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バイト先の先輩が気になるんだと未玖が言い出したのは、僕らが三回生になってすぐだった。
「その人、社会人?」
「ううん、一個上の大学生。来年、就職で遠くに引っ越しちゃうんだって」
その夜も僕の部屋で一緒にテレビを眺めていた。夜食を食べたばかりなのに、未玖は画面に出てくるご当地スイーツを見て美味しそうと目を輝かせている。
「近いうちにご飯でも誘ってみよっかなって」
僕は今しかないと思った。
「……そっか」
けれど、嫌になるほど臆病な僕は、未玖がくれたチャンスをチャンスと知りながら、使うことができなかった。
「成功したらいいな」
うんと頷いてピースするのを抱きしめたい衝動を、僕は全身全霊で押さえ込むしかなかった。
言えない理由は分かっている、怖いからだ。この二年間で培ったものたちが、彼女のたった一言の返事で壊れてしまうのが死にたくなるほど恐ろしい。結わえた絆の全ては、僕の錯覚なのかもしれない、都合の良い勘違いかもしれない。そんな可能性を僅かでも考えてしまうと、僕はもう何も言えなくなるのだ。
その晩は、彼女が店の終わる遅くまでバイトに入っている日だった。
僕は夜食を作って待っていた。お腹が空いたと騒ぎながらやってくる彼女のために、ケチャップましましのナポリタン。僕の一番の得意料理を二人分。
けれど、いつもの十時を過ぎてもチャイムは鳴らなかった。三十分が経って、一時間が経って、日付が変わっても、彼女は来なかった。
すっかりのびたナポリタンを、僕はフォークに絡めて口に運ぶ。一皿目を完食し、二皿目を胃に詰め込む。胸が詰まって吐きそうな身体に、無理矢理押し込む。このナポリタンは、僕の情けなさや不甲斐なさ、途方もない後悔だとかで出来ている。僕はそれを残すわけにはいかない。
僕はまたもや、彼女の失敗を望んでいたのだ。未玖が先輩とくっつかず、僕のもとにやってくることを期待してパスタを茹でていた。戻ってきた彼女が僕のナポリタンを食べて、美味しいと喜んでくれる勝手な未来を想像していた。浅ましく傲慢な僕自身を食らいつくす頬を、涙が伝った。ケチャップましましのナポリタンは、不味くて仕方なかった。
どんどんと強く扉を叩く音に、僕は飛び上がるほどに驚いた。テレビも点けていないのに、いったい何がうるさかったんだろう。足早に玄関へ向かい、こわごわドアスコープを覗く。
そこに認めた姿に、僕は急いで鍵を回してドアを開けた。
真っ赤な顔の未玖が、僕を見て「よっ」と軽く片手を上げた。
「聞いてよ冬哉ー。先輩彼女いるんだって。知らなかったー」
うわーんと泣き真似をしながら玄関に転がり込んでくる。どこかの居酒屋でやけ酒でもあおっていたんだろう。弱いくせに酒を飲みたがる彼女は、すぐに顔が真っ赤になる。
「お腹空いたー! もうなんでもいいから作って! 全部食べるから!」
深夜であることを思い出して慌てて自分の口をふさぐ未玖は、文句を言わない僕を見上げてきょとんとする。どうしたのとその唇が動くのに、僕は人生最大の勇気を奮う。
僕が口にした言葉に、未玖の目が潤んだ。これは酒のせいなんかではない。さっきまで僕が流していたのと同じものが、彼女の頬を伝って零れ落ちる。
全てが壊れてしまうとしても、これ以上僕は僕を誤魔化さない。あのナポリタンはすっかり皿から消え去った。言い訳をして自分を騙す僕は、もういない。
――これからもずっと、君のために料理を作りたい。
冬哉らしいねと未玖が笑うので、僕も笑顔を返す。彼女の頬に残る涙を、指先でそっと拭った。