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静々と流れていた川面が、いつしか鏡面が如くしんと静まりかえる。かわりに、何処からか広がった水輪が響くように水際に届いては、岸辺に吸い込まれてゆく。
寝そべったままのケルベロスが五十の首のうちのいくつかを川面にむけると、影だった小舟は少しずつ姿を現すところだった。ゆっくりと、僅かに左右に揺れながら近づいてくる舟は奇怪な色合いをしていて、仄かに光っている。川面も薄明るいので眩しく感じたが、よく目を凝らすと櫂を手にした船頭も見つけることができた。
(あれが――?)
ケルベロスは、人知れず眉を顰めた。
アケローンの渡守といえば、櫂を杖代わりにする老婆と聞く。けれど、この船頭はしゃんと背筋を伸ばしてゆったりとした手つきで静かに水を掻いていた。それに、水面を舐めるように櫂を漕ぐその軽やかさは、船に乗せた人数の割に合わない。だが、アケローンを統治する魔力があの女にあると思えばどれも不思議ではなく、むしろそれ以上に驚いたのは、その身なりだった。
思った以上に若いのはさて置いて、ふつう魔女といえば首から下はすべて覆い隠すような裾の長い黒衣を着るものだ。しかし、女の黒衣は夢魔サキュバスを彷彿させるほど胸元がざっくりと開けられている。そのせいで、豊かな胸の谷間に入りこむ長い黒髪が白肌に映え、女はただ佇んでいるだけにも関わらず酷く妖艶に見えた。
やけに艶っぽいのは容姿のせいなのか、それとも魔女という職業柄なのか。ケルベロスがその姿を訝しく思ううちに、女は項垂れる死者を引き連れてゆっくりと岸へ近づく。そして、ハーデスを見つけて軽く頭を下げたのち、ケルベロスと目を合わせた――ように感じた。
黒い瞳がやけに冷たい視線を投げかけたかと思うと、遠目でもわかる長い睫毛が一度閉じて、そっと視線を逸らす。素っ気ない素振りが気に障ると同時にどこか惹かれてしまったケルベロスは、そのあともずっと女に目を奪われた。
近づけば近づくほど、妖しく感じる女の気配。黒衣の胸元はもちろん、舟から降りようと足を上げれば、太股の辺りまで深く入った切れ込みが開いて肌が覗く。腰に幾重にも巻かれた細い金鎖は所々に硝子玉がはまり、どこかで見たことのある魔法陣のレリーフが先に垂れ下がっていた。
女はやがて浅瀬を素足で歩き、そばの杭に舟を繋留させ、先の尖った踵の高い靴と櫂を片手に川から上がった。船首に掲げられていたランタンの灯りを消して頬にまとわりついた髪を鬱陶しそうに払う仕草はなまめかしく、憂いを帯びて見える瞳は濡れた黒曜石のように潤む。しかし、女が放つ妖しさをただの色気と言うには、なにかが違う。ケルベロスは、それを肌で感じ取っていた。