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正樹に彼女はいない。翌日に大学で確認したが、僕の質問に奴は肯定した。こいつに彼女がいてくれればと、これほど歯噛みしたくなったのは初めてだ。
よりにもよって、未玖の気になる相手が正樹とは。顔が良いだけでなく、女慣れした余裕のある正樹はよくモテる。だからこそ、奴は特定の彼女を作らない。一人と誠実に向き合うより、多人数と女遊びをしていたいからだ。女子たちには知られていないが、彼のそうした内面は僕を含む同性の仲間にとって周知のことだった。
だが正樹のおかげで合コンにありつき、彼女までできた友人もいる。感謝こそすれ、彼の不誠実さに文句を垂れる者などいるわけがない。当の彼は講義の時間、隣から僕に耳打ちした。
「あいつ、そろそろだと思うんだけど」
彼の指さす方には、同じ部屋で講義を受ける未玖の背中がある。肩にかかる髪をハーフアップというらしい髪型に結わえているやや小柄な彼女は、真面目にノートへ板書を写している。
正樹のいう「そろそろ」とは、そろそろ俺に告白するんじゃないか、という意味だ。勘の良さに舌を巻きつつ、僕は懸命に知らないふりをした。
「そっかな」
「おまえ、仲いいじゃん。悪いな」
「そういうんじゃねえし」
目を逸らしつつも、悪いなという言葉が僕の神経を逆なでする。僕に大した取り柄などない。どれだけ近くにいても、彼女を惹きつけることはできない。それでも苛立ちを覚え、机の上に置いた左手を握りしめる。
「もし告白されたら、どうするんだよ」
「いや無理無理。俺、ああいうちんちくりん興味ねえし」声を殺して正樹は笑う。「相手にするだけ時間の無駄じゃん」
確かに未玖は美人の部類ではない。だが愛嬌があって、素直に嬉しいとか悲しいとか腹減ったという思いを口に出すことができる。それは僕にも正樹にもない優れた部分で、決して馬鹿にされるべきものではない。
「……そんなことないけど」
小心者の僕は、そう呻くことしかできなかった。正樹と周辺の男子仲間を捨てて、未玖を守る気概を持てなかった。奴のにやにや笑いに全てを見透かされている気分が悔しくて、目の前の机に頭を叩きつけて記憶を失ってしまいたかった。
僕は珍しく自分から未玖をカフェに誘った。奢ると言えば、一も二もなく彼女は飛びついてきた。その屈託のなさが僕の心を強く掴んで離さないことを、未玖は知らない。
「奢ってくれるんなら、せめてファミレスがよかったなー」
カウンター席で窓の外を眺めつつ、ストローでオレンジジュースをちゅうちゅう吸いながら、彼女はそんなことを言う。僕の反発が聞こえないのを不審に思ったのか、様子を窺うような視線を向けた。
「あのさ」目の前にアイスカフェラテのグラスがあるのに、僕の喉はからからに乾いている。「正樹に、もう告白したのか」
一瞬ぎょっとして目を見開いた未玖は、首を横に振った。
「いんや、まだ。なして?」
「あいつさ、やめといた方がいいよ」
僕の絞り出した台詞に、彼女はいっそう驚きをあらわにして、ストローの刺さったグラスを遠ざけた。
僕は正樹についてとりとめなく語った。奴の女遊びの激しさも、敢えて彼女を作らない理由も打ち明けた。だが、彼が言った未玖に対する悪口だけは教えられなかった。
「きっと、あいつを選んでも良い結果にはならないと思う」
一人で語り続けた僕は、ようやくそう締めくくった。穴が空くほどに見つめてくる視線を、見つめ返すことができない。
「……なんで?」
未玖は口をへの字に曲げ、表情を歪めた。
「せっかく決意したのに、なんで否定するの? 冬哉にそんな権利あるの?」
「そういうつもりじゃなくて、ただの一意見として聞いてくれれば」
「そんな事情教えられて、告白なんかできるわけないじゃん」口角の下がった唇が震える。「なのにただの一意見? なにそれ。結局、判断は私にゆだねるってこと? 人の邪魔しておきながら、責任はとりませんってことだよね」
「だから、違うって……」
言い掛けて、全く違わないことに気がついた。僕は遠回りしつつ、未玖の気持ちを壊そうとしている。彼女のためといいながらも僕を一番突き動かしているのは、彼女を他人に取られる危機感だ。
「勝手じゃん、勝手すぎじゃん!」
怒りに任せて、未玖はカウンターをこぶしで叩いた。周囲の客が驚いて振り向くことなど全く気にとめていない。それほどに彼女は怒っていた。自ら好きになった人の悪口を聞かされて、怒りがわかないはずがない。
未玖は怒ったまま帰ってしまった。罪悪感に打ちのめされて動けない僕は、それさえも自分勝手であることを痛感した。一番傷ついたのは未玖なのに、まるで自分が害を被ったかのような顔をしている。自身の卑劣さを思い知り、大事なものを失った現実に、僕はとぼとぼと部屋に帰り着くのがやっとだった。崩れるようにベッドに倒れ、もう目覚めたくないと思いながらうずくまった。
翌日、目を覚ますと既に日は高く昇っていて、僕はそのまま学校をサボった。そして夕刻にチャイムを鳴らした相手を見て、咄嗟に言葉がでなかった。
「お腹空いたー!」
そう言いながら未玖はいつもの通り勝手に部屋へ入ってくる。ずかずかと廊下を通り、手にしていたビニール袋を座卓に置き、「今日、カレー作ってよ」なんて言う。まるで昨日の気まずさなどなかったような様子で。
彼女は強い。僕なんか足元にも及ばないほど。
「なんかさー、もうよくなっちゃった。私なんかが告白したところで、フラれるに決まってるし」
ビニール袋には、カレーのルウと牛肉、人参、ジャガイモ、玉葱がごろごろと入っていた。彼女はそれらを取り出して座卓に並べる。
「ごめん、僕が余計なこと言ったから」
「後押ししてほしかったんだよ、きっと、私。耳障りの良い言葉だけほしかったんだ。だからあんなに怒っちゃった。はー、まったく、自分勝手だよね」
人参を片手に持ち、未玖はにっと笑ってみせる。
「だからさ、仲直りにカレー作る。一緒にね。今日は冬哉が材料費の五百円払ってよ?」
僕に異論などあるはずがない。
「ほんとに未玖は強いな」
頷いた僕の口からぽろりと言葉が零れた。それはなかなか口にできずにいる、彼女への賛辞だった。
「んー。そうでもない」
少し迷った風を見せ、未玖は材料を抱える。
「私、壊れないものを選んでたんだ」
僕がその意味を聞き返す前に彼女はさっさとキッチンに立ち、僕に芋洗いを命じる。昨晩風呂に入ってないことを気にしつつ、僕は慌てて予備のエプロンを戸棚から引っ張り出した。