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冬の海に夏を思う

冬の海

作者: 佐藤朝槻

 

 苦しいはずなのに、助けてって言えない。

 したいと思っているのに、言えない。


 昔からなにも変わってない。この性格が本当に卑怯だと思う。


 伝えなければ、伝わらない。

 伝えたところで無駄だ、と傷つくのは伝えてからでいいのだ。そんな簡単なこともできない。いや、私にとってそれが簡単じゃないのか。自分が嫌になる。


 言いたいことが言えない人に救いなんかない。そんなのわかっていた。

 でも救われたいと願っている。救われることを待っている。


 何度思ったか。今日も思っている。

 何を救済されたいかもわからない。何に怯えているのかも知らない。自分のことながらわからない。


 ゆえに、噤む。

 救われたいのにこんな具合だから始末に負えない。

 しかし、卑怯を積み重ねた私にも思い出くらいはある。今思い出すのは、十代の頃の話だ。



 夏休み前、学校帰りに海へ行った。

 砂浜には誰もいない。

 まっすぐと海に向き合う。海は広くて、色を足しすぎた絵の具みたいな汚い色をしていた。


 砂浜は割れた瓶が転がり足の踏み場がなく、死んだ魚が打ち上げられていて気味が悪い。海に入りたいなんて一度も思わなかった。

 砂を踏む度に聞こえる貝殻の割れる音だけは嫌いじゃなかった。たまに蟹の死骸を踏むと罪悪感が湧いてきて、空を仰げば目が眩んだ。


 やることもなく、ぶらぶらと歩いた。意味はなかった。なくてよかった。ストレスのたまる学校生活を忘れるためだったのだろう。


 海へは、当時同じクラスだったあの子と一緒に行った気がする。もう名前も思い出せないあの子。あの子と海で何をしたか思い出せない。


 きっと海風はあの子の髪をさらっただろう。

 きっと学校のどうでもいい噂話とか話しただろう。

 きっと当時ハマっているものを見せあっただろう。

 そしてきっと、あの子は海が嫌いだった。


 あの海へ行ったのが、結局あの一度きりだったかどうか覚えていない。

 が、あれ以来私は海を避けるようになった。泳げないからとか、津波の恐ろしさとか、いろいろ気にする大人になってしまった。


 けれども、あの子といった海だけはまだ嫌いじゃない。

 ……行ってみるか、海。



 ○



 あの頃だったら歩いて行けた海も、今やバスを乗る楽さを選んでしまう。老けたな。

 バス停を降りて南へ歩を進める。徐々に風が潮の香りを運んできて吐き気を覚えた。


 吐き気に耐えながら歩き続ける。冬の太陽は柔らかい日差しのはずなのに、背中に汗をかいていた。

 おかしい。もっと優雅に海へ向かうはずだったのだが。


 たどり着く頃には息が切れていた。

 広大な海が目の前に広がる。太陽の光で海面がきらめけば汚い色がかえって際立ち、目を細めた。


 コンクリートの階段を一段一段踏み外さないよう慎重に降り、砂浜をスニーカーで踏みつける。


 夏に誰もいない海は、冬も当然誰もいない。

 ただ、昔より砂浜のゴミが減って景観は悪くない。ボランティアがゴミ拾いをしているのだろう。鯨がプラスチックゴミで死ぬニュースも効果があったのだろうか。人間、意外と善人が多いのかもしれない。


 かじかんだ手をコートのポケットに突っ込み、さて歩こうかと思った。

 が、嫌だ。もう帰りたい。


 あの子は海が嫌いだった。今になってその気持ちがわかる。日焼けはするし肌は乾燥するし。

 とりわけ冬の海は、寒い。服の隙間から風が入ってきて震え上がった。


 鼻から水が垂れてきて吸いあげていると、ザバアァ、ゴオォゥ――波音が冷えた耳を刺し、海風は頬を撫で、肺を握り潰すかのごとく冷たい空気を運ぶ。

 苛立ちを覚えた私は、叫んだ。


「海ー! お前いつも汚いなあ! ブーメランとは言わせないぞー!」

 叫んだらすぐマフラーに顔を埋め、乱れた呼吸を整える。


 頭上から燦々(さんさん)とした日差しが降り注ぎ、わずかに砂が、空気が暖まる。

 一瞬、太陽は私の味方だと思えた。


 日差しと水平線の瞬きは私の目を焼き、写真みたいに記憶が脳内から刷られていく。


 私は夏に取り残された気分で海を眺めた。マフラーを緩めて耳と唇を外気に晒せば、蝉の音がどこかからやってきそうだった。蝉と波の音に混ざってぽつりと、あの子の声が私を振り向かせ――。


 記憶が繋がり、一連の錯覚に溜め息を吐いた。


 忘れていた。海も太陽も、私の味方ではない。

 今日もあの頃も、自然はいつだって誰の味方にもならない。代わりに裏切りも生じない。そこが尊く、ときに憎たらしい。


 太陽は雲に隠れ、冬の気配が戻ってきた。

 ……帰ろ。

 帰りの足取りは軽く、息が切れることもなかった。


 バスに乗った後、ピリピリと痒いような痛いような、熱を帯びるようなもどかしさがつきまとった。コートを脱いで、私はセーターの上からぽりぽり掻く。


 夏の海であの子は、「実はあなたの元彼と付き合ってたんだよね、あなたが別れる前から」と言った。

「そっか」と発した私の声と愛想笑いは、海風と舞い上がる髪が邪魔して届かなかった。


 あのときの私たちは確かに隔たりが、関係性に亀裂の入る音がした。素知らぬふりして帰っても、次の日はまだ友達という体裁を保ったのだろうが……。その友達とやらは砂の城のごとく波にさらわれ、崩れ去り、時間をかけて過去となったのだ。


 恵海莉えみり。あの子はそんな名前だった。

 海が嫌いなのは私のほうだった。


 忘れるため、思い出さないために避けていた。結局来てしまったのだから、その防衛本能は意味をなさなくなってしまったけれど。

 それでも悲しいものは悲しい、苦しいものは苦しいと、そこに建前も偽りも不要だ。そう本能が私の救いを、気づくことを待っていたのだとしたら、来た甲斐はあった。


 バスの窓の外を眺めるとすでにあの海は見当たらなかった。あの頃通っていた道も、学校も、視界にはない。


 海よ、恵海莉よ。さよなら。


 これから先、あなたたちに向き合わない。でも忘れもしない。

 全ての出来事を自分のせいだって思ってしまわないように。常に自分を卑怯だと追い詰めてしまわないように。


 あの海に背を向け、生きていく。


続編「冬の駅」があります。

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