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――死者に使役を仕込んで、冥界の様子を窺おうとする者がいる。シャロンがハーデスに初めてそう報告したのは、半年ほど前だった。
前庭から連れてきた死者が、青銅の門を潜らずに意味もなく辺りを彷徨く。それも一度や二度ではなく、不思議に思っているとある日、死者の服の裏に使役札が貼られているのを見つけた。
使役札を貼られた者は、術者の思い通りに動くことが可能になる魔法があるが、その使役札の仕様は冥界のものではなかった。剥がして泡と消えるのは海界の、灰と消えるのは天界のものと決まっている。これは、紛れもなく天界のものだった。
三界はそれぞれ不可侵であり、王以外の往来はその同行を除き基本的に許されない。故に、実体のない使役などをけしかけるのは重大な禁忌であった。しかし、争い事の嫌いなハーデスはこの件に関して及び腰で、なかなか三界で情報を共有しようとしない。そのうちに、使役された死者がシャロンを襲ったのだった。
普段は日報でしか王城を訪れないシャロンも、この日ばかりはすぐさまハーデスに見参した。大事には至らなかったが、冥府としてなんの手立てもないまま襲われたシャロンの剣幕は、用の無い者は何人たりとも通さない王城の門番ミノタウロスも怯えて城門を開けてしまうほどだったという。ハーデスは、その時の恐怖を思い出したようにシャロンから視線を逸らす。すると、シャロンはくるくると櫂を回して持ち直し、怯えた様子のハーデスを諦め、ケルベロスを横目で検めた。
「図体が大きいだけの犬など、私には不要です。どうぞ王城の中庭で心ゆくまで愛でてやってください。その方が犬にとっても幸せでございましょう。本日はわざわざこんな場所まで御足労頂き、ありがとうございました」
再び深々と頭を下げ、目を逸らしたままのハーデスに挨拶したシャロンは颯爽と踵を返す。
しかし、いくら犬とはいえ、言われっぱなしを許すようなケルベロスではない。そもそも、こんな場所に来るつもりもないのに、向こうから否定されるなんて心外だった。
今までの無礼の数に合わせ、最後のシャロンの一言を聞いて怒りが沸点に達したケルベロスは、首のすべてをそちらに向ける。
「ケルベロス!」
急に動いた影に気付いたハーデスが、慌てて声を上げて制止する。けれど、ケルベロスはそれを聞かず、背を向けて歩くシャロンに勢いよく飛びかかった。
(――初会の女に、これ程馬鹿にされる筋合いはない)
いきり立って踏み出した足が力強く大地を蹴り、辺りに低く重い音を響かせる。その地が轟くような音に、先を歩いていたシャロンが振り返った。
「この……っ」
微かな舌打ちが聞こえたが、すでに相手の姿は大きな足の影の下にあって見えない。ケルベロスは、鋭い爪を出して足を下ろした。ところが、押し潰す間際に眩い閃光が足元から放たれて咄嗟に怯む。その引いた爪先にシャロンが当たってよろけた。
「ああ……」
消えゆく残光の中で、ハーデスが手のひらで顔を覆って項垂れた。
ケルベロスは、転んでもなお忌々しそうに睨め付けるシャロンを見下ろし、止めを刺しにかかる。渡守だろうがハーデスの顔見知りだろうが、そんなことは関係ない。自分を小馬鹿にした報いとして当然とばかりにありったけの顔で威嚇し、苛立ちに高揚して開口する蛇たちを差し向けた。