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ケルベロスと魔女  作者: 織音めぐ
1.ケルベロスとタルタロス
7/100

3-1

3 


 

 ハーデスは口早に、しかし丁寧に魔法を唱えていた。

 静かに連なる文言は次第に目に見える鎖のようになって、紫のほのかな光をたたえながら宙に浮く。それが、ケルベロスの周りにゆらゆらと浮遊したかと思うと、ある時突然まばゆい閃光を放った。

 歩いていた足元の影が瞬時に長く伸びたシャロンは、思わず振り返る。そして、驚きに目を見開いた。

「…………」

 目と鼻の先で、あの大きな獣が紫の光に包まれている。先程まで威丈高だったくせに、今は苦しそうな咆哮が大きく響き渡る。最初は単純に懲罰を受けていると考えたが、暫くして叫びがアケローンの川面をも揺らすのを見たシャロンは、次第に風を呼び始めた魔法に完全に足を止めた。


 光る紫の文言は、今やケルベロスの身体にまとわりついて離れない。強い風は靄を吹き飛ばし、砂埃が渦を巻いて高く舞いあがる。浮遊していただけの文言はやがて帯となって締めつけるようにケルベロスの身体を束縛し始め、一層激しくなった咆哮がびりびりと空気を揺らした。

「……うるさい」

 あまりの声に、シャロンはハーデスの唱える文言が呪いの類じゃないかと疑うが、当人は指揮者のように優雅に指先で術式を描き続け、穏やかに文言を唱えている。それに、噂によればこのケルベロスとかいう犬は愛犬らしいから、まさか呪詛で苦しめるはずもない。


 シャロンは空を見上げた。吹き上げる風は空の雲さえ消し飛ばし、ここのところタルタロス一帯では何年も姿を見せなかった赤月が満月の姿を曝け出している。岩場のそこかしこに月光が届き、影を落とし、タルタロスの景色はそれだけで一変する。呼び起こす暴風が尋常ではない術式の強大さを物語り、そんな冥界の王自ら施す魔法をシャロンは同じく魔法を扱う魔女として、いつしか畏怖と尊敬の念で見守っていた。

「流石、ハーデス様。可哀想にあの犬、どうなっちゃうのかしら」

 最早、シャロンにもこれがなんの魔法なのかわからなかった。最終的に、文言の帯はケルベロスを締め殺すほどにきつく巻かれていき、ケルベロス自体が発光しているかのように光りはじめる。そして、とどめの雷が天高くから堕ちた。


 耳をつんざく音が、ケルベロスの断末魔の叫びと重なって衝撃波を生む。思わず耳を塞いだシャロンは、弾け飛んでくる小石や暴風で水が巻き上がったアケローンの川面を見て、その威力に少しだけ恐ろしくなった。

(――あの犬、死んだな)

 シャロンは考えながら、それ以降はゆるゆると収束していく光と風を目を瞑って感じていた。そして、響く轟音が引いていつもの静けさが戻ってくると、耳を塞いでいた手をほどいて辺りを見回す。

 地面にはケルベロスの巨大な爪で引っ掻いた跡が幾つも残って、畑の畝のようになっていた。また、いつも漂っている靄はすべて吹き飛ばされてしまって、落ちかけた赤月が大地の果てに見える。空や青銅の門の先はおろか、アケローンの川面の大分先まですっきりと見渡すことができた。

 以前と変わらずあるのは青銅の門だけ。タルタロスは元々閑散としている場所であったが、すべてをさらけ出してしまうと一層荒れすさんで見えた。

「ハーデス様……」

 荒れた大地に立ち尽くすハーデスを見つけたシャロンは、風を受けて乱れてしまった髪と衣服を手早く整えてから近くへと寄った。術を終えてずっと黙ったままのハーデスは、ただ大地を見つめている。その物憂げな表情の隣に、シャロンは立った。


 そこにいたはずの大きな図体の犬は、今はもう見当たらない。かわりに、裸で横たわる見知らぬ若い男が眠っていた。



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