3-2
「この男は……?」
すると、ハーデスはにこりと微笑んで振り返る。
「ケルベロスだよ。ああ、でもそうか、裸じゃまずいね」
「……そうですわね」
一応頷いたシャロンは、それから再び魔法を唱え始めたハーデスを見守った。指先にハーデス固有の淡い紫の炎が灯り、それを男に向けて横に切ると瞬間的に衣服が装着され、引き締まった体躯が隠される。そこでシャロンは、ケルベロスが大事そうに剣を胸に抱いていることに気がついた。
「あれは……?」
「今までケルベロスは鋭い爪と牙を武器としていたからね。でも人型になったら、そういうわけにはいかないだろう。だから作ってみたのだけれど」
「はあ」
生返事をするシャロンをおいて、ハーデスは横たわるケルベロスに今一歩近寄った。そして傍でしゃがみ込んで、頭の先からつま先まで隈なく確認する。
「蛇はともかく、かっこいい尻尾もなくなっちゃったな……。ケルベロス、怒るかな?」
風に撫でられて揺れる、今まで身体を覆っていた漆黒の毛並みと同じ色の髪を一掬いしてケルベロスの頬に手を添えたハーデスは、小さくその名前を呼んだ。すると、呼びかけに呼応するように、男の指先がぴくりと動く。もう一度呼ぶと、意識のないまま眉を顰めた。
「ああ、良かった。これを唱えるのは本当に久し振りだったから心配だったんだけど、大成功みたいだ」
「久し振り、というと?」
「最後に使ったのは、二千年くらい前だったかな」
「……術式も文言も、よく覚えてましたね」
「うん。間違えちゃいけないと思って強めにかけちゃったし、雷まで呼ぶの忘れててびっくりしたけど」
振り返って微笑んだハーデスに義理で微笑み返したシャロンは、聞いた気の遠くなるような年月をため息で払う。それからおもむろに唇に指を当てて文言を唱えた。
仄かに光った指先がぼろぼろになった黒衣に触れた瞬間、破れていた穴が塞がって、ついでに肌の傷も癒える。それから、相変わらず深く切れ込んだ胸元に入りこんだ髪に指をかけて取り除くと、シャロンも少しだけケルベロスに近づいた。
「本当に、ケルベロスを門番にするのですか?」
「うん。地獄の番犬ケルベロス、っていうのもかっこいいしね」
「もう犬じゃないですけど」
「まあ……、そのつもりじゃなきゃ人型になんかしていないよ」
「…………」
背を向けたまま言ったハーデスの一言に、シャロンは密かに舌を出した。成り行きはどうであれ、冥界の王の大事な飼い犬を人型にさせておいて、今更ケルベロスを拒否することはできない。とはいっても何処か腑に落ちないのは事実で、まんまとハーデスに嵌められた感が強くなったシャロンは頭を掻いた。
(――惚けたふりして、やってくれる)
愛犬に二千年を超える魔法をかけるほどの理由が、タルタロスに門番を据え置いてほしいという自分の申し入れにあったとは思えない。シャロンには、さも犬の姿の方が門番に相応しいと前置きしておきながら、あっさりとケルベロスの姿を変えてみせたハーデスが不思議でならなかった。
――自分の申し入れはただのきっかけに過ぎない、本当はもっと重大な理由があって、ケルベロスをここへ連れてきたのではないか。そう考えたところで、眠っていた男の目がぱちりと開く。
「あ、起きた」
ハーデスの弾んだ声で、気が付いたケルベロスはゆっくりと上体を起こす。意識がまだはっきりしないのか、両手をついて辺りの風景を訝しむ様子で見渡し、はたと何かに気付く。それから自分の手を見て驚きの表情を浮かべ、尻餅をついた。手で顔を触れ、続け様に足を見て、胴に触れて、身体を確かめるように叩く。そして、叫んだ。
「なんだこれ!!」