第1巻:第1章 平和な日常だったのに
北に岩山を望む丘陵地帯。その緩やかな南向きの斜面に、大きな都が築かれていた。
レンガ舗装された通りを挟んで、窓の上側をアーチ型にしたレンガ造り特有の姿をした建物が並んでいる。建物はだいたい3階から5階建ての造りだ。赤いレンガや灰色のレンガ、黄褐色のレンガ。通りに並ぶ建物には色とりどりのレンガが使われているため、街に豊かな彩りを与えている。それでいながら華やかさよりも落ち着いた雰囲気が保たれているのは、それなりの都市計画が働いているからだろう。
ここはフォルティアース大陸の東にある宗教都市サクラス。大陸最大の宗教ソルティス教の中心地であり、宗教によってまとめられた王国連合帝国の帝都でもある。帝国は帝都の名を取って『サクラス帝国』と称されることもある。
帝国をまとめる皇帝は、ソルティス教の大司教が務めている。もっとも、大司教は教皇としての地位を与えられてはいるが巨大な権限は存在しない。帝国を支配するのは連合に所属する王国の代表者たちによって構成される帝国議会である。
帝国の中心となるソルティス教の聖サクラス教会は、帝都サクラスの中央に建てられている。というよりも、むしろ帝都が聖サクラス教会を中心に広がっているのだ。
教会は白い塀に囲まれ、中に修道院や議事堂などの施設が集められている。そのうちの西側に建てられた修道院から、メガネをかけたやや丸顔の少女が足早に出てきた。半袖で明るい灰色の修道服は、見習い修道女の着る夏服だ。少女の左袖には金色に縁取られた袖章がつけられている。その袖章に描かれているのは、1枚のお皿の上で交差させた1組のナイフとフォークである。
その少女が中庭の真ん中で立ち止まり、目を細めて空を仰いだ。
「あぅ〜。夏至がすぎると、暑いですぅ〜……」
真っ白な教会の上に、真っ青に澄み渡った空が広がっている。そこから降り注いでくる強い陽射しに、少女は思わず目を細めた。
庭の木や建物の壁にはセミが留まっている。それらの激しい鳴き声と陽射しが、今が夏の真っ盛りであることをイヤというほど物語っていた。
「おや、パセラくん。お急ぎですかな?」
再び歩き始めた少女パセラを、白地に赤い縁取りの聖職服を着た男が呼び止めてきた。それで身体をくるっと男に向けたパセラが、
「あ、司教さま。ちょうど良かったですぅ。メイベルを見ませんでしたか?」
と、急いでる理由を答えた。
「またメイベル探しですか。彼女なら先ほど、宮廷図書館にいるのを見かけましたよ。いつものお抱え学者たちの手伝いでしょう」
「今日は図書館ですか? ありがとうございました。てっきり研究所の方とばかり……」
探してる相手の居場所を教えてもらったパセラが、司教に深くお辞儀する。そして、先ほどとは90度向きを変えて歩き出そうとする。
「パセラくん。メイベルに会ったら、ちゃんと朝晩の礼拝に出るように伝えてください。宮廷のお仕事や研究のお手伝いよりも、まずは修道女としての本分を……」
「忘れなかったら伝えておきまぁ〜す」
司教の話を最後まで聞かず、パセラは建物の陰へ消えてしまった。
それを見送った司教は「やれやれ」と零して、教会の中へと入っていった。
さて、パセラが向かおうとしていた宮廷図書館では、
「う〜ん。この病気は本当にデスペランなのかなあ?」
窓ぎわの席に座っている少女が、宙に浮かべた地図を指先で突っついていた。
少女の服装は見習い修道女の着る明るい灰色をした夏服だ。だが、先ほどのパセラとは違い、袖には鍋とタマネギ3個の絵が刺繍された金縁の袖章をつけている。
少女の周りには何枚もの地図が浮かんでいた。いずれも大陸東部の広い範囲を描いた白地図だ。その1枚ごとに日付と記号が描き込まれている。それらを腑に落ちなそうな表情で突っつきながら、少女は先ほどからずっと考えごとをしていた。
少女の周りには、他にも開かれたままの分厚い事典や、定規、鉛筆などの筆記具が無造作に散乱している。その少女に、
「おやおや。メイベル、魔法でずっと地図を浮かべているのは疲れませんかな?」
と話しかけながら、老学者がゆっくりと歩み寄ってきた。
老学者の髪は真っ白だった。小さな丸メガネの奥にある目を優しく微笑ませ、ふさふさの髭をなでている。その穏やかな佇まいは、好々爺と呼ぶに相応しい雰囲気を漂わせていた。
「大丈夫ですよ、アウル博士。魔力は鍛えてますから」
と答えて、メイベルと呼ばれた少女がゆっくりと老学者アウルに顔を向ける。
「そろそろ調査隊が出発する時間ですぞ」
「……ん!? もう、そんな時間ですか?」
アウルの言葉に、メイベルが顔を窓の外へ向けた。
ここは聖サクラス教会の敷地内にある宮廷図書館の2階。西向きの窓から見えるのは、大聖堂の南側にある聖サクラス広場。別名『式典広場』と呼ばれる大きな広場だ。そこでは今、大勢の人たちが集まって式典が行われている。
「調査の成功を祈る式典は、まだ終わってないようじゃな。真夏の暑い盛りじゃというのに、どうして政治屋の演説は長くなるのかのう?」
広場で行われているのは、調査隊の出陣式だ。その様子を見ながら、
「調査隊の派遣は、メイベルが各地から寄せられた報告書を丹念にまとめて、病気の発生源を突き止めたおかげじゃ。しかし、その功労者が16歳の見習い修道女では体裁が悪いという理由だけで式典に呼ばれないとは、いったいどうしたものかのう?」
と零して、アウルが横にいるメイベルに視線を移した。
「いいんじゃないですか? わたし、ああいう面倒な儀式は嫌いですから」
アウルの苦言など意にも介さず、メイベルがあっさりとした言葉を返した。そんなメイベルの態度に軽く肩をすくめたアウルが、
「さて、そのメイベルは、先ほどから何を悩んでおるのかな?」
と、話題を式典から現在調査中の案件に変えてくる。それを待ってましたとばかりに、
「そうそう。この病気ですけど、本当にデスペランなのか気になるんですよ」
と、メイベルが感じた疑問を持ち出してきた。
「ふむ、デスペランではないと……。なぜ違うと感じるのですかな?」
「症状は似てますけど、広がり方が違うみたいに思うんです」
アウルの求めに答えようと、メイベルが空中に浮かべていた白地図を並べ直した。そして、それらをアウルへ向けて、
「これは報告書から病気の発生場所を1日ごとに描いてみた地図ですけど……」
と説明を始める。
「病気の広がり具合が、過去のデスペランとは違うように思うんです。デスペランは人から人への感染症ですから、運河や街道を伝わって広がるはずです。実際に1世紀半前の大流行では、まず運河沿いの町で感染が確認されて、そこから街道を通って内陸にある町へ広がったように思われます。ですけど今回の病気は街道を無視して、放射状に広がってるんです。それも最初に確認されたヴァレーの町から東の方向へだけ……」
「ふむ。地図を見ると、そのように見えますな。しかし、違うと言いきれますかな?」
メイベルの言葉が途切れた頃合いを見計らって、アウルが慎重な判断を求めてくる。
「デスペランが人から人への感染症というのは、過去の学者たちの考えた仮説です。その仮説が正しいと思われるから今の学説があるだけで、本当は違うのかもしれませんぞ」
「はぁ……、そうですかねぇ……」
アウルの言葉に、メイベルが怪訝そうな表情を浮かべる。その気持ちに呼応するように、浮かんでいた地図がバサバサと音を立ててテーブルの上に落ちた。
その時、
「あ〜っ! メイベルぅ、見つけましたぁ〜!!」
と言って、パセラがメイベルを指差しながら図書館に入ってきた。
「こら。ここは図書館じゃぞ。静かにせぬか」
「あぅっ。ご、ごめんなさい」
アウルに注意されたパセラが、慌てて口許を押さえる。
「パセラ。何かあったの?」
「大ありですよぉ。大司教さまが今日の晩餐のお料理を、メイベルに任せるってご指名されたんですぅ。だから大急ぎで探してたんですよぉ」
「晩餐? わたしの当番は、明後日のはずだけど……」
パセラの言葉に、メイベルが軽く首を横に傾げた。
「おやおや、ご指名が来るとは、さすがはタマネギ3個の宮廷料理人じゃな」
「アウル博士。茶化さないでください」
左袖にある袖章を指差すアウルに、メイベルが困った表情を浮かべた。
ちなみに袖章は修道女たちの担当する係を意味している。メイベルの鍋の絵のある刺繍は厨房係、パセラのお皿の絵は給仕係を意味しているのだ。それと2人の袖章にある金縁は宮廷付きを意味し、一緒に描かれたタマネギの数やお皿の枚数は、それぞれの担当の中での階級を示している。
「それで、パセラ。ご指名の理由は?」
「それが今日、帝都にお越しになられたアキロキャバス公王さまのご要望です。だから、大急ぎで晩餐の準備を始めないと……」
「アキロキャバス公王さまが? どうしてわたしを……」
そんな疑問を口にしながら、メイベルがゆっくりと腰を上げる。そのメイベルの手許に目を落としたパセラが、
「ところでメイベルぅ。今日は何を調べてたのですか?」
と尋ねてきた。
「デスペランの調査よ。パセラには学術名より、通り名の絶望病と言った方がわかりやすいかしら?」
「絶望病!? それ、世界の3分の2の人たちを殺したドラゴン病でしたっけ? たしか前の前の世紀に大流行した……」
「ああ、ドラゴン病という呼び方もあったわね」
パセラの問い返してきた言葉に、メイベルがくすりと微笑んだ。そのメイベルに、
「ひょっとして、今日は歴史のお勉強だったんですかぁ?」
と言って、パセラがメイベルのいるテーブルに手を突いて身を乗り出してきた。
「違うわ。また流行の兆しが出てきたから、調査をお手伝いしてたの」
と答えたメイベルが、小さく「あっ」と漏らして口許を押さえた。
「アウル博士。この件は口外無用でしたっけ?」
「気にするでない。黙っておっても、もう街ではウワサになっておる。それにほら、デスペランの調査隊が出発するところじゃ。隠す意味などないじゃろ」
メイベルに質問を振られたアウルが、そう言って窓の外を指差した。その先にある広場からぞろぞろと長い隊列をなして、軍隊を伴った大規模な調査隊が出発していく。
「すごい兵隊の数ですねぇ。歩兵隊に弓兵隊、砲兵隊、騎兵隊、工兵隊に魔導隊までいますぅ。まるで戦争に行くみたいですよぉ」
「デスペランがドラゴン病と呼ばれる所以は、ドラゴンが病気を惹き起こしたと信じられておるからじゃ。それが事実かどうかは定かではないが、調査に向かう場所はドラゴンの棲息地じゃからのう。場合によってはドラゴンたちと一戦交えるかもしれん。調査隊が大規模な軍隊を伴うのも当然じゃな」
大きく見開いた目で隊列を見送るパセラに、アウルが淡々と解説する。そのアウルに、
「それじゃまた、病気で大勢の人が亡くなっちゃうのですかぁ?」
と、パセラが今にも泣きそうな顔で尋ねた。
「おぬしは心配性じゃのう。調査隊は、それを調べに行くのではないか」
「……ああ、そう言われると、そうですねぇ」
アウルの言葉に、パセラがホッと一安心したように胸をなで下ろす。
「それよりも、今は晩餐の準備が最優先だわ。まだ調べたいことがあるけど……」
と零しながら、メイベルがテーブルの上を片づけた。そして、
「それじゃ、アウル博士。今日はこれで失礼します」
と断ると、棚に事典や地図を放り込んで図書館から出ていった。それを、
「あ、メイベルぅ。待ってくださいよぉ〜!」
と、パセラが追いかけていった。
「やれやれ、メイベルも忙しいヤツじゃのう」
2人を見送ったアウルが、静かになった図書館の中でそんな言葉を零した。
「学者になりたいのか、料理人になりたいのか。はたまた魔導師か、技術者か。あやつの目標はどこにあるのじゃろうな?」
図書館の前にある広場では、式典の後片づけが行なわれている。調査隊も見送りたちもいなくなった広場は、奇妙なほど閑散とした雰囲気を漂わせていた。
「はい。外出許可証、2人分です」
大きなリュックサックを背負って、メイベルが教会の正門に立つ門番に許可証を見せた。
「メイベル・ヴァイスとパセラ・アヴィシスですか。目的は……」
「買い出しです」
門番の質問に、メイベルが気合いの籠った声で答えた。その後ろにいるパセラが、おずおずした表情を浮かべている。
「タマネギ3個のあなたが買い出しですか? 今日はアキロキャバス公王の晩餐の用意があるのでしょう。そのような雑用はタマネギ1個の者に任せて……」
「あれ!? もうわたしが料理を任されるって話、伝わってるの?」
「当然です。というか、アキロキャバス公王は騎兵隊長殿のお父君ですからね。今日はメイベル殿の料理が食べられると嬉しそうに言い触らしてますよ」
「あ、あの人は……」
門番の話に、メイベルが眉間にしわを寄せて額に手を当てた。
「それで、外出の目的が買い出しなのは良いのですが……。下っ端に任せずに、わざわざあなたが出かける必要はあるのですか?」
「当然、あるわよ。最高の食材は料理人が自ら選ぶものよ。それにタマネギ1個に下ごしらえを任せた方が料理の勉強になるでしょう。これに何か異論はありますか?」
質問をし直す門番に、メイベルが間髪を容れずに答えた。
「異論はありません。というより、口ではあなたに勝てません。が、見習い修道女が頻繁に街を出歩くのは、あまり感心できません」
「まあまあ、このぐらい大目に見てよ。わたしたちにとっては、こういう口実でもないとなかなか外出する機会がないんだからさ」
「やはり本音はそこですか……。と言うか、ほぼ毎日出歩いてて機会がないとは……」
メイベルの答えに門番が大きな溜め息を吐いた。その2人のやり取りを、パセラがハラハラしながら見ている。
「まあ、許可証があるのですから、良いでしょう。ハメをはずさないでくださいよ」
「はぁ〜い。ありがとうね♡」
許可証を返した門番に、メイベルがおどけた口調で投げキッスを返した。そんなメイベルの態度に、門番が頬を赤らめて困った表情を浮かべている。その門番に背を向けて、
「さぁて、今日の買い出しは、どこへ行こうかしらね」
と言いながら、メイベルが大きく手を挙げて背伸びをした。
「それでは聖なる書の教えに従って、行き先を決めるくじびきを……」
「ちょっと待って、パセラ!」
番号の書かれた串を持つパセラに、メイベルが待ったをかける。
「くじびきなんかに頼らず、自分の行く場所ぐらいは自分で決めるべきよ」
「でもソルティスさまの書かれた聖なる書では、運命は天によって決められるもの。それがくじびきです。人々はくじびきによって『何かを選ぶ』という無駄な努力から解放されますので、与えられた運命の中でだけ努力を尽くせば良いのです」
「そんな運命を天に任せた人生なんて願い下げだわ」
両手を合わせて静かに語ったパセラの言葉を、メイベルが吐き捨てるように否定する。
「自分の人生は自分で切り拓くの。6歳の時に小学校を決めるくじびきでむりやり修道院に入れられた時に、わたしは運を天に任せた人生では不幸になると悟ったのよ」
「はぁ……。メイベルのくじびき嫌いは、筋金入りですねぇ……」
1人でこぶしを握って燃えているメイベルの態度に、パセラが呆れて嘆息した。
その一部始終を近くで聞かされた門番も、
「相変わらず、不貞ぇ見習い修道女だ」
と、メイベルの主張に呆れている。
「あ、パセラ。水力列車が来たわ。行き先は中央市場に決めましょう」
教会の正門前に、路面電車のような2輌編成の乗り物が入ってきた。それを指差したメイベルが、乗り場に向かって駆け出していく。その後をパセラが、
「来た列車で行き先を決めるのは、メイベル的には運任せじゃないんですかねぇ?」
と呆れながら乗り場に向かっていった。
水力列車の車輌は短く、1輌あたり8mの長さしかない。その前と後ろに、ドアのない開けっ放しの乗り口が設けられていた。そこから列車に乗り込んだパセラが、
「一番前の席が空いてますよぉ」
すぐさま最前列の席を陣取って腰を下ろした。
続いて列車に乗り込んできたメイベルが、
「そんなに慌てなくても、席を先取りなんてされないのに」
と言いながら、パセラの隣に腰を下ろす。
それとほぼ同時に、乗り物がガクンと揺れて静かに動き始めた。
運転室の窓越しに外を見るパセラが、
「だって、列車は前の見えるこの席が特等席なんですよ。うわぁ〜、速ぁ〜い……」
と、すっかりと童心に返って瞳を輝かせている。
メイベルたちの乗った車輌の運転手は、丸々した体形をしていた。彼は立ったまま運転している。右手でレバーを握り、左足でペダルを踏み込んでいるのだ。
「それにしても、どうしてお馬さんがいないのに走れるんですかねぇ。何度乗っても不思議ですぅ。それに『水力鉄道』と呼ぶわりに、どこにも水が流れてませんよぉ」
「水は道路の下を流れてるわ」
パセラの疑問に、メイベルが短く答えた。
「街は緩やかだけど斜面に作られてるから、水の流れは速いのよね。その流れが勢い良く水車をまわしててね。その動力がレールの間に張られたケーブルを動かしてるの。列車はそのケーブルを摑んで動いてるのよ」
運転室の窓から見える線路は、道路に埋め込まれるように並べられた2本のレールと、その間にある小さな溝で構成されている。間にある溝の中にケーブルが張られてるのだ。
簡単に仕組みを聞いたパセラが、
「メイベル、詳しいですねぇ。さすがはアウル博士の申し子ですぅ」
と、メイベルに尊敬の眼差しを向けてくる。それに、
「アウル博士の申し子……ねぇ。わたしは興味があるから調べただけよ」
と答えて、メイベルが天井を見上げた。
「新しい技術が出てきたら触れてみたい。新しい科学の発見があったら、自分の目でも確かめてみたい。知らない料理が出てきたら、作り方を知って自分でも作ってみたい。将来的には誰にも真似できない創作料理を作ってみたいし、魔法の腕も極めたい。みんなが驚く大発明もしてみたいし、科学的な大発見に立ち会ってみたいわ。わたしは、そのために勉強してるのよ。こういう気持ちって、すごく自然なものじゃないのかな?」
「それはたしかに自然な気持ちですねぇ。それで勉強までする人は少ないですけど……」
パセラがそう零して、メイベルと同じように天井に目を向ける。そして、
「わたしはそういう気持ち、いつぐらいに捨てちゃいましたかねぇ?」
と自問を始めた。修道院での暮らしは、神への奉仕を中心に成り立っている。パセラはそんな生活に埋没した自分を振り返ってみようとした。だが、
「でもさ。今のわたしたちって、すごい時代に生きてるよね。技術も科学も日進月歩。新しい技術が街の姿をどんどん変えて、新しい発見が毎日のように報じられてるでしょ。この水力鉄道も5年前に馬車鉄道から変わったけど、そのうち電気で動く列車に変わるかもしれないのよ。まだ電動機の力が弱いけど、実現すればすごく速い乗り物になるはずよ。まあ、列車にどうやって電気を伝えるかって問題が残ってるから、すぐに変わることはないわ。一番簡単なのは左右のレールに電気を流す方法だけど、電気って感電するおそれがあるのよねぇ。そこで船でやってるみたいに列車にも発電機を載せる計画があるんだけど、液化ガスで動く発電機は重すぎて試作機が動かなかったというから間抜けな話だわ」
メイベルがいきなり長々としゃべり始めた。メイベルは一度話し始めると止まらなくなる性格なのだ。その話にパセラが、
「へぇ〜。もっと速い乗り物が作られそうなのですか。技術の進歩ってすごいですねぇ」
と気のない受け答えをして、視線を列車の運転室へ向ける。列車は緩やかに交差点を曲がり、これから坂道を下っていくところだ。
「ホント、最近の技術の進歩は目覚ましいわね。でも、今、こうやって新しい技術がどんどん生まれてるのって、1世紀半前にあったデスペランの疫病禍が原因らしいわ。あの大災厄で世界の3分の2の人が亡くなったために、それで足りなくなった労働力を何とか補おうとしたのが技術大躍進の始まりだって謂われてるの。そう考えると、技術や科学だけじゃなくて、歴史も勉強したくなるわね」
メイベルの話は、どんどん取り留めのない方向へ流れていた。パセラが聞いてるかどうか。そんなことには委細構わないようだ。
「わぁ、ネコさん。無茶な横断は危ないです!」
いきなりパセラが大声を上げた。列車の前を横切ったネコに肝を冷やしたのだ。
その言葉に、ようやくメイベルの一人語りが終わる。
「ああ、びっくりしましたぁ」
胸をなでながら、パセラが視線をメイベルに戻してきた。そのパセラの表情を見て、メイベルがくすりと笑みを漏らした。
その時、列車の車輪がキキキッと鳴り出した。ブレーキが利き、減速を始めたのだ。
運転手が踏み続けていたペダルを、少しだけ浮かしている。列車は安全のため、運転手がペダルから足をはずすとブレーキが利くようにできているのだ。
「中央市場まで、あと停留所3つ……」
列車が坂の途中にある停留所に停まり、乗客が乗り降りしている。その流れを見ながら、メイベルが残りの停留所の数をかぞえた。そのメイベルにパセラが、
「ねえ、メイベルぅ。前から気になってたのですが……」
と声をかけてきた。
「どうしてみなさん中に入らないで、乗り物の外に摑まってるのですかぁ?」
パセラの視線は客車の窓に向かっていた。
列車の外側にはステップと、摑まるための手すりがついている。そこに大勢の市民たちが群がるように摑まっていたのだ。車内にいるのは、メイベルたちを含めて数人しかいない。なんとも異様で滑稽な光景である。
「中に入らなければ運賃はタダだもの。払いたくない市民が多いからでしょう」
「えっ!? 運賃がいるのですか?」
メイベルの答えに、パセラが驚いた声を上げた。
「わたし、今まで払ったことないですよぉ」
「わたしたちはいいのよ。この列車は教会の運営だもの。貴族と公職者、それと宗教関係者はタダなのよ。まあ、乗り合いの列車に乗る貴族なんていないけどね」
「ああ、そういうことだったのですか」
自分が無賃乗車してたわけではないと知って、パセラがホッと一安心する。
その時、列車がガタンと大きく揺れた。その揺れに負けた何人かの市民たちが、列車から放り出されて坂道に転がっている。
「なぁに、今の揺れ?」
「運転手さんが、ケーブルを摑み損ねたんでしょ」
パセラの疑問に、メイベルが短く答えた。
水力鉄道のケーブルは技術的な課題を解決してないため、あまり長く張れない。そのためケーブルが途切れるたびに次のケーブルを摑み直さなくてはならないのだ。
その摑み直しに失敗した運転手が、メイベルに「すみません」と小声で謝っている。
そして列車の後ろでは、転げ落ちた市民たちが必死に列車を追いかけていた。
帝都サクラスは5重の城壁に囲まれている。時代と共に都が大きくなり、そのたびに外側に新しい城壁を築いて守りとしてきた名残である。
その内側から2つめの城壁を出たところに、緩やかな階段状に造られた大きな広場がある。そこは古くから多くの行商人たちが集まってできた市場で、今でも数多くの露店が所狭しと並んでいる。
その市場の西側にある丘に造られた駅に、水力列車が静かに入ってきた。
「ここはいつ来ても活気があるわね」
列車から顔を出したメイベルが、丘から見下ろすように市場全体を見渡した。
大帝国の帝都にある中央市場だけに、そこには大勢の人たちで溢れていた。うまく人の流れに乗らないと、どこへ流されるか予想もできないほどの込みようだ。
「メイベルぅ。今日は何を買うのですか?」
「チーズと香辛料よ。他にお茶や乾物で掘り出し物が見つかると良いんだけど……」
そう答えながら、メイベルが列車から降りた。
「お肉とお魚は買わないのですか? それにお野菜とか、果物とか……」
「この炎天下では、傷みやすいナマモノは買えないわ。それで食中毒騒ぎなんて起こしたら、大司教さまの信用に傷をつけちゃうでしょ。そのあたりは業者さんが毎日冷蔵馬車で持ってきてくれてるから、それで済ませた方が無難だと思うの。まあ、出かける前に豚肉が足りないみたいだったから、注文しておいたけど……」
人の流れに乗って、メイベルが市場へと入っていく。そのメイベルの手を摑んで、パセラが必死に離れまいとする。
「パセラ。買い出しの前にシャーベット、食べようか」
突然、メイベルが右に曲がった。それで曲がり損ねたパセラが人にぶつかり、メガネを斜めにしている。
「シャーベットですかぁ!? 高くて庶民には食べられないですよぉ」
「ところが、最近はそうでもないのよね」
メガネの位置を正しながら言ってくるパセラに、メイベルが明るい声で答えた。
「手動だけど、小型の冷却装置が出まわるようになってね。おかげでシャーベットが庶民でも買えるぐらいに安くなってるのよ。しかも、この市場には新鮮な果物が集まってるじゃない。だから、来たからにはシャーベットを食べなくちゃ損するわ」
「そうなのですかぁ? じゃあ、食べてみたい……かも……」
メイベルの言葉にパセラの心が揺れ動く。ところが、
「アイスクリーム?」
「きゃん☆」
いきなりメイベルが立ち止まったため、その背中にパセラが顔をぶつけてしまった。
「メイベルぅ。鼻が痛いですぅ〜……」
「あ、ゴメン。今日はシャーベットはやめましょう」
文句を言うパセラに、メイベルがマジメな顔で言ってくる。
「どうしたのですかぁ?」
「見たことも聞いたこともない食べ物があるの。あれもシャーベットの一種かしら?」
メイベルの表情が料理人モードに切り替わっていた。パセラの手を引っ張ったまま、気になる露店へと近づいていく。
「生クリームのシャーベットってわけでもなさそうね」
露店には大きな筒型の容器が置かれていた。それが霜の降りた鉄板に開けられた穴の中に入れられている。この穴の開いた鉄板の下にあるのが、メイベルの語った冷却装置だ。装置の横にはレバーがついていて、それを若い店員が汗をかきながらまわしている。
「お嬢ちゃん、いらっしゃい。美味しいアイスクリームはいかがだい?」
容器を覗き込むメイベルに、露店の主人が声をかけてきた。
「これがアイスクリームって言うの? じゃあ、2つちょうだい」
「あいよ。今日は暑いからな。溶けちまう前に、早めに食べな」
主人が容器からアイスをすくって、それを紙皿に載せた。そして木のスプーンを添えて、2人分の代金を支払ったメイベルに渡す。
「シャーベットとは、まったく違うものみたいね」
メイベルが木のスプーンでアイスクリームを突っつきながら、物が何かを考えている。だが、見てるだけでは容易に答えが出ず、ならばと軽くすくって口に運んだ。
「これは美味しいわ! この食感は、これまでに味わったことがないわね」
「ははは、そりゃそうだろ」
メイベルの言葉に、主人が機嫌好く笑っている。その主人に、
「おじさん。わたし、宮廷で料理を任されてるんだけど、これの作り方を教えてくれないかな? これはデザートに使えるわ」
と、メイベルが袖章を見せながら作り方を尋ねる。
「おっと。それは誰にも教えられねえぜ」
「え〜っ、ダメなの? 今日宮廷で、大切な晩餐があるのよ。だから……」
「そう言われたって、これは大事な商売道具だぜ。企業秘密をおいそれと他人さまにゃあ漏らせねえよ」
「う〜ん。それはそう……だけど……」
断る主人の顔を、メイベルが上目遣いで見詰めている。だが、すぐに、
「それなら、自分の舌で確かめればいいのよね」
と気持ちを切り替えて、2口目を口に運んだ。
「この口触りは生クリームを冷やしたように思えるけど、少し風味が違うわね。生クリームよりは脂肪分が少ないかしら。とすると、これは生乳に砂糖を加えて泡立てたものを冷やしたんだわ。比率は生乳4に砂糖1」
「ゔ……」
メイベルの言葉に、主人が思わず唸ってしまった。その反応を見て、メイベルがにやりとほくそ笑む。
「でも、これでは砂糖が多すぎるわね。砂糖1に対して生乳は5か6で十分だと思うわ。これに卵黄を加えると、口当たりがまろやかになりそうね。風味づけにバニラエッセンスを加えるのも良い感じかも……」
「何!? 卵黄を加えるとまろやかになる? メ、メモ……。メモはどこだ!」
メイベルのつぶやきを聞いていた主人が、急いでメモに使えるものを探し始めた。そんなことにはまったく頓着せず、また1口食べてから、
「そうだわ、生乳にジュースを加えれば彩りを増やせそうね。ただジュースを加えるだけだと生乳が薄まってしまうから、そこは練乳を加えて……」
メイベルが更なる改良点を考えている。そのメイベルに店の主人が、
「お、お、お、お嬢さん!」
メモを構えつつ、真剣な表情で声をかけてきた。
「い、今の話をもう一度聞かせてもらえませんかな」
「…………えっ?」
主人の言葉に、メイベルが木のスプーンを咥えたまま動きを止める。その隣では、
「うぅ〜。頭が痛いですぅ〜。ズキズキしてるですぅ〜……」
パセラが頭を押さえて、目に涙を浮かべていた。
「今の話って?」
「ほら、このアイスをもっと美味しくするレシピですよ」
動きが止まったままのメイベルに、主人が急かすように言ってきた。それを聞いて、
「ああ、レシピ……ね」
メイベルが意地悪そうに白い歯を見せる。
「ごめんなさい。これは企業秘密です。それでは、ごちそうさまぁ〜」
「ああああ〜、そんなぁ〜……」
したり顔で離れていくメイベルを、主人が情けない顔で見送るハメになった。その一方でメイベルは、
「これは今日の晩餐に使える、新しいデザートが見つかったわね。厨房には小さい冷却装置はないけど、氷に硝酸塩でも入れて代用すれば大丈夫かしら?」
と、市場に来て早々に得た収穫に大満足している。
「掘り出し物の硬質チーズも手に入ったし、お茶と香辛料も確保できたわ。さぁて、次のお店はどのあたりかしら」
「まだ買うのですかぁ? チーズが重いですぅ」
2人の背負うリュックサックは、大きく膨らんでいた。メイベルのリュックサックの方が、やや大きく膨らんでいるようだ。
「荷物なんて魔法で浮かせればいいのよ。ねえ、ビン詰めのお店はどこかしらね?」
「ええ〜。ビン詰めは重いですよぉ。それに、わたしは魔法は使えないですぅ〜」
まだ重い物を買うと聞かされたパセラの口から不満が漏れた。しかし、メイベルは、
「腸詰めや醱酵モノは、ビン詰めを使った方が味が染みてて美味しいのよね」
と、パセラの不満は耳に届いてないようだ。まあ、魔法が使える分だけ、自分の荷物に重い物を詰め込んでいるようではあるが……。
その時、
「あれ!? メイベルちゃんではありませんか」
と言って、腰に長剣を携えた、どこか軽薄さを感じさせる青年士官が声をかけてきた。
「クラウ……さん?」
「いや〜、このような場所であなたとお会いできるなんて、大変な奇遇ですね。ひょっとしてメイベルちゃんと僕は、運命の赤い糸で結ばれてるのでしょうか?」
思わず半歩下がったメイベルに、クラウと呼ばれた青年士官が近づいていく。そして、いきなりメイベルの手を取って片膝を突くと、
「愛しの我が君、メイベル・ヴァイスちゃん。今日の日の出会いはソルティスの神がお膳立てさせたもうたもの。これを運命と受け止め、このロード・クラウ・アスピス・リ・フローレス・ド・アキロキャバス・ユーベラス。僕は君に永遠の愛を誓います」
と愛を語り始めたのだ。
それをメイベルが、口を半分開けて固まった状態で聞いている。見ているパセラも、顔を真っ赤にして両手で口を掩っていた。
その状況を打ち破ったのは、クラウの背後に立ったボサボサ髪の青年だった。その青年が持っていたサーベルの鞘で、
「この色ボケ野郎。公衆の面前でいきなり女性を口説くたぁ、どういう了見だよ。こちらの見習い修道女が困ってるじゃねえか」
と言いながらクラウの後頭部を小突く。
「ナバル。今の一撃は効きましたよ!」
後頭部を抱えるクラウが、その場に蹲りながら文句を返してきた。そのクラウに、
「おまえのようなヤツが、故郷を代表する貴族の息子とは片腹痛い。そのまま動くな。今、その素っ首を叩き落としてやる」
と怒気のこもった声で文句を言いながら、ボサボサ髪の青年ナバルがサーベルを抜こうとする。そのナバルの前から慌てて逃げたクラウが、
「まあ待ちたまえ、ナバル。きみは生マジメすぎます。これはちょっとしたあいさつではありませんか」
「ええ〜!? どうしてわたしを盾にするのですかぁ?」
パセラの後ろに隠れて、軽い口調で待ったをかけた。そのクラウに盾代わりにされたパセラが泣きそうな顔でナバルを見ている。
「クラウ。おまえ、まがりなりにも帝都近衛騎兵隊の小隊長だろ? それが女性の後ろに隠れるなどとは……。恥とは思わないのか?」
「恥……ですか? 僕はちょっと宗教用語には疎くて……」
「この大バカ野郎!! 恥は宗教用語じゃねえ!」
とぼけるクラウに、ナバルが言葉でツッコんだ。その2人の間に立たされたパセラが、
「ふぇ〜ん。なんだかわかりませんけど、仲良くしましょうよぉ〜」
と泣き言を零している。
「はいはい、そこまでにしてよ」
溜め息を交えながら、メイベルが止めに入ってきた。そして、
「それよりもクラウさん。クラウさんが市場に来るなんて想像できないんだけど、今日は何を買いに来たのかしら?」
と話題を逸らして、騒ぎを収拾しようとしてくる。それにクラウが、
「さすがはメイベルちゃん。よくぞ訊いてくれました」
と、質問に喰いついてきた。
「と、その前に、ナバル。先にこちらの2人を紹介しますよ。右の美しい女性が、宮廷料理人のメイベル・ヴァイスちゃんです。僕の将来のお嫁さんですから、手を出さないでくださいよ。で、隣のメガネをかけてるのが、メイベルちゃんの友人Aです」
「こんにちは。って、クラウさん。その紹介はパセラに失礼じゃないの。って言うか、誰がクラウさんの将来のお嫁さんよ!」
適当な紹介をしたクラウに、メイベルが文句をぶつける。その斜め後ろに立って、
「あぅ〜。友人Aですぅ……」
と、パセラが涙声でナバルにあいさつした。
「それで、こちらは僕の小さい時からの親友で、ナバル・フェオールといいます。なかなか剣の腕が立つ御仁で、昨年の帝国剣術大会では準優勝してるのですよ」
「準優勝!? それは、すごいわね」
クラウへの文句を忘れて、メイベルが紹介されたナバルの顔をジッと見詰める。そこにクラウがナバルの肩に手をまわして、メイベルの視線の先に顔を出してきた。それで目を合わせるハメになったメイベルが、クラウを憎らしそうに睨んでいる。
そんなメイベルの怒りを受け流すように、
「ところが、ナバルは昔からくじ運が救いようもなく悪いのですよ。父が剣の腕を見込んで……と言うか惚れ込んで自分の近衛隊に入隊させようとしたのですが、ナバルは去年もそして今年も、隊員採用のくじびきでハズレばかり引いてるのです」
とナバルの話を続ける。その話に不愉快そうな顔になったナバルが、
「くじ運が悪いんじゃない! ソルティスの神が、俺には別の役目があると教えてるんだ」
などと口を挟んできた。それを「まあまあ、最後まで言わせなさい」と黙らせて、
「それで……ですね。父も今ナバルが言ったように『これは神が自分に仕えさせるよりも、大司教さまに仕えさせる方が相応しいとお考えなのだろう』と結論を出しましてね。それで今回の帝都参勤ついでにナバルを連れてきた次第です。まあ、帝都近衛隊の採用試験はまだ先なので、それまで時間がありますからね。その間、帝都が初めてであるナバルのために、親友である僕が直々に案内してる……というわけです」
と話を続けた。だが、その説明にナバルが、
「ほう。クラウにしては殊勝な話だな。今日の案内、絶対何か下心があると思うのだが」
と毒舌を吐いてくる。
その2人のやり取りを聞いていたメイベルが、クスッと笑みを零した。
「クラウさん。あなた、親友からあまり信頼されてないみたいね」
「それは言いすぎですよ、メイベルちゃん」
メイベルの何気ない言葉に、クラウが情けない言葉を返した。
「そういえばクラウさんのお父さまって、北にあるユーベラス公国のアキロキャバス公王さまですよね? 帝国の内務大臣を兼ねられてる……」
「ふむ。その通りですよ。友人Aくん」
そこに疑問を投げかけてきたパセラに、クラウが胸を張って答える。そのクラウに、
「クラウさん。パセラの名前、本気で覚える気ないでしょ」
と、メイベルがツッコんだ。そんなやり取りには構わず、
「クラウさん。アキロキャバス公王さまが、どうしてメイベルのことを知っていたのか、気になるのですが。どうしてですか?」
パセラが心に浮かんだ疑問を尋ねてくる。
「うむ。それは良い質問ですね」
問いかけられたクラウが、そう言ってわざとらしく髪を掻き上げた。そして、
「僕の提案ですよ。将来のお嫁さんの手料理を、是非とも父にも味わってもらいたくて」
などと答えてきたのだ。そのクラウの横顔を、
「あんたが原因か!? あんたが!!」
と怒鳴りながら、メイベルがすごい形相で睨んでいる。
ナバルもこめかみに青筋を浮かべて、静かにサーベルを抜き放った。そして切っ先をクラウの鼻っ柱に当て、そこからゆっくりと喉許へ移動させる。
「つまり、おまえはこちらの見習い修道女に晩餐の料理人を任せ、俺の案内をダシに買い出しに来るであろうこの市場で待ち伏せしてたってわけか……」
「や、やだなぁ〜、ナバルくん。メイベルちゃんがどこの市場へ出かけるかなんて、僕にわかるわけがないではありませんか。と言う以前に、買い物に出るかどうかも……」
情けない声でナバルから逃げたクラウが、またパセラの背中に隠れた。それでまた、
「ふぇ〜ん。ですからぁ、どうしてわたしを盾にするのですかぁ?」
パセラが泣きそうな顔で、サーベルを構えるナバルを見ている。そのパセラの背負うリュックサックを、クラウが何気なく持ち上げた。
「これは、かなり買い込みましたね。けっこう重いですよ。何を買ったのですか?」
「チーズです。買ったのは4分の1ですけど、重いですよぉ」
そう答えたパセラの背中から、クラウがひょいとリュックサックを持ち上げた。そしてフタを開けて中味を検めている。
「おっ、醱酵して穴の空いたチーズですか。これを火で炙って焦がしたのが、父の大好物なのですよ。さすがはメイベルちゃん。ちゃんと主賓の好みを考えてるわけですね」
「当たり前じゃないの。メニューを自己満足だけで考えてたら料理人失格だわ」
メイベルが腕を組んで、当然とばかりに言い返した。その言葉を聞いたクラウが、
「それでは、今日、ここで会えたのも何かの縁です。このあとの買い物は、僕たちが荷物持ちになってあげましょう」
と言って、メイベルの肩からもリュックサックを取り上げたのだ。それでパセラが、
「ふわぁ〜。肩が楽になりましたぁ。ありがとうございます」
と、重みから解放された肩を上下させて凝りをほぐしている。
「案内の方はいいの?」
「今日一日ですべてを案内しなくても十分ですよ」
2つのリュックサックの重さを比べて、クラウが軽い方をナバルに渡そうとする。だが、それに気づいたナバルが、もう一方を渡すように仕種で要求してきた。そのナバルに重い方を渡しながら、
「近衛隊員の採用試験まで、まだ日はありますし、僕も事件がなければヒマですからね。案内する時間ならいくらでも取れますよ。それに将来の僕のお嫁さんがどんな食材を買うのか、興味がありますからね」
と話を続ける。
「誰が将来のお嫁さんよ!?」
「メイベルちゃんに決まってるではありませんか」
文句を言ってくるメイベルに、クラウが何喰わぬ顔で答えた。
「今日の晩餐で、父がメイベルちゃんを気に入ってくれると嬉しいですね。僕がメイベルちゃんと結婚したら、毎日こんな美味しい料理が食べられますよって教えたいのですよ」
「あ、あのね……」
一方的なクラウの話を聞いて、メイベルが不愉快な表情を浮かべている。それに、
「あのぅ〜、クラウさん。ちょっと気になったのですが。クラウさんがメイベルと結婚したとして、世間的に貴族の妻が料理を作るのはいかがなものかと思うのですが……」
とパセラが疑問を挟んできた。
「……ゑっ!?」
今のパセラの一言で、クラウの足が止まった。
「貴族の妻はいっさい家事には手を出さず、有閑を演じるのが義務でしょう。なのでクラウさんがメイベルと結婚したら、メイベルの料理は滅多に食べられないと思いますよぉ」
「パセラ、それは最高の助言だわ♡」
先ほどとは打って変わり、メイベルの表情が輝いていた。反対に思わぬ落とし穴を指摘されたクラウは、その場に固まったまま動かなくなっている。
「クラウ。こんなトコで立ち止まってたら、往来の邪魔だぞ」とナバルが声をかけた。
「クラウさん。目を開けたまま、気を失ったのかな?」とメイベルが顔を覗き込んだ。
「クラウさんって、メイベルのこととなると何か抜けちゃうです」とはパセラの言葉だ。
買い物客たちが忙しく通りすぎていく中、クラウの周りだけ時間が止まったようだ。やがてその時間が動き出し、
「それは考えてませんでしたぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
クラウは頭を抱えて懊悩することになった。
そんなクラウの反応に、3人は呆れたように大きな溜め息を吐いた。
「ところでナバルさん」
話題を変えるように、メイベルがナバルに話しかけてきた。
「クラウさんの親友ってことは、ナバルさんも、けっこう高貴な家の出なのかしら?」
どうやらナバルに興味を持ったようである。
「ああ見えてもクラウさんはアキロキャバス公王さまのご子息でしょう。そのクラウさんに親友扱いされて、しかも公王さまにも気に入られて、近衛隊の採用試験まで世話してもらえるんだから。あ、それとも大商人のご子息さんかしら? フェオールなんて姓の貴族は聞いたことないから……」
「ナバルの家は庶民ですよ。代々続く刀鍛冶です。貴族でも大商人でもありません」
懊悩するのをやめたクラウが、そう言ってメイベルの言葉を遮ってくる。
「でも、剣士と修道士に社会的な地位は関係ないでしょう。それと商人も。実力のある者は、当然、取り立てますよ。ね、メイベルちゃん」
「それはそう……だけど……」
クラウの言葉に、メイベルが言葉を濁した。
封建社会であっても能力のある者にはそれなり待遇が与えられる。
ナバルは帝国の剣術大会で準優勝するほどの実力者だ。その才能を幼いうちに気づき、早くから家族ぐるみで剣士として取り立ててきたとしても不思議ではない。
「ほらぁ。メイベルだって、宮廷料理人になったんだから、同じでしょう」
「ああ、そうかも……」
パセラの言葉に、メイベルが気の抜けた反応を返した。
メイベル自身も実力で宮廷料理人になった1人である。とはいえ自分のこととなると、意外と気づかないようだ。
「……ん!! 何……かしら……?」
ふいにメイベルが顔を市場の中央へ向け、何かを探すように首を左右に動かした。
「メイベル。どうしたのですか?」
「誰かが魔法を使う波動を感じたのよ。それも何か大きな……あ、止まった……」
不思議そうな顔をするパセラに、メイベルが声音を落として答えてきた。
「魔法!? 大荷物を運ぼうとしてるだけじゃ?」
「そんな感じじゃないわ。何かを動かすというより、壊そうとする感覚が……」
ナバルにそう答えるメイベルだが、肝心の正体がわからないようだ。釈然としない表情を浮かべて、必死に感覚の理由を探っている。
「気のせい……かなぁ……? でも、イヤな感じの波動だったわ」
メイベルがそう零して、気にかけようか忘れようかと迷った。先ほど感じた波動を再び感じてはいない。もしかしたら何かの勘違いだったのかもしれないからだ。ところが、
「あ、また感じた! あっちだわ」
再び波動を感じたメイベルが、感じた方向を指差した。その矢先、指差す先から黒い煙が昇る。メイベルたちのいる場所とは反対側。広場の東側からだ。
それから少し時間が遅れて、鈍い爆発音が聞こえてくる。
「事故……でしょうか?」
先ほどまでの軽薄な表情が消え、クラウが近衛隊の隊長らしい険しい表情に変わった。
爆音が広場を囲む城壁やレンガ造りの建物に反響し、2度、3度とこだまを轟かせる。
更に少し遅れて、爆発のあったあたりから人々の悲鳴が聞こえてきた。それが周囲に広がり、たちまち広場は逃げ惑う人たちで大混乱になった。
そこから魔法を使えるほんのわずかな人たちが、空へ弾むように逃げている。
騒ぎに追い打ちをかけるように、今度は爆発のあった左方向──広場の北側で大きな炎が上がった。その炎に巻き込まれて、何人もの人たちが火ダルマになっている。
炎に逃げ道を塞がれた人たちが引き返してきた。だが、広場は混乱していて、思うように引き返せない。それどころか混雑で身動きできない人たちが出てきたのだ。怒りの声、泣き叫ぶ声、助けを呼ぶ声。様々な声が広場に入り雑じる。
その声に混じって、パンパンと乾いた音が聞こえてきた。
「ちょっと。銃声が聞こえない?」
メイベルが緊張した面持ちで、誰にとはなく尋ねる。それにナバルが、
「下からだ。あの建物の上、誰かいるぞ!」
と言って、銃声のする方向を指差した。
階段状になった広場の下──南側にある5階建ての建物から何か丸い物がいくつも投げられた。それが空中に大きな弧を描き、人込みの中に入っていく。
『きゃあああぁ〜〜〜〜〜……』
人込みから炎が上がり、また何人もの人たちが火ダルマになった。
それを見たクラウが、
「ここは危険です。メイベルちゃんと友人Aくんは、早く教会まで逃げなさい」
クラウが預かっていた荷物をメイベルに返した。そして、
「帝都にテロを仕掛けるとは、いったいどこのバカヤローですか!?」
腰に下げていた長剣を抜き放って、騒ぎを起こしたテロリストたちを睨みつけた。
「クラウ。俺も加勢するぞ。どいつから叩く?」
ナバルもパセラに荷物を返してから、静かにサーベルを抜き放った。
「東は遠すぎます。北には近衛隊の詰め所がありますから、すぐに兵が駆けつけるでしょう。となれば南ですね。銃を相手にするのは少々厄介ですが……」
「銃なんてヤツは未熟な雑兵が使うオモチャだ。当たらなければ怖くない」
消去法で目標を定めたクラウに、ナバルが勇ましい言葉を返した。その言葉に、
「それも一理ありますね」
と零して、クラウが口許を弛ませる。
「銃は数がなければ怖い武器ではありません。弾に当たったら、それはくじびきと同じ。運が悪かっただけというわけですね」
「そういうことだ」
2人の肚が決まった。
「では、共にソルティスの神のご加護があらんことを。先に行きますよ! 跳べ!!」
魔術を放ったクラウが、空高く跳ねた。
広場は逃げ惑う人たちでゴッタ返している。それに巻き込まれないために、跳躍の魔法で空から向かおうと考えたのだ。
しかし、それだけでは銃を構えるテロリストたちにとって格好の標的である。そこで、
「灼熱の炎よ!」
標的にされる前に剣先に炎を生み出し、それを撃って先制攻撃を仕掛けた。
巨大な炎が天を焼きながら、空を翔ていく。それが建物の屋上で銃を構えていたテロリストを確実に捉えた。
「くっ。出遅れた! あいつ、魔法が使えるんだったな……」
広場を駆けるナバルが、悔しそうに空を見上げていた。そのナバルは人込みに阻まれて、思うように進めないでいる。
「メイベルぅ。わたしたちはどうしましょう? 逃げた方が良いでしょうか?」
パセラがメイベルの腕を摑んで、そんな質問を投げかけてきた。それにメイベルは、
「こういう時の修道女の役目は、ケガ人の応急手当てよ」
と言って、リュックサックから携帯用の救急セットを出してくる。
「そうですね。それで晩餐の用意が遅れたら、一緒に怒られましょう」
パセラもそう言うと、2人も騒ぎの中へ飛び込んでいくのだった。