羽化
このメイドが侯爵家で倒れたことは、勿論すぐにナーウィス伯爵家に伝令で伝えた。
対応した伯爵家の執事は、うちのメイドがとんだ失態をしてしまい申し訳ありませんと謝罪の言葉を口にしながら、あの馬鹿がと舌打ちをしたらしい。
また、現在伯爵家の使用人は執事以外に彼女しかおらず、彼女がいなければ洗濯も食事も誰もする者がいないから大変困ると言ったそうだ。
そんなことあり得るか?
伯爵家の家事や外仕事全般を1人で?
今すぐ引き取りに伺いますと言うので、彼女が元気になるまで侯爵家で預かるから、その間別のメイドを雇うなり外食をするなりができる充分なお金を渡すと話せば、それなら構いませんと相好を崩し、2つ返事で了承した。
引き取りに来るなんてとんでもない。
身体も整わないうちに馬車馬レベルで使い倒すつもりなのが目に見えていた。
メイドを気遣う言葉や様子を尋ねることはなかったと聞いて、心は決まっていた。
彼女は、もう伯爵家に返すことは無い。
働くにしても、もっと良い就職口はあるだろう。
若い娘が枯れ木みたいになって死にかけるなんて普通じゃない。
セリオンは、ぬくぬく怠惰な令嬢を嫌う一方で、働き者の苦労人にめっぽう弱い。
それは年齢性別、仕事を問わず、全て等しく尊んでいる。
彼女が元気になったら、もっとまともな働き口を斡旋してやりたいと考えていた。
望むなら、このままうちで働いても良い。
「そんなわけで、しばらく伯爵家には帰らなくて良いから」
倒れて4日後、目覚めて露骨に焦りと不安を表情に浮かべるティリーエにセリオンがそう言うと、目を丸くして聞いていたが、深々とお辞儀をして、安堵したように微笑んだ。
とりあえずその夜、侯爵家で過ごすにあたって、一通りの家人紹介が行われた。
ヴェッセル侯爵家当主はセリオン(22歳)、職業は魔術師団長(第4師団)
執事はビアード(55歳)
メイド長はノンナ(56歳)
メイド3人衆(ベラ、ネネ、アナベル:20〜30歳)
他に庭師や料理長、護衛騎士などにも挨拶をさせて貰った。
それから数日後、セリオンは北の辺境に出た魔物を討伐に行くことになった。
1ヶ月くらい戻らない遠征だ。
セリオンが戻るまではとりあえず侯爵家にいるように言われ、ティリーエは頷いた。
セリオンが討伐の旅に出てからも、ティリーエは侯爵家で客人として大切に扱われた。
実のところティリーエは、主人がいなくなった途端に掌を返したように冷遇されると考えていたのだが、全くそうはならなかった。
食べやすく消化の良い食事、リハビリを兼ねた運動や散歩、温かい湯に浸かっての入浴。
一介の使用人には過ぎる待遇で恐縮しきりだ。
ティリーエは日増しに元気を取り戻し、髪や肌に艶が出て、身体の線も少しずつしっかりしてきた。
来たばかりの頃は無表情でぽつぽつと零すような話し方だったのに、今は鈴を転がすような明るい声で、よく笑うようになった。
ティリーエはもともと、明るく剽軽な方だ。
本来の性格を、徐々に取り戻しつつあるようだった。
しかも植物や野菜に関する知識が豊富なものだから、メイド達だけでなく、庭師や料理長ともすぐに仲良くなった。
2週間経ち、3週間経ち… メイド長と執事、他の使用人一同は、その日々刻々と進む変化を目の当たりにして心底驚いていた。
蕾が綻ぶように花開き、夜空の星のように輝く。
もう今は誰も、ティリーエを老婆とは間違わないだろう。
むしろ、かなりやばいくらい美少女なのだ。
天使…かもしれない。
「この娘、多分絶対、メイドじゃない…」
そうして執事は、主人が帰宅する日を間近に控えて、命じられていたナーウィス伯爵家とティリーエについての調査書を完成させたのだった。