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「お行きなさい」
小舟から死者を降ろした女は紅い唇を緩ませ、手にした櫂で青銅の門を指し示した。そして、死者が一人、また一人と門をくぐって行くのを見送ると、改めてハーデスに頭を下げる。
「お久しぶりです、ハーデス様」
「お疲れ様、シャロン。その後はどうかな」
「お気遣い頂きありがとうございます。特に変わったことはございませんわ。……それより、本日はどのような御用件でしょうか」
「ああ、えっとね」
ハーデスはやや押され気味に返事をしてから、こちらを振り返った。ケルベロスは一応、のそりと起き上がって行儀良く座り込む。しかしそうすると頭が全部靄に入ることに気がついて、三つほど下げて二人を窺えるようにした。
「先日の件だけれど、彼を君の相方にどうかな」
シャロンはハーデスに示されてたった一度見上げるも、何の反応も示さなかった。わざわざ下ろした頭も一瞥するだけで、会釈も何もない。
「……熊、ですか」
「犬だよ。ケルベロスっていうんだ」
「ああ、あの中庭の……」
そう呟いたきり、なにも言わずに黙りこんだシャロンをケルベロスは睨みつけた。
冥界でも名高い魔獣であると自負しているだけに、このように熊などと勘違いされ、さらに沈黙と視線で侮蔑した態度は憤慨に値する。募る苛立ちをすぐさま唸りに変え、竜の尾で不満そうに大地を叩いて、みし、と揺らした。
しかし、そのあからさまな威嚇を受けたシャロンは、怯むどころかため息をつく。
「ハーデス様。番犬、とはよく言いますが、これは……」
「うん。ケルベロスは身体が真っ黒で大きいところも良いのだけど、それより眠りに落ちることがないんだ。ここの門番にはぴったりだと思ってね」
「眠らない……ということですか?」
「不眠の特性と言ってね、五十の首が順番に睡眠をとるからいつも起きていられるんだ。すごいだろう? 淋しい夜だって、ちゃんとケルベロスがついていてくれるから安心だよ」
シャロンが呆れているのに気付かないハーデスは、それからもまるで自慢のおもちゃを披露する子供のように得意気になって、ケルベロスを語り始めた。
「ケルベロスは力だけじゃなくて、とても賢いんだ。とってもよく食べて身体も大きくて格好良いし、青銅の声と評されるほど鳴き声は美しいんだよ。甘いものも好きで、蜂蜜には目がない可愛いところもあるしね」
「あの唸り声が美しい?」
「それに、とっても優しい」
ハーデスはシャロンの一言を聞き流し、黒光りするケルベロスの身体を優しく見上げた。
自由にうねる鬣の蛇、そこから先は靄の中に入ってしまっているが、幾つも伸びた首が影絵のように靄の中で蠢くのを見つめながら、愛おしそうに黒毛を撫でる。
「ケルベロス、彼女がシャロンだ。言い忘れていたけど、アケローンの渡守は見ての通り美人で有名なんだよ」
ハーデスは、ひとり満足そうに頷いた。しかし、ケルベロスにその無邪気な笑顔に応える気はなく、腕を組んでそれを見守っていたシャロンも首を横に振る。
「ハーデス様。こう言ってはなんですが、体躯が大きいだけの犬にタルタロスの門番を任せるなんて正気ですか? ここでは青銅の声も必要ありませんし、甘い物もございません。しかもその見た目。獰猛そうだし、なにより無駄に多い顔に、連れて来た死者が怯えてしまって歩くことすらままならないですよ。いくら不眠とはいえ、こんな犬に門番なんて無理です」
話にならない、と口調を強めたシャロンは、手にしていた櫂を大地に強く突き立てる。ケルベロスは、あんまりに横柄なシャロンの態度に再び唸り声を上げたのだが、その傍らでハーデスが、びく、と肩を竦めた。