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執事のセバスが仕事中に珍しく声をかけてきた。
「旦那様が女性が倒れたからといって、あのような指示を出されるとは思ってもおりませんでした」
「……仕事に関係ない話はやめろ」
「出過ぎたまねを……失礼しました」
セバスはそう言って、また仕事に戻った。
セバスの指摘はもっともだった。
普段だったら女が倒れたとしても、使用人に対応をまかせ、仕事を中断することなどありえない。
何故、俺は彼女のもとに仕事を中断させ向かったのだろう。
社交界で会ったこともない相手のもとに……。
はっと気づく。
社交界で彼女の名前を聞いたことが一度もない。
無能グリスから一度娘を紹介されたが、おそらく今回寄越された娘とは違った気がする。
ぼやッとしか覚えていないが、たぶん違う。
それに加えて、真夏の暑い時期に門の前で立ち続け、倒れるという奇行。
淑女にはあるまじき行為だ。
無意識下でそれらの情報が組み合わさって、興味を惹かれたのだろう。
そして、そこに今にも死にそうな人間がいれば、助けるのは貴族として……いや人間としての義務だ。
風呂には入れなくても良かったかもしれないが……いやあのけばけばしい化粧では皮膚呼吸ができないだろうと俺は思ったのだ。だから風呂に入れるように指示をだした。
そう結論付けると、少し気持ちが落ち着き、仕事に集中することができた。
しばらくしてセバスがまた話しかけてきた。
「夕食のお時間ですが、いかがいたしますか?」
仕事に集中していたのか、そんなに時間が経っていたとは……。
もう少し仕事を続けたいから、軽食を用意してほしいと答える前にセバスが言葉を続ける。
「婚約者様ーーリリー様のご夕食もご一緒に用意しております」
いつもであれば、婚約者がどうしていようが仕事を優先させる。
……というよりも、婚約者と食事することを避ける。
女との食事など、つまらない無駄な話をべらべらと話すか、俺の態度に怒って遠まわしに嫌味を伝えてくるか、俺の顔を気色の悪い顔でうっとり見つめてくるか……女と夕食をともにするなど拷問に近いと思っているのだが……。
「わかった。今行く」
セバスが驚いた表情をしているのがわかったが、無視をして食堂に向かう。
あの変な女がどういう女か気になっただけだ。
ただの気まぐれだと頭の中で言い訳をしながら。
ーーー
食堂でリュカ・ムーンを待つ。
私が暗殺する相手。まずは彼を油断させなければならない。
そんなことを考えていたらドアが開かれた。
そこにはとても美しい男が立っていた。
この国では珍しい漆黒の髪が艶やかにきらめいて、目は吸い込まれそうなほど深い青。上品な上着が平均よりも高い身長にとても映えている。
思わず見とれてしまったが、リュカがふいと私から目をそらした。
家族の「こっちを見るな」という声を思い出し、ハッと目線を彼からはずす。
そうだった。私の目は人を不快にさせてしまうのだった。
目線を落としたまま、挨拶をする。
「は……はじめまして。リュカ・ムーン公爵様、私はリリー・ケスチェと申します。掃除・洗濯、畑仕事、どのような仕事も行います。どうぞよろしくお願いいたします」
リュカは何も答えない。
何か問題のあることでも言ってしまったのだろうか……。
不安がどんどん大きくなってきた時、リュカがようやく口を開いた。
「使用人は間に合っている」
冷たい彼の声音にハッとした。私は婚約者としてきたのだ。
使用人の仕事をするためにきたのではない。
……でもそれなら教養も何もなく、使用人としてしか働いてこなかった私はどうしたらよいのだろう。
そう困っていると、リュカが冷たく続ける。
「仕事の邪魔さえしなければ、好きに過ごせ」
そう言うと彼は食事をはじめてしまった。
テーブルに目を向けると信じられないほど豪華な食事が広がっていた。
しかし、マナーも何も知らない私は食事をしてもいいのかもわからない。
そうして食事を前にじっとしていると、冷たい声でリュカから話しかけられた。
「何故食べない。何か気に食わないことでもあるのか?」
声が震えてしまう。
「あ……あの……どのように食べたらいいのかわからなくて……」
声が尻すぼみになってしまった。
「食事の仕方などマナーの基本だと思うのだが、ケスチェ家で教育は受けていないのか?」
「あの……はい……申し訳ございません」
「……それではケスチェ家では何を?」
「あの……掃除や洗濯、畑仕事、食事の準備など……あの……このような出来損ないが婚約者としてきてしまい、申し訳ございません」
「………」
ああ、食事の仕方もわからない不出来な女など婚約者に不適当だと婚約解消され追い出されるのだろう。
リュカを暗殺もできなければ、家にも帰れない。
ちらっとテーブルの上にナイフが置いてあったのがさっき見えた。
殺傷能力は低そうだが、もう他に手はない。
このナイフでリュカを殺……。
そう考えたところで、リュカの声が耳に入る。
「お前が謝ることではない。食事は食べやすいものを用意させよう。明日から婚約者として最低限の教育を受けてもらう。それが嫌なら婚約は解消しよう」
追い出されなかったことに驚き、思わずリュカを見つめ、ぽかんとしてしまう。
リュカがふいと目をそらしながら、冷たく言い放つ。
「どうするんだ?」
「あ、あ、あ、教育をうけます!よろしくお願いいたします」
リュカはそうかと言ってまた食事を続けた。
しばらく待ってもその後話が続けられることはなかったので、私も新しく運ばれてきた食べやすい食事をおそるおそる食べるのだった。