝かせて尋ねてくる。何か急ぐ理由があるのか。それが知りたくてうずうずしてるようだ。
「う〜ん。できれば早く渡りたいのは事実ですけど……」
「やめときなよ。もうすぐ日が落ちるからさ。夜の川渡りは危ないよ」
「はぁ。そう言われると、そうです……よねぇ……」
夫人に押されっ放しのまま、メイベルが言葉に困っていた。
「一緒にいると、ご迷惑をおかけするかも……」
「あたしゃ、気にしないよ」
夫人の目は「どんな迷惑がかかるの?」と期待するように輝いていた。
「小さな子もいるようですし、あまり厄介なことには巻き込みたくは……」
「何事も人生の経験さ」
夫人の瞳に星が浮かんで、「厄介なことって、やっぱり政府の陰謀?」と教えて欲しそうな輝きで訴えている。夫人の目は口以上に雄弁だった。
これでは断る理由が出てきそうもない。それで根負けしたメイベルが、ふうっと息を吐いて、口の端を少しだけゆるませる。
「それでは、ご好意に甘えさせて……」
「そうこなくちゃ!」
メイベルが最後まで決定を言わないうちに、メルカトル夫人が嬉しそうな顔でメイベルの手を取ってきた。
馬車の下では、
「近衛隊の中隊長さま。これから女将が何かとご迷惑をおかけすると思いますが、何とぞ、何とぞお気になさらないようにお願いしますぞ」
「いえ、たぶんこちらのかける迷惑の方が大きいと思います。特にメイベルの難解な解説に巻き込まれると……」
初老の商人とナバルが、先手を打った謝罪合戦をしている。そこに更に、
「妻があらぬ詮索をしないかと、今から心配で……。今のうちにごめんなさい」
と、メルカトル氏までも加わってきた。そんな男3人に、
「さあさあ、そうと決まったら、出発しようかねぇ」
と、メルカトル夫人が笑顔で言ってきた。
「隊長さん。ちょっと子供らが多くてうるさいけどさ、この馬車にお乗りよ。お嬢ちゃんもいることだしさ」
「では、そうさせていただくか」
夫人に誘われたナバルが、メイベルの乗っている先頭の馬車に乗り込んだ。
ナバルが馭台を通って荷台へ移ると、次にメルカトル氏が乗り込んで手綱を取った。
馬車の横にいた初老の商人は、自分の乗る最後尾の馬車へ戻っていく。その馬車の馭台では、若い女性の売り子が座って待っていた。
「さあ、出発だよ」
メルカトル夫人のかけ声と共に馬車が動き出した。
先頭の馬車の荷台に乗るのは、ナバルとメイベル、それと子供たちだ。その子供たちが2人に話しかけようとするが、馭台に座る夫人から今は勉強の時間と注意され、渋々机に向かって勉強を始めている。
それでナバルとメイベルは、荷台の後ろにある腰かけに2人だけで座ることになった。
「わたしたち、これからどうなるのかしらね?」
馬車に揺られながら、外を見るメイベルが不安を零した。
馬車は野盗に襲われた雑木林を抜け、明るい場所へと出ていく。周りに見えるのは麦畑だ。今は緑色の草に覆われているが、それは緑肥作物として育てられている燕麦である。1か月後に予定される冬小麦の種蒔きを前に、その燕麦を土に漉き込む作業が始まっている。
ナバルもそんな農作業風景を見ながら、
「さあな。それはわからん」
と、メイベルの疑問にあっさりと答えた。
「救世の旅が終わったばかりなのに、また旅に出てさまようなんて……」
「まあ、そんなに不安がるな。俺の役割は、本当はメイベルの護衛らしいからな。今度の旅では、俺がメイベルを護衛してやるよ。旅が終わるまでな」
見えない先行きに不安を感じるメイベルに、ナバルが気休めの言葉をかける。だが、それを聞いたメイベルの口から、
「えっ!? それって一生?」
思わずそんな言葉が漏れた。
「……おまえ、一生逃げ続ける気なのか?」
まぶたを半分閉じた目で、ナバルがメイベルの顔をジトーッと見詰める。それで自分が何を言ったのか思い返したメイベルの顔が、どんどん赤く染まっていく。
「そ、それもいいかも……。じゃなくて、あは、あははははは……」
顔を真っ赤にしたメイベルが、意味もなく大声で笑い始めた。
何があったのだろうと思った子供たちが、勉強する手を止めて2人に目を向ける。
後ろの馬車でも、馭台に座る男たちが何事かと首を傾げていた。
「青春だねぇ」
と零したのは、2人の乗る馬車の馭台にいるメルカトル夫人だ。
そんな一行を乗せた隊商は、旧道の分かれ道をまっすぐに南へ進み、そのまま港のある街へ向かって旅を続けるのだった。




